百歳に向かってもう一度世界一周

百歳に向かってもう一度「歩いて世界一周」に挑戦したい。日中友好董存瑞育英基金を充実したい。富士登拝・・・

石家荘地区の思い出(聖火)

2007-10-12 17:30:25 | Weblog

 10月12日  (金) 
                          平成17年1月1日より 1,015日目
                                     歩いた歩数       その距離
                          本日         13,839歩          9,687m
                          総計   14,187,900歩  9,931,530 m
           北京より石家荘・邯鄲・洛陽・三門峡を経て崋山に向かう。117,620m

              
                                        聖火を迎える 小学生鼓笛隊

 1990年9月16日 晴れ 気温18℃~24℃

 今日から中国はサマータイムが終わって正常に戻った。私は日本を発ってから一度も時計を修正しなかったし、昨日からの惰性もあって、私の時計の6時では、5時起床ということになる。眠っているのに骨が折れる。

 昨夜、梁君が河北体育館までは歩いて30分は掛かるというが、私は5分もあれば着くと論争したので、散歩がてらに実証しようと5時半ホテルを出た。たった二つ目の四つ角、槐北中路と裕化中路したない一本道の、育才街と長安西路の交叉する所に体育館があるので、小生は5分で充分と思ったが、ナント20分も掛かってしまった。

 ホテルの前から河北師範大学(西条先生が留学した学校)が道を挟んで一軒しか無いというのに!サスガ中国!スケールの大きさに感心する。

 朝食後、アジア大会の聖火を見に体育館に向かう。会場の体育館に近づくにつれて群衆の数はどんどん増え、その数は数万人?数十万人?人の波、人の渦でごった返してくる。人の渦に巻き込まれると、中国人は背が高いので、空しか見えず、方角すら判らなくなってしまう。

 待つこと久しく、小学生のラッパ・鼓笛隊の合奏で式が始まった。聖火が引き継がれ,点火されたのか、鳩の群れが羽ばたく音と共に、何百ともない風船が舞い上がった。私は群集に押されながらカメラを掲げて矢鱈とシャッターを切った。私はいつの間にか、群集の渦の中から抜け出して鼓笛隊の近くに居た。

 見れば長安西路には、聖火を持った若者が整列しており、飾り立てた自動車が幾台もこれに続いて、自動車には溢れんばかりの人でいっぱいだ。やがて聖火隊は長安西路を西に向かって出発した。

 体育館の広場には幾つもの舞台が立ち並んで、赤・黄・青・緑などの着飾った若者が、狂ったように太鼓を打ち鳴らす。その太鼓は北陸で聞いたあの旋律だ。

                   

 聖火の去った後も、群集は体育館目指して雪崩のように集まってくる。やがて太鼓も止み、スピーカーは解散を呼びかけるが、興奮した群集は立ち去ろうとしない。

 天安門以来の鬱積した人民のエネルギーが爆発したのだ。政府は民衆の鬱積したムードをこのアジア大会を利用してガス抜きする作戦だと、昨夜梁君に話した所、「アナタ、ナンデモ、ヨクワカルネ!」と同感の意を表したが、この作戦は見事に成功したようだ。

 私たちは聖火隊の去った後の長安西路を群集の流れに乗って進んだが、その流れは自動車の動きを完全に封鎖して100mはあろうと思われる道幅一杯になって押してゆく。河北博物館前の広場は黒山の人だかり。ここでも龍が踊ってる。石家荘市120万人、いや石家荘地区270万人がこぞって集まってきたような賑わいでごった返している。百貨店といわず,一般商店と言わず,人の波がなだれ込んで頭だけが蠢いている感じである。私はすっかり疲れて博物館の石段に腰を下ろした。

 梁君の買い物を待って河北賓館に帰り着いたのは11時。すっかり汗をかいたので、シャワーを浴びる。12時ジャスト。ホテルに邢春さん一家が約束の昼食にやって来た。

 邢春さんから〔今日はアナタを夫の故郷へ案内します〕と挨拶があったので、私たちは梁君が予約していたハイヤーをキャンセルして、邢春さんの主人(李増民氏)の好意に甘えることにした。マイクロなので邢春さんの上司の胡さん親子も同乗して、趙県の大石橋(世界一古い石橋)を見に行く。

         

 自慢するだけあって見事なもの。今から千数百年も前に、現代でも見惚れる様な、曲線の見事なアーチ型の橋である。今は記念公園となり、有料で入場するようになっている。作者は李春という工人で、その石像も建立されていた。邢春さん曰く。「ワタシは娘にワタシの名前を付けてやればイイ。失敗しました。」と言って笑った。娘に“春”と付ければ、大石橋の作者と同じ“李春”になってるんだから・・・。

             

私たちは栢林寺(臨済宗)の塔、趙県の石塔,大石橋(名は趙州橋)を見て帰途に着いた。今日は久し振りの日曜日なのに、それを犠牲にして、一家を挙げて私を遇してくれたご夫婦の好意に唯々頭の下がる思いでした。

 夕食の後、疲れを癒していると、冀光技術開発公司の金総経理が訪ねてきた。13日の約束の再確認と私へのお土産持参のためだった。〔明日から青海省の西寧へ主張のため、もう会えない。お別れにきました」と。58歳の女性がこの活躍。まさに素晴らしい商魂と言うほか無い。しかも上海からやって来て一旗あげたというのだから・・・。来年の再会を約し、企業の成功を祈って、握手。

 梁君に誘われて映画に付き合ったが、言葉も判らぬまま、居眠りばかり。中国もテレビに押され、映画は斜陽とか。デートの場のようである。若者のカップルが多く、かなり濃厚な場面も・・・これが中国(社会主義国家)かと思うほどだ。毛沢東が生きていたらさぞやガッカリすることだろう。

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