リオ・デ・ジャネイロ 葡: Rio de Janeiro ブラジルポルトガル語発音: ヒウ・ヂ・ジャネイル 、ポルトガル語で、1月の川という意味のようである。人口は600万人を超える。サンパウロに次いでブラジル第2位、文化的景観はリオデジャネイロ、山と海との間のカリオカの景観群として、2012年に世界遺産リストに登録されている。コルコバードからのリオデジャネイロのパノラマは、左にやや傾いた平行四辺形の形状を呈した大陸部とグアナバラ湾内に分布する島嶼部の2つからなる。東西の長さは約70km、南北は37kmにおよぶ。全部で7つの大行政区と33の小地域、160の街区Bairroから構成され、セントロはリオの歴史的中心部であり、また現在でも経済的中心でもある。
人口動態
白人(53.4%)、混血(33.5%)、黒人(12.6%)、その他(0.5%)。19世紀末から20世紀初頭の大量の移民によって人種構成は多様化し、ポルトガル人のほか、イタリア系、スペイン系、ドイツ系、日系(15000人)、ユダヤ系、レバノン系など、多種多様な人種が混在し、混交している。
1872年に27万人だった人口は、1890年に52万人、1900年に81万人、1950年に237万人、2000年には585万人に達した。
以上、ウイキペディアより。
>ポルトガル語で都市名を読み書きする場合は男性形・女性形の区別をつけないが、一般名詞と区別するためにリオ・デ・ジャネイロは必ず男性定冠詞"o"を付けた"o Rio de Janeiro"という男性形で呼ばれる
>1502年1月にポルトガル人探検家ガスパール・デ・レモスたちがグアナバラ湾の湾口であるこの地に到達。グアナバラ湾は湾口が狭まっているため大きな川であると誤認し、発見した月に因みポルトガル語で「一月の川」と命名した[5]。ポルトガル人たちは海岸に壁を白く塗った家を建てて住んだ。先住民のトゥピ族(英語版)は彼ら白人を「カリ・オカ」(トゥピー・グゥアラニー語で白い家の意味)と呼んだ。それが現代語のカリオカの起源である。1555年にフランスの植民地開拓者が南極フランス(英語版)居留地をつくったが1567年にこれをポルトガル人は追い出し、18世紀までここに小さなコミュニティをつくっていた。町の名は川(実は湾)の名の転用である。
17世紀までのリオは、砂糖の栽培と製糖工場がある小さな港町にすぎなかった。しかし18世紀前半に内陸のミナスジェライス州周辺で金鉱が発見された。この金の集散地は、当初は金鉱発見者であるバンデイランテスたちの基地であるサンパウロであったが、1725年にリオとミナスジェライスを結ぶ新道が開通すると、距離的に近いリオがサンパウロに代わってミナスの金やダイアモンドの積出港となり、ブラジル植民地(英語版)の交通と富の中心となった。このためそれまで栄えていた北東部から南東部への重心の移動が生じ、1763年にはブラジル総督がサルヴァドール・ダ・バイーアからリオに移されブラジル植民地(英語版)の首府となった[6]。
1808年に半島戦争の勃発により、リスボンのポルトガル宮廷はナポレオン軍を逃れてリオに移転した。翌1809年、リオがポルトガル・ブラジル連合王国の首都となる。これによりリオは人口も増加し、また高い文化を持った移住者たちによって文化も進歩した。1821年には王の帰還と共に首都もリスボンに再遷都されたが、ポルトガルがブラジルの統治に軍を送り込んだためブラジル側の憤激を買い、独立派はリオに残っていた王太子ドン・ペドロを擁立して1822年にブラジル帝国の独立を宣言し、リオはブラジル帝国の首都となった。
人口動態
白人(53.4%)、混血(33.5%)、黒人(12.6%)、その他(0.5%)。19世紀末から20世紀初頭の大量の移民によって人種構成は多様化し、ポルトガル人のほか、イタリア系、スペイン系、ドイツ系、日系(15000人)、ユダヤ系、レバノン系など、多種多様な人種が混在し、混交している。
1872年に27万人だった人口は、1890年に52万人、1900年に81万人、1950年に237万人、2000年には585万人に達した。
以上、ウイキペディアより。
>ポルトガル語で都市名を読み書きする場合は男性形・女性形の区別をつけないが、一般名詞と区別するためにリオ・デ・ジャネイロは必ず男性定冠詞"o"を付けた"o Rio de Janeiro"という男性形で呼ばれる
>1502年1月にポルトガル人探検家ガスパール・デ・レモスたちがグアナバラ湾の湾口であるこの地に到達。グアナバラ湾は湾口が狭まっているため大きな川であると誤認し、発見した月に因みポルトガル語で「一月の川」と命名した[5]。ポルトガル人たちは海岸に壁を白く塗った家を建てて住んだ。先住民のトゥピ族(英語版)は彼ら白人を「カリ・オカ」(トゥピー・グゥアラニー語で白い家の意味)と呼んだ。それが現代語のカリオカの起源である。1555年にフランスの植民地開拓者が南極フランス(英語版)居留地をつくったが1567年にこれをポルトガル人は追い出し、18世紀までここに小さなコミュニティをつくっていた。町の名は川(実は湾)の名の転用である。
17世紀までのリオは、砂糖の栽培と製糖工場がある小さな港町にすぎなかった。しかし18世紀前半に内陸のミナスジェライス州周辺で金鉱が発見された。この金の集散地は、当初は金鉱発見者であるバンデイランテスたちの基地であるサンパウロであったが、1725年にリオとミナスジェライスを結ぶ新道が開通すると、距離的に近いリオがサンパウロに代わってミナスの金やダイアモンドの積出港となり、ブラジル植民地(英語版)の交通と富の中心となった。このためそれまで栄えていた北東部から南東部への重心の移動が生じ、1763年にはブラジル総督がサルヴァドール・ダ・バイーアからリオに移されブラジル植民地(英語版)の首府となった[6]。
1808年に半島戦争の勃発により、リスボンのポルトガル宮廷はナポレオン軍を逃れてリオに移転した。翌1809年、リオがポルトガル・ブラジル連合王国の首都となる。これによりリオは人口も増加し、また高い文化を持った移住者たちによって文化も進歩した。1821年には王の帰還と共に首都もリスボンに再遷都されたが、ポルトガルがブラジルの統治に軍を送り込んだためブラジル側の憤激を買い、独立派はリオに残っていた王太子ドン・ペドロを擁立して1822年にブラジル帝国の独立を宣言し、リオはブラジル帝国の首都となった。