慈悲についての話である。
苦への共感で生まれる悲と題しているので、このコピーをよみとるのがむずかしい。
不変の法の下での救済ともあるから、さてそれはどういうことだろう。
慈悲と言い、その慈には慈愛と言うが、それを渇愛ととらえる仏教の考え方である。
仏教の愛はタンハ―、否定的であるそうだ。キリスト教のエローストと、アガペーと対比して、利己的な愛、利他的な愛となると、慈悲は全く違うものだとか。
愛はよくなくて、それが悲となると、仏教ではどうだと言うのか。
宇宙を作った万能者の考え方と、それを信仰し、従うのと、それに対して、宇宙の理法に従う存在、ダルマ、法と訳される非人格的な宇宙支配の最高原理との違いがあるという。
ダルマのもとに支配されるという神の存在の考え方は、宇宙のあり方を誰にも変えることはでいないのである。
仏ができることは、苦しむ人に同情する、その苦をのぞくか、その道を見つけてやることである、と、定形晟さんは説明する。
苦への共感で生まれる悲と題しているので、このコピーをよみとるのがむずかしい。
不変の法の下での救済ともあるから、さてそれはどういうことだろう。
慈悲と言い、その慈には慈愛と言うが、それを渇愛ととらえる仏教の考え方である。
仏教の愛はタンハ―、否定的であるそうだ。キリスト教のエローストと、アガペーと対比して、利己的な愛、利他的な愛となると、慈悲は全く違うものだとか。
愛はよくなくて、それが悲となると、仏教ではどうだと言うのか。
宇宙を作った万能者の考え方と、それを信仰し、従うのと、それに対して、宇宙の理法に従う存在、ダルマ、法と訳される非人格的な宇宙支配の最高原理との違いがあるという。
ダルマのもとに支配されるという神の存在の考え方は、宇宙のあり方を誰にも変えることはでいないのである。
仏ができることは、苦しむ人に同情する、その苦をのぞくか、その道を見つけてやることである、と、定形晟さんは説明する。