羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・いの町(その6)
田所甫彦邸~大国町
建築年代は明治江戸後期で、
当初金物屋で明治入って米屋を営んでいた。
三宮敏博邸~藤町
建築年代は江戸時代後期で、紙問屋を営んでいた。
間口が狭く、奥行きの深い形状で主屋・カマヤ・便所・客殿が別棟の別棟形式の町屋である。
羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・いの町(その6)
田所甫彦邸~大国町
建築年代は明治江戸後期で、
当初金物屋で明治入って米屋を営んでいた。
三宮敏博邸~藤町
建築年代は江戸時代後期で、紙問屋を営んでいた。
間口が狭く、奥行きの深い形状で主屋・カマヤ・便所・客殿が別棟の別棟形式の町屋である。
羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・いの町(その5)
土居庄助邸~大和町
建築年代は明治22年で、屋号「見付」の紙問屋。
日本紙業㈱の前身、丸一合資会社を創立した
土居馬次郎が建てた。
二方を道路に面し、間口が狭く奥行きが深い
敷地に建っており、前面から主屋・客殿・カマヤ
(台所)・附属屋(便所・風呂場)そして蔵が
別棟で配置される分棟形式の民家である。
矢野春子邸~元町
建築年代は明治後期で、
日本紙業の問屋として活用。
店と隣接して蔵が建っている。
店の部分の屋根は下屋を持つ切妻形式の
平入りで、対照的に蔵の屋根は
寄棟形式の妻入りである。
羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・いの町(その4)
水環境と石垣
大国通りは仁淀川の河港が近くにあり、商業の中心地区
なため住民が私費を投じて、地盤をかさ上げ(3m程)して
いる。江戸後期に布積みの技法で石垣を築造している。
『石積みの技法:野面積み(転石や掘出した小さな石を
積上げる)、あいかた積み(不整形な石を相互に隙間無く
積む)、布積み(正形の石を積上げる)。
石質:石灰石かチャート(地層の幾重にも重なった硬い石)』
山本・西内・田所・片岡邸の敷地にまたがる石垣がある。
石質は石灰石。⑧の北岡邸の石質はチャートである。
上田智資邸~屋根
建築年代は明治20年で、有力な紙問屋であった。
二階建ての主屋と平屋建の客殿で、並んで接し一つの
町屋を形成している。間口は10間にも及ぶ。
主家の屋根は下屋を持つ切妻形式の平入りで、屋根材は
浅瓦となっている。客殿は屋根が下屋を持つ寄棟形式の
平入りの浅瓦葺となっている。間口は6軒。間仕切りの
小壁には凝った欅の一木彫りの欄間がある。
羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・いの町(その3)
吉井源太翁の功績 | |||||||
文政9年(1826)、吾川郡伊野村生まれ。 | |||||||
家は代々御用紙漉きで、幼少より俳諧、南画を学ぶ | |||||||
裕福な少年時代を送りました。紙漉きには並々ならぬ | |||||||
情熱をもって打ち込み、まず初めに大型の簀や桁を発明。 | |||||||
紙の生産量を倍増させ、発明の連続で新製品の抄出に | |||||||
成功、「紙の伊野」の基礎を築きあげた。 | |||||||
維新後、製紙に関する藩の束縛統制の撤廃によって、 | |||||||
水を得た魚のように活躍を始めます。 | |||||||
明治初年には、楮、三椏、雁皮混合の大小半紙といった新製品 | |||||||
を各種開発、さらに、経済性・防虫のため米糊に代え | |||||||
白土の使用を始めました。 | |||||||
また、精巧な典具帖紙の抄造など、数々の改良や技術の発明を | |||||||
世に送り出すとともに、最期まで、全国の製紙技術の指導に | |||||||
全力を尽くしました。 | |||||||
その業績は、日本国内はもとより、アメリカをはじめ、 | |||||||
諸外国に広く認められています | |||||||
吉井源太翁の富嶽の絵馬
椙本神社所有
明治23年(1890)の作品で、奉納絵馬。
翁は半仙と号し、日本画、俳諧を嗜み、
楠瀬大枝のち徳弘薫斎に南画を受けてよく
山水の密画を残し、特に富嶽に優れていた。
絵馬には珍しい南画で、一種の風格を備えた
異色の作品である。
市の有形保護文化財である。
羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・いの町(その2)
地区別 町並みの建築年代
大国通り:
江戸時代が2棟、明治時代が9棟、大正時代が5棟、
昭和初期が2棟。上田邸は明治20年、尾崎知正邸・
町田年喜邸は江戸時代の建築である。
西 町通り:
江戸2棟、明治14棟、大正5棟、昭和3棟。
江戸時代の建築は片岡定行邸(紙の原料屋)・
田所甫彦邸(米屋)
元 町通り:
江戸2棟、明治3棟、大正5棟、昭和初期6棟。
江戸時代に建物は森木茂彦邸・藤本治平邸(紙問屋)
本 町・大和町通り:
江戸3棟、明治17棟、大正7棟、昭和初期5棟。
江戸時代の建築は檜山寅吉邸(酒屋)・
新谷米穀店(番所)・三宮敏博邸(紙問屋)
町屋立面の意匠的特色
町屋の意匠は、京都を中心とする洗練された町屋と
地方性を帯びた意匠構成にある。
外部構成は、格子や虫籠窓に見られる一般的な町屋の
様式に加え、外壁が塗籠であり、
軒懐まで漆喰で固められている。
また妻面や蔵に見られる水切り瓦は、厳しい気候風土に
対する特色である。
機能的だけでなく、装飾として使われていた。
明治後期から大正期にかけて、海鼠壁(なまこ壁)が
使われるようになり、防火機能を備えるようになった。
外壁と塗籠
江戸から明治に造られた町屋は正面外壁を塗籠で
仕上げている。規模の大きな町屋では、軒懐まで
塗籠めている。
台風の頻繁にくる高知県では、土塗では抵抗できず
しっかりとした漆喰で塗籠めた塗屋造りにしている。
一方、平入り町屋の妻側部分は、外部に露出している場合、
平側と同様に外壁及び破風付近(母屋・棟木を含む)は
塗籠られているが、腰の部分は板壁であることが多い。
それは水処理に関連して、腰から下も漆喰で仕上げると
外壁が水を吸収してしまうから。
土佐の建築と長州大工の活躍
建築工匠の系譜として、一豊入城に伴い遠州掛川から
同行した大工が重要な建築物を手掛け、
郷土の大工を育てた。
更に近世末期に長州大工が出稼ぎで北部山間地域を
中心に、明治20年以前の神社・仏閣・民家の殆どの
建築を手掛けている。
建築様式に大きな影響を与えている。
~土佐の民家の特徴~
① 台風に対して屋根を小さくする。
② 屋根を二段に分けそれぞれ別軒樋で雨水を処理
③ 二階建の棟高は低く、床が高い。床下通風の配慮
④ 戸障子は三本溝。柱は四寸角で構造材が太い。
⑤ 外壁は土佐漆喰塗りや板張りの大壁であり、腰は
板張りや平瓦貼りで防水対策が行き届いている。
⑥ 深い軒を巡らし雨と日差しを遠ざけている。
水切り瓦
壁面が直接雨にたたかれるのを防ぐ方法として、
水切り瓦がある。厳しい気候風土から
幾段もの小庇を設けて壁を守っている。
格 子
物見格子(三宮邸)、京格子(上田邸)
海鼠壁(なまこ壁)
方形の平瓦を並べ、目地に漆喰を盛り上げの方法。
主に主屋にて展開。
幕 板
庇(ひ)の下に幕板が取付けられた町屋が4棟ある。
日中は店先を開放しているため、
雨や風から店先を保護する。
羽迫博己さんの、町屋あれこれ・・・いの町(その1)
はじめに
土佐和紙は千年余りの歴史があり、江戸時代の
土佐七色紙(黄紙・浅黄紙・桃色紙・柿色紙・
紫色紙・萌黄色紙・朱善寺紙)を山内一豊が
徳川将軍家へ献上し御用紙となってから普及。
明治初期には吉井源太の手による極薄紙の
土佐典具帖紙により、謄写版原紙として全国へ、
またタイプ原紙として世界へと拡がり
日本の産業革命の一翼を担うまでに栄えた。
明治より大正・昭和初期へと連綿と、川上から
三椏等の原料の集積地、紙の産地として
上方との交易により栄え、大きな富を得ている。
その富は上方の影響を受けながらも、
土佐の風土から特徴のある商家群として、
椙本神社周辺より形成されました。
この町並みが町民の誇りとなり、いの町の
厚みのある町づくりのシンボルに。
また、現在を生活しながら、過去の風土と歴史
を未来に繋いでいくことが使命だと思います。
町並みの変遷と構成
長宗我部時代には商業集落はないが、
明治5年の記録では「七丁ヶ芝(大国町・西町・
若宮町・幸町)」=(芝町ともいう)が
いの町の市街地に生れている。
野中兼山の時代、仁淀川の治水用堤防建設から
八田堰・鎌田堰に着工し伊野側にも築かれた。
これらの条件から七丁ヶ芝の岸辺が河港となり、
集落を形成したもようである。
明治20年四国新道の開通に伴い、
繁栄の中心は、次第に問屋坂に移っていった。
伊野の伝統的建造物群は、江戸末期河港の
椙本神社前の七丁ヶ芝の岸辺に移転して以降、
新道の開通や電車の開通、製紙業の繁栄に伴い、
明治末期までに形成されていった。