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per l/a psicoanalisi

ジジェク、革命を語る(途中)

2014-08-18 19:00:51 | Note
——DEMANDING THE IMPOSSIBLE by Slavoj Žižek (2013)


“…エコロジーはきわめて自己中心的、人間中心的な装置です。自然は狂気じみたものです。自然はカオスであり、手に負えない、予測不可能な、意味づけられない災害をもたらします。”

「ヨーロッパ的な視点からみて問題と思うのは、世界には何らかの自然のバランスないし調和が存在するという東洋的な見識です。私はこの世界に調和があるとは思いません。反対に、あらゆる調和は“単なる部分的で不完全な調和”であると思います。」

「危機を前にすると、人々はきまって、おのずから、ある種の失われたバランスを追い求めます。それは孔子から始まりました。孔子は馬鹿の元祖だと思います。孔子は哲学者というよりイデオロギー的空論家の原型です。彼の関心は形而上学的な真理ではなく、むしろ、個々人が幸せで倫理的な生活を送れるような調和のとれた社会空間にありました。」

「もとの調和が失われたとき危機が起こる、だから理想は調和を取り戻すことである、これが孔子の考え方です。この考え方はやめるべきだと思います。我々が回帰すべき、あるいは回帰できる調和など存在しません。調和を得るためには、我々は自らが望むものが何であるかを“決定”しなければならない、そして、それをめざして戦わなければならないのです。」

「混沌としている、だから我々は安定性に回帰するべきだ、というのが伝統的な儒教の規範ですが、今日の人類が置かれた状況に対してこの規範を適用できるとは思いません。我々は、我々の望む安定性がどのような安定性なのかを決定しなければならない。いかなる自然のバランスや社会の調和もあてにはできません。この点では、私は悲観論者です。」


「この新しい権威主義は、旧来の、規律のきびしい体制における権威主義のようにはならないでしょう。そうではなく、これは奇妙な社会に行き着きます。それは、人が消費活動と私的生活においてあらゆる性的自由を享受し、何でも好きなものを手に入れる社会であると同時に、ある種の“脱政治化された”秩序をもった社会でもあります。これは恐ろしい考えです。」

“欧米は将来いよいよ民主主義を廃止せざるをえなくなるだろうと、私は思います。……”

“資本主義と民主主義の結婚は終わりました。”

《ユートピア的な夢想と言えるのは、新たな社会が可能である、ということではありません。むしろ、現状は維持される、世の中は今と変わらずいつまでも続いていける、ということのほうが夢想なのです。》


《…すなわち、左翼は何かを隠すことによってではなく、まさに“何も隠さない”ことによって、敵に反抗し、敵を混乱させる、という秘密です。》


*途中p.81~

アガンベン『例外状態』

2014-08-18 12:28:51 | Agamben アガンベン
――Giorgio Agamben, Stato di eccezione (2003)


第1章 統治のパラダイムとしての例外状態

《他方で、もし例外というのが、法が生に関連させられ自らの一時停止をつうじて生を自らのうちに包摂するさいの独自の装置であるとするならば、例外状態についての理論は、生きているものを法に結びつけると同時に見捨ててしまうような関係を定義するための前提条件となる。》p.8

“法学的な観点からすれば、第三帝国は全体として十二年間にわたって継続した例外状態とみなすことができるのである”p.9

《例外状態というのは、なにか特殊な法(戦時法のような)ではないのであって、法秩序それ自体を停止させるものであるかぎりで、法秩序の閾あるいは限界概念を定義したものなのである。》p.14

“例外状態は、むしろ空虚な状態を、すなわち法の空白を構成している”p.16

“…例外状態は、もはや歴史的尺度としてではなく、ますます統治の技術として登場するようになっただけではなくて、法秩序を構成するパラダイムとしてその本質を明るみに出すようにもなっていることを告知する先導役を果たしている。”p.18

“すなわち、例外状態はいまや通常の状態になってしまったというのが実態なのだ。”p.22

“しかしながら、すべての西洋民主主義諸国において現に進行中の一傾向と歩調を合わせながら、例外状態の宣言は、通常の統治技術としての安全確保というパラダイムの先例なき全般化によって徐々に取って代わられつつある。”p.31

「しかしまた、その例外状態の宣言は、それと自覚されないアイロニーをともないつつ、制度史上初めて、たんに安全と公的秩序の保護のためにではなく、「自由民主主義的憲法」の擁護のために準備されたのだった。守護された民主主義がいまや通常の状態になってしまったのである。」p.34-35

“アメリカ合衆国大統領は、いまや例外状態にかんする主権的決定者となってしまっていたのだった。”p.45

《実際には、例外状態は法秩序の外部でも内部でもないのであって、その定義の問題は、まさにひとつの閾にかかわっているのである。言いかえれば、内部と外部が互いに排除しあうのではなく、互いに互いを決定しえないでいるような未分化の領域にかかわっているのである。》p.50

《のちに見るように、例外状態をめぐる抗争は、本質的には、例外状態が位置する場所〔ロクス〕をめぐる論争として提示されるのである。》p.51


第2章 法律× - の - 力
(注:「法律」の上に×印が掛かっている)

“例外状態を法秩序のうちに繋留することを可能にする操作をしているのは、この場合には、自らを憲法へと構成する権力と憲法へと構成された権力とのあいだの区別である。”p.68

“例外状態に関して決定することのできる主権者は、例外状態を法秩序に繋留することを保証するのである。”p.70

《“法秩序の外にあり、しかしまた法秩序に属している”。これこそは例外状態の位相幾何学的な構造である。そして、例外に関して決定する主権者は、本当を言えば、論理的にみて、自らの存在においてこの構造によって定義されているからこそ、主権者自身もまた、“脱却―所属”という撞着語法によって定義されうるのである。》p.70-71

「シュミットの主権概念の地位と逆説は、すでに見たように、例外状態に由来するのであり、その逆ではない。」p.71

「彼の主権理論が例外状態を法秩序にきっちりと繋留させようとする試みを代表していることは疑いない。」p.71

☆p.78 例外状態というのは、一方では、~

《この意味では、例外状態というのは、そこにおいて適用と規範が互いに分離を提示しあい、ある純粋な法律× - の - 力によって、その適用を停止されていたある規範を実現する――すなわち、適用を停止することによって適用する (applicare dis-applicando) ――ことがなされるようなひとつの空間が開かれている状態である。》p.82


第3章 ユースティティウム iustitium

「このようにもっぱら法的空白の生産を目的とする逆説に満ちた法制度の意味こそが、ここでは、公法体系学の観点からも政治哲学的な観点からも、検討される必要があるのである。」p.84

「戦争 (bellum) と動乱 (tumultus) とのあいだの関係は、一方では戦争と軍事的戒厳状態とのあいだに、他方では例外状態と政治的戒厳状態とのあいだに存在する関係に等しい。」p.86

〈一時的な「法の外にある」命令権があらゆる市民を覆い尽くすようにみえるこの必要状態指揮権の定義において、モムゼンは彼に可能であったかぎりで例外状態の理論を定式化に接近しながらも、その手前で立ち止まってしまったのだった。〉p.90


「というのも、ある国家においてその種の対策が存在しない場合には、法規を守っていたのでは滅びることが必定だからである。それとも、滅びたくないのであれば、法規を破壊することが必要となる」(Nissen, 1877, p. 138)

「公法の観点からすると、例外的な諸規則 (Ausnahmema�・regeln) の採用の可能性が現実のものとなるような、休止」(ibid., p. 76)

《この意味において、最終元老院決定とユースティティウムとはローマの国法秩序の限界を印づけているのである。》p.94

“ニセン Nissen のテーゼ(法の全面的な停止としてのユースティティウム)”p.94

《まず、ユースティティウムは法秩序全体の中断と停止を意味するものであるかぎりで、独裁のパラダイムによって解釈することはできない。》p.95

《このようなユースティティウムとの連関から展望した場合には、例外状態は、独裁のモデルにしたがって諸権限の十全さ、法が充溢した状態として定義されるのではなく、法が空っぽの状態、法の空白と停止として定義されるのである。》p.96

“必要状態というのは「法の状態」ではなく、法のない空間なのだ(たとえ例外状態は自然状態ではなくて、法の停止に由来するアノミーとして立ち現れるとしてもである)。”p.102

《理論の本質的な任務は、例外状態が法的な性質のものであるかいなかを明らかにすることだけではなく、むしろ例外状態と法との関係の意味、場所、様態を定義することなのである。》p.104


第4章 空白をめぐる巨人族の戦い

「この暴力に固有の特徴は、それが法を措定も維持もせず、法の廃止 (Entsetzung des Rechts [Benjamin, 1921]) を達成するということであり、こうしてそれはひとつの新しい歴史的時代の幕を開けるのである。」p.108

《例外状態というのは、彼が純粋暴力というベンヤミンの考えを捕捉し、アノミーをノモスの総体それ自体のうちに書きこもうとするさいに設定される空間なのである。シュミットに言わせれば、純粋暴力すなわち絶対的に法の外部にある暴力など存在しえない。というのも、例外状態においては、純粋暴力は自らが排除されること自体をつうじて法のうちに包摂されるからである。すなわち、例外状態というのは、全面的にアノミー的な人間の行動についてのベンヤミンの主張にシュミットが返答するために使う装置にほかならないのである。》p.109

「同様に、あらゆる法的問題の最終的な決定不能性というベンヤミンの考えへの返答として、シュミットは極限的な決定の場所としての主権を主張するのである。」p.110

“主権者は例外状態に関して決定することによって、それをいかなる仕方でも法秩序のうちに包摂してはならないのであって、反対に、それを法秩序から排除し、その外部に放り出したままにしておかなければならないのである。”p.111

「そのつど例外に関して決定しなければならない主権者とは、まさに法の総体を分割している断裂が埋め合わせ不可能なものになってしまう場にほかならない。権力 (Macht) と能力 (Verm�・gen) とのあいだには、いかなる決定も埋めることのできない裂け目が口を開けているのだ。」p.113

《こうした主権者の機能のドラスティックな再定義は、例外状態の別の状況を含意している。例外状態はもはや、その停止状態のうちにあって効力を発揮する法律の力によって内部と外部、アノミーと法的コンテクストとのあいだの接合を保証する閾としては立ち現れない。それはむしろ、被造物の領域と法秩序とが同じひとつの破壊のなかに巻きこまれるような、アノミーと法とも絶対的に決定しがたいひとつの地帯なのだ。》p.115

“しかしながら、シュミットがいかなる場合にも受け入れることができなかったのは、例外状態が全面的に通常の状態と融合してしまうことだった。” p.116


「すなわち、このアノミーの地帯において問題となっているのは、暴力と法との関係なのであり――究極的には人間の行動の暗号としての暴力の地位なのだ。暴力を法的コンテクストのうちに書きこみなおそうと事あるごとに努めているシュミットに対して、ベンヤミンは純粋暴力としての暴力に法の外部にあっての存在を保証しようと事あるごとに努めることによって応じているのである。」p.119

「究極の形而上学的掛け金としての純粋存在に、ここでは、極限的な政治学的対象、あるいは政治学の「もの自体」としての純粋暴力が対応している。純粋存在をロゴスの編み目のなかに捕捉しようとしてきた存在‐神‐学的戦略に、アノミー的な暴力と法とのあいだの関係を保証するはずの例外の戦略が対応している。」pp.119-120

《純粋暴力とは、むしろ、例外状態をめぐる抗争におけるゲームの掛け金であるにすぎず、その抗争から生じる結果である。そして、このようにしてのみ、法に先立つものとして前提されるものなのである。》p.121

“――言いかえれば、純粋暴力と神話的‐法的暴力とのあいだの差異は暴力それ自体のうちにあるのではなく、暴力とその外部にある何ものかとのあいだの関係のうちにあるということを意味している。”p.123

“純粋暴力によってなされる神話的‐法的暴力の仮面剥奪に、カフカ論においては、一種の残余として、もはや実地には用いられず、もっぱら勉学されるだけの法という謎めいたイメージが対応する。”p.126


第5章 祝祭・服喪・アノミー

「主権者は生きた法律であるということは、主権者は法律によって拘束されないということ、法律の生命は主権者のうちでは全面的なアノミーと合致するということでしかありえない。」p.140


第6章 権威 auctoritas と権限 potestas

「権威主義的パーソナリティ」(アドルノとエルス・フレンケル=ブルンシュヴィック)

「自由主義による権威と暴政との混同」(Arendt, 1961, p. 97)

「権威と自由、権威と民主主義を対立させ、そのあげく権威と独裁とを混同するにいたった現代の国家理論における伝統喪失」(Schmitt, 1931, p. 137)


《しかしながら、そもそも後見人=「増大させる者」の「力」はどこからやってくるのか。また、この「増大させる」力とは何なのか。》p.155

〈モムゼンは権威のこの特異な性格を表現しようとして、それは「命令以下であり助言以上である」(Mommsen, 1969, p. 1034) というように書いている。〉p.157

《権威と権限とは、互いにはっきりと区別されている。しかしまた、それと同時に両者は一体となって二項からなるひとつの体系を形成しているのである。》p.158

“法的効力というのは人間的行為の本源的な性格なのではなくて、「適法性を授与する潜勢力」(Magdelain, 1990, p. 686) をつうじてそれらの行為に伝達されなければならないものなのである。”p.159

《…権威は、“権限が生じているところではそれを停止させ、権限がもはや効力をもたなくなってしまったところではそれを復活させる力”として作用しているように思われる。それは法を停止したり復活させたりするが、形式的には法としての効力を発揮することがないひとつの力なのだ。》pp.159-160

《ここで権威は、一瞬の間だけ、その本質を明らかにする。「適法性を授与する」と同時に法を停止することのできる潜勢力は、その法的無効性が最大限に到達した時点で自らのもっとも本来的な性格を露呈するのである。これこそは、法が全面的に停止された場合にも法に残っているもの (ciò che resta del diritto)なのだ(この意味では、それはカフカの寓話のベンヤミンによる読解のなかで、法ではなくて生であると言われているもの、そのあらゆる点で生と判別不能になってしまった法にほかならない)。》pp.162-163


*権限 (potestas) [dynamis] p.165

「…権威は、人物から、その人物をつうじて構成されるものとして、湧き出てくるのであり、その人物のうちでのみ生き、その人物とともに消えてなくなるのである」(Heinze, 1925, p. 356)


「法とはある特別の視点から見られた生にほかならない」——サヴィニー (1779-1861)


《権力の「玉手箱」(arca) がその中心に内包しているものは何かといえば、それは例外状態である。しかし、例外状態というのは本質からして空虚な空間であって、そこでは法との関係をもたない人間の行動が生との関係をもたない規範に対峙しているのである。》p.175

《ところが、本当の意味で政治的なのは、暴力と法とのあいだのつながりを断ち切るような行動だけなのだ。そして、このようにして開かれた空間から出発することによってのみ、例外状態において法を生に結びつけていた装置を不活性化したあとで、法の使用の可能性についての質問を提出することが可能となるだろう。》p.178