徳丸無明のブログ

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森永製菓 チョコボール ピーナッツ

2023-12-15 23:39:54 | 
今日は甘い球です。




松本大洋の卓球マンガ『ピンポン』の中に、ペコとスマイルの、次のようなおしゃべりがあります。
ペコ「スマイルはぁ、キャラメル派?ピーナッツ派?」
スマイル「んー、キャラメル」
ペコ「だろっ?これって常識な」
森永のチョコボールにかんする会話です。
いやいや、何を言っているのかと。チョコボールはピーナッツだろうがと思いましたよ。
僕はね、チョコはかじって食べるんです。口の中でゆっくり溶かしたりはしない。だから、中にキャラメルが入っていると、歯にくっついちゃう。それがちょっとイヤなんですね。
だからピーナッツ派。カリッとした食感がたまりません。同じ意見の人、多いんじゃないでしょうか。
ちなみに金のエンゼルは出たことがなく、銀を1回だけ出したことがあるのですが、それはなくしてしまいました。
母さん、あの日の銀のエンゼル、どこに行ったんでしょうね?

今年の4月1日から、改正道路交通法の施行により、自転車利用者のヘルメット着用が努力義務になりました。これまでは13歳未満が努力義務だったのが、すべての人、全年齢の自転車利用者が対象に。
あくまで「努力義務」であって「義務」ではないので、法的拘束力はないのですが、この法改正をきっかけとして、世間の風向きが変わったのを感じます。
ニュースでは、自転車が絡む交通事故を報じる際、「ヘルメットを着用していたかどうか」も併せて伝えるようになりましたし、「都道府県別のヘルメット着用率」といったデータを紹介したりするようにもなりました。「自転車利用者はヘルメットを着用すべき。着用しない人は非常識」という空気が作り出されようとしている気配がします。
正直それは、イヤな予感です。世論がイヤな方向に流されているように思うのです。
今はまだ「努力義務」ですが、これはまだ第1段階で、いずれ「義務」になってしまうような気がするのです。今回の努力義務化は、義務化のためのステップ。最終的に義務にするための下地作りとして努力義務にしたのではないか。当局は、努力義務で終わらせるつもりなどさらさらなく、世間の空気が「ヘルメット義務化すべき」になるような流れを作っておいて、その空気が大勢を占めるようになった頃合いに「義務化」を行うべく、次なる法改正の準備に取りかかっているのではないか・・・。そんな気がするのです。
もしそうなってしまったらと考えると、暗澹たる気持ちになります。僕のおもな移動手段は自転車です。今はヘルメットを着けてはいませんが、それを強制される日が来てしまうかもしれない。
ところで、この場合の当局って警視庁?法務省?2006年の消防法改正によって、すべての建物に火災報知器の設置が義務づけられたときにも思ったんですけど、こーゆーのって天下りが絡んでいるのでしょうか。ヘルメットを製造している企業、火災報知器を製造している企業、ならびに、それらを管理・流通・販売する関連企業を天下り先として確保するための法改正ということなのかと。あ、妄想です。

万が一に備えて、身を守るためにヘルメットを着用していたほうが望ましい。それはその通りです。
ですが、交通事故に遭う確率など、どれほどのものでしょうか。1%未満、いや、0.1%未満なのではないでしょうか。
交通事故など、そうそうあるものではないのです。その、極めて低い可能性の危機に備える必然性などあるでしょうか。
「自動車はその低い確率に備えてシートベルトが義務化されてるぞ」という反論があるかもしれません。ですが、自動車と自転車では、事故が起きた際の被害の程度が全然違います。自動車事故は、重傷になったり死亡したりする確率が高い。だから義務化されているのです。自転車と一緒にしてはいけません。
そう、自転車の事故は、遭遇する確率が低いうえに、重傷や死亡に至る確率となると、さらに限られてくるのです。
自転車でも備えたほうがいいと考える人は備えればいいでしょう。危機への備え方、心構えの仕方は人それぞれですから。
ですが、今の世間を見ていると、「個人の自由」とは言ってられなくなるような予感がするのです。有無を言わさず危機に備えるべき・・・いや、というより、有無を言わさず「ヘルメットを着用しないのは危険だと考えるべき」という空気、世間の共通理解が作り出されようとしているように思うのです。「備え」よりも「認識」が強制されようとしているのではないか、ということです。
この空気の作り出され方に、すごくイヤなものを感じてしまうのです。有無を言わせない、すごく陰湿な感じを。
自転車に乗ってて交通事故に遭遇する確率は、それほど高いわけではありません。もしも高いのなら、自動車事故並みの死傷者が出ているのなら、とっくの昔にヘルメットは義務化されていたでしょう。
しかし、そうではない。着用を義務化するほど事故の発生率が高いわけではないから、これまで法制化されずにいたのです。
なのに、今の世論の流れは、数少ない自転車の事故を大々的に報道し、針小棒大に見せかけることで、ヘルメットを着用していなければ、必ず取り返しのつかない事故に遭ってしまうかのような空気を作り出そうとしています。このままでは、ヘルメット義務化は避けられないでしょう。近い将来にそれは待ち受けているはずです。
僕はそれをイヤに思うのです。なぜ、小さな危機を大きく見せかけようとするのか。なぜ、ヘルメット未着用者は愚かであるかのような空気を作り出し、不必要な、大きなお世話としか言いようのない法制化を進めるのか。

こんな主張をしていたら、「お前は交通事故に遭って死んでもいいのか」って言われそうですね。でも、もしそう言われたら、僕はこう返します。「あなたはなぜ、道を歩いているときにヘルメットを着用しないのか」と。
だって、そうですよね?自転車だけでなく、歩行者だっていつ事故に巻き込まれるかわからないのですから。歩行者が交通事故に遭遇する確率だってそれほど高くないでしょうけど、自転車が低い(事故の)確率に備えるべきだというのであれば、歩行者だってそうすべきですよ。
いや、対象はそれだけにとどまりません。勤め先のオフィスにいるときだって、自宅でくつろいでいるときだってヘルメットを着用すべき、ということになってしまうのです。
だって、いつ地震で建物が崩れるかわかりませんからね。隕石が建物の中に落下してくるかもしれない。低い確率の危機に備えるべきだというのなら、室内にいるときだってつねにヘルメットを着用しなければならなくなるのです。フロに入っているときも、寝ているときも。
そう考えると、「自転車利用者はヘルメットを着用すべき。着用していない人は自分の命が惜しくないと言っているも同然」と言わんばかりの今の空気がいかにバカバカしいものか理解できるでしょう。
この間立川志らくが「ひるおび」で、「ヘルメットは髪型が崩れるから着けたくないと言う人がいるが、それじゃあ命よりも髪型のほうが大事なのかという話になってしまう」などと、的外れなことを言っていました。
何を寝ぼけたことを。ヘルメットを着用していない人は、髪型と命を天秤にかけて髪型のほうを選んでいるわけではないのです。事故が起こる確率、ヘルメットに助けられるような事態は、まず起こりっこない低確率だから、そんな低い可能性にいちいち備えるのが煩わしいからヘルメットを着けていないのです。命よりも髪型を選ぶような、バカげた判断をしているわけではない。なぜそんなこともわからないのでしょうか。
人間は生きている以上、つねになんらかのリスクを背負っています。「生きている」ということは、「いつ死ぬかわからない」ことと同義なのですから。
事故や病気や災害など、人間を脅かす様々なリスク。それらリスクには、それぞれ遭遇率の高低と、遭遇した場合のダメージの高低があります。現代の日本では、遭遇率が高く、かつダメージが高いリスクは備えが義務。遭遇率が高く、ダメージは低~中程度のリスクは任意対応。それ以外は気にしてもしょうがないものとして切り捨てています。
遭遇率が低いリスクに、運悪く出くわしてしまうこともある。でも、基本的にはまず遭遇しないから備えはしない。それでいいと思います。すべてのリスクに備えていたら、多大な時間とカネを費やさねばならなくなりますから。
それが昨今では、低いリスクを過剰に高く見積もり、全員がそれに備えるべきだという世論が形成されようとしているのです。
低い確率の危機に備えるべきだというのなら、志らくだって、テレビの収録中や、高座に上がってるときにヘルメットを着けてもらわないといけませんね。
ですが、おそらくほとんどの人は志らくを支持するのでしょう。自転車が事故に遭遇する確率がどれほどのものであるかなど一切考えず、ヘルメット未着用者が愚か者であると決めつけるのでしょう。
そして、そんな考えなしの断定によって世論は形成されます。日本社会は今、ヘルメットの「努力義務」から「義務」へ向けて、国民の総意を形作ろうとしているのです。
たぶん、近い将来ヘルメット着用は義務になるのでしょう。僕のような、ごく一部の人間が、「ほぼ起こらない事故に備える必要などない。備えたい人は備えればいいが、強要しないでほしい」と訴えたとしても、無視されるか、バッシングされるだけでしょう。
日本というのは、そういう国なのです。なんとなくの、「危ないんじゃないか」という感覚だけで意思決定を行う。その際、発生率や死亡率といったデータはいっさい参照されない。それに反する少数者の意見は、徹底的に黙らせる。

最終目的のためのワンステップといえば、マイクロチップもそうですよね。2022年6月1日から、ペットショップやブリーダーなどで販売される犬と猫への、マイクロチップ装着が義務化されました。
これは迷子になったり、災害時に行方不明になったペットが飼い主の元に戻れるよう、飼い主やペット自身の情報を記載したマイクロチップを、ペットの体内に埋め込むというものです。マイクロチップのデータによって個体識別ができるのですね。
動物愛護と、飼い主の保護管理体制の向上を目的としています。
ですが、それだけでしょうか。何かほかの目的があるのではないでしょうか。
僕はあると思います。
いずれ人間にマイクロチップを装着するための実験、という目的が。
マイクロチップは、個人情報の登録のみならず、電子マネーの使用や、本人照会(マンションやオフィスの入り口の開閉)など、様々な用途に用いることができます。なので、すでにマイクロチップを埋め込んでいる人もいるし、「やりすぎ都市伝説」でのMr.都市伝説 関暁夫の言い分を聞いていると、いずれすべての人がマイクロチップを装着する未来が訪れそうなのです。
それが便利であることは間違いない。しかし、体の中に埋め込めば、どのような生体反応が起きるかわからない。
なので、犬猫で実験しようということになったのではないか。僕はそう思うのです。
これは別に、人間の都合だけを考えていて、本音では犬猫などどうでもいいと思っている、ということではありません。「ペットが行方不明にならないように」というタテマエを利用して、都合よく犬猫で生体実験を行っている、ということではない。
もちろん犬猫のことも考えてはいる。でも、それと同時に実験を行っているのです。犬猫のマイクロチップ義務化は、犬猫の身の安全を高め、かつマイクロチップが生体に及ぼすデータを取得できる、いわば一石二鳥の制度なのです。
犬猫にマイクロチップを装着させ、それが生体にどのような影響を及ぼすかのデータを取る。それに基づいて、人間にマイクロチップを装着しても問題ないかどうかを判断するのです。もし犬猫に何らかの問題が発生すれば、マイクロチップの改修が行われ、犬猫にとっても人間にとっても無害なものへと改善されていくのです。犬猫は、行方不明になるリスクを低減してもらうのと引き換えに、生体データを提出させられるのですね。
犬猫のマイクロチップ義務化は、人間がマイクロチップを装着するためのワンステップ。そのようにとらえてる人はほとんどいないでしょう。ですが僕はそう考えています。
そしてその流れは、やはり不可逆的に進行するのでしょう。大半の人は、疑問に思うことなく受け入れるのでしょう。
あ、でもマイクロチップに懐疑的ということではないですよ。自転車のヘルメットと同様に義務化されたくはないですけど、そういう技術革新と、それに基づく新しいライフスタイルの確立は、まああってもいいというか、中立の立場です。
ただなんか、みんなヘルメットにせよマイクロチップにせよ、「将来のためのステップ」に鈍感だなぁとは思いますけどね。誰かが未来の設計図を描いていて、それに向けて事態が進もうとしているのに、まったく気づくことなく、なんの考えも抵抗もなく、それを受け入れようとしている。いや、「受け入れている」という自覚すらないのかもしれません。
何も考えていないから、いつの間にか「その時」が目の前まで来てしまい、避けることもできなくなり、無抵抗のまま受け入れる。そういうふうになってしまうのです。
ただし、これは「将来のためのステップ」に抵抗すべし、ということではありません。「将来のためのステップ」には、望ましいものもあるはずですから。必ずしも支配者層が愚かな国民を破滅的な方向にコントロールしている、ということではない。
ただ、望ましい「将来のためのステップ」もあれば、望ましくない「将来のためのステップ」もあるわけで、それらに自覚的じゃないと望ましくないものも避けられなくなっちゃいますよ、ってことです。

僕もいずれ義務化によって、否応なしにマイクロチップを装着させられるのでしょう。そして、そのチップによって洗脳され、「ヘルメットかぶってないヤツは大バカだ!」と言い出すようになるのでしょう。
洗脳されれば自分の意思はなくなる。意思がなくなればみんな一緒。みんな一緒でハッピーな人生。
修行するぞ修行するぞ修行するぞ修行するぞ修行するぞ修行するぞ修行するぞ修行するぞ修行するぞ修行するぞ・・・。