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言語と思想  言語観4

2013-07-16 | 日本語百科
言語と思想  言語観4

言語と思想についての研究を言語観に取り上げる。
人間の思考は言語に規定されているか、、言語が思考を決定付けると主張すると見なされているウォーフは、言語は認識に影響を与える思考の習性を提供すると述べているようである。

サピアとウォーフの仮説として知られる。言語相対説にあって、1930-40年代には言語学以外にも、議論された。
1921年、言語-ことばの研究序説を著わしている。

チョムスキーの普遍的生得説が対立することにもなる。

この議論で有名な色の問題は、虹は何色だと聞けば即座に七色と答える日本語で、どうしてと聞くと、せきとーおーりょくせーらんし、と言うので、その覚え方で実際に見たか数えたかと確かめるようなことである、わたしたちの言葉に色は、光の関係だけで、あか、くろ、しろ、そしてあとひとつあるのが、あお、というようなことを説明したりする。
これは明らかに、言語観だろう。概念また思考を先に持つ所に一方で言葉を与え、一方でまた文字の体系をを与えているのである。



Linguistic Relativism   Sapir-Whorf Hypothesis

げんごそうたいせつ[―さうたい―] 6 【言語相対説】
〔補説〕 theory of linguistic relativity
人間の思考・世界観などは話者の母語に依存しているという考え方。フンボルト・サピア・ウォーフなどの理論として有名。「サピア・ウォーフの仮説」とも言う。



言語決定論linguistic determinism(強い仮説)
人間の思考は言語に規定される

言語相対論 linguistic relativity(弱い仮説)
概念の範疇化は言語・文化によって異なる



http://homepage3.nifty.com/recipe_okiba/nifongo/glossk4.html

サピア・ウォーフの仮説(さぴあうぉーふのかせつ)The Sapir-Whorf hypothesis
人間は言語によって現実の世界を分節して様々な経験を一定の形にまとめあげるものとみなし、言語によって世界分節(事物の分類のしかた)が異なるために言語共同体によってその世界像(認識・思考・経験)も異なるとする考え方のこと。サピア=ウォーフの仮説には言語相対論(「弱い仮説」)と言語決定論(「強い仮説」)の主張がいずれも含まれうるため、以下のような種々の解釈がある。

言語(構造)が社会的事象(行動)に影響することをいうものと見る(=社会心理学的解釈;弱い決定論)
言語が人間の思考や現実認識を規定することをいうものと見る(=言語決定論;強い決定論)
文化の構造と言語の構造との構造的同形性(極めて密接な関連性)をいうものと見る(=文化記号論的解釈;弱い相対論)
複数の言語間の本質的な通分不可能性incommensurabilityをいうものと見る(=言語相対論;強い相対論)

なお、サピア=ウォーフの仮説は、サピアとウォーフの二人が共同して構築した学説ではなく、サピアの学説を弟子のウォーフが更に推し進めたとの見方から後に与えられた名称である(由来はJ.B.Carrollと推定される)。実際には、サピアは文化と密接に関わるのは言語の内容であって形式ではないと考えていたと思われ、言語の形式を含む言語体系の総体が文化と不可分であると主張するウォーフの考えと必ずしも同じでない。両者の考えの違いについては、サピアの穏当な主張をウォーフが極端な形で推し進めたものと評価されることが多い。

言語相対論(げんごそうたいろん)linguistic relativism
異なる言語間の経験を比較することはできないとする立場のこと。言語によって同一の対象に対する概念化の仕方が異なると考える。

言語の分類法が人間の思考や認識の在り方を規定するとする立場のこと。言語が(言語外の)世界の「うけとりかた」を決定しているため、個々人の習得した言語が世界を分類する既成の尺度として機能することになると考える。




虹は本当に七色か - 一橋大学附属図書館
www.lib.hit-u.ac.jp/service/tenji/owen/rainbow-color.html‎
構造主義言語学や文化人類学では、言語が世界の見え方を規定するという「サピア=ウォーフの仮説」に代表される言語相対論や、ソシュールのいう分節の恣意性を説明する例として、虹あるいはプリズムを通したスペクトルがひきあいに出されることがある。

>虹は本当に七色か

虹がいくつの色からできているかを現代の日本人に問えば、「七」と答える人が多いかもしれない。けれども、その七つの色の内訳をすらすらと言える人はどのくらいいるだろうか。「七色の虹」というのはなじみ深い慣用表現だが、実は、日本人が「虹は七色」とみなすようになったことには意外に浅い歴史しかなく、江戸時代末期に西洋科学を取り入れ始めるまでは、日本の文献で虹の色の数を「七」と記載したものはないという。

実際、七色がはっきり揃って見分けられるような完璧な虹を現実に目撃したことのある人はどのくらいあるだろうか?  金子隆芳『色彩の科学』岩波書店, 1988 (岩波新書 ; 新赤版 44) は、「虹の色は大ざっぱに言えば赤、黄、青の三色、それに緑を加えてせいぜい四色であるが、ケンブリッジ大学の一室で、プリズムによって太陽の光を七色のスペクトルに分解したのはニュートンであった。」(p.2)と述べている。

現代の西洋人に虹を構成する色の数を問うと、たいてい六色以下で答えることは、鈴木孝夫『日本語と外国語』岩波書店, 1990 (岩波新書 ; 新赤版 101), p.59-104: 第二章「虹は七色か」をはじめ、多くの人々が言及している。 けれども実は欧米人もひと昔前までは、虹を七色と考えていたらしい。 板倉聖宣『虹は七色か六色か : 真理と教育の問題を考える』仮説社, 2003 (ミニ授業書) によると、アメリカの小中学校用の理科教科書は、1940年までは、みな「虹は七色」と書いてあったという。

虹を七色とみなす考え方の起源は、ニュートン(Isaac Newton 1643-1727)による太陽光線の分光実験に由来する。ニュートン以後、西洋の学校教育では、「虹は七色」として教えられるようになっていった。ところが、シカゴ大学の実験学校の Bertha Morris Parker著 Clouds, rain, and snow (1941) をきっかけに、「虹を七色と考えるのは無理で、六色と考えたほうがいい」という説をアメリカの他の教科書の著者たちも採用するようになった。

虹の色の数については、太陽光線をプリズムで分解したスペクトルとセットで説明されることが多く、「七色か六色以下か」を論じた文献も、虹について語っているのか実験室での分光スペクトルの話をしているのか、はっきり区別せずあいまいなまま書いてある場合が多い。

構造主義言語学や文化人類学では、言語が世界の見え方を規定するという「サピア=ウォーフの仮説」に代表される言語相対論や、ソシュールのいう分節の恣意性を説明する例として、虹あるいはプリズムを通したスペクトルがひきあいに出されることがある。 グリースン(Gleason)『記述言語学』がアフリカのショナ語は三色、バサ語は二色、と例示しているのは、色彩語彙の基本カテゴリーの構造(cf. Berlin, Brent ; Kay, Paul. Basic color terms : their universality and evolution. Berkeley : University of California Press, c1969)の次元のことに過ぎず、もちろんショナ語にもバサ語にも「もっと細かい色を表わす用語が多数ある」。文化の発達していない「未開部族」なので色認識が乏しくて色彩語彙も二色や三色しか区別しない(できない)のでは決してない。けれども、前後の文脈を離れて引用されると、あたかも、世界の言語の中には、色彩名称が二つか三つしかないような「驚くべき言語」がある、珍しいですね、という話のように誤解されかねないので注意が必要である。

> それでは、日本ではいつごろから虹を七色と見るようになったのだろうか。
明治初期の師範学校『小学読本』巻四には、「虹ハ太陽ノ光ノ水蒸気ニ映ジタルモノニシテ、其色七アリ」と記され、「紫色・紺色・淡青・緑色・黄色・樺色・赤色」の七色が具体的に記されている。橙(だいだい)色が使われず樺色(かばいろ)が使われているが、七色である。
ところが、江戸時代の二、三の著作を調べてみると、もう色の識別についてはっきりと記されていない。たとえば、青地林宗の『気海観瀾』(一八二五)や川本幸民の『気海観瀾広義』(一八五一)には、虹の記述はあるが、色についての記述はない。小林謙貞の『二儀略説』(一六六七)には、色の記述があった。しかし、色の種類は、「赤・枇杷色・青黄」とし、「虹ニハ三様ノ色ヲアラワス也」と三色しか認めていない。
『古事類苑』天部の巻や『廣文庫』第一四巻には、虹の記述のある古典籍が多数リストアップされている。しかし、江戸時代以前のものは、色の種類についてはっきりと記されていない。『枕草子』や『徒然草』などの文学作品も、それから受けるイメージは墨絵のイメージで、色彩感覚はほとんど伝わってこない。
日本人がもともと持つ色は、「赤・青・黒・白」の四色であったといわれる。祝いごとは赤白や青白で、不幸なことは黒白で表すことは今も残っている。黄の色がでてきたのは平安時代以後といわれる。赤と黄の中間色を表わすには言葉がないので、樺、枇杷(びわ)、そして橙(だいだい)といった実在するものの名前をあてるしかなかった。藍もまた同じである。青もまた今日の緑も含む青っぽい色すべてを表す言葉であった。「青信号」とか「青い背広」で今日使われる青は、むしろ緑に近い。
このように見てくると、虹が七色というのは、江戸時代の終わりごろに西洋から入ってきて、しだいに定着したといってよいだろう。


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