「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

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沖縄で愛される中浜万次郎 その5・・・万次郎から勉強した島津斉彬

2010-11-19 | 沢村さんの沖縄通信

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 出典:土佐清水市 ジョン万次郎の生涯より


万次郎から勉強した島津斉彬


万次郎ら三人は、拘留されていたい琉球を出て鹿児島に向かった。


先に見たように、この時代、琉球は薩摩藩の支配下にあり、琉球での万次郎の取り扱いを考える上でも、薩摩で万次郎がどう取り扱われたのかを見ておくことが必要だと思う。


昨年、好評を博したNHKの大河ドラマ「篤姫」の中でも、薩摩で藩主の島津斉彬がじきじきに万次郎から聴取するシーンがあったが、それはそのままの事実である。


 


ここでも、中浜明氏の前掲書からその模様を紹介したい。


万次郎らは鹿児島に入り、宿舎を与えられたが、殿様の言いつけと言って、待遇はたいへんに良く、りっぱな食膳、お酒。衣類、日用品もすべてゆきとどいて賓客のもてなしだったという。


当分の小遣いとして金一両も賜った。ある日、殿様から、万次郎一人だけ召された。鶴丸城の御殿へ出向くと、酒肴を賜って、それが終わると人払いをして、殿様のじきじきの御下問が始まった。


万次郎は、異国の方々を旅してきた中で、わけてもアメリカ合衆国の文化の総体にわたって詳しい質問を受けたという。


 


アメリカでは、家柄、門地といったものは問題にされないで、人はすべてその能力によって登用されていること、国王は人望のある人が入札(選挙)によって選ばれ、四年間その地位につくこと、人はみな自分の幸福と公共の幸福をいっしょに考えているから、世の中が常に栄えていること、デモクラシー、


 人権を尊ぶことが社会の大本の精神になっていることに始まって、蒸気船、汽車、電信機、写真術といった文明の道具の実際から数学、天文学、家庭生活の有様、結婚は家と家との結びつきではなく、一人の人と一人の人との結合であること、人情風俗にまで話が及んだという。


 


斉彬は、万次郎に会うより前から、西洋の科学技術や軍事などに強い関心をもち、オランダの書物をとりよせ、翻訳させて勉強していた。


ヨーロッパ列強が中国に進出し、食い物にしようとしていることも熟知しており、やがて日本を狙ってくることを警戒して、これに日本がどう対応するのか、その方途を考えていた。


だから、万次郎の漂着は、西洋事情を直接、耳にすることができる絶好の機会と考えたのだろう。


「側近をしりぞけて、殿さまじきじきの厳重なお取り調べとは表向きのこと、国内上下の保守排外思想家たちにかくれて、殿さまの勉強が始まるのでした」(中浜明氏、前掲書)。斉彬は、万次郎が永く鹿児島に留まるように勧めたほどだった。


 


ここでは、西洋の進んだ科学技術や軍事の内容だけでなく、殿様の前で、日本の封建体制を根底から否定するようなアメリカのデモクラシー、人権の政治制度や思想まで堂々と話したというのは、驚くべきことではないだろうか。


日本の幕藩政治の大改革を考えていた斉彬が、政治制度にも関心を持ち、質問したことは確かだろう。


それだけでなく、万次郎の話の内容は、アメリカ社会と民主主義に対する的確な認識があったことを示しており、万次郎自身が、アメリカのデモクラシーを目にして日本の封建社会の後進性をいやというほど痛感し、先進的な政治制度や思想に強い共感を持っていたこともうかがえる。


 


ちなみに万次郎は、土佐から江戸幕府に呼び出されて取り調べをされたときも、アメリカの民主政治について、堂々と語っている。


アメリカはイギリスに所属していたけれど、人民は不服従となり、独立国となって「共和之政治を相建」したこと。国王はいなく、国中の政治を掌る大統領をフラジデンといい、「国中之人民入札」(選挙)によって職につき、任期四年で交替する。


国法を重んじ、大統領といえども国法に違反してはならないと述べている。さらに、万次郎は、帰国すれば日本を開国させたいと夢見ていた。


幕府の取り調べでも、アメリカが日本と親睦したいというのは「積年之宿願」であり、米人が日本近海で漂流して過酷な扱いを受けたことを残念に思っており、「両国之和親」をはかりたいという主張をしている、と紹介している。


ペリーが来航する前に、万次郎はこういう形で開国の必要性を説いていたのである。


 


HN:沢村 (二〇〇九年二月三日、万次郎の沖縄上陸から一五八年目の日に)  月刊誌「高知人からの転載



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