ピピのシネマな日々:吟遊旅人のつれづれ

歌って踊れる図書館司書の映画三昧の日々を綴ります。たまに読書日記も。2007年3月以前の映画日記はHPに掲載。

白い馬の季節

2007年12月27日 | 映画レビュー
 日本ではさしずめ山田洋次監督が作るような作品、といえばいいのだろうか、清く正しく貧しい遊牧民が居住地を追われていく悲しい物語。

 ユニクロが儲かると日本に降る黄砂が増えるという話がある。ユニクロのヒット商品カシミアセーターの増産のためにモンゴル(だったかチベットだったか)の遊牧民に大量のオーダーをかけたところ、それまで羊や山羊をバランスよく飼っていた彼らがいっせいにカシミア山羊を飼うようになった。山羊は草を根こそぎ食べてしまうため草原の復元ができず、砂漠が広がり、日本に降る黄砂が増えた(ついでに鼻炎に罹る者が増えて耳鼻科も儲かるだろう)。

 この映画の舞台となる内モンゴルの遊牧地が干上がってしまった原因についてははっきりとはわからない。映画の中でも砂化の原因はいろいろあるのだ、という台詞が語られるだけだ。

 ほとんど砂漠に近くなってしまった草原に一家3人で暮らす遊牧民のウルゲンは、次々餓死する羊の前になすすべもない。もはや現金は底を突き、一人息子の学費も払えない。家畜を売って町へ引越しする遊牧民が後を絶たないが、ウルゲンは遊牧でしか生きられない、と言い張って町へ行こうとはしない。いっぽう、妻インジドマはヨーグルトをトラック運転手に売れば儲かるという話に乗ってリヤカーを引いて慣れない商売を始める。彼らの素朴さは驚くべきもので、羊の皮やヨーグルトをいくらで売ればいいのかも知らない妻は、買い手に値段をつけてくれと言う。

 この映画では、素朴な遊牧民(モンゴル人)に対する抜け目のない中国人(漢族)というわかりやすい構図が貫かれ、また、同じモンゴル人でも素朴な遊牧民と出世欲にまみれた都会人という対立の構図も実にはっきりしている。劇場用パンフレットの解説によると、漢族が好きな赤をモンゴル人は嫌うという。だから、ウルゲンの大切な馬が赤い布によって「陵辱」されたとき、彼は怒りまくったのだ。なるほど、と大いに納得。

 さらに、伝統的な生活に固執する男と、新しい生活に踏み出そうとする向上心のある女との対立的構図も鮮明だ。男はなすすべなく怒りに身を任せ涙にくれるが、女は逞しく商売を始める。こういう構成は、プロデューサーも務めた主演女優ナーレンホアのアイデアかもしれない。

 遊牧の民にとっては国家も国境も存在しない。彼らは自分たちの家畜のために牧草地を求めて移動するのだから、そこが誰の土地かということを頓着しない。所有の概念がないのだ。しかし、国家はいやがおうにも存在し、遊牧の民の都合など顧みない。近代化の波は都会と遊牧地の生活の格差をあまりにも広げすぎた。国家が進める近代化は遊牧民を疲弊させ国土を荒らした。彼らに未来はあるのだろうか? 白い馬に乗って高原を駆け巡った時は既に失われた。

 この映画の欠点というか不満点は、なぜか高原の雄大さがそれほど感じられないのと、遊牧地と町との距離感がつかめないことだ。撮影に当たっていろんな制約があったのだろうか? 映画的というよりテレビ的な画面に感じてしまう。物語があまりにも素直で、またインジドマが遊牧民の妻とは思えない美しさだからどこかリアリティに欠けたのかもしれない。砂嵐に吹きさらされる暮らしを続けてきたその枯れた感じがないのだ。女優が美しすぎるというのもこの映画では難点だろう。

 巻頭の雨乞いの祈りといい、ラストの馬との別れの儀式といい、実際には既にモンゴルでこのような習慣は廃れたという。郷愁たっぷりに伝統的な儀式を描いたニンツァイ監督の切ない想いが伝わる。

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季風中的馬
中国、2005年、上映時間 105分
監督・脚本: ニンツァイ、音楽: オラーントグ
出演: ニンツァイ、ナーレンホア、チャン・ランティエン