1. 私の言いたい「経験」とは、近代の権威的な人物が、あいつには「経験」が足りないと言ったりするような「経験」ではない。むしろ、そのような「経験」が全く成り立たなくなっていったのが、私の世代だったし「経験」が権威により保証されていた時代感覚は希薄だった。それでもやはり、「経験」という以外には自分には言いようがない何かが、私を捉える。
超越論的な経験を思い起こせばいいのか? あるいは、「経験の剥奪」に変わる“別の”あるいは“新しい”経験という問題に腐心しているだけなのか?
例えば、戦争から帰還した兵士がそこに何か“伝達しうるような経験”を携えていたのかと言えば、ベンヤミンの診断を待つまでもなく、彼らにはそのような「経験」が何もなかったことは新しくはない。そして、そのような「経験の貧困」が現代を覆っていることもまた、何も真に新しくはない。
現代とはもはや、経験などしなくても日常生活は送れるのだし、我々が日夜見ているニュースも SNS も寧ろ、経験をなくし、貧しくすることに役立っている。まるであたかも、経験などもはやどこにもなく、意識においてはノイズでしかないように思え、日々情報やデータだけが“新しさ”や“最新”を装い、繰り返されるに過ぎない。だが、そのような装われた“新しさ”や“最新”は、実は最も“陳腐”だった可能性はある。
これは、予見である——。多分、今日また「経験」なるものが見出されるのだとすれば、それは伝統的な経験概念の復権でもなければ、新しさの中にでもない。そして、幸運の女神は待ってはくれない。
2. 「科学的な主体」が見ようとしない「冒険的な主体」という問題がある。仮に、今日新たに“経験”概念を練り直すとすれば、この両者の間の拮抗や摩擦、そして距離やすれ違いを通してだろう。
そして何故、いわゆる“現代人”は自己を全開にすること(解放)を自由と履き違えだしたのか? これも、科学的な主体と未だ地続きにある障壁になっている。これはレトリックの問題かは分からない。科学が装い提供する“新しさ”は新しくはない。せいぜい、“アップデート”されたイノベーションを指すに過ぎない。この延長では、自由も考えることはできない。新奇さは自由というよりは、我々を別の牢獄に繋ぐだけだ。
科学が覆い隠している人間の生とは——?
アガンベンは「経験は人間の外で遂行されている。しかも、奇妙なことに、人間はそれらの経験を安堵の念とともに眺めようとしている」と、ある本の中で述べている。
何故、科学的な主体は自己を全開にし“前に”飛翔することを自由や進歩と見なしたがるのだろうか? 彼らの中にある「経験の拒絶」。彼らがもし、「経験」をするなら月へは行きはしない。科学の主体は、人間を外から眺めるだろう。月から眺められた人間は、未だ「貧困」に喘いでいる。そして今日、「貧困」とは「経験の貧困」としてのみ立ち現れていると彼が気づくなら、彼は自らがその「貧困」を招いた張本人であることに目を見開くかもしれない。あるいは、より深い盲目が彼を閉ざすかもしれない。より深い盲目が彼を閉ざす時、彼は多分自分が「新しい経験をした」と確信し、思い込むだろう。
コギトが疑念において生じることは否定しない。だが、コギトの主体は悩むのだろうか? コギトはまず(古典的な意味での)経験と認識を分離する。コギトはあらゆる経験を原理的には疑問に付するヌース〔知性〕の働きである。しかし、ヌースはプシュケー〔心=魂〕ではないし、プシュケーは悩むことで学ぶ。
3. ではここで、こう問いたい。近代以降の「経験の剥奪」——あるいは、「経験の貧困」でしかない「現実の貧困」——に対して、われわれはどう立ち向かうべきなのか? そして、そこでの「新しいもの」とは何なのか? 今尚、精神分析において問われる経験とは、何であったのか?
つまり、精神分析には近代以降の危機(経験の剥奪、経験の貧困、現実の貧困)に立ち向かうべく問題が、“予め”内属されていた。それが、“無意識の経験”に他ならない。
逆説的に、近代以降になり「新しさ」は経験の消失と停止として現れていることに注意がいるだろう。われわれが仮に、月に旅行することを「新しい」と考えるにせよ、これは経験にとってはその危機でしかない。これは、先に述べたフロイト的な“新しさ”とはまるで違う。
近代以降になり初めて、われわれは「新しさ」を逆に、経験の貧困を覆い隠すものとして体験するようになった。奇妙な言い方になるが、“新しさの体験”とは、もはや“経験しないことの裏返し”として立ち現れている。
この捻れこそが、まさにフロイト的な無意識の経験の問題を、逆照射する。それは、「無意識の主体の経験」とも区別されうる、「無意識の経験」と呼べる何かである。フロイトの名指した「それ Es」には、“言語活動の経験”というインファンティア〔幼児期〕に繋がる問題も内属されていた。
《……我々は、新しさが単調であり、驚異や極端さが退屈をもたらすという、おおよそ奇妙なことを経験しているのである。》——ポール・ヴァレリー「知性について」(『精神の政治学』中公文庫版、p.114)