(※Twitterからの転載)
私は以前に、-Φ(マイナス・大文字のファイ)のマテームを考えていました。レエルの欠如、つまり“現実的な穴”を意味するものとして。
象徴的ファルスのシニフィアンが単にハリボテだとしても、原抑圧の吸引として反復強迫=死の欲動が働かないと、シニフィアンは連鎖しないとも言える。つまり、ここで自由連想が可能かどうか見極める必要性がある。この原抑圧の吸引力が、父性隠喩成立の条件ですね。
ラカンは象徴的ファルスについては逡巡しているところもあるから、この -Φ は私の読みでもあるんですけど、この -Φ により現実界に穴が穿たれ、S(A/) が取り囲むのが女性のセクシュアリティの在り方。
――ある方からの応答:今日考えててふと思ったが-Φって倒錯でいいのか、って思った。
そう、その連関で考えてたんです。ラカンは倒錯者なんじゃない? みたいに。サディズムあるでしょ、彼は。それに別段、ラカンの理論をセミネール順に律義に教えを順守し出すのも、あまり私のスタイルではないし、そのようにはやりたくはない。
それにラカンは象徴的去勢 cartration のマテームを -φ で表記したのだから(象徴的去勢の対象は想像的ファルス)、現実的剥奪 privation のマテームを -Φ で記すのは問題は別にない(現実的剥奪の対象は象徴的ファルス)。
前者を象徴界の欠如 lack、後者を現実界の穴 hole と考えれば、ラカンの纏まりのない言い方も、筋は通る。私はセミネールの4『対象関係』を結構、重要視していて。
――質問:「-Φの否認」。これは、-Φが倒錯であるならば、「倒錯の否認」となり、「否認の否認」という意味になりますが、そういった意味でしょうか。もしそうなら蓮實重彦が言っていた「倒錯を倒錯する」(だったかな)を思い出しました。
そうではなく、倒錯者が -Φ(現実的な剥奪)を否認しているという意味です。-Φ 自体は倒錯とは違いますね。
現実的な剥奪 privation により、象徴界からΦのシニフィアンが欠如するわけです。つまり、「剥奪」を受け入れるのは、Φたる「男性的抵抗」を克服する意味もあります。女性の場合は、「ペニス羨望」を克服することですね。
■剥奪(-Φ)を否認するということについて
ちなみに私が考えていたのは、-Φ の否認が日本人には男女問わず多いことですね。ラカンすらそうだと思ってました。-Φ を否認した上で、Φ と-φ の間を右往左往している印象があります。
つまり、自分が現実的に剥奪 privation されているのに、その穴を塞ごうと躍起になっている。フロイトで言うなら、寄る辺なさ helplessness を受容できていない。
簡単に言うなら、皆がどうにもならない現実を、どうにかしようと躍起になり、あれこれ画策しだしてしまうわけですね。
■-Φ とA/〔大他者の欠如〕について
(※質問に対する返答)
両者の強調点の違いを挙げてみますと、-Φ は“現実界の穴”を指し示していて、A/ はそれが“象徴界において欠如として表象される”、というニュアンスの違いがあると思います。文学で言うと、カフカが描いた法の不条理な世界や、アガンベンの言う〈例外状態〉をイメージしてもらってもいいでしょう。後ですが、このマテームを考案した利点は、トラウマの精神分析も扱え得るということは言えると思います。
リアルな穴(孤立無援、寄る辺なさの状況)に立たされた患者は、ある意味でこの出来事を主体化し、過去のものとは出来ずに現前させてしまうのでしょうから(フラッシュバック)、トラウマの患者が立たされている状況は、S / -Φ です。S は象徴化される以前の主体、欲動のエス Es の主体です。
メランコリーの主体が、A/ を前にして罪の意識や取り返しのつかなさに苛まれるとすれば、トラウマの主体はA/ を前にして、自らの剥き出しの生 la nuda vita(≒欲動のエス Es)と恥に苦しむのかもしれません。
-Φ とA/ の間で、主体が宙吊りにされ不能に陥るのが、カフカ的な不条理と思われます。この構造は、逆説的にですが主権権力の発生と重なります。
(仮にこの構造式を、「A/ / -Φ」と印しましょう。更に言うなら、この構造により全体主義的な権力は力を失います。)
ある意味では私は、剥き出しの生と例外状態を、精神分析の基礎として据えようと試みているわけです。S / -Φ と A/ / -Φ。
「すなわち、例外状態というのは外でも内でもないひとつの空間(規範の無化と停止に対応する空間)を包含し捕捉する」――ジョルジョ・アガンベン『例外状態」(p.70)
私は以前に、-Φ(マイナス・大文字のファイ)のマテームを考えていました。レエルの欠如、つまり“現実的な穴”を意味するものとして。
象徴的ファルスのシニフィアンが単にハリボテだとしても、原抑圧の吸引として反復強迫=死の欲動が働かないと、シニフィアンは連鎖しないとも言える。つまり、ここで自由連想が可能かどうか見極める必要性がある。この原抑圧の吸引力が、父性隠喩成立の条件ですね。
ラカンは象徴的ファルスについては逡巡しているところもあるから、この -Φ は私の読みでもあるんですけど、この -Φ により現実界に穴が穿たれ、S(A/) が取り囲むのが女性のセクシュアリティの在り方。
――ある方からの応答:今日考えててふと思ったが-Φって倒錯でいいのか、って思った。
そう、その連関で考えてたんです。ラカンは倒錯者なんじゃない? みたいに。サディズムあるでしょ、彼は。それに別段、ラカンの理論をセミネール順に律義に教えを順守し出すのも、あまり私のスタイルではないし、そのようにはやりたくはない。
それにラカンは象徴的去勢 cartration のマテームを -φ で表記したのだから(象徴的去勢の対象は想像的ファルス)、現実的剥奪 privation のマテームを -Φ で記すのは問題は別にない(現実的剥奪の対象は象徴的ファルス)。
前者を象徴界の欠如 lack、後者を現実界の穴 hole と考えれば、ラカンの纏まりのない言い方も、筋は通る。私はセミネールの4『対象関係』を結構、重要視していて。
――質問:「-Φの否認」。これは、-Φが倒錯であるならば、「倒錯の否認」となり、「否認の否認」という意味になりますが、そういった意味でしょうか。もしそうなら蓮實重彦が言っていた「倒錯を倒錯する」(だったかな)を思い出しました。
そうではなく、倒錯者が -Φ(現実的な剥奪)を否認しているという意味です。-Φ 自体は倒錯とは違いますね。
現実的な剥奪 privation により、象徴界からΦのシニフィアンが欠如するわけです。つまり、「剥奪」を受け入れるのは、Φたる「男性的抵抗」を克服する意味もあります。女性の場合は、「ペニス羨望」を克服することですね。
■剥奪(-Φ)を否認するということについて
ちなみに私が考えていたのは、-Φ の否認が日本人には男女問わず多いことですね。ラカンすらそうだと思ってました。-Φ を否認した上で、Φ と-φ の間を右往左往している印象があります。
つまり、自分が現実的に剥奪 privation されているのに、その穴を塞ごうと躍起になっている。フロイトで言うなら、寄る辺なさ helplessness を受容できていない。
簡単に言うなら、皆がどうにもならない現実を、どうにかしようと躍起になり、あれこれ画策しだしてしまうわけですね。
■-Φ とA/〔大他者の欠如〕について
(※質問に対する返答)
両者の強調点の違いを挙げてみますと、-Φ は“現実界の穴”を指し示していて、A/ はそれが“象徴界において欠如として表象される”、というニュアンスの違いがあると思います。文学で言うと、カフカが描いた法の不条理な世界や、アガンベンの言う〈例外状態〉をイメージしてもらってもいいでしょう。後ですが、このマテームを考案した利点は、トラウマの精神分析も扱え得るということは言えると思います。
リアルな穴(孤立無援、寄る辺なさの状況)に立たされた患者は、ある意味でこの出来事を主体化し、過去のものとは出来ずに現前させてしまうのでしょうから(フラッシュバック)、トラウマの患者が立たされている状況は、S / -Φ です。S は象徴化される以前の主体、欲動のエス Es の主体です。
メランコリーの主体が、A/ を前にして罪の意識や取り返しのつかなさに苛まれるとすれば、トラウマの主体はA/ を前にして、自らの剥き出しの生 la nuda vita(≒欲動のエス Es)と恥に苦しむのかもしれません。
-Φ とA/ の間で、主体が宙吊りにされ不能に陥るのが、カフカ的な不条理と思われます。この構造は、逆説的にですが主権権力の発生と重なります。
(仮にこの構造式を、「A/ / -Φ」と印しましょう。更に言うなら、この構造により全体主義的な権力は力を失います。)
ある意味では私は、剥き出しの生と例外状態を、精神分析の基礎として据えようと試みているわけです。S / -Φ と A/ / -Φ。
「すなわち、例外状態というのは外でも内でもないひとつの空間(規範の無化と停止に対応する空間)を包含し捕捉する」――ジョルジョ・アガンベン『例外状態」(p.70)