日本語教育史のテキスト、2016年に新しく出された。河路由佳 著 日本語学習・教育の歴史 越境することばと人びと 東京大学出版会刊行 である。
8世紀、日本書紀、720年、続日本紀、797年に、中国、朝鮮からやってきた人が登場する。日本語で和歌を詠んだりしていた。
文献に現れる、来日外国人たちの地名は、隋、唐、新羅、百済、高麗、任那、耽羅、吐噶喇、舎衛、などがある。
新羅から、680年、習言者三人 ことならいひと 739年、新羅学語ら、760年、学語二人 が送られた記録がある。
761年には、美濃、武蔵の20人、未成年者に、新羅語を習わせた記録がある。
万葉集巻17、天平18年4月、酒宴で渡来人に歌を詠ませようとした記述がある。秦朝元という、日本人の父、辨正が唐に留学して中国人女性とのあいだに生まれた子で、10歳前後まで唐にいて、日本に帰国した。
続日本紀に、漢語通訳養成のため二人の弟子をとった記録がある。
万葉集に登場したころは、来日30年が経過した悪露である。
源氏物語 鴻臚館に滞在する高麗の人相占いのこと、桐壷の巻に記す
10世紀 博多を拠点にした日宋貿易 層の貿易商による、大唐街
https://ja.wikipedia.org/wiki
秦朝元
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時代 奈良時代
生誕 不明
死没 不明
官位 外従五位上・主計頭
主君 元正天皇→聖武天皇
氏族 秦忌寸
父母 父:弁正
兄弟 朝慶、朝元
子 真成、忍国、藤原清成室、藤原綱手室
秦 朝元(はた の あさもと)は、奈良時代の官人。姓は忌寸。遣唐留学僧・弁正の子。官位は外従五位上・主計頭。
経歴
唐の地にて生まれ、養老2年(718年)の第9次遣唐使の帰国と共に訪日したと考えられている。翌養老3年(719年)に忌寸姓を賜与される。養老5年(721年)官人の中から学業に優れ模範とすべき者に対して褒賞が行われた際、医術に優れるとして吉宜らと共に朝元の名が挙げられている(この時の位階は従六位下)[1]。
天平2年(730年)訳語の弟子二人に唐語を教えるよう命じられ[2]、翌天平3年(731年)外従五位下に昇叙している。天平4年(732年)多治比広成を大使とする第10次遣唐使節に入唐判官として加えられている。唐では父・弁正の縁故により、玄宗によって厚く賞賜を与えられる[3]。
天平6年(734年)帰国し、翌天平7年(735年)入京して外従五位上に叙されている。天平9年(737年)図書頭。天平18年(746年)元正天皇の御所に左大臣・橘諸兄らと共に参上し、雪景色を和歌に詠むように、との詔があった。他の出席者は和歌で応えたが、秦朝元だけは詠まなかったため、橘諸兄に「麝香をもって贖え」と言われ、黙り込んだと伝えられる[4]。同年3月に主計頭に任ぜられている
https://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/nrbbkbeebfmjaaa1a1a4da4ja4aca4ja47a4ja4ha4j/1/7111
歴史上人物 つながりしりとりに戻る
7111
2014年6月11日 21:39
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姓は忌寸つながり
忌寸「いみき」は、「伊美吉」とも書かれ、天武天皇14(685)年に施行された『八色の姓』によって、氏姓制度下第4位の姓として位置付けられている。制定された8種類の姓(天武の新姓)は、諸氏の族姓を改め、真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の順。『日本書紀』天武14年6月条に「大倭連、葛城連、凡川内連、山背連、難波連、紀酒人連、倭漢連、河内漢連、秦連、大隅直、書連、幷て十一氏に姓を賜ひて忌寸と曰ふ」とみえ、忌寸となった氏族の旧姓はほとんどが連であった。その後、国造系氏族には「宿禰」姓が与えられ、「忌寸」姓は秦氏や漢氏のような渡来系帰化氏族の姓として使われ認知されるようになった。
生没年不詳、奈良時代の官人。
『万葉集』『懐風藻』『続日本紀』などにその伝記があり、それらの注釈書によると、以下の通り。
遣唐留学僧・弁正の子。兄に秦朝慶がいた。唐の地にて生まれ、養老2(718)年の遣唐使の帰国船で来日した。翌年忌寸姓を賜与され、養老5(721)年までに従六位下に叙せられた。同年、医術に優れるとして賞された。
天平2(730)年に通訳官の2人に唐語を教えるよう命じられ、翌年外従五位下に昇叙した。天平4(732)年多治比広成を大使とする遣唐使に加えられ、入唐判官に任じられ、唐では父・弁正の縁故により、玄宗によって厚く賞賜を与えられた。天平6(734)年帰国し、翌年外従五位上に叙された。天平9(737)年図書頭に任じられた。
天平18(746)年元正天皇の御所に左大臣・橘諸兄らとともに参上し、雪景色を和歌に詠むように、との詔があったが、朝元だけは詠まなかったため、橘諸兄に「麝香をもって贖え」と言われ、黙り込んだと伝えられる。同年、主計頭に任ぜられた。
この説では、年少より出家した父が唐国で妻帯して子を儲けた事、帰国(来日)したばかりの朝元に秦氏としては破格の叙位と賜姓があった事に違和感を唱え、先の文献の注釈内容を再考する動きもある。
違和感のある2点について、父が唐の皇帝の寵愛を受けて日本の僧尼令や仏教の戒めから自由に活動していた事や、朝元は唐国で育ったことから医療・特に漢方に詳しい事を考慮しての叙位とする言い訳も通じるのだが、、、
再考される考察によると、父とされる弁正は、壬申の乱により身寄りを失い出家し、親類(弟か従弟)で天武天皇側に付いて出世していた者の子を弟子(養子)として預かり、遣唐使船で唐国に連れて行ったのが、朝元と考えられている。弁正の明るい性格に反し、生真面目な性格から、唐語や漢方医療を学び、和歌を詠めないものとしている。
https://s.webry.info/sp/45062315kiriya.at.webry.info/201802/article_8.html
>
秦 朝元(はた の あさもと)
姓は
忌寸
遣唐留学僧の
弁正の子
「秦牛万呂」の子
少年で出家
玄学(道教)にすぐれていた
大宝二年(702年)留学僧
第八次遣唐使
唐では、
囲碁の名人として
李隆基(玄宗)に
よって賞遇
後、還俗し唐人の女性と婚姻・・・
息子は
秦朝慶・秦朝元
秦朝元は
養老二年(718年)
第九次遣唐使の帰国に従って訪日
弁正と秦朝慶は唐で没した
『懐風藻』に弁正による漢詩が記録
故宮博物館に収蔵されている
『明皇会棋図』は
李隆基と弁正の対局の作品
兄に
秦朝慶
官位は外従五位上・主計頭
唐で生まれ
養老二年(718年)
第九次遣唐使の帰国とともに訪日
養老三年(719年)
忌寸姓を賜与
養老五年(721年)
学業に優れ模範とすべき者に
褒賞が行われ
医術に優れるとして
吉宜
朝元
天平二年(730年)
訳語の弟子二人に唐語を教えるよう命じられ
翌天平三年(731年)
外従五位下に昇叙
天平四年(732年)
多治比広成を大使とする
第十次遣唐使節に入唐判官
唐では父
弁正の縁故により
玄宗によって厚く賞賜を与えられた
天平六年(734年)
帰国
翌天平七年(735年)
入京
外従五位上に叙
天平九年(737年)
図書頭
天平十八年(746年)
元正天皇の御所に
左大臣
橘諸兄らとともに参上
雪景色を和歌に詠むように、との詔
他の出席者は和歌で応えたが
秦朝元だけは詠まなかった
橘諸兄に
「麝香をもって贖え」
と言われ、黙り込んだ・・・
同年三月に主計頭
8世紀、日本書紀、720年、続日本紀、797年に、中国、朝鮮からやってきた人が登場する。日本語で和歌を詠んだりしていた。
文献に現れる、来日外国人たちの地名は、隋、唐、新羅、百済、高麗、任那、耽羅、吐噶喇、舎衛、などがある。
新羅から、680年、習言者三人 ことならいひと 739年、新羅学語ら、760年、学語二人 が送られた記録がある。
761年には、美濃、武蔵の20人、未成年者に、新羅語を習わせた記録がある。
万葉集巻17、天平18年4月、酒宴で渡来人に歌を詠ませようとした記述がある。秦朝元という、日本人の父、辨正が唐に留学して中国人女性とのあいだに生まれた子で、10歳前後まで唐にいて、日本に帰国した。
続日本紀に、漢語通訳養成のため二人の弟子をとった記録がある。
万葉集に登場したころは、来日30年が経過した悪露である。
源氏物語 鴻臚館に滞在する高麗の人相占いのこと、桐壷の巻に記す
10世紀 博多を拠点にした日宋貿易 層の貿易商による、大唐街
https://ja.wikipedia.org/wiki
秦朝元
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時代 奈良時代
生誕 不明
死没 不明
官位 外従五位上・主計頭
主君 元正天皇→聖武天皇
氏族 秦忌寸
父母 父:弁正
兄弟 朝慶、朝元
子 真成、忍国、藤原清成室、藤原綱手室
秦 朝元(はた の あさもと)は、奈良時代の官人。姓は忌寸。遣唐留学僧・弁正の子。官位は外従五位上・主計頭。
経歴
唐の地にて生まれ、養老2年(718年)の第9次遣唐使の帰国と共に訪日したと考えられている。翌養老3年(719年)に忌寸姓を賜与される。養老5年(721年)官人の中から学業に優れ模範とすべき者に対して褒賞が行われた際、医術に優れるとして吉宜らと共に朝元の名が挙げられている(この時の位階は従六位下)[1]。
天平2年(730年)訳語の弟子二人に唐語を教えるよう命じられ[2]、翌天平3年(731年)外従五位下に昇叙している。天平4年(732年)多治比広成を大使とする第10次遣唐使節に入唐判官として加えられている。唐では父・弁正の縁故により、玄宗によって厚く賞賜を与えられる[3]。
天平6年(734年)帰国し、翌天平7年(735年)入京して外従五位上に叙されている。天平9年(737年)図書頭。天平18年(746年)元正天皇の御所に左大臣・橘諸兄らと共に参上し、雪景色を和歌に詠むように、との詔があった。他の出席者は和歌で応えたが、秦朝元だけは詠まなかったため、橘諸兄に「麝香をもって贖え」と言われ、黙り込んだと伝えられる[4]。同年3月に主計頭に任ぜられている
https://textream.yahoo.co.jp/message/1835208/nrbbkbeebfmjaaa1a1a4da4ja4aca4ja47a4ja4ha4j/1/7111
歴史上人物 つながりしりとりに戻る
7111
2014年6月11日 21:39
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姓は忌寸つながり
忌寸「いみき」は、「伊美吉」とも書かれ、天武天皇14(685)年に施行された『八色の姓』によって、氏姓制度下第4位の姓として位置付けられている。制定された8種類の姓(天武の新姓)は、諸氏の族姓を改め、真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の順。『日本書紀』天武14年6月条に「大倭連、葛城連、凡川内連、山背連、難波連、紀酒人連、倭漢連、河内漢連、秦連、大隅直、書連、幷て十一氏に姓を賜ひて忌寸と曰ふ」とみえ、忌寸となった氏族の旧姓はほとんどが連であった。その後、国造系氏族には「宿禰」姓が与えられ、「忌寸」姓は秦氏や漢氏のような渡来系帰化氏族の姓として使われ認知されるようになった。
生没年不詳、奈良時代の官人。
『万葉集』『懐風藻』『続日本紀』などにその伝記があり、それらの注釈書によると、以下の通り。
遣唐留学僧・弁正の子。兄に秦朝慶がいた。唐の地にて生まれ、養老2(718)年の遣唐使の帰国船で来日した。翌年忌寸姓を賜与され、養老5(721)年までに従六位下に叙せられた。同年、医術に優れるとして賞された。
天平2(730)年に通訳官の2人に唐語を教えるよう命じられ、翌年外従五位下に昇叙した。天平4(732)年多治比広成を大使とする遣唐使に加えられ、入唐判官に任じられ、唐では父・弁正の縁故により、玄宗によって厚く賞賜を与えられた。天平6(734)年帰国し、翌年外従五位上に叙された。天平9(737)年図書頭に任じられた。
天平18(746)年元正天皇の御所に左大臣・橘諸兄らとともに参上し、雪景色を和歌に詠むように、との詔があったが、朝元だけは詠まなかったため、橘諸兄に「麝香をもって贖え」と言われ、黙り込んだと伝えられる。同年、主計頭に任ぜられた。
この説では、年少より出家した父が唐国で妻帯して子を儲けた事、帰国(来日)したばかりの朝元に秦氏としては破格の叙位と賜姓があった事に違和感を唱え、先の文献の注釈内容を再考する動きもある。
違和感のある2点について、父が唐の皇帝の寵愛を受けて日本の僧尼令や仏教の戒めから自由に活動していた事や、朝元は唐国で育ったことから医療・特に漢方に詳しい事を考慮しての叙位とする言い訳も通じるのだが、、、
再考される考察によると、父とされる弁正は、壬申の乱により身寄りを失い出家し、親類(弟か従弟)で天武天皇側に付いて出世していた者の子を弟子(養子)として預かり、遣唐使船で唐国に連れて行ったのが、朝元と考えられている。弁正の明るい性格に反し、生真面目な性格から、唐語や漢方医療を学び、和歌を詠めないものとしている。
https://s.webry.info/sp/45062315kiriya.at.webry.info/201802/article_8.html
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秦 朝元(はた の あさもと)
姓は
忌寸
遣唐留学僧の
弁正の子
「秦牛万呂」の子
少年で出家
玄学(道教)にすぐれていた
大宝二年(702年)留学僧
第八次遣唐使
唐では、
囲碁の名人として
李隆基(玄宗)に
よって賞遇
後、還俗し唐人の女性と婚姻・・・
息子は
秦朝慶・秦朝元
秦朝元は
養老二年(718年)
第九次遣唐使の帰国に従って訪日
弁正と秦朝慶は唐で没した
『懐風藻』に弁正による漢詩が記録
故宮博物館に収蔵されている
『明皇会棋図』は
李隆基と弁正の対局の作品
兄に
秦朝慶
官位は外従五位上・主計頭
唐で生まれ
養老二年(718年)
第九次遣唐使の帰国とともに訪日
養老三年(719年)
忌寸姓を賜与
養老五年(721年)
学業に優れ模範とすべき者に
褒賞が行われ
医術に優れるとして
吉宜
朝元
天平二年(730年)
訳語の弟子二人に唐語を教えるよう命じられ
翌天平三年(731年)
外従五位下に昇叙
天平四年(732年)
多治比広成を大使とする
第十次遣唐使節に入唐判官
唐では父
弁正の縁故により
玄宗によって厚く賞賜を与えられた
天平六年(734年)
帰国
翌天平七年(735年)
入京
外従五位上に叙
天平九年(737年)
図書頭
天平十八年(746年)
元正天皇の御所に
左大臣
橘諸兄らとともに参上
雪景色を和歌に詠むように、との詔
他の出席者は和歌で応えたが
秦朝元だけは詠まなかった
橘諸兄に
「麝香をもって贖え」
と言われ、黙り込んだ・・・
同年三月に主計頭