百歳に向かってもう一度世界一周

百歳に向かってもう一度「歩いて世界一周」に挑戦したい。日中友好董存瑞育英基金を充実したい。富士登拝・・・

北京で(帰国)

2007-10-20 16:47:53 | Weblog

 10月20日 (土) 
                      平成17年1月1日より 1,023 日目  
                                      歩いた歩数        その距離  
                        本日          19,714 歩         13,800 m
                        総計   14,294,500 歩   10,006,150 m
        北京より石家荘・邯鄲・洛陽・三門峡を経て崋山に向かう。後 43,000 m  

  1990年9月24日 晴れ 気温 15℃~

 午前四時起床。荷造りをし、迎えを待ってホテル発は5時半。茜色に染まった北京の街を抜けると、空港への直線道路へ出る。「梁君永い間ありがとう!我が儘ばかり言って苦労掛けたネ」「イエ、先生、勉強になりました。綺麗な女と結婚してはイケナイ。早起きしないと人生の競争に負ける。ワカリマシタ!」「また来て厄介になりますヨ」「先生、手紙ください」「貴方もネ」「ハイ、・・・先生の友達が中国に来ればお世話します。」「頼みますヨ」

 

 6時ジャスト空港着。梁君、せっせと荷物を台車に載せ、私のリックを背負って一緒に入場しようとすると、警官に制止される。航空券のない者は入ってはならないというのだ。心の準備のないまま、警官の前での別れ。後ろに人がつかえている。言葉もなく堅い握手。「先生、日本語で大丈夫か?」と不安げ。笑顔でVサイン。

 

 さて中国へ来て初めての一人ボッチの旅。舵を失った舟のよう。アチコチ、ウロチョロしているうちに、全ての関門を通過してしまう。太極拳の人達の弁当を見て、ヤット腹の減ったのを思い出す。

 

 それにしても荷物の検査もなく、60k以上もある荷物に何のお咎めもなく、スースーと通過したのはどうしてもヘンだ。北京空港発、929便は9:05のフライト。上海着、10:36.上海は雨降り。

 

 此処までは全て順調だったが、乗客がどんどん降りて、機中は小生只一人となる。知らぬが仏、皆さん上海で降りるのかと不審に思っていると、「航空機は故障しています。何時直るかワカリマセン。お昼出します。」に慌ててしまう。

 

 空港での待機中は、日中友好手を繋ぐ会の会長(故山本慈昭和尚の後任)向山登詳氏と会い、四方山話に花が咲き退屈はしなかったが、スピーカーは「929便は修理不能で断念した。北京より代行機が到着したら乗り換えてフライトする。」と。取りあえずアジア大会のテレビ観戦をする。

 

 代行機の乗り込みは午後5:50、フライト6:05。日記を書いていると、機内に、搭乗記念のシガーレットケースとスナックが配られてきた。6:44日記のペンを置く。(飛行機の中で日記をつけてる物好きが、ほかに居るだろうか?)成田着9:28

 

※ 昨夜(10月19日)、邢春さんから「北京の李菲菲が男の子を産みました」と電話が入った。中国は一人っ子政策のため、誰もが男子が欲しい。孫に男子が生まれたことは何事にも代えがたい慶事だ。めでたし!めでたし!!

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車庫の工事始まる    


北京で (観光)

2007-10-19 17:10:36 | Weblog

 10月19日  (金) 
                           平成17年1月1日より 1,022日目
                                       歩いた歩数      その距離
                           本日         11,185歩         7,830m
                           総計   14,274,786歩  9,992,350m
    北京より石家荘・邯鄲・洛陽・三門峡を経て崋山に向かう。後 56,800m

  1990年9月23日 晴れ 気温 14℃~24℃

 今日も昨日に続いて北京の観光。昨日休みだった故宮博物館と北海公園に絞って、ゆっくりじっくり観る事にする。

 

 故宮の太和殿・中和殿・保和殿は何回も見ているのでパノラミックスのシャッターを切るだけで通過して、専ら博物館の宝物を視る事にした。歴代芸術館・陶器館・絵画館・銘刻館・珍宝館・鐘表陳列館清代宮廷文物陳列室と見所も多い。

         

         

           

 昼近く足も棒のようになって疲れきった頃、日本語の一団がやってくる。聞けばアジア大会に太極拳でやって来た総勢700名の大団体で、中に長野県の人達も居るというので元気を出し、神武門へ行く。11号車を見つけ声を掛けると、陽気な小母さんたちに囲まれ名刺交換。久し振りの信州弁が心地よい。

 

 昼食の後、うまくハイヤーが拾える。北海公園は嘗ては名園であったろうが何か安っぽく飾り立てられていて気分が良くない。白い塔に登りパノラミックスで北京の全景を撮る。植物園の中に宜興の焼き物を見つけて、急須の値段を聞くと1個250元というので諦めて、11元の中国鉢を買う。

        
                          北海公園で

               
                      北海公園で(遠景は故宮)

  さんざん苦労した昨日とは違い、運良くタクシーが拾えたので友誼商店にもう一度行くことにした。手元に残った元で茅台酒とジャスミン茶を買う。まだ余りがあるのでぶらついていると寒山拾得の掛け軸に出会う。貧乏人同志、世をすねたか、世を見捨てたか心が吸い寄せられた様にこの軸を求める。そして残りで妻に蛇皮の財布を買う。やはりお金が貯まるというので・・・。

 

 今日は疲れた。44日の中国生活で今日ほど疲れた日はない。お金を稼いだり、お金を使ったりすることは、私の性分には合わぬものらしい。人には夫々得手、不得手があるんだから仕方があるまい。

 

 夕食にビールをやると意外にうまい。梁君に中国最後の晩だからといってビールを3本頼む。邢春さんから電話が入る。今日は日曜日だからきっと居ると思って電話したがコレが3回目と言う。日本へ電話したこと、成田着は上海廻りで3時になることなど、親切な的確な指示に感謝する。

 

 思うに、今回の訪中の演出は麗麗さんがしてくれたのだろうし、そして全ての企画は邢春さんの立案であったようだ。只々感謝あるのみ。10時早めに床に着く。

 


北京で(アジア大会)

2007-10-18 17:40:21 | Weblog

10月18日  (木)  
                        平成17年1月1日より 1,021日目
                                    歩いた歩数    その距離
                        本日         15,547歩       10,883m
                        総計   14,263,601歩  9,984,521m
    北京より石家荘・邯鄲・洛陽・三門峡を経て崋山に向かう。後 64,629m

 1990年9月22日 曇り 気温 20℃~27℃

 アジア大会開幕の日。私たちはとうとうホテルの総経理に会うことが出来ず、開会式の入場券を手に入れるチャンスを失い、今日は市内観光をすることになった。タクシーの利用はアジア大会に向けられて絶望で、朝食後、地下鉄に乗り天安門へ出掛ける。お陰で、中国にも地下鉄が存在している事を確認できたし、その規模を見ることが出来た。

 

 地下鉄は、嘗ての市内を囲む城壁の下に敷設されたので市内の主要部を環状線で一周して、復興門より郊外に向かって走っている線に接続している。丁度柄杓の格好だ。

 

 安定門から乗ったが、意外に深い地下に「原爆が落ちても安全だネ」と呼びかけると、梁君は心得たりと「ソーヨ!」と返事する。全線均一料金で三角(約7円)の安さ。30分程で天安門に着く。

 

 広場にはあの惨状を思い起こさせるものは何もない。パンダがアジア大会の聖火を掲げ、鳳凰が舞い、赤・黄・桃色の花に飾られた大きな花壇が幾山も作られて“アジアの平和此処に在り!”といった印象である。

              
                      天安門前に立つ梁君 

  今日はアジア大会の影響か、人出はそれほどでないがやはり目立つのは日本人。あちらこちらから日本語の会話が聞こえてくる。また、アジア大会に総力結集という事か、公的施設は全て閉鎖されている。

        
                          戦勝記念碑

  お陰で目当ての毛沢東記念堂・故宮博物館もお休みだ。折角、三輪自転車で大金(ハイヤーより高い)を払って駆けつけたのに無駄になる。そこで午前中は王府井(ワンフーチン)をひやかし、中華料理店で昼食をとる。

             
                                            天安門前で

             
                パンダの前で(背景は人民大会堂)

 再び三輪自転車を雇い天壇公園へ。天壇は清朝の行事として、皇帝が天を祭り、五穀豊穣・天下泰平を祈念したところという。公園は広大で梁君の案内でスッカリ疲れたが、三度三輪自転車を頼み、北海公園へ。漕ぎ手の背中が汗でびっしょり、顔の汗を拭きながらの奮闘に乗っていても気が気ではない。やっと辿り着いた北海公園は4時から5時までは閉鎖と言うのでガッカリ。仕方なく歩いて紫禁城へ。

         
                         紫禁城の外堀で(梁君)

  しかし歩き疲れて四度三輪自転車を拾う。私はこんな爺さんにホテルまで漕いで行って貰うのは気の毒だ、途中で具合でも悪くしたらそれこそたいへんだ。もう少し若いのが来たら頼もうと辞退したが、梁君は訊かず「乗って!」と催促する。

  先行きを案じながら乗ったが、この爺さん、永年のキャリアーか,ファイトか汗もかかず、上り坂も空車を追い越しての力走。スッカリ感心してホテルへ着いたとき、「シンクーラ」と声掛けると、笑いながら「ハオ」と答え、梁君に「リーベンレン?」と尋ねたあたり、小生の中国語はまだまだ頼りにならぬようだ。

  部屋に戻るやいなや、テレビのスイッチを入れる。ヤッテルヤッテル。アジア大会の入場式。既に選手入場・北京市長の挨拶などは終わって、聖火を持った3人の若者によってアジア大会の火が点火されたところだった。6時半まで少数民族の鐘太鼓の競演から武術の紹介・女性のマスゲームなど盛り沢山のアトラクションが次から次へと繰り広げられ、民族の燃え盛るエネルギーを見せ付けられた。玉を咥えた巨大な龍が何頭も体をくねらせながら、サモ生きているかのように、泳ぎながら天高く舞い上がっていったのは見事だった。

          

  夕食の済んだ頃、邢春さんから電話が入った。昨夜も何回も掛けたが、十階の18号には居ないと言うので、今朝改めてホテルにアナタの部屋番号を訪ねた。そして今朝も何回も掛けた。それでも通じなかったが、やっとアナタの声が聞けた・・・。

  石家荘も学校や役所は全部半日で、家中揃ってアジア大会を見ていました。明日は東京の弟さんに「成田までの出迎えを頼みます」という。菲菲ちゃんも一緒と言うので、お別れの言葉を掛ける。「オジサン、サヨナラ!」と返ってくる。梁君と角の果物屋からハミ瓜を買って来て食べる。そのうまかったこと、邢春さんからの電話のせいかも知れない。 


石家荘地区の思い出(北京へ)

2007-10-17 17:46:36 | Weblog

 10月17日  (水)  ①
                          平成17年1月1日より 1,020日目
                                        歩いた歩数      その距離
                           本日           15,364歩       10,755m
                           総計   14,248,054歩  9,973,638m
        北京より石家荘・邯鄲・洛陽・三門峡を経て崋山に向かう。後 75,512m

 1990年9月21日 晴れ 気温 15℃~26℃

 朝食を終わって部屋へ戻ると、邢春さんがニコニコしながら立っていた。20分も前から待っていてくれたと言う。「最後のお別れに来ました。会議のため、どうしても駅まで見送れないのです。申し訳ありません」と。ホテルの玄関での別れとなる。見えなくなるまで手を振ってくれる。涙が滲んで来る。拭っても拭っても後から後から溢れてくる。

 

 車中、麗麗さんが小箱を取り出し、「アナタの奥様への贈り物。足を直して、来年は一緒に来てください。一つはドイツ製、二つは中国製。効く様なら幾らでも送りますから、必ず電話ください」と。また涙が込み上げてくる。ここまで心配りをしてもらって、泣かずに居られるものがあるだろうか。列車の中まで見送ってくれた麗麗さんの手にキッス。言葉が通じないので非常手段だ。私の真意がつうじたのか「謝々!」と彼女も満足気。梁君曰く「先生は、どっちが好きですか?」と。

 

 一等車の同室に読売新聞社の上海支局長。イラクの選手の取材で河北賓館に滞在していたが急遽帰国することになった選手に接触しようとして、公安官に追い返されて来たところだという。「私も河北賓館に滞在していました」と奇遇の取り持つ縁で多いに語り合う。車中、退屈することもなく北京へ着く。

 

 北京は国の直轄市で河北省の管轄外のため、駅への出迎えもなく、重いトランクに梃子摺りながらハイヤーを頼み、河北飯店にやっと辿り着く。ホテル側は総経理から何も聞いてないと部屋にも案内しない。こんなことは中国では日常茶飯事なので、フロントのソファーで昼寝を決め込む。

 

 一時間ほども経ったろうか、ヤット918号室へ通される。今までの天国のような待遇とは大違い。総経理への親書も本人が居ないのでは効き目がない。邢春さん・麗麗さんへ無事北京到着を電話して、お土産を買いに友諠商店へ出掛ける。北京だけあって品物は豊富である。

 

 日本を離れて40日、北京に来てやっとJSVの任務から開放されて、心の重石を下ろした感じだ。

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石家荘地区の思い出(臨城県)

2007-10-16 18:43:52 | Weblog

 10月16日  (火) 
                           平成17年1月1日より 1,019日目
                                       歩いた歩数         その距離
                            本日         10,861歩            7,603m
                            総計   14,232,690歩   9,962,883 m
         北京より石家荘・邯鄲・洛陽・三門峡を経て崋山に向かう。後 86,267m

  1990年9月20日 晴れ 気温 15℃~24℃

 河北省でのお別れパーティも済んで、今朝北京へ発つ日だったが、彼女たちのすすめで女々しくももう一日石家荘市に泊ることになってしまった。

 

 邢春さんと陸麗麗さんが急遽役所を休んで、観光サービスをしてくれることになった。午前7:40ホテルを発って臨城県の白雲洞へ向かった。梁君を前の席へ坐らせ、私は邢春さんと陸麗麗と後ろに席をとる。楽しいドライブ、梁君いわく。「両手に花ネ!」と。

 

 臨城県は石家荘市より60km先で、刑台地区の県。気づいたことだが、この地は未解放区の筈。不安に思っていると、邢春さんは勿論百も承知、「アナタはダマッテイテ」と。無断で未解放区へ入ることは許されない。尋問されれば、私ばかりか彼女たちも同罪の筈。彼女たちの度胸の良さと好意には頭が下がる。

 

 臨城県で公安官に道を尋ねると、車を止め白雲洞へ勤務している女性を探してきて強引に車に押し込め、案内役にしてくれる。この間、随分ハラハラさせられる。白雲洞は大行山脈に属して石灰岩に覆われた地でセメント工業の中心地である。近づくにつれて、カルスト台地特有の羊の群れが放し飼いされているような風景が見えてきた。秋吉台と似た風景だ。

 

 1988年、石灰石の採掘中、偶然に発見され、今年の7月、ヤット公開に漕ぎつけたという開店早々の鍾乳洞だ。それにしては案内ガールの堂々とした説明は見事。邢春さんは「アナタはダマッテいて」と私に釘をさしたにもかかわらず、私に日本語で訳して聞かせてくれる。それが洞窟の中で反響して不気味。

 

 ここで捕まったらと思うと気が気でない。中程の明るい場所があり、ここで記念写真を撮ろうという。未解放区の証拠写真まで残そうと言うのだから。3人で肩を組み仲良く撮ってもらう。イヤ、邢春さんはその瞬間、肩から手を外していた。「アナタは家庭を大切に!」と言った。

 

 帰途、車上の回転灯をつけ、サイレンを鳴らし、梁君が赤旗を振って、他の車を抑えて超スピードで戻る。邢春さんいわく、「あれはいたずらです」と。ホテル着は0:12。昼食は再び二人に囲まれてビールを飲む。マズイビールも今日だけは弾む。またまた両手に花!

 

 昼食の後、梁君と石家荘駅前の商店街へ出掛ける。商店街は延々として続き、電気製品・音響製品を扱う店の多いのに驚く。以外に(と言っては失礼だが)商品は潤沢で、衣料品・靴などは好きなタイプのものが手に入りそう。小生も今晩キットやってくると言う二人の為にと、テープを買う。4巻で13元なり。

 

 歩道橋を渡ると衣料品を扱う店が軒を並べ、駅周辺に近づくと薬屋も何軒かある。この通りで「検察」という腕章をつけた軍人たちが兵隊を捕まえては虱潰しに服装検査をしていたのが印象的だった。日本にあった憲兵のようだった。

 

 夕食後、邢春さん夫婦と陸さん親子がお別れの挨拶にやって来た。邢春さんから絨毯と観音様、菲菲ちゃんから貴ちゃんと真ちゃんに小箱が贈られた。初めから最後までお世話になった上、お土産まで頂いて、その好意に感謝すると共に二人の出会いを作ってくれた天の神に感謝しなければならないとしみじみ思った。

 

 麗麗さんは私の今回の訪中に感謝してと前置きして、私の為に西蔵民謡を歌ってくれる。それがきっかけでみんなで合唱。 邢春さんも歌ってくれる。このテープは爪を切って永久保存とする。午後10:20名残を惜しみながら帰っていった

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