ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

君の涙 ドナウに流れ ハンガリー1956

2007年12月16日 | 映画レビュー

 とても面白く最後まで飽きさせない作品だった。むしろ、その「飽きさせない」という娯楽性の高さが実は不満点でもある。まるでハリウッドの戦争アクションもののように見えてしまう部分があるのはちょっとどうかという気がした。また、善悪があまりにもはっきりした単純なストーリーにも深みが今一歩足りない。

 しかし、そういう不満点があっても、この映画には「ハンガリー動乱」について考えさせる要素がたくさん詰まっていて、わたしたちが二十世紀の歴史を振り返る大きなきっかけを与えてくれる。今では「ハンガリー動乱」はかの国では「1956年革命」と呼ばれている。ソ連の支配に抗して立ち上がった民衆蜂起は多くの犠牲者(3万人の死傷者、20万人の亡命)を出して収束した。この蜂起がこれほど大規模なものだったとは本作を見るまで知らなかった。ほとんど内戦状態なのだから驚いた。また、ハンガリー動乱と第二次中東戦争が同時期に起こっていたことにも思い至った。アメリカが助けに来てくれると信じた人々の思いに応えることなく西側は沈黙を守った。アメリカの政治的駆け引きに対する批判もこの映画は忘れない。

 ハンガリー動乱の時期にちょうどメルボリン・オリンピックがオーストラリアで開かれていて、ハンガリーの水球選手団がソ連と準決勝で戦い、ソ連を破りさらには決勝で勝って見事金メダルを獲ったということは史実である。その史実と学生達の反乱とを結びつけて恋愛映画を作る。このアイデアが見事だった。 

 女性監督にこんなアクションものは撮れまいと思うなかれ。アクション監督にヴィク・アームストロングという有名なスタントマン兼アクションシーン監督を配したことが奏功している。迫力ある戦闘シーン、勇敢な女性闘士たち、自由を求める人々の熱い想い、本作はそういった、感情を盛り上げるロマン主義には事欠かない。

 だからこそ、この映画を見るだけで満足せずに、この物語の背景となった史実や思想的問題について考えてみたいと思うのだ。本作を見てもハンガリー動乱の背景は理解できないし、なぜ人々が銃を持って立ち上がるほどに窮乏していたのか、当時の政権はどういう政策をとっていたのか、それは勉強しないとわからない。本作に登場する革命派のナジ首相は後に秘密裡に裁判にかけられ処刑されている。1989年に社会主義政権が崩壊して以降、ナジの評価も一変し、現在では再埋葬されて名誉回復している。

 果たしてこの「革命」を「革命」と見ることができるのかどうか、それは疑問だ。本作を見る限り、人々の思いはナショナリズムに彩られていて、それは一歩間違えれば排外主義へと陥るものに見える。ハンガリー国旗を伝統的な国旗に戻そうというスローガンは復古主義・反動だし、それは例えば「太陽の雫」でサボー監督が描いたようなユダヤ人虐待をも憂慮させる。

 だが、さらに逆説的には、本作が政治映画ではなく、あくまでも理想に燃える美しい若者たちを主人公に据えた恋愛映画であったことが、これらもろもろの問題よりも人間ドラマに焦点を当てて本作を成功に導いたと言える。チームの英雄である水球選手と革命の意気に燃える勇敢な女子学生。この二人の運命的な出会いと恋に当時の人々の思想を代弁させたことによって、観客の理解は容易となった。オリンピックに出る夢のためには「革命」などという危険な玩具に近づいてはいけない。ほんと、スポーツ選手が保守的なのはこういう映画を見るとよくわかります。けれど、自分だけの夢にとりつかれていた若者が、友人の虐殺を目の前にし、さらに恋した女性に感化されて変わっていく。そのダイナミズムをもう少し丁寧に描いてもらえればさらによかったのだが、あまりにも簡単に改心してしまうので、「おいおい、下半身に引きずられて宗旨替えかい?」と皮肉を言いたくなります。

 本作では男よりも女のほうが果敢に戦い、男を変えるのは女である。まことに正しいフェミニズム映画となっている。感涙に咽せぶ感動作というわけではないけれど、ハンガリー事件について、また、その描き方について考えさせられる作品だった。

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SZABADSAG, SZERELEM
ハンガリー、2006年、上映時間 120分
監督: クリスティナ・ゴダ、製作: アンドリュー・G・ヴァイナ、脚本: ジョー・エスターハスほか、音楽: ニック・グレニー=スミス
出演: イヴァーン・フェニェー、カタ・ドボー、シャーンドル・チャーニ、カーロイ・ゲステシ、イルディコー・バンシャーギ、タマーシュ・ヨルダーン

萌の朱雀

2007年12月16日 | 映画レビュー
 これはつまらない。

 「沙羅双樹」と比べるといかにも完成度が低くて、「模索中です」っていう作品だ。映画館で見たときに全編ほぼ寝通してしまった「殯(もがり)の森」に比べても映像の質が格段に落ちる(ちなみに、「殯の森」がつまらなかったわけではなく、体調と環境の問題であった)。やたら画面が白っぽくて色がとんでいたり(わざと?)、音が聞き取れなかったり、何を狙っているのかよくわからない沈黙や「空白」を作ってみせるあたり、同じような手法で作られた「沙羅双樹」よりずっと稚拙な印象を受ける。

 一つには、奈良県の山奥に住む家族の構成をきちんと説明しないために、肝心の、少女の淡い恋心や青年の複雑な心理を観客に納得させられないことが原因の一つと思われる。祖母・息子夫婦とその子どもたち、という直系家族の話かと思いきや、実は主人公一家の男の子はこの家の息子ではなく、両親の離婚によって叔父夫婦に引き取られた子どもであるのだ。まずこれを押さえておかないと後の展開がさっぱりわからない。

 あまりにも淡々と山村の風景が映し出され、日常生活がドキュメンタリータッチで流れていくため、わたしはこの一家の家族構成を把握できなかった。DVDを見ている最初のうち、うちの家族たちが周りで騒いでいたため、ちっとも音声を聞き取れなかったのが原因だ。それにしてもこんなに画面の緊迫度が低い映画なんだから、うっかり見過ごさない/聞き逃さないようにそのあたりはちゃんと説明してほしかったわ(涙)。

 この映画は役者に素人を多用し、演技させずに自然な流れを作っているかのように見えて、ストーリーの流れじたいはちっとも自然じゃない。父親の蒸発も母親の里帰りもその理由に説得力がない。誰にも焦点を合わせないような淡々とした撮り方をしているからだろう。しかしそれでも、少女の恋心や家族への揺れる思いだけはよく伝わってくる。

 悪口を書いたようだが、ときどきはっとさせるようなショットがあり、やはりこの監督が力を秘めていることは感じさせる。「沙羅双樹」がお気に入りなだけに厳しい評となったようだ。ただ、このなんともいえない薄い空気感の映画が好きな人にはぴたっと受けると思うので、試しにご覧になることをお勧めしておきます。あ、音楽はいいです、とっても。ピアノの美しい調べにうっとりします。(レンタルDVD)

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日本、1997年、上映時間 95分
監督・脚本: 河瀬直美、プロデューサー: 仙頭武則、小林広司、撮影: 田村正毅、音楽: 茂野雅道
出演: 國村隼、尾野真千子、和泉幸子、柴田浩太郎、神村泰代、向平和文、山口沙弥加

亀は意外と速く泳ぐ

2007年12月16日 | 映画レビュー
 「脱力系奥様スパイ」の摩訶不思議なスパイ生活!

 若い奥様は単身赴任中の夫に代わって毎日亀に餌をやる日々。とゆーか、亀に餌をやる以外にはすることもない退屈きわまりない日々。それが偶然にも「スパイ募集」の貼紙を見つけて応募にでかけるや、ただちに採用されてしまう。今日からあなたは某国のスパイです、はい、活動資金500万円。とか言われてスパイになったのはいいけれど、本国からの指令があるまではじっと息を潜めて平凡な日々をすごすというのがスパイの勤め。そして彼女はスパイの上司夫婦に「平凡でふつうの生活」とはどういうものなのかと特訓を受けることになる…

 毎日毎日の平凡な日々にほとほとうんざりしていたはずの片倉スズメが、同じ平凡な日々でもスパイになった途端にその平凡さの意味が変わり、嬉々として平凡に過ごすさまが面白おかしい。そして、存在感が希薄なはずのスズメにとって平凡であることは彼女の本質のはずだったのに、実は平凡であるというのは難しいと発見する。そして、彼女と同じ日に生まれた扇谷クジャクというエキセントリックな女性が親友として脇を固めて、スズメの平凡な日々に非凡な彩を添えるのだ。

 スズメ以外のスパイは皆「ふつう」であることを演じている、あまりにも普通な人々、しかも実際には普通から少しずつずれている。この、「少しずれた」部分が笑いを誘うのだ。彼らは自分達が「ふつうでない」ことの自覚がない。それなのに自分達こそ「ふつうの、そこそこの、ありきたりの」存在であると信じ込んでいる。その落差が面白い。

 こうなると、「ふつう」とは何かという形而上学の問題が生起してくるではないか。ことほどさようにわたしたちの社会には「ふつうであること」、「目立たないこと」の圧力は強いということだろう。「平凡な日々」を笑いとともに脱構築してみせた手腕はお見事。どたばたぶりもほどよく、とても楽しめた一作です。(レンタルDVD)

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日本、2005年、上映時間 90分
監督: 三木聡・脚本、プロデューサー: 佐々木亜希子、主題歌: レミオロメン 『南風』
出演: 上野樹里、蒼井優、岩松了、ふせえり、要潤、伊武雅刀

時をかける少女

2007年12月16日 | 映画レビュー
 原作未読、オリジナル映画も未見なので、これが「時かけ」初体験。この明るさ、屈託のなさ、そして切なさ。これぞ青春映画だ。なんのはずみかタイムリープできる能力を持ってしまった高校生の真琴という元気な女の子が、その不思議な能力を使って自分のちょっとした失敗をなかったことにしてしまう。タイムリープできるからといってその力をなにかたいそうなことに使うとか歴史的事件をひっくり返そうなんて考えないところが現代っ子か。楽しいことがあれば永遠にそれを続かせようとし、テストの点が悪ければなかったことにしてしまおうとする。

 女子高校生だけれど野球が大好きで、仲良し男子高校生二人といつも三人一緒にキャッチボールしている、なんていう風景もいかにも青春していて懐かしい。あらっぽい線の人物と、爽やかで細かい描き込みの背景のバランスの妙もなんともいえず、声優たちの声の自然な感じも好印象だ。原作はかなり古いのだけれど、設定は完全に現代に移し変えられている。

 このアニメに描かれたタイムリープとタイムバラドクスは、「いつまでも友達でいたい」という少女らしい願望をそのまま永遠に凍りつかせたいという誰もが青春の一時期に抱きそうな思いを思い出させる。と同時に、さまざまな失敗や後悔をリセットしてしまいたいという願望を素直に実行に移して好き放題する真琴が羨ましくもあり呆れもする。そう、なんでもリセット。友達の気持ちまでリセットしてしまう真琴は、やがて自分が大切なものを毀損していることに気付くのだ。

 大切な友達の命の危機を目前にしながら自分のリープ能力を使い果たしてしまった真琴は、絶望にくれる。そんな彼女が自分の恋心に気付いたとき…。

 あれもなかったことにしたい、これもなかったことにしたい。これさえなければ、こんなことをしなければ。そう思う気持ちは誰もが持つだろう、でも、そうやって永遠に責任を回避していくことが「正しい」のだろうか? どんなに後悔しても後戻りはできない。人生は一回きり、決して後戻りもリセットもできないからこそ貴重なのではなかろうか。わたしは自分の過去をリセットすることを潔しとしない。どんなこともそれは引き受けていかねばならないことだろう。臍をかむ想いでもやっぱり引き受けて生きていくしかない。

 「時よ止まれ、君は美しい」は東京オリンピックのキャッチコピーだったが(2008.1.5追記、ミュンヘンオリンピックの間違いだそうです、ごめんなさい)、この映画はまさに一瞬の時を永遠に閉じこめたい青春の切なさを描いた秀作だ。(レンタルDVD)

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日本、2006年、上映時間 100分
監督: 細田守、アニメーション制作: マッドハウス、原作: 筒井康隆、脚本: 奥寺佐渡子、音楽: 吉田潔
声の出演: 仲里依紗、石田卓也、板倉光隆、原沙知絵

いとこ同志

2007年12月16日 | 映画レビュー
 なんというインモラルな! ヌーベルバーグ作品といういけれど、どこがヌーベルバーグ? 「斬新な描写」ってallcinemaの解説に書いてあったけど、当時はそうだったの?という程度のこと。しかしこのデカダンな雰囲気がたまりません。

 ほとんど同い年の従兄弟同志、片や田舎から出てきたマザコン真面目青年、片や大金持ちの放蕩息子。同じ大学に通う二人が同居するようになり、田舎青年の可愛いジェラール・ブランは美しいパリ娘に一目ぼれ。若いくせに渋いジャン=クロード・ブリアリはドイツ語を芝居じみてしゃべったり「ワーグナーだ! モーツァルトだ!」とパーティ会場にクラシック音楽を流す気障な男。まったく対照的な従兄弟たちが繰り広げる青春のどんちゃん騒ぎ。

 真面目で勤勉なジェラールくんが振られて恋人を遊び人のジャン=クロードにとられちゃうなんて、なんという可哀想なこと! 真面目な男が破滅して軽薄な要領のいい男が成功するというとんでもないお話で、不条理感に満ち溢れている。しかもこのラスト、その軽薄男にも用意されている「破滅」。

 青春の自堕落な疾走感が心地よく、演出はだれない。そして最後に待ち受ける悲劇へと、一挙に観客を奈落に突き落とすような急展開。この落差がたまらない。人生の不条理を二十代前半にして知り尽くしたような若者二人の運命の日々を描いた作品だ。心に残るラストシーンがお奨め。

 時代の価値観を先取りしたものという分析ができようか、戦後15年近くが経っていまだ生々しく残る傷痕(ユダヤ人青年がゲシュタポに恐怖する)を描きつつ、古いものを相対化してしまうジャン=クロード・ブリアリが演じた青年のような「反社会的」な人間の出現への冷めた視線が鋭い。ジャン=クロードが流暢にドイツ語を操るところが当時のフランス人にはどのように受けとめられたのだろうか。それは占領時代への意趣返しか、侵略者ドイツ人をも相対化しシニカルに笑いの中に回収しようとする若い世代の軽やかな飛翔なのか。奥の深い映画です。(レンタルDVD)

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LES COUSINS
フランス、1959年、上映時間 110分
製作・監督・脚本: クロード・シャブロル、音楽: ポール・ミスラキ
出演: ジェラール・ブラン、ジャン=クロード・ブリアリ、ジュリエット・メニエル、クロード・セルヴァル

コード・アンノウン

2007年12月16日 | 映画レビュー
 描かれているのは他者。よそよそしく、相容れない他者。たとえ親子・恋人・夫婦であっても他者どうしは理解しあえず、反発する。だが、愛と血縁によって結ばれる他者には断ち切れない絆もある。その複雑な気持ちと互いの距離の長短を絶妙な突き放し方でハネケは淡々と撮る。実にハネケらしいのではなかろうか。わたしには「隠された記憶」のほうがテーマが深まって歴史性を獲得し、わかりやすく整理されたと思えるが、映像と音楽のコラボレーションの面白さはこちらのほうが上だろう。

 各パーツ別れた群像劇なのだが、それらの間には直接のつながりがあったりなかったり、しかもブツ切れの停止カットで分断されるため、宙吊りにされた不安感や不安定感が募る。巻頭と巻末には聾学校のゼスチュアゲームの様子がいわくありげに映される。この思わせぶりなオープニングにはワクワクする。タイトルロールが終わってすぐのシークェンスこそ説明的な描写があってよくわかったが、その後はもう一度見ただけではよくわからない場面が続く。こういうときにDVDは助かります。小刻みに撒き戻しては確認するという技でなんとか乗り切った(^_^;)。

 移民、貧富の格差、人種差別、様々な社会問題をちりばめつつ、他者とは何かを問う映画だ。これをみるとラカン、レヴィナス、内田樹、と繋いで『他者と死者』を再読したくなった。(レンタルDVD)

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CODE INCONNU: RECIT INCOMPLET DE DIVERS VOYAGES
フランス/ドイツ/ルーマニア、2000年、 上映時間 113分
監督・脚本: ミヒャエル・ハネケ、製作総指揮: イヴォン・クレン、
出演: ジュリエット・ビノシュ、ティエリー・ヌーヴィック、ゼップ・ビアビヒラー、アレクサンドル・ハミド

セブンス・コンチネント

2007年12月16日 | 映画レビュー
 観客を不快にすることにかけてはラース・フォン・トリアーと共に人後に落ちないミヒャエル・ハネケ監督の長編第一作とか。これが第一作ですか。初めて作るのがこれねぇ…。この人、よほど生きるのが苦しいのだろうか、なんでこんな映画ばかり作るのでしょう。しかし間違いなく力があるために、その完成度については認めざるを得ない。たぶんこの作品はこんなふうにしか撮れなかったのだろうし、こういう撮り方できっと「正解」だったのだろう。

 タイトルの第七大陸とはオーストラリアのこと…? 主人公は小学生の娘を含む一家3人。彼らは映画の中でしきりに「オーストラリアへ移住する」と言っているし、時々、白砂の美しい海岸のイメージ画像が登場するから、きっとオーストラリアのことなんだろうと思って見ていたのだ。1987年からの3年間に渉る家族3人の淡々とした生活。きちんと整除された中流家庭の日常が微細に描かれる。それはもう、退屈でたまらないくらいだ。同じ場面が何度も繰り返し現れる。だがそれは「同じような」場面であって、同じではない。そこにはゆっくりとした時間の経過が存在するのだ。ハネケはいったい何を表現したいのだろう? この映画のテーマは何なのだろう? なんの予備知識もなく見始めたけれど、1989年のある日、一家3人が突然すさまじい破壊活動を始めることによってわたしの眠気は一気に吹き飛んだ。そのあまりの徹底ぶりに唖然とする。

 そうか、こういう映画だったのか。この作品は最後まで見てもう一度初めから見直してみたくなる映画なのだ。ラストにいたるまでに積み上げられていた一家のごく普通の生活ぶり、その3年間に一体何があったのか? 答はそこまでの描写の中に潜んでいるのか? ハネケのカメラは淡々としているようで観客の不安をそそるようなねっとりしたものだ。人物の顔を写さず手元のアップを多用してみたり、かと思うと顔のアップを連続してとりわけ少女の不安げな大きな瞳を観客に印象付けたり、洗車シーンでは車の中からのカメラが逼塞した主人公たちの心理を見事に表していたりする。

<以下ネタバレ>








 第七大陸とはオーストラリアのことなんかじゃなかったのだ。一家3人がオーストラリアへ移住するまでを描いた話しなんかではなかった。よく考えれば当たり前で、大陸は6つしかないやんか! 

 最後の延々と続く破壊シーンには絶句するしかない。この不快さは並大抵ではない。DVDにはハネケのインタビューがついているのでぜひご覧いただきたいが、この場面の中でも特にお金をちぎってトイレに流す場面がもっとも観客の拒否感をそそったそうだ。わたしもそうだったのだが、何を壊すよりもお金を破損させてしまうことに最も抵抗を感じる。これは不思議だ。

 そうかなるほど、この3人たちは現代の神を破壊していたのだ。暖かい家庭、思い出の写真、貨幣、可愛がったペット。すべてが現代人にとっての「神」なのだ。とりわけ貨幣はまさに物神の魂が宿る。神を冒涜されることに観客は耐えられないのだ。ハネケはとんでもない涜神者だ。これはすごい映画なのだ。しかも実話だというではないか。答を求めるなというハネケの言葉どおり、ここには解答のない恐怖が残る。(レンタルDVD)

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DER SIEBENTE KONTINENT
オーストリア、1989年、上映時間 104分
監督・脚本: ミヒャエル・ハネケ、製作: ファイト・ハイドゥシュカ
出演: ビルギッド・ドール、ディーター・ベルナー、ウド・ザメル、ゲオルク・フリードリヒ

71フラグメンツ

2007年12月16日 | 映画レビュー
 相変らずハネケの作品には長い監督インタビューがついていて、本人が「自分の作品を解説するほどバカなことはない」と言いながらすっかり解説してくれるので、もうそれさえ見れば映画について書くことはありません、て感じ。インタビューを見ていると、ハネケという人はインテリジェンスの人だということがよくわかる。インタビューはフラン語で答えているが、それもかなり高等な内容なのに不自由していないようだ。

 この映画は「セブンス・コンチネント」と同じような作りかたで、ある事件が起きるまでを当時のニュース映像を交えて淡々と描くという手法をとっている。「コードアンノウン」とも作り方は似ているが、それほど斬新でもない。作品の出来としては「コード・アンノウン」のほうが眼を引くものがある。

 巻頭にまず「1993年、19歳の大学生が銀行で3人を射殺、その直後に自殺した」というテロップが流れるので、本作が大学生による銃乱射事件を扱ったものであることがわかる。だが次の瞬間から始まる場面はまったく事件とは無関係に思えるようないろんな人々の日常生活が淡々とぶつ切りに提示されていくだけだ。そう、まさに「フラグメンツ」=断片、なのだ。ハネケは「われわれには断片しかわからない。何もかも分かっているなんていうのは嘘だ。そんな嘘をつくのはハリウッドのメジャー映画だけだ」と述べている。その言葉の通り、この映画を観てもなぜ大学生が銀行で銃を乱射したのかその理由はわからない。不可解な思いが残るだけだ。

 巻頭の説明を読んでいなければ、これがいったい何の映画かすらわからないだろう。だがわたしたちは知っている、これが事件の被害者の日常を描いたものであるだろうことを。しかも、よく見ると淡々としているようで実はそのさりげない日常生活の中のある感情の昂ぶりやエッジを踏むような危うい感情の爆発寸前の場面が切り取られていることに気付く。

 病気でぐずる赤ん坊を抱えるサラリーマンの一家や、寮に暮らす大学生たちの知的ゲーム、養女をもらった夫婦の戸惑い、年老いて一人暮らす老人の孤独な生活、その断片の合間にテレビのニュース番組が挿入される。最初の3分ごろまでは退屈極まりないのだが、だんだんと登場人物たちの生活ぶりや何か心に抱えているらしい感情の塊のようなものの手ごたえがわかってきて、徐々に画面に吸い寄せられていく。

 ニュースは事件を消費し垂れ流す。どんなに悲惨な戦場の様子が画面に映っても、次の瞬間にはマイケル・ジャクソンがセクシーに腰を振って歌う姿へと変わる。わたしたちはフラットな報道の世界で事件の強弱を感じることなくそして事件の「真相」や「原因」など考える暇も与えられず、ただテレビの前にぼうっと座っている観客に過ぎない。世界はだれにも理解できない。全世界を獲得するなどということは不可能なのだ。その不可能性を描いたハネケのシニカルな作品。(レンタルDVD)

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71 FRAGMENTE EINER CHRONOLOGIE DES ZUFALLS
オーストリア/ドイツ、1994年、上映時間 95分
監督・脚本: ミヒャエル・ハネケ、製作総指揮: ヴィリー・ゼクレア
出演: ガブリエル・コスミン・ウルデス、ルーカス・ミコ、オットー・グルーンマンドル