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アガンベン『人権の彼方に―政治哲学ノート』

2014-08-13 12:30:52 | Agamben アガンベン
――Giorgio AGAMBEN, MEZZI SENZA FINE (1996)


I

“つまり、人民 popolo はそれ自体のうちに常に既に、基礎的な生政治的亀裂を抱えこんでいる。人民は、自らが部分をなしている全体の中に包含されることができないもの、自らが以前から常に包含されている集合に所属することができないものである。”

“それは、存在するためには、自分の反対物によって自らを否定しなければならないものである(人民へと向かいながらその廃絶を目指すという労働運動に特有のアポリアの数々はここに起因する)。”

“この観点からすると、現代は、人民を分割している亀裂を埋め、排除された者たちという人民を根源的に消滅させる試み――容赦のない、方法的な試み――にほかならない。”

《エス Es と自我 Ich の関係についてのフロイトの公準を言い換えて、近代の生政治は「剥き出しの生のあるところに〈人民 Popolo〉がなければならない」という原則に支配されている、と言えるかもしれない。ただし、この原則は、逆の定式化をしても、つまり「〈人民 Popolo〉のあるところに剥き出しの生があることになる」としても、同じ価値をもつ、ということをすぐさま条件として付加すれば、である。》

《西洋の基礎的な生政治的亀裂を考慮に入れることのできた政治だけが、この振動を停止させ、人民とこの地上の都市とを分割している内戦に終わりをもたらすことができるだろう。》

《いまや都市の内部に自らを確固と据えた収容所は、この惑星の新たな、生政治的な規範〔ノモス〕である。》


II

《身振りを特徴づけるのは、そこにおいては人は生産も行動もせず、引き受け、負担する、ということである。》

〈制作することが、これこれの目的のための手段であり、行為することが、手段のない目的であるとすると、身振りは、目的と手段のなしている、道徳を麻痺させている誤った二者択一を打ち壊すのであり、それは、目的になってしまうことのないままに手段性の領域に“そのままで”従属する諸手段を提示する。〉

“身振りとは、ある手段性をさらしだすということであり、手段としての手段を目に見えるものにするということである。”

「このように、身振りにおいても、人間たちに交流するのは、それ自体が目的である目的の圏域ではなく、目的を欠いた、純粋な手段性の圏域なのである。」

☆p.64「目的のない目的性」


「というのも、いまやさらに明らかに、“人間の住みうる世界における人間の生き延び”を管理するのがその専制の任務となるからである。」

“到来する政治は、新たな主体にせよ古い主体にせよ、もはや社会的主体の数々によってなされる、国家の征服および制御のための闘争ではなく、国家と非国家(人間)との間の闘争、複数の何らかの特異性と国家組織との間の、埋めることのできない選言である。”


“真理を対象とするこの闘争は、〈歴史〉と呼ばれている。”――「顔」

〈というわけで、露出は、数々の像やメディアを通じて集約された一つの価値へと変容し、その価値の管理を、新たな官僚階級が嫉妬深く見張っている。〉

“顔とは、顔面が顔面の剥き出しの中に露出することであり、それは、性格に対する勝利――言葉――である。”

“人間の顔は、顔の構造そのものの中に、固有なものと非固有なもの、交流と交流可能性、潜勢力と現勢力、といった二重性を再生産しており、この二重性が人間の顔を構成している。人間の顔はある受動的な地から形成されており、その地から表現的な輪郭が浮き出している。”


III

“実のところ、主権者が、例外状態を布告して法の効力を中吊りにすることで暴力と法権利とが混同される点をしるしづける者であるとすると、警察は、いわばこうした「例外状態」において常に動きだす。”――「主権警察」

“この意味では今日、地上には、潜在的に犯罪者でないような国家の長は一人もいない。”


p.118 主権とは、暴力と法権利、生きものと言語活動との間に決定不可能な結びつきがあるという理念のこと……

“今日、社会的な潜勢力が存在するとすれば、それはそれ自体の無力さの果てまで行くのでなければならず、法権利を維持したり措定したりする意志の一切を忌避し、主権を構成している暴力と法権利の間、生ける者と言語活動の間の結びつきを至るところで粉砕するのでなければならない。”

“手段性を露呈すること、手段それ自体をそのまま目に見えるものにすることが、政治的なことである。”



“ところがいまやまさに、血と生物学的身体は、決定的な政治的判断基準の代わりとなっている。”

〈はっきりと見分けられないもののなすこの不透明感地帯を収容所と呼ぶとするなら、われわれは、収容所からふたたび始めなければならないのだ。〉

《だが、倫理的 ‐ 宗教的な諸範疇と法的諸概念との混同ほどに、あらゆる倫理的経験の取り返しのつかない荒廃の明白な指標であるものもない。この混同は今日、絶頂に達している。今日では、どこであれ道徳が語られているところで人が口にしているのは法権利の諸範疇であり、反対に、どこであれ法をなしたり訴訟をなしたりするところでは、倫理的な諸概念が警士〔リークトル〕の斧のように取り扱われている。》

「今日のいわゆる民主主義国家の中に、人間の悲惨のこの大々的な製造に首まで浸かっていないような国家はない。」

「愛から脱する者たちに対する処罰とは、〈審判〉の権力へと引き渡されてあるということである。彼らは互いに互いを裁かなければならなくなる。」


《確かなことが一つある。この政治家たちは、懸命に勝利しようとする自分の意志自体によって、結局は敗北するだろう、ということである。主流派〔エスタブリッシュメント〕であろうとする欲望は、先立つ者たちを敗北させたのと同じように、彼らをも敗北させるだろう。》


《政治とは、人間の本質的な働きのなさに対応するもの、人間の共同体の根源的に働きのない存在に対応するものである。そこに政治がある。というのも、人間とは働きのない argos 存在であり、どのような固有な働きによっても定義づけられないからである。すなわち、いかなる同一性によってもいかなる使命によっても汲み尽くされることのない、純粋な潜在性の存在だ、ということである》

《この働きのなさ argia、この本質的な働きのなさおよび潜在性が、どのように、歴史的な任務となることなく引き受けられうるのか、すなわち、政治が、どのように、人間の働きの不在の露出にほかならず、それぞれの任務に対する創造的な無関心の露出にほかならないものでありうるのか、そしてまさにその意味で政治が幸福へと全面的に割りふられてある、ということ――まさにこのことこそ、剥き出しの生に対するオイコノミアの惑星規模での支配を通じて、またその支配を超えて、到来する政治の主題を構成する。》


“われわれはすべての人民の破産の後に生きている。”