goo blog サービス終了のお知らせ 

現代日本語百科   けふも  お元気ですか

gooブログはじめました!日本語百科です。
現代日本語百科 ⓒ2013gooksky

臥薪嘗胆

2013-10-14 | 日本語百科
テキストに熟語があって、臥薪嘗胆、読めますか、がしんしょうたん です、薪を枕にして、と言いかけて、薪のことだけれどイメージできるか、枕はここは臥してなんだけれど、意味が取れるかな、と思って、肝を嘗める、というのをやめてしまった。恨みを忘れずとか、辞書的には、将来の成功を期して苦労に耐えることであるけれど、薪の上に寝て苦いきもをなめる意味内容だから、と言ってみても、それは、ふーんであろうか。   >▽「臥」はふし寝る意。「薪」はたきぎ。「嘗」はなめること。「胆」は苦いきも。もとは敗戦の恥をすすぎ仇あだを討とうと、労苦を自身に課して苦労を重ねること。  説明しようとして故事成語を話とするわけで、その語の背景をどうととらえるか。漢文を読み下し現代語訳とするか、これはやはり、成語なのである。四字熟語辞典にはじまって、サイトでは詳しく知り得る。漢文学習にして、この語を知るには・・・



臥薪嘗胆 出典
『史記しき』越世家えつせいか、『十八史略じゅうはっしりゃく』春秋戦国しゅんじゅうせんごく
臥薪嘗胆 句例
◎臥薪嘗胆の努力の結果、合格する
臥薪嘗胆 用例
さて、臥薪嘗胆も大げさすぎるが、やけのやんぱちを宥なだめすかし、霞かすみをへだてて目をこらすうち、あるときはたと思いついた。<安部公房・榎本武揚>
臥薪嘗胆 故事
中国春秋時代、呉王夫差ふさ が、父の仇である越王勾践こうせん を討つために薪の上に寝て復讐心ふくしゅうしん をかきたて、長い艱難かんなん の末にこれを破った。一方、会稽かいけい 山で夫差に敗れた勾践は、苦い胆を寝所に掛けておき、寝起きのたびにこれをなめてその恥を忘れまいとし、のちに夫差を滅ぼしたという故事から。「臥薪」「嘗胆」ともに越王勾践の故事とする説もある。
出典三省堂提供「新明解四字熟語辞典」より


ウイキペディアより。
>臥薪嘗胆(がしんしょうたん)とは、復讐のために耐え忍ぶこと、また、成功するために苦労に耐えるという意味を持つ、中国の故事成語である。紀元前6-5世紀の呉と越の国家間の戦争に由来する。この成語の現在確認できる初出は、「嘗胆」のみならば『史記』巻41越王句践世家であるが、「臥薪嘗胆」と揃った形では蘇軾(1037年 - 1101年)の詩『擬孫権答曹操書』中の句「僕受遺以來 臥薪嚐膽」以降である。
日本においては、『十八史略』(14世紀前半に成立)により知られるようになり、明治時代の日本において、三国干渉が発生した時に、ロシア帝国に復讐するために耐えようという機運を表すスローガンとして広く使われた。
>「臥薪嘗胆」と連なった形では、現在残る書物では12・13世紀(宋代)の、蘇軾(1037年 - 1101年)の詩『擬孫権答曹操書』中の句「僕受遺以來 臥薪嚐膽」、以降、『朱子語類』(1270年成立)や『資治通鑑』の胡三省(1230年- 1287年)による注などから見かけるようになる。特に『通鑑』胡注では、臥薪嘗胆の語の前に「越王句践の」が修飾されており、呉越戦争に関係していることを明示している。その後14世紀(元代)の書物となると、『遼史』『宋史』『金史』などに多く使われ、『十八史略』等の通俗書にも用いられるようになった。



http://manapedia.jp/text/index?text_id=1959
>白文(原文)

呉、伐越。闔廬傷而死。子不差立。子胥復事之。夫差志復讎。朝夕臥薪中、出入使人呼曰、
「夫差而忘越人之殺而父邪。」
周敬王二十六年、夫差敗越于夫椒。越王勾践以余兵棲会稽山、請為臣妻為妾。
子胥言、
「不可。」
太宰伯嚭受越賂、説夫差赦越。勾践反国、懸胆於坐、臥即仰胆、嘗之曰、
「女、忘会稽之恥邪。」
挙国政属大夫種、而与范蠡治兵、事謀呉。
太宰嚭、譖
「子胥恥謀不用怨望。」
夫差乃賜子胥属鏤之剣。子胥告其家人曰、
「必樹吾墓檟。檟可材也。抉吾目、懸東門。以観越兵之滅呉。」
乃自剄。夫差取其尸、盛以鴟夷、投之江。呉人憐之、立祠江上、命曰胥山。
越十年生聚、十年教訓。周元王四年、越伐呉。呉三戦三北。夫差上姑蘇、亦請成於越。范蠡不可。
夫差曰、
「吾無以見子胥。」
為幎冒乃死。

書き下し文

呉 越を伐つ。闔廬傷つきて死す。子の夫差立つ。子胥復(ま)た之に事ふ。夫差讎(あだ)を復(ふく)せんと志す。朝夕薪中に臥し、出入するに人をして呼ばしめて曰はく、
「夫差、而(なんじ)越人の而の父を殺せるを忘れたるか。」と

周の敬王の二十六年、夫差越を夫椒(せう)に敗る。
越王勾践(こうせん) 余兵を以(ひき)いて会稽山(かいけいざん)に棲(す)み、臣と為り妻は妾(せふ)と為らんと請ふ。
子胥言ふ、「不可なり。」と

太宰伯嚭(はくひ) 越の賂(まいな)ひを受け、夫差に説きて越を赦(ゆる)さしむ。勾践国に反り、胆を坐臥(ざが)に懸け、即ち胆を仰ぎ之を嘗めて曰はく、
「女(なんじ)、会稽の恥を忘れたるか。」と。

国政を挙げて大夫種(しよう)に属(しよく)し、而(しか)して范蠡(はんれい)と与に兵を治め、呉を謀るを事とす。
太宰嚭、子胥謀の用いられざるを恥ぢて怨望すと譖(しん)す。夫差乃ち子胥に属鏤(しょくる)の剣を賜ふ。
子胥其の家人に告げて曰はく、
「必ず吾が墓にカを樹えよ。カは材とすべきなり。吾が目を抉(えぐ)りて、東門に懸けよ。以つて越兵の呉を滅ぼすを観んと。」
乃ち自剄(じけい)す。夫差其の尸(しかばね)を取り、盛るに鴟夷(しい)を以つてし、之を江に投ず。呉人之を憐れみ、祠を江上に立て、命(なづ)けて胥山(しょざん)と曰ふ。
越十年生聚(ゆう)し、十年教訓す。周の元王の四年、越呉を伐つ。三たび戦ひて三たび北(に)ぐ。夫差姑蘇(こそ)に上り、亦成(ひらぎ)を越に請ふ。范蠡可(き)かず。
夫差曰はく、
「吾以つて子胥を見る無し。」と。
幎冒(べきぼう)を為(つく)りて乃ち死す。

口語訳(現代語訳)
昔呉という国が越という国に攻め入ったのですが、呉の国の王であった闔廬は戦いで傷つき死んでしまいました。そこで闔廬の子であった夫差が王になり、闔廬のときから呉に仕えていた子胥もまた、夫差に仕えるようになりました。夫差は父 闔廬をの敵を討とうと決意し、寝床に薪をしいてその上に寝、部屋に入ってくる人を呼びとめては、
「夫差よ、お前は越が自分の父親を殺したことを忘れたのか」
と言わせて(恨みを忘れないようにして)いました。
周の敬王の二十六年、ついに夫差は越を夫椒(という場所)でやぶります。越の王であった勾践は、残った兵を連れて会稽山に退き、自分は呉の家臣となり、自分の妻は夫差の愛人として捧げるので許してほしいと懇願してきたのですが、子胥は
「それはできない。」
と言って突っぱねました。
(困った勾践は、夫差の家臣であった伯嚭にアプローチをします。伯嚭は子胥とあまりいい仲ではありませんでした。)賄賂を受けた伯嚭は、夫差を説得して越を許させてしまったのです。(解放された)勾践は国に戻って、寝床に胆(なめるとすごく苦い)をぶら下げて、仰いでこの胆をなめては
「お前は、会稽で受けた屈辱を忘れたのか。」
と口にし続け(恨みを忘れないようにし)ました。国の政治は家来の種にまかせて、自分は范蠡(人の名前)と一緒に軍隊を整備し、呉を倒すことだけを考えたのです。
(ここで話は呉に戻ります。子胥と仲の悪い)伯嚭は、「子胥が自分の策を用いられなくなって面白くなく、呉に恨みを持っています。」と(ウソ)を夫差に告げます。これを聞いた夫差は、子胥に属鏤の剣を贈りました。(この剣で自殺をしろという意味です。)
剣を受け取った子胥は、家族にこう言いました。
「必ず私の墓にひさぎを植えなさい。ひさぎは(夫差の)棺桶の材料になるだろう。そして私の目をえぐって、東門にかけておきなさい。越の兵が呉を滅ぼすのを見るために。」
(そういって子胥は)剣で自分の首を切りました。これを聞いた夫差は、子胥の遺体を馬で作った袋にいれて、これを川に流してしまいました。呉の人々はこれを憐れんで、祠を川のほとりにたてて、この祠を胥山と名付けました。
さて、越は10年間(呉を倒すために)国力を強め、軍隊を強くしました。そして周の元王の四年に越は呉を倒しました。呉は戦うたびに敗走しました。夫差は、姑蘇という土地に逃げ、また和平交渉を越に願でました。しかし范蠡はこれを受け入れませんでした。
夫差は、
「子胥に合わせる顔がない」
と言って死者の顔を覆う布を作って、これをかぶって自殺したということです。

Reference_title
『教科書 高等学校 古典 古文編』 三省堂
『教科書 精選国語総合』 大修館書店



臥薪嘗胆 現代語訳 - Bird's Life - Google Sites
sites.google.com/site/birdswell/iroiro.../wo-xin-chang-dan-xian-dai-yu-yi‎

>臥薪嘗胆 現代語訳
 闔廬は伍員を重く用いて、国の政治を任せた。
伍員は字を子胥といい、楚国の人 である伍奢の子である。
父の奢が楚王に殺されたので、伍員は呉に亡命した。
後に呉の軍隊を率いて楚の都の郢に攻め込んだ。
呉は越を攻めた。
闔廬は負傷して死んだ。
子の夫差が位についた。
子胥はまたこの 夫差にも仕えた。
夫差は仇討ちをしようと心に決めた。
そこで、朝夕薪の中で寝起きし 出入りする際に人々に、「夫差、おまえは越の人間がおまえの父を殺したのを忘れたのか」 と言わせた。

 周の敬王の二十六年、夫差は越を夫椒で破った。
越王勾践は、敗残兵を率いて、会稽山 にこもり、自分は臣下となり妻は召使いとなるので命は助けて欲しいと懇願した。
子胥は「だめだ」と言った。
宰相の伯ヒは越から賄賂を受け取り、夫差を説得して越王を 許させてしまった。
勾践は国に帰り、胆を寝起きするところにつるし、寝起きのたびに胆を仰いで嘗め、 「おまえは会稽で受けた恥を忘れたのか」と言った。
国の政治はすべて重臣の種に任せ、 范蠡と兵を訓練して、呉を倒すことに専念した。

 宰相のヒは、子胥が自分の謀が用いられなかったことを不名誉に思い、呉王を恨みに思 っていると、嘘の訴えをした。
夫差はそこで子胥に属鏤の剣を下した。
子胥は家族に告げて 「必ず私の墓にひさぎの木を植えてくれ。ひさぎの木は棺の材料になる。
私の目を抉りだし て、東門に懸けてくれ。
そこで越の兵が呉を滅ぼすのを見るのだ。」と言った。そこで自分 で自分の首をはねた。
夫差は子胥の屍を奪い取り、馬革の袋に詰め込み、長江に投げ込んだ。
呉の国の人々はそれを気の毒に思い、祠を長江のほとりに建てて、胥山と呼んだ。

  越は十年間人口や財貨を増やして国力を高め、十年間立派な兵士になるように人々を訓練した。
周の元王の四年、越は呉を攻めた。
呉は戦うたびに敗れた。
夫差は姑蘇に逃げ上り、 また講和を越に願い出た。
范蠡は聞き入れなかった。
夫差は「子胥に合わせる顔がない」と 言った。
死者の顔に掛ける布で顔を覆って自殺した。




故事成語で見る中国史(33)臥薪嘗胆 - メルマ
melma.com › 学校・教育 › 歴史‎

>春秋時代の後半、ちょうど孔子が活動していた時代のこと、
中原から見れば長江流域は未開な土地柄でしたが、
呉は、孫子の名で知られる孫武を将軍に得て、
西の大国・楚(そ)を伐ち、多いに国威を発揚していました。

呉を強国とした呉王闔廬(こうりょ)は、紀元前496年、
南に隣接する越(えつ)の国に攻撃をしかけました。
呉軍を迎え撃つ越王勾践は、死刑囚を陣前に三列に並ばせて、
呉軍の前で次々と自ら首を刎ねて自害させるという奇抜な作戦をとりました。
驚いた呉軍は越軍に打ち破られ、呉王闔廬もその戦いで負傷してしまいます。
世に言うスイ李の戦い(スイは「木雋」)です。

呉王闔閭は受けた傷がもとで亡くなります。
臨終に際して、太子の夫差(ふさ)に王位を継がせ、
「お前は、越王勾践がお前の父を殺したことを忘れるな」と遺言しました。
夫差は「はい、三年以内に必ず父上の仇をとります」とこたえ、
それからは日夜、兵士の調練に励みます。

呉王夫差は、薪(まき、たきぎ)の上で寝起きをして、
安穏として苦しみを忘れることのないよう、自らを律しました。
そして自分の部屋に出入りする者には、そのたびごとに
「お前は、勾践がお前の父を殺したことを忘れるな!」と叫ばせ、
復讐の炎をあらたに燃え上がらせました。

呉王夫差が、復讐の刃(やいば)を研いでいることを知った越王勾践は、
重臣范蠡(はんれい)の諫めをきかず、機先を制すべく打って出ましたが、
夫椒(ふしょう)の戦いで呉軍に大敗を喫してしまいます。
越王勾践は追いつめられて、敗残の兵を率いて会稽山(かいけいざん)に籠もりますが、
呉軍に包囲され、ついには降伏を余儀なくされます。

越王勾践は、今度は重臣范蠡の進言を容(い)れ、
あえて屈辱的な態度をとって呉に降伏を申し出ました。
すなわち、我が身は呉の臣下となり、妻は呉王の妾とし、
莫大な財産をおさめますので、なにとぞお許しください、というものです。

呉王夫差の謀臣・伍子胥(ごししょ)は、
降伏を許せば将来に禍根(かこん)を残すことになる、と反対します。
伍子胥は、父や兄が殺害されて亡命を余儀なくされ、
後にその仇を報じることに人生の大部分を捧げたという人物ですので、
怨念の恐ろしさを身を以て知っておりました。

しかし、呉の宰相の伯ヒ(「喜否」)は、越から賄賂を受けており、
越王の降伏をとりなしたため、呉王夫差は降伏を許しました。
後に伍子胥は呉王夫差に疎(うと)んぜられ、
伯ヒの讒言を受け、壮絶な怨念の言葉を残して自害に追い込まれました。

かくて、越は呉の属国となりました。
後に帰国を許された越王勾践は、
自ら田畑を耕し、人々と労苦を分かち、賢人の登用に努めます。

今度は越王勾践が、いつの日か呉への復讐をと誓うことになりました。
表面上は呉への服従を誓いながらも、
苦い胆(きも)を寝食の傍(かたわ)らに置き、常にこれを舐めては自らに
「お前は会稽山で呉王夫差に受けた屈辱を忘れたのか」と言い、
復讐心をかき立て続けました。

さて、越王勾践を破って父の仇を雪(すす)いだ呉王夫差は、
国力をたくわえること十二年の後、意気揚々と中原への進出を目指し、
北方の黄池(河南省)で諸侯との会盟を主催しました。

現在でいえば、国際会議の議長のような立場であり、
呉王夫差は得意の絶頂にあったことでしょう。

しかし、雌伏十二年、虎視眈々と呉への報復の機会を窺っていた越王勾践は、
この機を逃しませんでした。越軍は、呉王夫差の留守を狙って呉に侵入するや、
留守になっていた呉の首都・姑蘇(こそ、現在の江蘇州蘇州市)を制圧します。

慌てた呉王夫差は、会盟の長の座を晋の定公に譲ると急ぎ帰国し、
越と和議を結びました。しかしこれ以後、越の国勢は盛んとなり、
呉の国運には衰亡の翳(かげ)りが色濃くなりました。

後に、越は呉と戦うこと三年、ついに呉王夫差を自害に追い込みます。
紀元前473年のこと、実に二十年以上の長きにわたる
呉越の報復劇は、幕を閉じることとなりました。

この呉王夫差が薪に臥した故事と、
越王勾践が苦い胆を舐めた故事をあわせて、
仇をはらそうと長い間苦心を重ねること、
また将来の成功を期して艱難(かんなん)に耐えることを
「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」と言うようになりました。

また越王勾践の故事から「会稽の恥」「会稽の恥を雪(すす)ぐ」も
同様の意味の故事成語として、人口に膾炙(かいしゃ)しています。

呉越の抗争については、『史記』や『呉越春秋』に記されていますが、
そこでは「嘗胆」が見られるのみで、「臥薪」の故事は記されていません。
「臥薪」と「嘗胆」をひとくくりにして記した代表的な書物には、
後の『十八史略』があります。(※1)

『十八史略』は元・曾先之(そうせんし)の撰(せん)で、
太古の三皇五帝の時代から南宋までの歴史を記した書物です。
中国ではほとんど注目されることはありませんでしたが、
有名な故事を数多く拾っている子供向けの入門概説書という性質から、
日本では教育用の読本として重宝されてきました。

漢代の『史記』から元代の『十八史略』まで、千三百年にわたるどの時点で
「臥薪」の故事が成立したのか定かではありませんが、
蘇軾(そしょく、1036~1101、蘇東坡)が
「臥薪嘗胆」という語を用いているところから、
少なくとも北宋期にはその故事が定着していたことがうかがわれます。(※2)

ところで、日本でも「范蠡(はんれい)」の名は、
『太平記』に見えることでよく知られています。

児島高徳(こじまたかのり)が、後醍醐天皇の
幽閉されている行在所(あんざいしょ)の桜の木に、
「天 勾践を空(むな)しうする莫(なか)れ 時に范蠡 無きにしも非(あら)ず」(※3)
(天は越王勾践を見放さなかったように、
後醍醐天皇を見捨てることはございません。
きっと范蠡のような忠臣が現れて、陛下をお助けすることでしょう)
と記し、自分のように密かに忠義を貫く者もいるのだと伝えたといいます。

後に日清戦争後、三国干渉で遼東半島の利権を放棄されられたとき、
国内世論はそれを屈辱として、「臥薪嘗胆」が叫ばれたことも有名です。

さて、「臥薪嘗胆」は、呉王夫差と越王勾践の復讐譚(ふくしゅうたん)ですが、
『史記』はその陰に、伍子胥と范蠡という二人の謀臣の人生を
複雑に入り組ませて描いています。

伍子胥の具申をきかずに滅んだ呉王夫差に対して、
時節を待てという范蠡の進言を容れて報復をなした越王勾践。
伍子胥は自身も復讐の鬼としての人生を生き、
壮絶な最後を遂げました。一方の范蠡は、
越王勾践の功業がなるや、政治から身を引き、
商売をして巨万の富みを築き、陶朱公(とうしゅこう)と呼ばれるようになります。(※4)

執着、怨念を活力に変えて大業をなす者、
怨念の炎に身を焼かれて滅ぶ者、
そして怨念の行き着く末を見届けながら、
自らはその渦中から身を引く者。

いまを遡(さかのぼ)ることおよそ二千五百年前の復讐譚、
変わるものと変わらぬもの、そして人間の来し方行く末について
想いを馳せずにはいられない故事の一つであるように思われます。

--------------------------------------------------
(※1)「臥薪嘗胆」にまつわる主な記述は、『史記』呉太伯世家、越王勾践世家、
『呉越春秋』、『十八史略』等に見える。
(※2)蘇軾「擬孫権答曹操書」。
(※3)大正時代より唱歌で「天 勾践を空しうする莫(なか)れ」の歌詞で
親しまれているため、現在でもそのように訓じることが多いが、
文意を取ると「莫(なか)れ」ではなく「莫(な)し」とする方が
適切だとする指摘もある。
(※4)『史記』越王勾践世家、伍子胥列伝、参照。   




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。