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per l/a psicoanalisi

解釈—知—解釈妄想ということについて

2021-05-20 21:08:00 | 精神分析について

おそらく、このロジックの導き方の問題は、言語の目的論—それが構造的なものであれ、ある種の時間の考えを内包しているのであれ—という枠組みに既にある。

 
だが、精神分析は言語を手段化しているとしよう。この手段とは、患者のパロールでも分析家の解釈でもどちらでも構わない。(実際に、厳密に理論上は、言語を目的論としているのは、患者のパロールから演繹している構造の方にある。そして、構造による意味-作用の産出が線型的な時間を既に前提としている。つまり、ランガージュの何らかの効果としての主体。)
 
言葉をその目的論的な因果性として理論上で前提として扱うことは確かにできる。だか、言葉それ自体を手段として考えれば、別に分析家の言葉ないし沈黙は、意味-作用やその分節化を前提にはしない。(臨床的には、奇をてらう“必要”—これも分析家の側の特殊な欲望と不可分である—もない)
 
では、ここでの言葉は何を導いているのか?(おそらくは、その理論が忘却している事態は、言葉による想起の経験と言葉それ自体の経験論の次元—どちらも、同じだとは言えるが—だろう。この二つの経験は、ランガージュによる真理の効果の経験とはまた異なるといえる)
 
 
無意識。ここでの意味は、フロイトが後に修正したように前意識のことである。
 
それが、翻訳というメタファーであったり、解釈が無意識を存在させるという事実性の水準であったり、無意識が解釈するという力点の変化—移動〔遷移〕—として言われている。
 
だが、ここに潜む暴論は、理論の枠組みが既に言語の目的論を抜きにしては成立しないというある種の限定である。(これに対し、言語の“目的なき”手段化、つまりは言語の行為や実践の側面をここでは提起している)
 
ちなみに、この目的論から考えられる(真理の効果としての)主体と、言語それ自体の経験やエスの経験のあいだには、無限という断絶が横たわる。想起の経験は、仮初にだが両者を架橋する。(美のイメージとしての想起、あるいは最初の愛)故に、その経験はまた、文字通り“試練”でもある。

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