徳丸無明のブログ

雑文、マンガ、イラスト、その他

時間と金を惜しむ我々がその代償として失い続けているもの――JR福知山線脱線事故と津久井やまゆり園殺傷事件によせて

2020-07-07 22:04:05 | 雑文
スーパーやコンビニなどのレジ前では、順番をめぐって些細な争いが起きることがある。とにかくみんな少しでも早く会計を終わらせたいと思っているのだ。我々は1秒を待つことができずにいる。
駅の改札で料金不足やチャージミスによって出口をふさいでしまうと、うしろの人に舌打ちされるらしい。隣の改札に移るだけのことなのに。我々は1秒を待つことができずにいる。

2005年4月25日にJR福知山線で起きた脱線事故は、死者107名、負傷者562名という戦後4番目の被害を出した。到着時刻に間に合わせるため、運転手がスピードを出しすぎてしまい、カーブ地点を曲がり切れなかったことによって引き起こされた事故だった。
メディアは連日この事故の経緯を報じ、JR西日本は大バッシングを浴びた。その企業体質が事故を招いたとされ、「日勤教育」などの経営手法が槍玉に挙げられた。「利益優先・効率優先」を追求するあまり人命を軽視し、人を運んでいるのではなく、モノを運んでいるかのように鉄道を運行していたのだ、と言われた。
JRは、これでもかというほど叩かれた。本質的でない批判もあったが、JRはひたすらこうべを垂れるしかなかった。
僕は当時、その一連の報道を、苦々しい思いで眺めていた。「苦々しい」というのは、JRに腹を立てていたからではない。JRを批判している人たちの態度に違和感を感じていたからだ。
当時の福知山線は、混雑時には2,3分置きに便がくるほど緊密なダイヤ運行をしており、その行程を滞りなく循環するために1分1秒の遅れに神経を尖らせねばならなかった。それこそが運転手の焦りをうみ、大事故を帰結したのだとされた。
しかし、その緊密なダイヤは、そもそも誰が望んだものだったのか。「1秒を待てない」我々が、JRの利用者である我々こそが望んだものではなかったのか。JRは、企業努力として、利用者の要望に極力応えようとしてきただけではなかったのか。
電車に遅れが出ると、駅員が乗客に詰め寄られる。遅れに対するプレッシャーを与えているのは、鉄道会社の上層部よりむしろ乗客のほうだ。運転手はつねにこのプレッシャーに脅かされている。「遅延証明書」なる奇妙な書類を発行しているのも世界中で日本くらいのものだろう。
もちろん営利企業である以上、利益を追求することを念頭に置いていなかったわけではあるまい。利益優先・効率優先で運営していなかった、とは言えまい。その限りで、当然JRには企業責任がある。だが、「利益優先・効率優先」とは、資本主義下で生きる我々、日本社会全体の基本方針であったはずだ。JRは一企業として、日本全体のその方向性に乗っかっていた、というだけに過ぎない。
利益優先・効率優先は、日本の企業なら当たり前、日本人なら当たり前の大前提であった。だから本来ならば、日本社会全体が、あの事故をきっかけに反省せねばならなかったはずだ。自分達の利益優先・効率優先の精神こそがこの事故を招いたのであり、それはひとりJRのみの責任ではない。日本社会全体の方針こそがこの事故を招聘したのだ、と。
なのに当時の日本社会は、それをしなかった。ただJRだけが悪なのであり、叩かれるべきはJRでしかなく、JRをひたすら批判し続ければ状況は改善されるのだと言わんばかりであった。普段は電車の遅れに腹を立てておきながら、あたかも自分たちは利益優先・効率優先とは無縁であるかのような顔をして、JRを叩いていた。「正義」を僭称し、一方的にJRを「悪」と名指していた。僕は、その態度を苦々しく感じていたのである。
JRの職員の中にも、批判者の態度を理不尽に感じていた者が少なからずいたはずである。だが加害側である以上、異議申し立ては許されなかった。批判のすべてを、黙して受け止めねばならなかった。
念のため断っておくが、これは事故に遭った人達のことを自業自得だと言っているのではない。被害者の犠牲を無駄にしないためにこそ、その本質をきちんと見極めなくてはならない、ということである。
JRをバッシングすれば、JRというひとつの企業は改善されるだろう。だが、日本全体の「利益優先・効率優先」という方向性はそのまま温存される。そうなれば、JRは事故と無縁の良質な企業に生まれ変わるかもしれないが、どこかほかの場所で「利益優先・効率優先」を原因とする悲惨な事故がまた必ず起きる・・・。
当時の僕は、そう考えていた。
そして、それは現実になった。2011年3月11日の東日本大震災に伴う福島第一原発の事故。
あれから9年。日本社会も少しは意識を改めつつあるようだが、根本の部分はまだ変わっていないのではないだろうか。


2016年7月26日、神奈川県相模原市の知的障害者福祉施設「津久井やまゆり園」で、元職員による連続殺人事件が起きた。死者19名、重軽傷者26人。その被害の大きさと犯行の残忍さから、事件は大々的に報じられ、犯人は強い非難に晒された。
犯人の植松聖は逮捕後、「重度障害者は悲しみしか生まない」「障害者は死んだほうが世のため」などといった発言を繰り返したため、事件は「強い差別意識」によって引き起こされた犯行とされ、植松は差別主義者のレッテルを張られた。
その見解が間違っているとは思わない。だが、それだけでは見落としてしまうものがある、と思う。
問題は「差別」だけではない。差別という視点だけでは、事件の全体像、および事件の背後にあるものが見えてこない。僕は、差別意識だけが事件の要因ではないと考えている。
なぜ、「重度障害者は悲しみしか生まない」などという考えが生まれるのだろう。それは、人間の価値を「カネ」という尺度でしか計れないからではないだろうか。
「カネ」は、現代において重要な価値の尺度である。いくら稼いでいるか、ひいてはどんな職業に就いているかが、人間の最も重要な社会的評価になっている。人によっては、それが評価のすべてということもある。
その意識が極端になれば、「稼いでないヤツは死んだほうがマシ」となる。
人間の価値は、カネで決まるものではない。家族や友達と一緒にいて、喜びをお互いに感じられればそれは価値があるし、カネにならなくても、趣味に没頭して充実していればそれも価値だし、ぼーっとしたりゴロゴロしたり、ただダラダラ寝ているだけでも、それで幸せだというならそれも充分価値だし、何より、生きているということ、それそのものがおおいに価値のあることなのだ。
人間の価値を計る尺度が「カネ」しかないというのは、あまりに貧しい。植松の犯行は、その貧しい思想に基づくものである。
しかしその貧しさは、決して我々と無縁ではない。多かれ少なかれ、我々もその貧しさを共有している。
資本主義経済下では、「時は金なり信仰」が人々を支配する。「時は金なり信仰」のもとでは、「1秒を惜しむ」ことと「1円を惜しむ」ことは同義だ。だから、「1秒を待てない」我々は、薄々であれ、カネを稼いでいない人を良く思っていない。ニートや引きこもりを良く思っていない人は多い。その延長線上に、「重度障害者は悲しみしか生まない」という考えが位置している。
資本主義社会では、「働かざるもの食うべからず」という考えが支配的になる。それは言い換えれば、「稼ぎがないヤツは死んでしまえ」ということだ。我々は、植松の思想と無縁ではない。
植松が犯行を通じて日本社会に突き付けた問いはこうである。
「お前たちも心の奥底では俺と同じように考えているのだろう」。
残念だが、日本人はいまだこの問いかけを否定しきれずにいる。ひょっとしたら、日本人は植松の「カネを唯一の尺度として障害者を殺傷するに至った」という犯行動機に、薄々気づいているのかもしれない。だからこそ「差別的」というわかりやすい視点を単一の犯行動機として、それ以外の動機を見て見ぬふりをしたのではないか。
そうすることによって、「自分たちは植松とは違う。自分たちには差別意識などない」と思い込み、「善」(自分たち)の立場から「悪」(植松聖)を叩こうとしたのではないか。


「青い芝の会」という重症身体障害者反戦の会がある。彼らは「働くことは悪だ」ときめつける。(中略)それは労働することを善とし、その上に超過利潤の王国を築き上げてきた現代日本資本主義、また彼らの美意識への公然たる挑戦である。彼らの言葉が真実なのは、働くことができず、従ってブルジョアジーにとって何の役にも立たない重症身体障害者を、それだけの理由で醜いと切り捨てるブルジョアジーに対する全面的な反抗である。当然のことながら、われわれはブルジョアジーのために生きているのではない。だがブルジョアジーは特殊彼らの階級的利益を擁護するために、普遍性を装った人間の価値、モラル、美意識をはりめぐらしているのだ。われわれのアジテイションはこれらのひとつひとつを確実に撃破し、それら一つ一つを裏返してゆくことでなければならない。
(中平卓馬『なぜ、植物図鑑か――中平卓馬映像論集』晶文社)


あるいは、植松もまた犠牲者のひとりであると言えるのかもしれない。物心つく頃から、いや、ひょっとしたらそれ以前から働くこと(=金を稼ぐこと)を善しとする言説に浸され続け、その結果として「時は金なり信仰」の信奉者に転じさせられてしまったのだから。
「働くことは悪だ」という言明は、今もなおその有効性を失っていない。「重度障害者は悲しみしか生まない」という思想、その思想を有する人物、その思想の背景たる「時は金なり信仰」を支える資本主義経済。これらが社会全体を覆い、活発に機能している以上――それはつまり、仮に植松がいなくても重度障害者を排除する空気がやんわりと充満している以上――、「働くことは悪」なのだ。
働くことを善であるとして、働けない人々を、程度の差こそあれ苦しめている社会は、どう言い繕っても悪でしかない。働いていようがいまいが、人がただ生きて存在しているだけでその尊厳が尊重される社会が訪れない限り、重度障害者からの「働くことは悪である」という揚言は、資本主義社会を止むことなく糾弾し続けるだろう。

横浜地裁の一審の死刑判決に弁護人が控訴したものの、先般植松自身が控訴を取り下げたことで死刑が確定した。数年後か十数年後か、植松は刑場の露と消えるだろう。だが、それで「植松聖的なもの」が消えてなくなるわけではない。現代の日本社会には、いたるところに「植松聖的なもの」が偏在している。おそらくは、我々の内にもそれはある。
だからこそ、植松を差別主義者と名指しして断罪するだけでは足りないのだ。我々の社会から、我々の内側から「植松聖的なもの」を剔抉しなくてはならない。植松の思想が差別的であったとして、ではその差別的思考はどこからきたのか?人間の価値を「カネ」という単一の尺度で測定する貧しい思想からだ。
そして我々は、その貧しさと無縁ではない。1秒を惜しみ、1円を惜しんで日々過ごしている。
僕はカネと時間を重視することそれ自体を批判しているのではない。今のこの社会で生きる以上、カネを稼ぎ、時間を節約することは必要欠くべからざる行為だ。問題なのは、「カネ」(=「時間」)でしか価値判断することができない、という「思想の貧困」なのだ。
人間の多様な価値観を担保するため、社会を奥行きのある豊かなものとするために、「カネ」(=「時間」)以外の尺度を充実させておかねばならない。「カネ」という尺度しか持ち合わせていないくせに、したり顔で「多様性」などと口にする輩が多すぎる。その「思想の貧困」に気づかなければならないのだ。


福知山線脱線事故と津久井やまゆり園殺傷事件では、ともに単一の犯人が名指された。福知山線脱線事故ではJR。津久井やまゆり園事件では植松聖。それぞれの犯人に責任の所在を押し付けて断罪し、彼らの「悪の視点」から物語を構成し、事故(事件)の幕引きを図ろうとした。
だが、本当にそれでいいのか。両件の背後にある、「時は金なり信仰」を見なくていいのか。時間を惜しむ意識から福知山線脱線事故が、カネを惜しむ意識から津久井やまゆり園事件が起きた。
このままでは、時間を惜しむ意識からまた大きな事故が、カネを惜しむ意識からニートや引きこもりや生活保護受給者やホームレスをターゲットとした殺傷事件が起きかねない。
時間とカネを惜しむ意識を生み出す大元の「時は金なり信仰」は、今も変わらず活発に機能しているのだ。自分達はJRとも植松聖とも無縁であると思い込むことで、我々は「時は金なり信仰」から目を背けてきた。だから「カネ」(=「時間」)という尺度しかない「思想の貧困」は温存され続けているし、この社会の根本は変わっていない。
いつになったら変わるのだろう。どんなきっかけがあれば変わるのだろう。
それとも、変わることはないのだろうか。


最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
きっと (和田ヶゐ)
2020-07-07 23:06:33
セージ家たちも、働くのは悪だと思ってると思いますよ(@_@)
返信する
和田ヶゐさん江 (徳丸無明)
2020-07-08 21:29:03
そうですか?
国民を経済活動の駒だと見做しているのが政治家だというのが僕の考えなんですけど。
返信する
そう (和田ヶゐ)
2020-07-08 22:57:04
だから自分たちが働くのは悪だと思ってるんですよ(@_@)
返信する
和田ヶゐさん江 (徳丸無明)
2020-07-10 21:55:06
ああ、そっちですか。
返信する

コメントを投稿