徳丸無明のブログ

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ようやく国会がバリアフリー化されたことの「恥ずかしさ」について

2019-08-24 22:47:20 | 時事
7月21日の参院選の結果、れいわ新選組(中二病みたいな名前だね)から2人の障害者議員が当選した。筋萎縮性側索硬化症(ALS)患者の舩後靖彦と重度身体障害者の木村英子。
議会内は2人が入場できる作りになっていないので、急遽改修することになった。この2人の当選に対して、少なからぬ批判が起きたらしい。
批判の内容は、要約すると「障害者は自ら議員になるべきではない。何かしらの要望があるなら、それを代行してくれる(健常者の)代表を立てるべきだ。障害者議員のためにわざわざ議会を改修するのは税金の無駄遣い」というもの。
一見すると、もっともらしく聞こえる。だがこの意見、正しいだろうか。
ちなみに、ここでは「障害者」という略称を用いるが、これはすべて「身体障害者」のことを指しており、「知的障害者」は含まれないことをあらかじめお断りしておく。

僕がよく行く近所のファミレスがある。1階部分が駐車場で、2階がお店という作り。エレベーターはなく、階段のみ。階段を登れない障害者の人は、当然来店することができない。
普段何気なく利用しているファミレス。便利でありがたいかぎりのファミレスだが、階段を登れない障害者にとっては、忌々しい存在なんじゃないか、と思う。その構造上、最初から障害者を排除しているその店舗は、障害者に対する無配慮、もしくは差別意識の典型のように感じられるのではないだろうか。たぶん、中には「担いで運びます」とか「お願いですから来てください」と請われても、絶対に行きたくない、と考えてる人もいるだろう。
世の中には、「入れる場所」と「入れない場所」がある。基本的に入れない場所というのは、個人の私有地や会員制のお店など、「権利」の有無にかかわる場所だ。「権利」がないから入れないというのは、納得しやすい。しかし障害者は、それに加えて、「構造上」入ることができない場所がある。これって、納得できるだろうか。
権利はあるのに、障害のために入ることができない。もし自分がその立場だったら、納得できるだろうか。
自分だったら、できるだけ入れる場所を多くしてほしい、と思うはずだ。ただ、物理的にバリアフリー化が困難な建築物もあるし、その費用を調達できない施設もあるだろう。「すべての場所をバリアフリーに」と訴えるのは、いかにも暴論だ。どこからどこまでをバリアフリー化するか、という線引きには慎重でなければならない。
しかし、国会である。日本国の象徴のひとつである、国会議事堂。その象徴ですら、今までバリアフリー化されていなかったというのは、どうなんだろう。それってすごく「恥ずかしいこと」なんじゃないだろうか。

ひょっとしたら、と考えてみる。これまで、国会議員になって日本を変えたい、と野心を抱いた障害者もいたかもしれない。でも、国会には障害者の受け入れ態勢が整っていない。なので泣く泣く立候補をあきらめた・・・。そんなことが、過去に何度か(あるいは、数えきれないほど)あったかもしれない。
冒頭に挙げた批判の中で検討すべきなのは、「本当に税金の無駄遣いなのか」という点だけでなく、「障害者の政治家としての能力を一切無視していないか」という点もある。そして、重要なのは後者のほうだ。
障害者の中にも、政治家として優れた資質が備わっている人が大勢いるはずだが、「障害者は代表を立てるべきで、自ら立候補すべきではない」とするのは、「障害者の政治家としての資質を認めない」、もしくは「資質の有無を最初から勘案しない」という態度に他ならない。
冒頭の批判は、一見税金の使い道の適否を問うているように見えるが、その表面をはがすと、「障害者に政治家の適性があることなど認めない」という、看過できない意識が潜んでいる。ひょっとしたら、発言者たちは無自覚なのかもしれない。だが、自覚できないほど「障害者に政治能力などない」という考えが内面化してしまっている、とも言える。
「障害者は政治家になるべきではない」というのは、「障害者には政治家の能力があるということなど認めない」ということだ。これもまた、差別の一種ではないだろうか。
障害者だって、政治力の有無において評価されるべきだ。障害の有無ではなく、政治的能力の優劣において当落を決されるべきだ。
「保身しかない世襲議員」よりは「意欲のある障害者議員」のほうが遥かに国益に資するのではないかと思うが、国会議事堂は、そんな「意欲のある障害者議員」の誕生を、構造的に排除してきたのだ。これって、大きな損失なんじゃないだろうか。「国会をバリアフリー化したのは税金の無駄遣い」どころか、「これまでバリアフリー化されていなかったことで国益が大きく損なわれていた」のではないだろうか。
しかるに、国権の最高機関である日本の立法府は、竣工から83年、21世紀に入ってから19年、ようやくバリアフリー化をなしとげた。それも、障害者議員の誕生を受けてという、受動的・消極的バリアフリー化だ。本来なら、いつ障害者議員が現れてもいいように、あらかじめバリアフリー化しておくべきだったのだ。これは、やっぱり日本人として「恥ずかしいこと」だと思う。

「出来る限り多くの場所をバリアフリーに」という基本理念には、ほとんどの人が同意するはずだ。ならば、国を象徴する機関のひとつである国会だって、バリアフリー化されていて当然だろう。税金がどうのと、ケチくさいこと言うな。国会「ですら」バリアフリー化できなくてどうする。GDP世界3位の国が、その程度の改修費用すらケチるようでは、それこそ――この言い回しはあまり好きではないのだが――国際社会の笑いものになるではないか。
今回の改修によって、国会は障害者の受け入れ態勢を整えることができた。今後は、れいわ新選組の2人のあとを追って、「意欲のある障害者議員」が誕生し続けるだろう。それは、今回の改修費用とは比べ物にならないくらいの国益をもたらしてくれるはずだ。話をあくまで「カネ」に限定して考えても、これは「税金の無駄遣い」どころか、「有望な投資」なのである。

バリアフリーという概念が一般化してから10年も20年もたってようやく国会がバリアフリー化したということ。障害者議員の誕生を受けての改修という、受動的・消極的なバリアフリー化であったということ。
この事実を恥ずかしく思う感性抜きにして、さらなるバリアフリーの進展は望めまい。


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