この系図には書きこまれていたのである。
破線として語らえているできごとをそのままに、全巻系図と紅葉の賀と柏木のところと、それ以降の系図に、である。
ちょうど再販されたときに購入をしているので、そのときに参照をしていただろうと記憶を呼び戻すが、いま、思い出すことのようで、紛れてしまっていた。
それにしても時代とその説明にあらためて着目をして紹介をしておく。
書きこまれた破線は、表面上の親子関係として注記をしている。
わたしに書こうとした破線は夫婦関係の下に実線が記されている。
ちょうど逆の書き込みである。
要覧はちなみに、次のような目次である。
紫式部系図 紫式部略譜 巻名出所 全巻系図 各巻係図
人名索引 主要人物官職移動表 主要人物年譜 研究家・研究書一覧
京・京都付近略図
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桐壷帝の桐壷更衣との系図も本来なら存在しないことになる。
ははき木の巻から若紫の巻まで語られるのは光る君のことであり、故御息所、なきみやすんどころと呼ばれる人は、思いで語りに素性が明かされるだけとなる。
そもそも女御、更衣という身分が何で、その身分制度のなかでの婚姻のできごとはどのようにとらえらえていたのか。
後宮における、きさきの制度は、律令制度に借りられたのでまさに物語りが伝えるところ何か。 . . . 本文を読む
物語の背景を理解するために、歴史と時代、風俗、習慣、因習などを含めた社会のあり方が、いあまなら問われるであろう。この系図にあらわされた当時の状況はそれなりに、社会のようすをうかがわせる。
江戸時代の学者あるいは読者にとってみれば、はたしてどのような解釈があったか、そしていまのわたしたちにはどうであるか、理解するために現実に生きている時代状況を考える必要がある。
系図の表層では宮廷の中で行われたことがらとして、後宮にかかわる人たちの、それが物語り中の出来事なのである。
これを生きた自裁に合わせて想像することはそれほど簡単ではない。
いまのわたしたちのまわりには、朝廷はもはやないし、宮廷は現実にはない。
ある時代の貴族となるく姓を得る王族の話となれば、物語を知るためにも歴史理解がなければならない。 . . . 本文を読む
柏木の巻で女三の宮と柏木の子を、そこも破線にしてみて、同じ図が出来上がった。
重ねて一致するのを見る。
物語の宿世は因果として現れる。
桐壷の帝の気持ちを、光源氏は親の立場で知る、その感懐を持つことになる。
あの一枚の絵の通りだ。
そしてあるとき、源氏物語絵巻の展覧会に出かけて同じような破線のある、それを書きこんだ系図がバックライトの証明に浮かび上がっていたのには仰天した。
物語りでひた隠しにするのを、さすが現代の明け広げに、とうとうここまであらわすようになったかと、つい、人に説明をしたりしていた。
源氏物語を語る難しさはここにある。 . . . 本文を読む
物語の構想には歴史書の影響があり、編年体と紀伝体を併せ持つ。
ときの移ろいにはごくまれな前後する時間はあっても、一日の時間いは精確な物語だ。
時計と言うものの代わりに、月の動きにときの刻みを実感する。
年齢を追って描かれない時間は省筆という妙があるのであった。
系図を自分で作ってみようとしたことがある。
巻ごとに系図があるのは人物の官位の昇進などに合わせ重要な一覧である。
各巻ごとに眺めていると、それだけで物語りが見えてくる。
それを一枚の系図に、世代を家系にしてはどうだろうかと、着想した、が、それはやはりできなかった。
しかし、その作業をするあいだに、気づいたのである。
物語りのプロットに合わせると重要な一枚の系図に、作り始めた、自分が書きこんだ線がないのだ。
紅葉の賀の巻で加えるべき線が系図にはないのだ。
ないのが、当然と言えば当然であったけれど、藤壺と光源氏の子に破線で書き表そうとした、その線がない。
そこで、もう一枚の図を重ねて、わかるのである。
ここで、源氏がわかるとはこういうことだったかと合点をした。
もう一枚の図は柏木の巻である。
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源氏家系図であるうえに物語の人物関係を示す。
かなり複雑な線に出来上がっている。
この時代の婚姻の形態を表すものであるからだ。
王族がそうであったかどうか、貴族には通い婚を前提とする婿入りを当時には説明する。
それはまた一夫多妻制としていわれるが、宮廷を取り巻く作中人物の相関図でもある。
物語りを読みながら時系列に人物を追っていけば年齢をたどることになる。
主人公の光源氏の年齢をあきらかにするのは、物語中、それほど多くない。
男主人公がそうであるから人物の年齢はわずかな手がかりで推定をしていく。
立て並びに各帖の時間的展開を見ると矛盾は少ない。
光源氏が誕生し元服するのは最初の巻で語られた。
あとは具体的に年齢を示すものは四十の賀を祝うまではない。
季節のめぐりに合わせて年の経過を読み合わせることになる。
そしていくつで雲隠れになったか、記述はない。 . . . 本文を読む
源氏物語には系図が添えられる。
物語を読むに、わかりよいからである。
源氏物語系図として、物語だけの系図研究が行われた。
そこには、ふつうには作中人物の関係がみてとれる。
系図は各家系を皇族、大臣、殿上人、受領と並べ、略歴を簡単につける。
ふるいもので、十一世紀以来、まとめられてきたようで、十三世紀には整った。
登場人物がそれぞれの巻によっては呼称が違うこともあるように、物語の展開によって人物を追う時に、至極、便利である。
近代の長編小説によくつけられている登場人物解説のようなものだ。
源氏物語は叙述の時間と空間の展開に加えて人間心理の描写にすぐれている。
語りの文体にはそれなりに分析が加えられるところだが、歌語りの文章に、会話のうち心話の文が息づく。
そこにところどころに、顔を出すかのような草紙地と言われる文がある。
この巧みな語り口は人物関係を際立たせる。 . . . 本文を読む
藤壺の宮のところで管弦の遊びなどをなさっている。
そこへ帝が若宮を抱き上げて出てきたのである。
この物語りのクライマックスであった。
筋立てを追い、物語を読み、そう思う、それは知らない、知らされない場面でもある。
れいの、中将の君、こなたにて御あそびなどし給に、いだきいでたてまつらせ給ひて
しかし、これは作者が用意した世代物語の伏線となっていたのだった。
だれも同じシーンがふたたび、あるとは、思ってもみないことであろう。
紅葉の賀から柏木まで、時を経て語られた、輪廻と言うべきか
このことは物語を追えば、ふつうに見て取れる。
読み取れることである。
そうか、源氏物語をわかるとはこういうことだったのかと、ひとり合点をしたのであった。
光源氏の物語ではない、輝く日の宮の物語である、男の青春や栄耀栄華を描くものではない、女の宿世を描くものである。
源氏物語思想があるとすれば、やはり作者は書き手、語り手の仏教的因果律による世界観にある。 . . . 本文を読む
げにかよひ給へるこそはとおぼしけり
このときの父帝のきもちはどうであったろう。
ぼうにもすぇたてまつらずなりにしを
ただ人にてかたじけなき御ありさまかたちに
物語りは、立坊がかなわず、臣下にしたことを、帝の思いとしている。
ここに源氏物語のテーマがあらわされている。
筋立てにおいて、そのあとに藤壺の御殿で、いつものように中将の君があらわれて管弦の遊びなどをするというのだが、そこには・・・・
帝は光源氏をこよなく愛していたので、立太子がかなwなかったことを
あかずくちおしう
思い続けていた。
臣下にするには器量があまりにもすぐれていたため、その成長するすがたを見るにつけ
こころくるしく
と、お思いになっていたのである。
おなじひかり
で生まれてきた若宮をこの上もないものと思い育てようとなさる。
それを見る母、藤壺は
むねのひまなく
気が気でない、という場面に、帝が若宮を抱き上げ、そこに光源氏は出会わすことになる。 . . . 本文を読む
すぐれた絵の表現力は、源氏を語るものには、その背景にある出来事を見通させる。
物語の原文にある場面は、はるかにさかのぼり、その前のできごとに同じ場面を映画いていた。
親が子を抱き上げて持つ感懐は、そっくりそのままなのである。
それに気づかされる。
ひと世代さかのぼってのこと、若き光源氏がそこに――
もうひとつの場面とは、紅葉の賀にある。
あさましきまでまぎれどころなき御かおほつきを
藤壺が内裏にかえり、光源氏の子である若宮は、もう起きかえ利するする頃となった。
そして、あさましと思うほどに、そのお顔は似ていらっしゃる。
おぼしよらぬことにしあれば、またならびなきどちは
思いもよらぬことであるので、そうであっても、並ぶもののないものにはよく似通っているところがあるものだ、と、お思いになる。 . . . 本文を読む