読書など徒然に

歴史、宗教、言語などの随筆を読み、そのなかで発見した事を書き留めておく自分流の読書メモ。

女川では原発敷地内へも避難せざるを得ず

2011-04-02 10:52:05 | 新聞
女川町と石巻市は津波の甚大な被害を受けた。海岸沿いの町は津波で大半が破壊され、多くの人々が避難生活を強いられている。

 女川町中心部から海岸沿いの道を約15キロ進んだところに女川原発はある。距離は近いが、ここにたどり着くまでは一苦労だろう。地震の影響で道路は所々で陥没し、何メートルにも渡って亀裂が走っているし、自衛隊が復旧作業を進めているが、道の途中にちらほら見える住宅は完全に孤立している。

 女川原発の広報課によると、地震発生当日の11日、原発が地域住民などへの広報施設として開放している「女川原子力PRセンター」に、次第に被災者が集まってきたという。

 原発は各自治体指定の避難所ではないが、東北電力は人道的な観点から、被災者の受け入れを決定。同センターは水や電気などが不十分なことから、職員の厚生施設として利用している原発施設内の体育館に被災者を誘導。現在、約240人が身を寄せている。

ユーチューブに残された日本の失われた沿岸部の記録

2011-04-01 09:41:18 | Weblog
神奈川県横浜市在住の仙波公輝さんの本業は、通信システムの開発だ。だが、暇な時間をみつけては海沿いドライブに出かけ、車載カメラで撮影した車窓映像を動画共有サイト「ユーチューブ」に投稿している。投稿された動画は既に400以上にも上る。

 震災で東北沿岸部の相当部分が壊滅的被害を受けた今、数千人に及ぶ仙波さんのサイトの閲覧者にとっては、これら動画は何が失われたかを知るための貴重な資料となっている。


 例えば、最も甚大な被害に見舞われた南三陸地域の動画には、小さな倉庫や店舗、漁船や入り江を通り過ぎながら、緑が深く生い茂った細い道路を当てもなくドライブする様子が仙波さんの視線で映し出されている。

 この南三陸地域の動画は、仙波さんが2010年4月30日に撮影したものだ。

 仙波さんは電子メールで、これまで各90分の車窓動画を1500~2000種類作成したと述べた。ただし、高解像度のものはそのうちわずか10%だという。撮影を開始したのは1998年で、46都道府県の動画があるという(唯一沖縄だけが抜けている)。

 仙波さんは、ドライブをするのは息抜きだが、動画は移りゆく地方の歴史の記録にもなるのではと考えたという。海沿いの地域は、橋やランドマークの建設に加え、1993年の北海道南西沖地震など自然災害によって、特に景色が変わりやすいという。

 この早送りの動画ツアーは妙に心引かれるものがある。仙波さんは、ビデオカメラを三脚に設置し、それを助手席にベルトで固定して撮影することで、閲覧者がドライバーと同じ車窓の景色を見られるようにした。

 スタートボタンをクリックすると、にわかに目の前の車窓が快調に流れ出し、対抗車に道を譲ったり、歩行者の横を通り過ぎたり、渡り鳥の群れを見送っ たり、フロントガラスに降りかかる雨粒を眺めながら、海沿いの道路の隅々を絶えずアクセルをふかしながらドライブしている気分を楽しめる。これを見ていると一種の平等主義的感覚にとらわれる。古いトラックや積み重なった漁網も、突然現れる静かな浜辺の風景もいずれも同様に趣深く感じられる。

 仙波さんは、南三陸地域の動画について次のように書いている。

 南三陸地域に訪れたのは05年~10年にかけて。ハイビジョンカメラを携え、海辺や海岸、漁港、橋、船などを撮影した。だが、これらの町が津波によって壊滅的被害を受けたのを知り、今はとても悲しく思っている。被災者の人たちが自分の動画を見て、コメントをくれることに感動している。

 仙波さんのユーチューブのサイトの3万5700人に及ぶ世界中の閲覧者や友だちの多くは、お悔やみや同情のコメントを寄せている。ニュージーランドの閲覧者の一人は、次のようなコメントを残している。

 「あなたが無事なのを知って嬉しく思う。ニュージーランドでは、クライストチャーチの地震への対応に依然追われているが、国民全員が日本の皆さんのことを思っている。日本は地震と津波と原発という未曽有の3重災害に見舞われている。そう思うと人生のほかの問題は大したことでないように思える。日本の皆さんが苦難を乗り越え、前進することを願っている」