旧暦では、未だ睦月であるのに、新暦では3月になっている。どうにもせかせかし過ぎて、落ち着きがない。簡単に、殺人を犯していながら、平気でしていないと嘯いたり、真実を話そうとしない。人類が皆友達だとは思わないが、善悪だけは理解しよう。
三つ子の魂百まで。とも言うが、小さい時の子どもへの躾は、根底に人としての愛情がなかったら、間違った方向に行くのは避けられない。親が居なくても育っている子、親が居ても性格が捻じ曲がった子は、何処にでも居る。如何なる理由でも殺人は。
思春期や、青春時代でなくても、殺したく思うことがある。聖人君子でもなければ、極普通の人間であれば当然のことだ。殺せば一生、重い荷を背負うのだよ。怒りに任せての行動よりも、その思いを、相手を見返すことで克服したい。誰のためでもない。
生きることには、楽しいことばかりではない。反対の辛く、悲しい、或いは悔しくやるせない、そんな気持ちの方が多い。誰も援けてはくれないかもしれないが、相手の機嫌をとるよりも、自分を磨くことをしたい。欲しい物は、簡単には手に入らないのだよ。
心は、お金では決して自由にはならない。それはつまり、自分の意思だ。正しいことを行うのは、誰のためでもない。必ず、自分のところに還って来るんだよ。その期間が、長かったり、短かったりはするけども、自分を創ることに役立つ。生きるのは受難。
全ての人が、平和的な考えや、やさしい心でいたなら、戦争は何度も起きない。地球上に、様々な人が棲んでいるのも、争いを起こさせるためかもしれない。神さまが、意図して禍を促しているのかも。だが、何があろうとも、命の重みは消し去れない。
植物や動物の世界からしてみれば、人間ほど残酷な生き物は居ない。霊長類として君臨しているが、真実賢いとも思えない。人間は、愚かであるがこそ、神による目覚めを待っているのかもしれないからだ。生きることこそ、実際には愚かなことだ。
プランターのオクラ。山上憶良ではありません。句を詠むことも出来ずですが、色といい、形といい、美しい緑。