極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

そのうすみどり。

2015年02月23日 | 贈与経済

 

 


    蕗を煮る 昼下がりには 母と吾と春の色して そのうすみどり / 俵万智

 

 

【旬の食】蕗の薹の天麩羅

「そのうすみどり」という言葉が輝いている俵万智の一首だ。今年は少し早めに採れたのでと、
彼女が近くの白山神社の境内から持ち帰りったフキの苗木を裏庭に移植していた、蕗の薹が芽吹
いたと見せ、これをいまから天麩羅にするので待ってくださいねと言う。その時の美しい「うす
みどり」が印象的だったのデジカメしたいと言ったが取り合わず、そそくさと調理しはじめた。
そのときの印象と「そのうすみどり」 が見事にわたし的にシンクロナイズされたわけだ。暫くす
ると野菜ばかりの天麩羅のなかから、蕗の薹の天麩羅を市販の麺つゆに漬け戴く。何という若菜
くさく、山葵のような香りでもない独特の良い匂いがするのだろう。パスタは苦みが合うが、天
麩羅ならではの味わいである。これから蕗の薹を"Butterbur sprout"と呼ばず"Breakthrough"と呼ぶ
ことにしたが、これは"春の使者"よりは良いだろうと。

そういうのは、スプラウトという言葉はモヤシというイメージが強すぎるためで、芽キャベツの
方が自然な感じがするが、陽にあたっていないふきのとうは色が黄色っぽく、苦みが少ないので、
そのまま天ぷらにしたり、炒め物にして食べる。陽にあたると緑がかった色になり、苦みとアク
が出てくるので、下ごしらえが必要となる。この差を利用して献立法も変わる。そこが、ほかの
スプラウトと異なるのだと、いかにも大発見したかのように悦に入る。

ところで、独特の香りがあるふきのとうや葉柄、葉を食用とするが、肝毒性が強いペタシテニン
(Petasitenine、別名フキノトキシン)などのピロリジジンアルカロイドが含まれているから灰汁
抜きをする必要があるが、効能成分が多いことも強みだ。香りの成分のフキノリド(バッケノリ
ドD:S-Fukinolide、Bakkenolide D)は胃腸の働きを促進するし、苦み成分であるケンフェノー
ルやクエルセチンは、咳止め、健胃整腸として、フキノール酸は血中ヒスタミンを減らし、花粉
症によく効く?といわれ、肝機能強化、代謝促進もある。さらに、ケンフェノールは発ガン物質
を除去があるととか言われている。

 
※ フキノール酸のラジカル消去能について(Radical Scavenging Activity of Fukinolic Acid):
   http://ci.nii.ac.jp/naid/110006407755

また、「冬眠から目覚めた熊が一番初めに口にする」といわれるほど、健康に良いという食品だ
という。そ
れじゃ、最適な環境制御条件が解析されれば、新しいスプラウトとして、世界展開で
きる食品である。これ
で滋賀の里山に専用の植物工場を整備すれば、”蕗の薹御殿”を建てるの
も夢でないってか? ^^;。

 

  

● 『吉本隆明の経済学』論 Ⅵ

 

   吉本思想に存在する、独自の「経済学」とは何か。
 資本主義の先を透視する!
 

 

 吉本隆明の思考には、独自の「経済学」の体系が存在する。それはマルクスともケインズと
 も異なる、類例のない経済学である。本書は、これまでまとったかたちで取り出されなかっ
 たその思考の宇宙を、ひとつの「絵」として完成させる試みである。経済における詩的構造
 とは何か。資本主義の現在と未来をどう見通すか。吉本隆明の残していった、豊饒な思想の
 核心に迫る。


 はじめに
 第1部 吉本隆明の経済学
 第1章 言語論と経済学
 第2章 原生的疎外と経済
 第3章 近代経済学の「うた・ものがたり・ドラマ」
 第4章 労働価値論から贈与価値論へ
 第5章 生産と消費
 第6章 都市経済論
 第7章 贈与価値論
 第8章 超資本主義 
 第2部 経済の詩的構造
 あとがき
 

 


 第7章 贈与価値論

  解説

 
  贈与論を主題とした吉本隆明の思考を二つに分類することができる。一つのタイプでは、
 人類学の伝統の中で蓄積されてきたいわゆる未開社会におこなわれている贈与慣行をめぐ
 もので、そこに国家の発生の問題を結びつけたさまざまな考察が展開されている。


  こうした社会では、多くの場合、母方の叔父に大きな威信が与えられ、父親としての男

 の存在は影が薄い。レヴィ=ストロースはこの理由を、女性という財を与える側(これ
を代
 表するのが母方の叔父である)の、女性という財を妻として受け取る側(夫の親族の属
する
 集団)にたいする贈与論的な優位のうちに見出そうとする。


  これにたいして吉本隆明は、対幻想の構造の中に生まれる霊力の偏在のうちに、その理

 を見る。母親は出産をつうじて根源的な贈与をもたらす存在であり、父親の存在はそれ
にた
 いして形而上学的な意味しかもだない。ここから「贈与は遅延された形而上学的な交
換であ
 」という認識が生まれる。贈与と交換のちがいを、彼は対幻想の構造の内部での
こととし
 て理解しようとするのだ。


  未開社会での贈与関係は動的でいつも揺らいでいる。ところがこの揺らぎを停止させ、
 係性を固定化する動きの中から国家が発生してくる。このとき贈与は貢納に変わり、そ
れが
 拡大することによってデスポティズム(専制)的国家を生み出す。『共同幻想論』以
来の主
 題が変奏されて、ここにあらわれてきている。共同幻想は対幻想を土台として発生
する。そ
 れと同じように、デスポティズムを基礎づける貢納制度は、結婚と出産をめぐる
女性の贈与
 論的意味という土台なしには発生できない。その意味では国家論の礎石は贈与
論の中に隠さ
 れているということになる。


  もう一つのタイプの贈与論の主題は、消費資本主義の終末以後の人類史に関わるものと
 て登場してくる。消費資本主義の発達は最終的に、交換価値のみによる先進資本主義の
地帯
 と農業をおこなうことによって食料を供給する地帯への、世界の二分割の状態をつく
りだし
 ていくにちがいない、と吉本は考える。その絶対的非対称を解消するためには、消
費資本主
 義の地帯は食料調達地帯へ無償の贈与をおこなわなければならないだろう。

  ここで二つのタイプの贈与論が一つにつながる。未来の世界に贈与論が回帰してくるの
 ある。未開社会の贈与とは達う形態をとって、より高度な形態をとった贈与が人類社会
に回
 帰してくる。このようにして贈与論の主題は人類史を貢いていくのだ。吉本隆明はこ
こで
 ルクスとモースを同時に乗り越えようとしている。


 

                              1 贈与論

  Ⅰ

  兄 妹が人間の始祖になるという神話は、インド南部、中国の南西部や東南アジア、台湾、
 沖縄、
奄美、南九州、四国をはじめわが国の全域、それからミクロネシア、ポリネシアなど
 の島々に分
布している。こまかいところは、それぞれに独特のニュアンスとタイプをもって
 いる。たとえば
洪水によって人間がみなおし流され兄妹ふたりだけがとりのこされて人間の
 始祖になったタイプ
もあれば、兄妹ふたりだけが舟などで漂着し、人間の始祖になったとい
 うばあいもある。また兄
妹が天から降りてきたというもの、兄妹ふたりがつぎつぎに地下か
 ら地上にあらわれたというの
もある。ここでわたしたちのモチーフから大切だとみなしたの
 は、つぎのふたつだ。

  第一は、こ
とさらに近親である兄妹ふたりが人間の始祖になったという神話や説話や伝承
 の形だ。これはア
ジアやオセアニアや印度の沿岸部や周縁部、そして島々に、さまざまなヴ
 ァリエーションで分布
している。第二に、もうひとつこの兄妹始祖の神話や説話や伝承で大
 切なのは、この兄妹が風によって孕み、子どもを生んだとか、セキレイが交尾する様子をみ
 てはじめて性交の仕方を知り、子孫をふやしていったとかいうように、はじめ性交を知らな
 かったという形で流布されていることが。いいかえれば兄妹の性交が禁忌であることを暗示
 しながら、それでも兄妹が人間の始祖だとされていることが大切だといっていい。

  わが琉球や本土の沿海や島々でも、兄妹は性交の方法を知らなかったが、セキレイの交尾
 をみて、それにならって性交し、子孫をふやしたという海人系と思われる神話や説話が分布
 している。わたしも淡路島に行ったときこの説話がのこされているのを知った。このばあい、
 セキレイはしばしば別の小鳥や生物であったりする。いずれにせよ始祖の兄妹は、はじめ性
 交を知らなかった、それでも兄妹が人間の始祖になったというのは、この神話や伝承をもつ
 地域が「母」系が優位だった初期社会の遺風をおおきくのこしていることを暗示している。

  このタイプの神話や伝承をもっか社会では、子どもを基準にしたばあい、家族や氏族は「
 母」と子どもをつなぐ系列と「母」の兄弟(母方の伯叔父)と子どもをつなぐ系列によって
 展開される。そして「母」の兄弟(母方の伯叔父)が子どもに保護者としておおきな権威と
 役割をもち、この「母」と子ども、「母」の兄弟と子どもというふたつの系列によって親族
 組織が展開されることになる。そして「父」はこの親族組織にたいして「母」の兄弟よりも
 はるかに疎遠で、別の氏族に属している。だが「父」として家族の生活をささえ、じっさい
 には「父」方の家で家族の生活が営まれるところもある。もし「母」系優位の社会における
 家族の最小限の単位をかんがえるとすれば、こんなふうに「父」は実際の家族の生活では「
 母」と子と同居してその経済や日常を何くれとなくささえながら、親族組織の展開では「母
 」の兄弟が、おなじ氏族員として子どもの保護に任じ、「父」にとって代る位置を占める。
 「父」のほうは別の氏族に属する。

  そんな二重の関係が描かれることになる。この「母」系優位の社会で親族組織が家族と氏
 族をつ
くってゆく姿は、マリノウスキーーによってよく観察されている。
  マリノウスキーが未開や原始の初期社会についてかんがえたところは、つぎのいくつかに
 要約できる。

 (1)子どもからみて、ほんとの「母」とほんとの「父」のほかに「母」の姉妹もまた「母」
   と呼ばれ、「父」の兄弟もまた「父」と呼ばれる。兄弟や姉妹についてもおなした。そ
   してこの呼び名はとおい親族にも拡大され、氏族の成員にまで拡がってゆく。氏族のな
   かの実の「父」とおなじ世代の男子はすべて「父」と呼ばれ、実の「母」とおなじ世代
   の女子はすべて「母」と呼ばれるわけだ。「母」系が優位の地域では、親族組織の拡が
   りや氏族の発生は「母」方の親族をもとに行なわれる。そしてこのばあい、複数の「父」
   「母」や「姉妹」「兄弟」の呼称があることは、それ以前に原初的な乱婚や乱交の時期
   があったことを意味しているわけではない。

   またこれとかかわりがあることだが、家族と氏族とは親族組織が展開してゆくばあいの
   ふたつの面をあらわすので、家族が解体して氏族になるわけではない。

 (2)「母」系優位の社会とは、「母」と子どもの身体、つまり生理的なつながりが犬切な
   役割をもち、この母子関係をもとに親族が展開された社会という意味になる。「母」は
   まず子どもを受胎すると苦しくて不快な妊娠の時期を一年ちかくも耐え、出産の危機を
   とおりぬけ、出産してから一年以上、子どもの生命を養うために授乳し、養育しなくて
   はならない。この「母」の役割は文明社会でも未開の初期社会でもあくまでも「母」と
   「子」の個別的な過程であって、受胎、妊娠、出生、哺乳が個々の「母」と子どもの個
   別的なきずなだというのは変ることはない。

  このきずなにたいして「父」親が一義的に大切な役割があるとみなされるには、「母」と
 「父」との性交が、「母」の受胎や妊娠や出生をもたらした原因だという認識が前提になる
 はずだ。だが未開や原始などの初期社会では「母」と「父」との性交がなければ受胎も妊娠
 も子どもの出生もないという認識は存在しない。



 
  そこで何か起るかといえば「父」はすくなくとも「母」の受胎、妊娠そして子どもの出生
 にたいしては何のかかわりもない存在とみなされることだ。ただ「父」と「母」との性愛の
 親和だけが納得されている。もうひとつは「母」の兄弟が後見者や保護者としておおきな親
 密な関係で「母」と子どもの関係に登場してくるということだ。

  マリノウスキーのような考え方を右折すれば、これが兄妹始祖神話や説話や伝承が流布さ
 れ、しかもこの兄妹は風によって孕む、セキレイの交尾をみて性交を知ったというように、
 性交を知らぬ兄妹の言い伝えによって生みだされた証拠だということになる。

  こういう「母」系優位の初期社会で、「父」の役割や存在理由はとこにあるのか。マリノ
 ウスキーがトロブリアンド諸島の原住民について観察したところでは、「父」親はじっさい
 は「母」親をたすけて出生した子どもの経済生活の庇護者になり、その子どもを「母」親と
 分担して養育し愛しむことはもちろん、擬娩のようなじぶんが子どもを妊娠し苦痛を感じ、
 出産するといった「母」親に同化する行為さえやってのける。また「母」親の受胎、妊娠、
 出産のときに「父」親に課せられるタブーや儀式や睨的な行為一連の行為を行なうことにな
 る。マリノウスキーが強調したのは、「父」親の存在なしには「母」親の受胎、妊娠、子ど
 もの出生が親族や部族の間で合法的なものとしては認められないということだった。「父」
 と「母」とのあいだには婚姻にまつわる儀礼を経ていなければならないし、子どもの成育に
 まつわる共同の儀式や儀礼も「父」親を欠いては成り立たない。だから初期社会の「父」親
 の役割、あるいは「父」と「母」との婚姻関係といってもおなじだが、この関係の意味は子
 どもを生むための性的な配偶者というより「母」の受胎から子どもの出生にいたる「母」と
 子の関係を認知させるためのものだというのが、マリノウスキーの強調する眼目だった。

  これなしには「母」が子どもを産むという身体生理的な(生物学的な)事実を未開社会に
 おける文化的な事実にまでもたらすことはできない。さしあたってここでマリノウスキーが
 文化的とよんでいるものは、生れた子どもを中心に授乳や排便の社つけや、言葉の修得、部
 族に伝わる技術や儀礼の教えこみ、などをさしている。

  子どもは成長するにつれて家族から離れ、氏族の成員として神話や伝承を教えられ、共同
 の若者宿の生活に参加し、儀式や習慣を身につけ、「父」親の代りに「母」の兄弟の影響に
 よって氏族生活に入ってゆく。しかし、家族が結合をこわされるわけではない。
  もうひとつ大切なことは、家族内の近親相姦の禁止だ。兄弟と姉妹のあいだ、母と息子の
 あいだ、父と娘のあいだでの性的な行為は禁止される。これはおなじ氏族のなかでの婚姻の
 禁止と他の氏族との外婚制にまで発展してゆく。たとえば「母」系優位の社会では「母」の
 姉妹の家族にまで近親相姦の禁止が拡大されれば、その家族の兄弟や姉妹も兄弟姉妹と呼ば
 れるとともに性的な行為の禁止される範囲も名称にともなって拡大する。これは「母」方の
 親族として氏族にまでひろがり、その内部では性行為の禁止が行なわれ、それ以外の氏族と
 の外婚が成り立ってゆく。

  では子どもにとって実の「母」「父」と親族組織がひろがっていったため「母」とか「父」
 と呼ばれることになる母方の兄弟(伯叔父)や姉妹(伯叔母)はおなじ呼称なのに、どう区
 別されるのだろうか。マリノウスキーによれば、おなじ「父」「母」と呼ばれても、実の「
 父」「母」と氏族の「父」たちや「母」だちとでは感情的な抑揚や前後の関係の言いまわし
 によって呼び方のニュアンスが違い、原住民はそれが実の「父」「母」を呼んでいるのか、
 氏族の「父」たちや「母」たちのことかを手易く知り分けることができると述べている。

  またこの地域の原住民の言葉(マラヨ・ポリネシアン系)には同音異放談がおおいのだが、
 それは民族談として語彙が貧弱なためでも、未発達で粗雑なためでもない。おおくの同音異
 義談は比喩の関係にあって、直喩や暗喩とはつまり言語の呪術的な機能を談るものだと述べ
 ている。わたしたちがマリノウスキーの考察に卓抜さをかんじるのはこういう個所だ。

  たとえば「母」という言葉は、はじめはほんとの「母」にだけ使われる言葉たった。それ
 がやがて「母」の姉妹にまで使われることになる。これは子どもの「母」の姉妹にたいする
 社会的な関係がほんとうの「母」にたいする関係と同一になりうることを暗喩することにも
 なっている。そこでこのふたつの「母」を区別するために「母」という呼び方の感情的な抑
 揚を微妙に変えることにする。これによってほんとの「母」と、「母」の姉妹との社会的同
 一性とじっさいの差異を微妙にあらわし区別することになる。子どもの世代がこの同一性と
 差異に耐えられぬほどの社会的関係の変化やずれを体験したとき別称がはじめて実際の場面
 で登場しなくてはならない。

  ここまででぜひとも注釈しておきたいのは、マリノウスキーはトロブリアンド島の未開社
 会について、じぶんが往みついて体験し、見聞きし、考察したりしたことを、いねば部外か
 ら記述していることだ。その記述がどんなに如実で内在的にみえても、文明という外在から
 記述していることに変りはない。だが、これを読んでいるわかし(たち)はマリノウスキー
 ほど外在的ではない。文明社会の眼をもっているという意味では外在的だが、わかし(たち)
 の習俗の経験や遺伝的、伝統的な感性は、あきらかにトロブリアンド島とおなじ「母」系優
 位の初期社会から発している。そのためあるところまでゆくと外在と内在との混融した、奇
 妙な感じをともなうことになる。わたしの感受性が正確だとすればこの奇妙な感じは、どこ
 かで論理をあたえなくてはならない。

  「父」親はマリノウスキーがとりあげたトロブリアンド島のような「母」系優位の社会で
 も「母」と結婚し、「母」とおなじ家に位み、おなじ世帯をつくっている。さまざまなヴァ
 リエーションがあるが、この世帯はトロブリアンドでは「父」の村落の「父」の家で営まれ
 る。「父」は子どもの親しい仲間として世話をし、情愛を傾け、教育にこころをついやす。
 しかし、成長して家族の外部で振舞う場面にたつようになると、子どもは「父」の氏族やト
 ーテムと違って「母」の氏族に属することをはっきりと知り、氏族にたいする義務や儀礼が
 「父」親と遠うことになる。

 「父」の像はその場面では遠のいていくだろう。そして「父」にかわってこういう家族外の
 場面で途上してくるのが「母」の兄弟(母方の伯叔父)ということを知る。この「母」の兄
 弟の住む村落が、子にとってじぶんの村落になり、財産や住民としての帰属や仲間は「母」
 の兄弟の村落にあり、「父」の村落には属さない。子どもが帰属する村落では「父」はよそ
 者ということになり、また第二の「父」である「母」の兄弟は子どもにたいし、ますます権
 威をもつようになる。

  わたしたちは琉球ではいまなおこの習俗に出合うことができるし、本土でも、またわたし
 たちの感情の基層でも、この名残りを実感することができよう。
  マリノウスキーの考察はトロブリアンド島の原住民の性認識の観察を通じて、兄妹始祖神
 話をもった地域の初期社会のいちばん犬切な問題にかかわってゆくようにおもえる。この神
 話をもった「母」系優位の初期社会がどうして出現したかといえば、男女の性交をふくむ性
 行動、いいかえれば子どもからみた「父」「母」との性交と「母」の受胎、妊娠、出産との
 あいだに関係のあることを認知できないところから由来している。これは重要なことだ。

  すぐに気がつく常識でいえば、受胎から出産までのあいだに十ヵ月の遅延があるため、性
 交がすぐに受胎につながったとしても、十ヵ月の空白をこえて性交が妊娠、出産とかかわり
 があることを、初期社会の原住民たちは認識できなかった。いいかえれば原住民の認識力は
 即時的な事象を結びつけることはできるが、時間的に遅延された事象の隔たりを結びつける
 までには至らなかったのだ。マリノウスキーによれば、かれらは性的な欲望は眼(視覚)に
 やどるが愛情は内臓や両腕の皮膚にやどるとかんがえていた。この性交と、受胎と、出産の
 あいだの遅延を充たしているのは、原住民によれば使者の霊魂(baloma)だとかんがえられ
  ていた。霊魂は使者の島(Tuma)に住んで生活しているが、現世へ復帰したくなると若返っ
 て肉体化しないちいさな嬰児の霊魂になってトロブリアンドの島へ帰り、女性の子宮のなか
 に入り込む。それが受胎であり氏族の死んだ誰かの霊魂の再生にあたっている。このばあい
 小さな霊魂とそれが子宮に入りこむ女性とは、同一の氏族(亜氏族)に属していなければな
 らない。
 
  霊魂は若返るためには海辺に行き、海水で身をすすぐ。そして何回か休浴し小さな嬰児の
 状態になると海に漂流する。流木、本の葉、樹枝、海藻、泡沫などにのってトロブリアンド
 の海岸ちかくを漂う。
  マリノウスキーが厳密に言いわけているところでは、嬰児の霊魂は直接に漂ってくるので
 はないという考えもある。その背後に支配的霊魂の行動があり、そしてこの霊魂はまさに妊
 娠しようとしている女性の夢のなかにあらわれる。その女性は自分の「母」系の親族の誰か、
 たとえばじぶんの「母」親や「母」の兄弟などの霊魂が夢のなかにあらわれ、目が覚めて、
 いま子どもを授かったと言って納得する。マリノウスキーはこう記述している。

  
   婦人は、嬰児を彼女に授けたのが誰であったかを夫に話すことが多い。そしてこの霊的
  代父もしくは代母の伝承は保存されている。このようにして、この地方第一の村、オマラ
  カナの現在の酋長は、彼の母に自分を授けたのは、オマラカナのかつての酋長の一人のブ
  グヮブヮガ(Bugwabwaga)であったと思っている。わたくしの最良の友であるトクルバキ
  キ(Tokulubakiki)は母の母の兄弟のカダラ(kadala)から母への贈物によって生まれた。
  トクルバキキの妻はその長女を母の霊魂から授かった。通常、贈物を授けるのは母《とな
  るべき者》の母系親族の何人かである。しかし時としては、トムワヤ・ラクワブロの陳述
  にあらわれているように、妊婦の父であることもある。
       

          (B・マリノウスキー『未開家族の論理と心理』青山道夫・布地亨訳)


 


                                                            第一部 吉本隆明の経済学


今夜から第7章に入って、贈与経済論の俯瞰し、これからのわたし(たち)の課題を再確認でき
れば
と考えている。

                                                    (この項続く)  

 

 

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