徳丸無明のブログ

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東ハト ポテコ うましお味・コンソメ味

2024-01-26 23:36:59 | 
今日はポテトの子供です。






指にさして食べるスナック、ポテコ。指ごと食べてしまわないよう、集中力が必要です。
なんだかなあ、と思う話をします。食にかんする話。
食の好みは人それぞれ。自分にも独自の好みがあるように、他人にも個性と呼べる好みがある。
基本的にそれは尊重されるべきです。自分の好みにケチつけられたら不愉快になるのと同じように、ほかの人だって好みにケチつけられたくはない。
なので、お互い好きずきだよねって尊重し合うのが正解ではあります。しかし、それでもケチをつけたくなることがあるのです。頭では尊重すべきだとわかってはいても、つい口を差しはさみたくなってしまう、そんな場合が。
たとえば、刺身。僕は基本的に、刺身の醤油にわさびは入れません。入れるとしても少量。刺身を味わうのに、わさびの刺激は邪魔に感じるんですよね。まあコドモ舌と呼んでもらってもかまいませんよ。
そんな僕からしたら、醤油にわさび大量に入れる人が信じられないのです。いますよね、醤油が緑色になるくらいわさび入れる人。
好みですよ、あくまで好み。わさびがお好きな人ってことですからね。
でもそういう人を見ると、「それもうわさびの味しかしねーだろ。刺身の味なんかわかんねーだろ」って言いたくなるんですよね。
刺身が気の毒になるというか、だったらわさびだけ舐めてりゃいいじゃねーかって思うんです。
バラエティ番組で出川哲朗がよく食べる、ネタより大きなわさび挟んでる寿司食わせてやりたいくらいです。これがいいんだろって。

牛丼屋とかでも思いますね。牛丼と言えば紅しょうがですけど、その紅しょうがを大量に入れる人いるじゃないですか。それこそもう、牛肉が見えなくなるくらいドッサリと。
「それじゃもう紅しょうが丼じゃねーか」って思うんですよ。牛肉の味消しちゃってるよって。
そんでね、これは好みにとどまらず、前回話した公共ともつながってくるんですけど、こういう紅しょうがとか、タダのものを大量に食べるのってよくないですよね。
こういうのって、あくまでサービスで、店の負担によって維持されているものです。だから負担を支えられなくなれば、なくなってしまう。いくらタダだからといって、大量にガバガバ取ってたら、店の経済的負担を増加させ、サービス終了(廃止、もしくは有料化)に追い込まれてしまうかもしれないのです。
それを考えていない人が多すぎるのではないか、と思うのです。
牛丼の紅しょうがのほかに、回転寿司のガリなんかもそうですね。極端な人だと、タダのものばかりひたすら食べてたりする。前に天ぷら屋さんで、天つゆに入れる大根おろしを何度もおかわりしている人を見たこともあります。
オードリーの春日さんもそういうことしていたそうで、以前「あちこちオードリー」で、「サイゼリヤのミラノ風ドリアをまず半分食べて、空いた所に粉チーズをブチこんでた」って話してたんですよね。粉チーズで1人前の量を復活させてたということです。
サイゼリヤは去年の7月に粉チーズの無料サービスを終了しました。完全に春日さんのせいですね。
ひたすら節約に努め、貯金額を増やし続けているという春日さん。サイゼリヤに寄付してはいかがかね。
だからね、とにかく節度が大事だってことですよ。タダだからって節操なく大量に消費していたら、サービス維持できなくなってなくなっちゃうかもしれない。
お店ってのはサービス業ですから、とにかく客を第一に考えなきゃならない。不満があっても口にできなかったりする。それをいいことに、無節操にサービス消費してたら、それがなくなっちゃうかもしれない。めぐりめぐって自分の首を絞めることになってしまうかもしれないのです。
でもそうなったとしても、あつかましいヤツは自分のせいだとは考えず、「なんだよセコいな」って思うんでしょうね。
あーやだやだ。どうしようもないよ。


ここで新型コロナウイルス関連身辺ニュース、ではなく雑感。
超ひさびさ。自分でももう終わったと思っていたこのコーナー。お伝えしたいことがあるので復活です。
社会学者の大澤真幸さんと、小説家の平野啓一郎さんの対談本『理想の国へ――歴史の転換期をめぐって』(中公新書ラクレ)を読んだんですけど、その中にコロナに関する言及があったんですね。教訓深い発言なので引用します。平野さんの発言です。


アメリカの民主主義を視察したフランスの政治思想家トクヴィルは、絶対権力者が統治するためには、民衆が自分を愛してくれる必要はまったくない、ただ、民衆が互いに愛し合うことをしなければ十分だと言っています。(中略)つまり、権力者が具体的な対策をとれば、それに対する責任が当然発生します。しかし緊急事態宣言を出せば、経済的なダメージになるから、あれだけ強権的な安倍政権でさえ、当初は尻込みしていました。感染症対策がうまくいかなければ、結局は政治的なダメージになります。ですから、その責任を負わされたくないなら、感染症対策を、どこまでも個人の責任にするしかない。感染拡大の原因は、規律を守らない個人にあるといった意識を植えつけ、内面化させる。こうして国民間の分断と相互監視が生じました。市民同士が愛し合うことさえしなければ、政権は安泰ということです。
緊急事態宣言は、文字通り、「緊急」的な感染症への対策です。(中略)それには、どういう具体策をとるかという問題もありますが、責任主体として実行したときに、市民の不満がすべて政府に向けられます。その責任を受け止めることを表明しなければならない。しかし責任から逃れるために、当初は、感染拡大の原因は自粛のお願いを守らない個人にあるという形で、不満の対象を市民の間に拡散し、自己責任化しました。
(中略)
市民の分断という意味では、責任をどのように分散化していくかといった戦略の中には、外国や外国人に責任をなすりつける、ということもありました。たとえば、コロナは中国の責任だとことさら強調する。これは日本だけでなく、コロナの発生当初は、各国で深刻なアジア人差別が見られました。


我々は政府のために都合よく分断させられていたということです。メディアもそれを煽る報道を頻繁に行っていましたし、まんまと乗せられた「善良な市民」は、マスク警察になったり、感染者を批判したりしていました。
右寄りの人は、必死になって中国の責任を言い立てていましたね。露骨に排外主義になってる人もいました。
この、責任逃れのために国民を分断するという手法、今後もとられるおそれがあります。ですから、よく覚えておいたほうがいいでしょう。
国民同士でいがみ合い、対立するのは誰かの思う壺なのです。


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