百歳に向かってもう一度世界一周

百歳に向かってもう一度「歩いて世界一周」に挑戦したい。日中友好董存瑞育英基金を充実したい。富士登拝・・・

石家荘地区の思い出(石家荘郊区)

2007-10-14 17:32:17 | Weblog

 10月14日  (日)  ②
                          平成17年1月1日より 1,017日目
                                      歩いた歩数      その距離
                          本日          12,387歩     8,671m
                          総計   14,216,162歩  9,951,313 m
     北京より石家荘・邯鄲・洛陽・三門峡を経て崋山に向かう。97,837m

 1990年9月18日 晴れ 気温 13℃~23℃

 朝食後、石家荘市郊区科学技術委員会の牛主任がやって来て、区長さんが待っている居ると言うし、陸麗麗さんは私がお相手するので渡せないと言う。二人の引っ張り合いが長いこと続いたが、私が行司役を買って出て、「区長さんが待っている以上、私は行く義務がある。麗麗さんの指定する時間までには、キット帰る」と説得して待っていた車に乗る。

 

 石家荘郊区は郊外とばかり思っていたが、その本拠は市内。陸麗麗さんより11時にはホテルに戻って欲しいいう要望があったので、「食用菌栽培の技術的な問題は、基本的理念から異なるし、培養基も違うし、各々の国で技術的方向が確立しているので、私の所見を申し述べる問題ではない。そこで、日本の食糧事情、特にキノコ関係を重点に説明して理解を求めたいことと、中国輸出品に対する最近の日本側の評価と中国側の対応のあり方について語り合いたい」と話して会議に入った。

 

 私にとって、最後の仕事なので、思いっきりハッキリとした表現で言いたい放題。中国側からも反論もあって、賑やかな座談会となったが、時間切れ。区長から「今後ともご指導を・・・」との言葉と共に「再びご来訪あらんことを・・・」と要望される。例により記念撮影して11時となったので引き揚げる。

          

  昼食は麗麗さんの計画で極内輪の心の通った者だけということで、袁さん・邢春さん・麗麗さんに小生。それに通訳の梁君と運転手さんを加えた6名のみ。

 

 建設大街の燕風楼(訪日団がよく利用する料亭)が会場。「今日はアナタのためにしゃぶしゃぶにしました」との挨拶だったが、例によって中国流。しゃぶしゃぶが出る前に出るわ出るわ、ご馳走の山。私は内輪の昼食会にリラックスして白酒を吸い上げるが、邢春さんも「先生!今日は三杯でなくていいヨ!」と。

              

 昼食後、ホテルに戻り昼寝。午後四時、袁さんが来て、今回の訪中の成果と今後の対応について協議する。幾つかの約束事をする中で、一番心を込めて要望されたことは「河北省との合弁で日本語学校を創設して欲しい。資金は銀行の融資で」と、かなり具体的な案が提示されたが、これは前向きで検討することで保留した。

 

 夕食に陸麗麗さんの家に招待される。ご主人(河北省農業局長)も娘さんも笑顔で温かく迎えてくれる。同席は袁さん・邢春さん・小生と梁君。麗麗さんの家には豪華な調度品がビッシリ。余りにも高級な生活ぶりにドキモを抜かれる。邢春さんは「わたしの家に比べないで・・・わたしは貧乏ですから・・・」と。

          
                           陸麗麗さんとご主人と

  料理も豪華で、スッポン、超大型海老から始まって麗麗さんの手料理。私の為に高価な茅台酒。至れり尽くせりの中で餃子が出る。小生も酔う。邢春さんも酔う。宴も終盤の頃、お土産とて麗麗さんよりパンダの座布団(毛皮製)2枚と中国茶器(恐らく数百元はするだろう)そして袁さんから貴州茅台酒が差し出された。

 

 麗麗さん一家に見送られ、はじめて邢春さんと大通りを闊歩する。家まで送ろうと言うが、賓館の前まで来ると、「頭が痛い。飲みすぎました」と言い残して一人で帰って行った。あんなにハシャイでいたのに・・・。今日一日、人生最良の日。両手に花のご招待に、お土産まで頂戴、訪中の成果を評価され、来年の再来のゲンマまでして・・・。それにしてもこの歓待は?

 

 感謝あるのみ!

 


石家荘地区の思い出(灤城県)

2007-10-14 13:56:24 | Weblog

 10月13日  (土) 
                          平成17年1月1日より 1,016日目
                                      歩いた歩数     その距離
                         本日          15,875歩       11,113m 
                         総計   14,203,775歩  9,942,643 m
         北京より石家荘・邯鄲・洛陽・三門峡を経て崋山に向かう。 106,508m

  1990年9月17日 晴れ 気温 15℃~27℃

 朝の散歩で、槐北中路を東へ行き次の道路を右折して帰る心算で歩いて行った所、30分も歩いたが居本道で、とうとう橋を渡って農村部へ入ってしまう。道には朝食の揚げパンを買う人々の行列が幾列もあり、それが朝の陽を受けて影法師が長く尾を引いている。如何にも大陸的なムードである。“平和だなァ!”としみじみ思う。

 

 見とれて歩いて行くうち、やっと建華南大街という出来立ての大通りに辿り着く。石家荘市は新しい都市だけに東西の道は○○路、南北の道は○○街と、“路”と“街”で区別されていて、碁盤の目のように区画されているので、道に迷うことは無い。

 

 右側が全て六階建てのアパート群(日本なら公団住宅)の中に、石家荘第24中学校があった。三階建ての見事な校舎で、現在建設中の日本の校舎に比べても優るとも劣らぬ立派なものである。偶然、菲菲ちゃんの登校姿に出会う。朝7:05 

 

 今日は灤城県(ランジョウケン)の食用菌の視察と言う。午前8時半、灤城県梅家村の農家へ平茹(ヒラタケ)の栽培施設に出かける。泥の塀をくぐると豚が居る。あちこちに穴の開いた壁のような所を曲がると、〔先生、どうぞ!〕というので、穴の中へ入る。穴の中には幾列もの棚が作られていて、棚の上にはビニールの袋に入った菌床からは茸が出始めている。

         

  見渡せば、穴は1mほど掘って,掘った土で壁を作ってある。高さは2mを若干越えたほどで、天井と屋根はビニール囲い。遮光のため、ビニールの上に草や粗朶が載っている。また棚の下の地面は10~20cm程,皿状に抉られて、水を湛えられるようになっていて、湿度保持の役割を果たしている。壁の穴は空気の流通を調整するようで、粗末ながら理論的で素晴らしいアイディアだと感じた。

                 

  記念写真を撮るとその家の主人は喜んで大きな手で握手してくれた。昼食は和やかに、賑やかに、何時までも続き、〔是非、来年もいらっしゃい!〕と要望される。例によってしめじと白いエノキの種菌の要請をされたので快諾する。            

 

                 
                          灤城県梅家村の農家で
                             
  
 昼寝なしで河北賓館に戻ったのは午後2時半でした。本日のお勤めはこれにて終了。なんとも楽だが、なんともやるせない。通訳の梁君が遊びに行きましょうと誘ってくれるが、気分が乗ってこない。一番期待し、一番張り切ってきた省都石家荘市での仕事がこれではどうにもやりきれない。

  薄暗くなった頃、邢春さんから電話、「先生、今日は主人のお客様が来るので、オジャマできません。お客様が帰った後で陸麗麗さんを訪ねます」「その後で来てください」「イエ、遅くなりますので・・・明日ハキット・・・」ガチャン!もう一人ではとても我慢できなくなり、梁君を誘って散歩に出る。

  夕食後、日記を書いていると、陸麗麗さんがお母さんと二人で訪ねてきた。今まで塞ぎ込んでいた気分が一度に吹っ飛んで歓声を上げて飛びつく。そしてお母さんの居るのも忘れて何時までも何時までも握手。彼女もどうしたことか、手を放そうとしない。承徳市以来の出会い(一ヶ月以上逢ってない)だ。その間、彼女は、あちこちから私の行く先々に手を打って呉れた事・シルバーゴランティアズの山本先生一行を案内て居た事・先生からもよろしくとの伝言のあったことなどを話し、ヤット手を放した。そして私と判れて以来の私の行動を記録して帰って行った。〔先生!両手に花ネ!〕と梁君が笑った。<o:p></o:p>