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メタファーと転移を巡る断片的考察 (2)

2017-03-20 19:58:04 | 精神分析について
無意識というのは、言わば他のトポス—他の舞台—を捏造する。これが、人間の記憶の問題でもある。そして、その立役者的な語の転義が、メタファーだろう。

Nietzsche は、この記憶によって固定化される概念を“規則による虚構 regulative Fiktion”と呼び、論理的思惟と代数の公式について説明し、虚構、捏造された思惟、歪曲の技術という言葉を当てがっている。

これによるなら、メタファーにおいては、感覚の臆見が伝達されるということ、感覚的なものと知性的な精神の捏造や歪曲の技術のあいだに、虚構的な性格が存在していて、われわれの愚かさがあたかもそれらを、“現実”と認識〔錯覚〕し、経験している“気になっている”ということも、合点がいく。

ちなみにだが、Nietzsche が“規則による虚構”として具体的に挙げていることは、「自我、質量、もの、実体、個体、目的、数」である。

これらが、《つまりは“規則による虚構”にすぎず、この助けを借りて一種の恒常性、したがって「認識可能性」が生成の世界に置きいれられ、“捏造される”のである》(Nietzsche)。

そう考えると、精神分析について、捏造された概念でもって論文を作成する「技術」や、弁論における「記憶術」の問題が、“苦痛”や“良心のやましさ”という生理学と仮象の問題に変わり得る。


さて、ここから“欲望の原因”すら、ある種の誤謬推論によるものであることを導きたい。 何故、それは欠如で、出会い損ねるのか?

発生論的には、「原因と結果の取り違え」から欲望の原因が生じる。 だが、わたしたちは、欲望の原因がまずあるのではないかと夢想する。 欲望の原因と呼ばれるもの(欠如)は、本来は「原因と結果の取り違え」から、遡及的にしか見出せないものであるが!

ここに、プラトニズムの盲目性があることは、触れておきたい。 「欲望の原因」は、本来は、エイドスとイデアの取り違えからの“帰結”に比するべき問題なのだ。

このことは、後期Nietzsche においてはどう言われているか? 《「内的世界」の現象体制においては、わたしたちは原因と結果の時間関係を逆転させる》、《結果が生じたのちに、原因が想像されるということ》、《原因が結果よりもあとになって意識される》。

Freud 的な欲動 Trieb と外界の問題も、この地平ある。私たちの感覚刺激は、内部から生み出されたものであるのにも関わらず、それが外界からのものと、われわれは取り違える。 後からの帰結に過ぎない問題〔外界〕が、先〔時間的な原因〕にあるかのように錯覚される。

《中枢神経の興奮に対して、ひとつの原因が求められ、表象されるということ》、《それは過去の「内的経験」すなわち記憶にもとづいた手さぐりである。しかし記憶は古い解釈の習慣すなわち「内的経験」の誤った原因設定を保持しているのであって、……そのため「内的経験」はそれ自身の中に、すべての過去の誤った因果論的仮構の帰結を依然担い続けなければならないのである》。

Nietzsche はこの因果論的仮構の誤謬を“理性の本来の頽廃”と呼び、その誤謬は神聖化されていて、「宗教」「道徳」という名称を持っていると述べる。

「宗教と道徳とが定式化するあらゆる命題はこの誤謬をふくんでおり、僧侶と道徳の立法者とは理性のあの頽廃の張本人である」——ニーチェ『偶像の黄昏』


もはや、日本においては精神分析すらそうなりつつある。


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