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「高知ファンクラブ」 の連載記事集1

「高知ファンクラブ」に投稿された、続きもの・連載記事を集めているブログです。

沖縄で愛される中浜万次郎 その6・・・明治維新、自由民権運動にも影響が

2010-11-19 | 沢村さんの沖縄通信


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出典:土佐清水市 ジョン万ハウスより                             


 


明治維新、自由民権運動にも影響が


万次郎が、一五〇年余りを経てたいまも、このわずか半年滞在しただけの沖縄で、愛され、関心を持たれている背景に、万次郎がその後、日本社会に影響を与えた役割に対する評価があるからではないだろうか。


もし、万次郎が自分の知識や語学力を自己の栄達や利益のためだけに使う人間だったら、このような関心はもたれなかったのかもしれない。


 


島津斉彬の聴き取りで、万次郎が伝えた話の内容は、斉彬のその後の政治思想や行動に直接、間接にさまざまな影響を及ぼしたであろうことは否定できない。


斉彬は、こころざし半ばで亡くなるが、その後、その遺志を受け継いだ薩摩の志士たちは明治維新で大きな役割を果たした。


万次郎は薩摩藩が設立した開成所の教授にも招かれた。家老の小松帯刀には外国事情などを話し、小松は「今日必要の人物です」と高く評価した。「万次郎が島津藩(斉彬)に与えた強烈なインパクトが、維新回天のエネルギーになったといっても過言ではないであろう」(『中浜万次郎集成』の解説論文)という指摘もされている。


 


郷里の土佐藩では、吉田東洋を先頭に藩の幹部が万次郎から海外事情を学んだという。


絵師の河田小龍が書いた万次郎の海外見聞録というべき『漂巽記略』を坂本龍馬は早くから読んでいたそうだ。


龍馬は、新しい日本の基本方向について、政権を朝廷に返還し、議会を設け万機公議に決するなど「船中八策」をまとめた。その骨格的な内容は、明治維新の「五箇条御誓文」に引き継がれた。「この発想の根底に万次郎の影響が多分にあったと見るのが自然である」(同前)。


 


後藤象二郎は、少年時代に吉田東洋の部屋で、万次郎と出会った際、万国地図をもらったという。


後藤が土佐藩に殖産興業のため開成館を創立すると、万次郎は招かれ、英語その他を学生に講じた。さらに、後藤は万次郎とともに汽船など買い付けのため長崎から上海まで行った。


後藤は、明治維新後に新政府に参加するが、下野して、専制政治を批判し一八七四年(明治七年)、板垣退助らとともに、民選議院(国会)の開設を求める建白書を提出し、これが自由民権運動の口火となった。


万次郎がもたらしたアメリカ・デモクラシーの思想は、明治維新ではいまだ実現せず、その後、起こった自由民権運動にも、その影響が投影されているといっても過言ではないだろう。


 


村田典枝氏は、万次郎が新しい知識や技術にとどまらず、日本の開国や対米関係について臆することなく意見を述べ、みずからの体験を通じて学んだ人道主義や民主主義を伝えたことが、どんなに強い影響を与えたのかについて、次のように指摘している。


「日本の黎明期に、新しい道を求めて模索していた多くの若者たちに、直接、間接的に影響を与えたのだった。それが開国に向けた大きなうねりの中で、やがて明治初期の自由民権運動へとつながっていった」(「ジョン万次郎とその生涯」)。


 


万次郎は、決して政治の表舞台に立って働くような立場ではなかった。


それにもかかわらず、一五八年を経た今日も、その人と仕事に対する評価が、低下するどころか逆にさまざまなメディアでも取り上げられ、その功績が評価されている。


それは、沖縄でもまったく同様である。短い期間であっても、沖縄に滞在した万次郎という人物が、幕末から明治維新という日本社会の大激動の時代に、一つのインパクトを与え、歴史を前に進めるうえで欠かせない役割を果たしたことは、万次郎にゆかりのある県民としても誇りに思えることなのだろう。


だからこそ、いまなお語り継がれている理由の一つになっているのではないか、そう強く思う。


  


HN:沢村 (二〇〇九年二月三日、万次郎の沖縄上陸から一五八年目の日に)  月刊誌「高知人からの転載



沖縄通信・・その7 高知県出身の依光年恵さん、108歳の茶寿祝う

2010-11-19 | 沢村さんの沖縄通信

高知県出身の依光年恵さん、108歳の茶寿祝う
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石垣市大浜の依光年恵さんは、数え年108歳を迎え、茶寿を祝う大パレードが2月1日、行われたそうです。


  


2日付けの「琉球新報」(写真)で大きく報じられています。



 依光さんは、1901年、高知県に生まれ、夫の直重さんと1927年に那覇市に移り住み、沖縄戦では子どもを抱いて生き延び、戦後は石垣島で金物商など営んだそうです。


 


長寿の島といわれた沖縄では、88歳は「トーカチー」、97歳は「カジマヤー」を地域ぐるみでお祝いします。


カジマヤーもすごいと思うけれど、108歳でまだとても元気そうで、ビックリです。


 


大浜地区では、依光さんとともに5人がカジマヤーを迎え、合わせて6人がオープンカーに乗り、集落を一周してパレード。


大勢の住民が長寿にあやかろうと沿道で祝福したそうです。   HN:沢村


沖縄通信・・・その6    ついでに、花だより

2010-11-19 | 沢村さんの沖縄通信


012.jpg沖縄でたくさん子どもを生む背景にもう一つ、理由があります。


それは、子どもを宝のように考え、子どもをたくさん生み、育て、多くの子どもや孫に恵まれることが、人生のとっても幸せなことだと考える価値観がいまもとても強いことです。


40歳代の女性をみれば、おばあは「まだもう一人子供生めるね」とすぐ言います。


多分、厳しい自然、社会の中で、がんばって子どもを育てることが、老後の安定につながったことがあるのかもしれまん。


逆に、子ども生めない、生まない女性は冷やかに見られることもあり、生きづらい社会という面もあります。


 


ついでに、花だよりを送ります。

 

 沖縄本島の北部・山原(やんばる)はいまカンヒザクラが満開です。

 

本部町の八重岳(標高453㍍)は、山頂に至る道路の両側に約7000本のカンヒザクラの並木があり、ピンクの花で彩られています。

花のトンネルのようになっています。

カンヒザクラは、本土のソメイヨシノと違い、北の寒い方から咲き出して、桜前線はだんだん中南部に南下してきます。

ソメイヨシノはすぐ花びらが散りますが、こちらは長く咲いていて、散る時は釣鐘状の花全体がボトンを落ちます。

沖縄は、いま紅葉しているところもあれば、ヒマワリが満開のところもあり、もう季節もチャンプルー状態です。

              HN:沢村


沖縄通信その1・・・沖縄は低所得なのになぜ人口が増えているのか

2010-11-19 | 沢村さんの沖縄通信

昨年11月に投稿したブログ記事の一部です。沖縄・石垣島に行ってきました・・・その1


 


先日、妻と3泊4日で沖縄・石垣島へ行ってきました。


来年1月に高知からの直行便がなくなることもあり、石垣島に居る孫たちの顔を見に行くことにしたのです。


沖縄・那覇空港で乗り継ぎに1時間ほど時間があり、


かって同じ職場で仕事をした、高知の出身で東京でジャーナリストをしていて、


3年前に退職し、沖縄に住み着いているSさんご夫婦と空港内で会うことができました。


高知では趣味でトロンボーンを吹いていましたが、今は三線引きながら歌を歌って老人施設などにボランティアで行っているとのこと・・・


県民所得最下位で人口が増えている沖縄!


私は、県民所得最下位の沖縄(199万円)と下から二番目の高知県(215万円)だが、高知は人口が減っているのに、沖縄だけは増え続けている。


どこに違いがあるのかを調べて、高知の活性化の参考にしたいのでまた力を貸してくださいとお願いして別れました。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


今日、メールを戴いたのですが、自分だけ読むのはもったいないと思い、沖縄通信として「高知ファンクラブ」への投稿をお願いしました。


高知の活性化のヒントになればと思っています。   



Image890.jpg           竹富島のここで行われる有名な「種子取祭」では、2日間で70を超える舞踏が奉納されるそうです。      HN:龍馬


 


 


沖縄は低所得なのになぜ人口が増えているのか


 ブログを見ました。そこに「沖縄は低所得なのになぜ人口が増えているのか」について、書かれていたので、それに対する何らかの返事を出す必要があるかと思い、以下のようなメモを作りました。


この疑問に直接答えを探すのはなかなか難しいし、単純ではない。ただ、沖縄のよいところ、面白いところ、注目されることを上げていくと、それが、沖縄は低所得なのに人口が増え、元気なことの要因につながっていると思われる。いくつかの要素が複合的に影響して、「沖縄の今」を生み出していると考えられる。それで、沖縄の注目点、面白いところをアトランダムに上げてみたい。


 


◇日本ではもはや失われたかつての古いよいところが残っていること。


「ユイマール」的というか、地域の共同体的なつながりがいまでもとても強い。農作業の共同の取り組み、助け合いの「結」(ゆい)は、かつてはどこにでもあった。それと同時に、農山村で生きていくためにも、住民の共同と助け合いが必要だった。


いまは内地の農村でも個人主義になっている。沖縄では、いまでもサトウキビの刈り取りなどの時期は、地域により臨時に手伝いに協力する。農作業でも共同作業はもうあまりなくなっているようだが、それでも農村でも、都市部でも、住民のさまざまな行事などの共同の取り組みは年中行われている。


四季それぞれに、豊年祭や綱曳き、ハーレー(舟こぎ競争)、エイサー(盆踊り),そのほかことあるごとに祭りがある。


綱曳きだけでもすごい。市町村単位だけでなく、字単位でも綱曳きをしているところがある。稲わらを集めて綱をなうところから、共同で毎夜集まって大きな綱を作る。そして、住民みんなが東西に分かれて綱を引き合う。これにも豊作や家族の幸せ、子孫の繁栄などさまざまな願いが込められている。


ハーレーも各地にあって、地域に分かれて勇壮な競争を繰り広げる。祭りは地域の共同で行うのが原則だ。


祭りは地域だけでなく、学校、保育園、公民館、老人福祉センターなどさまざまな単位でも行う。それがまた共同の取り組みになる。祭り、イベントは必ず出店をみんなで出す。カレー、焼き鳥、沖縄そばその他いろいろな出店を出す。たまにやるのならどこの県でもあるが、沖縄はとにかくその機会がやたら多い。


 


◇祭りには芸能が付きものだが、歌三線、踊り、獅子舞、日舞、民踊、フラダンスなどあらゆる芸能がある。


サークルも盛んだし、エイサーは、どこでも青年会が中心になっている。


青年会がエイサーを軸に団結して活発な活動をしている。一時、衰えかけたこともあったようだが、エイサーや三線、踊りが子どもにも「カッコイイ」と映り、子どもの取り組みが盛んだ。


子どもに押し付けでなく、子どもが小さい時から芸能に親しみ、自分もやりたがる。芸能は、地域や集団の仲間のつながり、連帯感を強める絶好の機会になっている。島では娯楽の機会が少ないこともある。


なにより、農漁業が天候などに左右されるので、五穀豊穣、豊漁など住民が協力して願いを込めて行う。すべての離島でとくに豊年祭など祭りが盛んだ。それが脈々と受け継がれている。


島の人口が50人とかいう島でも、全島あげて取り組むし、祭りには島外に出ている人もわざわざ帰ってきて祭りと芸能に一員として役割を果たしている。


 


◇模合(もあい)が盛んで、人の結合を強めている。


本土でも、かつてどこでも頼母子講なんかはあったが、もう失われている。


沖縄はますます盛んだ。かつてのように、銀行に代わる庶民の相互金融の意味合いはあまりない。しかし、模合によって、人々がいろんなつながりから多重的に参加する。一人で3つくらい模合に入っている人も珍しくない。


同級生、同じ地域に住んでいた、野球など同じスポーツや趣味の仲間、かつての仕事仲間などなど。


毎月1万円とかお金を出し合い、それを貯めて旅行資金にして年1,2回団体で旅行するのが多い。


なにより毎月集まって一杯飲む、食事をするのが楽しみ。


80歳超えたおばあさんでも、昔の仕事仲間や同級生など模合を楽しみにしている人が結構いる。


なにかあると、模合仲間での助け合いもあるらしい。模合は都市部も農村も変わりなくやられている。


人が生きていくのに、東京はじめ大都市のように孤立しない、支えあいがある。血縁関係でも「門中」(むんちゅう)という組織がある。


男系の血縁でつくられた組織で、お墓を共有して、会費をとっている。


毎年4月には清明祭(しーみーさい)を催し、共通の祖先を拝むため、お墓の前に一同が勢ぞろいする。大きい門中は千人単位になる。行事を通じて血縁の結束を維持する。


HN:沢村


沖縄通信その2・・沖縄は低所得なのになぜ人口が増えているのか

2010-11-19 | 沢村さんの沖縄通信

◇家族がとても多い。子どもが多い。


 
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子どもは3人、4人は当たり前。子どもの多さは、昭和30年代の日本の姿を見るようだ。


那覇市内でも、露地で子どもが群れを作って遊んでいる。


学校の登下校でも群れて行く。自転車に乗りっこしたり、野球したり、時には、友達の頭をバリカンで刈っている。


こうした辻や露地で遊ぶ光景は、昔はどこでもあったがいま消えている。


沖縄は毎日見られる。子どもがとにかく多い。この光景を見ていると社会に未来を感じる。地域の人もみんなどこの子どもか知っている。それが地域の教育力にもなっていると感じる。


また、学校が地域の核になっている。


何かあると学校に集まる。運動会は、家族そろって出かけるので、いい場所を早く取ろうと場所取りの競い合いをする。


こんなことをしている県があるだろうか。学校の前に出店まで何軒もでる。昔は日本各地でも同様な様相があったと思う。


沖縄はなぜ、子どもを多く生むのか。


かつては日本全体が子どもをたくさん生んだが、その古い時代の良さがこの面でもまだ沖縄に残る。


家族が多いので子育てしやすいこともある。


おじい、おばあと一緒の生活もあるし、近くにおじい、おばあがいるとか、近くにいなくても同じ島、沖縄のなかだから、なにかあれば助けられる、支えられる。


子どもの多さは、「貧乏の子沢山」と言われたようにあまり、所得に直結しないようだ。



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◇低所得でも、なんとか暮らせるのが沖縄。


それはなぜなのか、その要因もいろいろある。


家族が多いと、一つの家庭で働く人口も多い。


専業主婦は少ない。女性が結婚してもよく働く。


男性の給料はきわめて低い。月給40、50万円ももらう人はごく少数。20万円くらいの人が結構多い。夫だけの給料ではとても生活できないので女性が大抵働いている。


おじい、おばあも年金がきちんともらえない人もいるし、もらっても低いので働く。


タクシー運転手はおじいが大半。市場の店はおばあ天国。孫も働く世代になると、一家族で何人も働いて家計を支えている。若者の失業率が高いが、家族で支えあっている。ただ、沖縄も貧富の格差はとても大きい。


◇生活費も安い。


物価は離島だから輸送費がかかり、本土より高いものもあるが、人件費が安いのでコストを低く抑えられ、概して安いものがある。


食糧でも、野菜など八百屋の専門店や農連市場、JA直売店などたくさんあるので、スーパーよりはるかに安く買える。


光熱費も風呂は冬もシャワーだけだし、最低気温が高いので煮たきも早い。


日の入りが遅いので明るい。エアコンを使う期間は長いが暖房代はあまりかからない。


被服代も半年はTシャツだし、薄着で過ごせて安くてすむ。タクシー、居酒屋など安い。住宅も安い。


若者で沖縄に来る人に人気なのがドミトリーという安宿。個室でなく共同生活のような感じ、一泊1000円で泊まれる。


なんとなく金がなくても生きていけるのが沖縄。


安い年金生活でもなんとか生きていける。お金がなくても、結婚してなんとかやっていけるという面もある。子どもも育てやすい。教育費も比較的安い。身の周りにも低所得者が多いので、全体の生活ぶりが派手でないばかりか、質素な面がある。


だから見栄をはらず、気楽に生きられる。安く生活しようと思えば、相当安く暮らせる。


◇人口が減らずに増えている要因に、子どもを生む数が多いのと同時に、他府県から移住する人が増えている。


それは若者が沖縄に魅力を感じたり、行き詰って沖縄に来たりする、高齢者が定年退職や病気療養で移住してくるなど、最近はとても多い。


温かいのは健康にもよい。


脳梗塞などの人も寒いのは体に悪いので温かさがよい。


花粉症がない、喘息の人もよくなる、メンタルな病気の回復にもよいなど。


寒い地方の人が冬だけ沖縄に住むという例も増えている。


若者も海にかかわる仕事や音楽・芸能の仕事など沖縄で仕事を求めたり、沖縄的な暮らし、スローライフ、「なんくるないさー」(なんとかなるさー)精神に魅かれて住みつく人もかなりいる。


HN:沢村


沖縄通信その3・・沖縄は低所得なのになぜ人口が増えているのか

2010-11-19 | 沢村さんの沖縄通信


Image908.jpg◇観光客が年間600万人にのぼる。


沖縄の魅力が多面的であること。


青い海、空や世界でも指折りのサンゴと熱帯魚の群れる海中に魅力はもちろん、食文化も人気がある。


いま長寿ではなくなっているが、長寿とその秘密に食べ物が健康によいイメージが強い。


伝統食が健康によいのは確か。「癒しの島」のイメージもとても強い。


世界遺産のグスク(城)や歴史と文
Image910.jpg化の魅力も日本の他の地方にない独特のよさがある。芸能も民謡からジャズまで多彩は活動があり、いま沖縄の音楽、芸術、文化が注目されている。


そこには、長い琉球王国としてかつて栄えた長い歴史と土壌がある。


沖縄戦の戦跡も平和学習などで、修学旅行生がたくさんくる要因にもなっている。修学旅行がとても多いのは、若者にアピールする沖縄の魅力と戦跡など学習面と両面あるので、修学旅行先としてうってつけである。 


修学旅行で学生が来るのは、リピーターをつくる上でもとてもプラス面がある。 


◇産業面では、


広範囲な離島がありそれぞれの特徴もあるし、特産物が豊富で、食文化も豊かであり、多彩は産物の特性を生かした新たなさまざまな製品がつくられ、産業面でも多面的な発展の道がある。


産業面での弱点は、製造業が少ないこと。


そのネックには水不足がある。


だから第3次産業が盛んだ。ホテル関係でも、単に宿泊だけでなく、エステも盛んで、ウェイディングも盛んになってきている。


沖縄は離島でかつて独立国だったし、戦後も米軍支配で日本とは切り離されていたので、なんでも大抵の物は自前で作る。


ビールや電力、ガスは当然としてそのほかにも鉄もつくる、改造車だがリムジン車をつくる工場もあるし、レコード・CD会社はいくつもある。


「こんな物も作っているのか」というのがある。本土の都道府県のように分業になっていない。だから業種的には多様なものがあり、自営業がとてもたくさんある。


芸能関係では、プロの音楽家、芸人は勝手な推測だが、1000人以上いるのではないか。


毎年作曲される曲は、民謡、ポップスふくめ2000曲ともいわれる。それがCDでも出される。お笑い芸人の集団・劇団(演劇は別にして)だけでも幾つもあり、劇場やライブハウスは何十いやそれ以上あるかもしれない。


芸能面からみれば、完全な独立国のような独自の世界が広がっている。沖縄だから成り立つ仕事もたくさんある。


HN:沢村


沖縄通信その4・・沖縄は低所得なのになぜ人口が増えているのか

2010-11-19 | 沢村さんの沖縄通信

◇なによりも、重要だと思うのは、県民が琉球・沖縄に誇りをもつ、愛着をもつ、島が好きだということ
 
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それは、豊かな自然、琉球以来の歴史もあるし、芸能や文化、なにより人と人のつながりの深さ、そしてのんびりした県民性、「ゆっくりずむ」というか、それが県民の生活スタイルであり、それが沖縄暮らしにはあっている。


井のなかのカワズにならないように、一度は県外に出たい、大都市にあこがれる若者もいるが、できれば島で暮らしたいという若者が多い。


だから、就職難で若者の失業率は本土の2倍あるが、家族の支えあいのなかで、生きる道を見つけたり、収入が少なくても島で仕事を探し、暮らしている。


それに、一度進学や就職で県外に出た人も、そのうち沖縄に帰ってくる人が大半だ。


タクシー運転手などでも、一度は県外で働いていたが帰ってきたという人が多い。


この点は、本土の地方の県とはかなり違うのではないか。 


◇「島を愛する」気持ちは、島唄の中にも、現れている。石


垣島出身の「bgin」の歌はその代表格だ。 


「オジー自慢のオリオンビール」という曲は、「島のつくモノなんでも好きで、酒にマース()に草履まで」「不景気続きでちゃ―ならん(どうにもならない)、内地で仕事を探そうかね。


金がないなら海にが行くさ。魚があれば生きられる。なんくるないさ、やってみれ」。


「このなんくるないさ」精神がある。


島人(しまんちゅ)ぬ宝」(島の人にとっての宝物という意味)という曲は、「僕が生まれたこの島のことをどれくらい知っているだろう」、この青い空、海、そしてこの島の唄を。「大切なものがきっとここにあるはずさ、それが島人ぬ宝」と歌う。


島のすべてをとっても宝物のように愛する気持ちが込められている。


若い人が作る曲でもこうして歌われる。古い民謡でも、わが「生まれ島」をたたえた歌がたくさんある。


島の美しさ、人の心(肝という)の美しさ、豊作に恵まれた島だと歌う。


「世果報」という言葉がある。「ゆがふう」と読む。豊作の世、恵まれた世、幸せな世の中を言う言葉である。


歌では「世果報」を願うとともに、すでに「果報の島」であることが歌われる。自分の生まれた島をこれだけ好きになれるということは、とっても大事なことだろう。 


◇といっても、沖縄は島ではあっても閉鎖的ではない。 


島は海で世界とつながっている。
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だから、琉球王朝時代から、中国はもちろん東南アジア、朝鮮、日本と活発に交易し交流してきた。


そこから、経済、政治、文化はじめたくさんのことを取り入れてきた。


サツマイモや豚、三線も中国から入ってきた。泡盛はタイが源流だといわれる。それを沖縄流にアレンジして、沖縄独自のものもつくってきた。


「チャンプルー文化」ともいわれる。


古い時代には、中国皇帝が技術、技能、知識をもった集団を沖縄に派遣して中国と冊封関係(これは中国の臣下になること)を続けてきた。


中国人は沖縄に定住し、那覇市内には久米村という中国系の人々の居住地域が作られていたし今もある。


中国系の子孫がたくさんいて、王府の重要は役職にもついた。いまでも、中国とのいわば華僑的なつながり、ネットワークもある。


沖縄人自身が、日本、中国、南方系などの人々がまじりあって形成されている。


戦後はアメリカからの多くの影響を受けたし、さらに戦前から南米やハワイ、北米、南洋諸島、満州へとたくさんの移民が出ていった。


世界中に沖縄移民と子孫がいる。そこから南米の食べ物や文化なども取り入れている。


いま逆に南米から二世、三世が沖縄に帰っている。4年に1回ほど「世界のウチナーンチュ大会」を開いて、世界中から移民の関係者が集まり交流もしている。


そういう意味では、沖縄は世界に大きく飛躍して広がりをつくりだし、交流している。そういう「チャンプルー」的なものがたえず発展し活性化する要素の一つにもなっている。


 書き出すと、いろんな事があり、果てしない。


直接に人口増とは関係ないことですが、いろんな事が相互関係にあります。これらのことは、沖縄の素顔の一端ですが、住んでみるとよくわかることです。


それぞれの県はそれぞれの事情があっていまがあるので、沖縄のこれらが他県でも参考になるというようなことはないかもしれません。


沖縄はそれ特有の事情があっていまがあるので。でも、何かを考える参考になれば幸いです。確かなことは、本土では失われた大切なものが沖縄にあるということでしょうか。


HN:沢村


沖縄通信その5・・・ 沖縄は低所得なのになぜ人口が増えているのか

2010-11-19 | 沢村さんの沖縄通信

追伸

 ◇子どもがとても多いと言ったけれど、もう一つ大事なのは、人数が多いだけでなく、子どもの表情がとってもいいことだ。

 
066.jpg見るからに子どもらしい、天真爛漫というか純真というか、本来子どもがもっている子どもらしさがある。


少しも、すれた感じ、ひねた感じ、疲れた感じ、へんに大人びた感じなどない。明るく、のびやかな感じがする。


作家の椎名誠が、よく沖縄にきて写真をとっていたが「子どもの表情がとってもよい」と盛んに強調している。


それが、子どもの描く絵にも現れている。NHK沖縄で「僕の絵、私の絵」という小学生の絵を紹介するコーナーがあるが、どれも、画用紙からはみ出しそうな、いや実際はみ出しているのもある。のびのびと描かれている。これは偶然ではない。


もう一つ、沖縄出身の歌手、俳優、タレントが活躍している。


これは、単に沖縄に美人が多い、芸能が盛んで音楽のセンスがよい、というだけではない。


その面もあるが。オーディションを受けたりしても、スカウトに来る人の声を聞いても、若い女性の表情がとてもよい。内地の女性と比べても、とてもよいという。


やはり、若い女性らしい純真さ、ナイーブな感じ、明るく伸びやかなところ、豊かな感情をもっているというか、とてもいいものがあるという。


実際、オーディションなどでもよく選ばれている。その理由の一端がここにある。それは子どもと共通しているところがある。


そこには、やはり、かつては日本のどこの子どもでも女性でももっていたよさがだんだん失われている。


でも沖縄ではそれが生きている。


その土台には、自然的、社会的、歴史的というか、さまざまな条件がある。恵まれた自然の環境もあるし、人間が自然の中で生かされている、人間が人間らしく生きていく上で大事なものが何かある。


社会環境も決して恵まれていないのに、前に述べたような、沖縄特有の土壌があり、こういう子どもたちを育んでいるのではないかと思う。ただ、沖縄にもさまざまな欠点はあるけれど、それはここでは触れない。 


◇沖縄の未来と発展の方向を考える上で、キーポイントになることを二つあげておきたい。


一つは、資源のない沖縄の有利な点は、島の恵まれた自然と沖縄のある地理的な位置にある。
094.jpg自然はもう触れなくてもよい。位置というのは、日本のはずれにあるということは、アジアにもっとも近いということ。とくに経済発展が著しい中国、それも南部の沿岸とはとても近い。台湾は与那国島から見えるほど。そしてベトナムをはじめ東南アジアの国々。


かつて琉球王国がもっとも繁栄したのは、15、16世紀だった。「大交易時代」といわれる。この時代は、中国、朝鮮、日本、東南アジアの諸国と交易して、貿易の中継、つまり三角貿易のように、互いの国々にない物、欲しい物、売りたい物を琉球が国営貿易で中継して、大きな利益を上げていた。


有名な「万国津梁の鐘」には、琉球は、朝鮮、日本、中国など世界の国々の架け橋となって栄えているという意味のことが刻まれている。


それは400年前、薩摩藩に侵略されて繁栄の時代は閉じられた。


このアジア諸国と隣接するというこの地理的な位置は、いまアジアが発展を遂げているなかで、とても大事な要素だ。


「新しい交易時代」とでもいうおうか(「琉球新報」は新年から「新交易時代」というタイトルの連載をした)、アジアとの経済交流の拠点として沖縄の発展の道筋がありそうだ。


経済だけでなく、政治、文化、観光さまざまある。沖縄の地理的な位置は、とかく軍事的な地政学から、「太平洋の要石」ということだけ、強調される。沖縄に米軍基地のある必要性がいまだにこの観点から繰り返される。


日本の自衛隊まで海外進出していく上で、沖縄を重視し、基地を強化している。でも軍事的な地政学ではなく、平和の地政学、経済的な地政学から見ると、沖縄の未来にとって重要さが見えてくる。


観光一つとっても、中国の上海は、東京よりはるかに近い。

 
Image883.jpg沖縄の海の魅力は、中国にはまったくない。沖縄は中国文化の影響がとても強いから、中国にとっても親近感がある。


まだまだ中国からの観光客は少ないが、将来は飛躍的に増えていく可能性がある。


沖縄のサンゴと熱帯魚の群れなす海は、世界でも指折りだ。


ヨーロッパなどからももっと来る可能性がある。いま、沖縄では年間1000万人の観光客をめざして、カジノの解禁と沖縄への導入を狙う動きが活発だ。


これは沖縄のイメージをそこない、多くの弊害をもたらし逆にマイナスにさえなる。沖縄の豊かな自然を生かした、観光の発展の道こそもっと追求していくべきだと思う。


もう一つのキーワードは、米軍基地の存在だ。


60年も基地があり、基地従業員は安定した雇用と見られたり、地主には巨額の地代が払われている。でも、実際には沖縄経済の自立的な発展を阻害している。


現に、元は基地だったが返還された場所は、いま沖縄の新しい経済発展の拠点となっている。


那覇市「おもろまち」というところは、新都心として大型商業施設やと官庁、ビジネスビル、マンションが林立して発展している。


もう一つ、北谷町でも基地跡が、若者が群れる遊び場や音楽・芸能、商業を含めて人がとても集まる街として注目される場所になっている。


基地は、普天間基地、嘉手納基地をみても町のド真ん中や美しい海岸を独占するなど、とってもよい場所を占めている。


これが返還になれば、経済発展のうえで大きな威力を発揮するのは間違いない。雇用される人数だけでも、基地雇用員と返還後の経済発展で雇用される人数を比べると、何倍も増えたことが実証されている。


基地が撤去されれば沖縄にどんなに明るい未来が開けることだろうか。


 

HN:沢村