日刊イオ

月刊イオがおくる日刊編集後記

「2011クリム(丘林)展」開催!

2011-12-13 09:00:00 | (麗)のブログ
 美術展の告知です。
 在日同胞美術科、愛好家たちによる美術展「2011クリム(丘林)展」(12月12日~18日、展示時間10:00~19:00、最終日は16:00)が、東京・銀座のギャラリーくぼた別館で開催されています。初日には参加者たちによるオープニングパーティーも行われました。

 クリム展は2年に一度開催される美術展で、在日朝鮮美術運動の発展、そして新人育成のために10年ほど前から行われており、多くの作品を世に知らせてきました。
 「クリム」の名には、朝鮮を意味する「青丘」、美術家たちが「林」の木々のようにたくさん育つようにとの思いが込められています。
 展示会には20~70代までの幅広い年齢層の作家が参加しており、個性あふれる作品が多く展示されています。

 実は今回、私も3点出品しています。(自分の作品の宣伝で申し訳ないですが)作品は研究院時代に発表したものです。サイズが大きすぎて2階に運ぶのは不可能となり、恐縮ながら一番目立つ入り口付近に設置させていただきました。青い大きな絵が目印です。3階にも2点展示してあります。
 勿論、他の参加者たちの絵も大変素晴らしいので見に行く価値は十分あります!

 興味がおありの方は是非、銀座のギャラリーくぼた別館まで足を運んでみてください!
 よろしくお願いいたします^^(麗)

「朝鮮学校を閉鎖しろ」と言わしめてしまう状況を危惧する

2011-12-12 09:00:05 | (里)のブログ
朝鮮学校への「高校無償化」適用がいまだに実現されていない中、
12月9日、自民党の文部科学部会は「朝鮮学校の教育内容や朝鮮総聯との関係について実態を把握する必要がある」として、
「高校無償化」適用の審査手続きを停止するよう求める決議をまとめました。

「朝鮮学校の教育内容」があたかも問題であるように取りざたされていますが、
そもそも(ブログで以前書いたと思いますが)、朝鮮学校(生徒)への「高校無償化」制度適用をめぐって問題となったのは、
朝鮮学校が日本の高等学校の課程に類する課程を置いているか、という問題
でした。
「課程」とは、「学校などで、一定期間に割り当ててさせる学習・作業の範囲・順序」のこと。
つまり「教育課程」とは、教科、カリキュラム、授業時間数などの形式的・外形的なものであって、
教育の「中身」「内容」とはまったく異なるものなのです



それが今、多くの報道によって論点が誤った方向に傾いています。
多くのメディアが「朝鮮学校の教育内容をチェック」などと煽り立てることによって、
あたかも「朝鮮学校の教育『内容』に問題があるから」「反日教育が行われているから駄目なんだ」という風な世論が作り上げられているのです。
メディアによる虚偽の報道も酷いものです。
一つひとつ指摘するのは、まさしく「ハエ叩き」をするように気の遠くなる作業です。


「高校無償化」からの排除と同じような論理で、朝鮮学校への補助金打ち切りの動きも加速しています。
東京都の石原都知事は8日、都議会の席で都内の朝鮮学校に対する補助金を来年度予算に計上しない考えを示唆しました。
石原都知事は見送り検討の理由について、
「反日的内容の教科書、朝鮮総聯の運営関与」などをあげ、
都の職員が張り付いて実態を調査したらいいと思うし、それが嫌なら学校を閉鎖したらよろしい」という
信じられない発言をしました。


今、朝鮮学校に対して行われているのは「差別」や「排除」を通り越した「弾圧」です。
「高校無償化」からの排除を皮切りに、ここまで公然と「朝鮮学校つぶし」が行われていること、
これがどれだけ恐ろしいことか、私たちは過去の歴史からはっきりと学ぶことができます。
1949年、「団体等規正令」をもって朝聯が強制解散させられ、
その直後に「教育基本法」「学校教育法」違反という「理由」で朝鮮学校も無理やり閉鎖させられました。
先にも書きましたが、12月9日に自民党の文部科学部会が朝鮮学校の教育「内容」と朝鮮総聯との関係を理由に「無償化」手続き停止を求める決議をまとめました。
特定の民族団体を治安・管理の対象と見なし、そこと関係を持つ学校は潰してしまえ、という論理は昔も今も変わっていないのです。
日本当局は結局、過去も現在もまったく同じ論理で朝鮮学校を潰そうとしているのです。
何度でも言いますが、朝鮮学校は今、はげしく弾圧されています。
石原都知事が放った「朝鮮学校を閉鎖してしまえ」という言葉は、
単なるヘイトスピーチなどではなく、朝鮮学校が実際に閉鎖された過去を分かっていてから放ったもの、つまり確信犯的な言動だと思うのです。
そこにまた、非常に恐ろしさを感じます。
私たちは今、もっともっと事態を深刻に受け止めて、「怒る」べきなんだと思います。


日本の学校の教育現場でも今、同じような次元で重大な問題が起こっています。
歴史わい曲・侵略戦争肯定・憲法敵視・アジアの人々との共生を否定する「新しい教科書」(自由社と育鵬社版歴史と公民教科書)の問題です。
これについては、次回書きたいと思います。(里)



料理の連載

2011-12-11 09:00:00 | (愛)のブログ
さて、ようやく1月号工程も峠を越え、ほんの少しの解放感のなかでブログを書いています。
1月号ということもあり、連載も大幅にリニューアルします。
今年は毎年よりもリニューアルのための準備期間が短かったので、
(大丈夫かしら)とひとりで焦っていましたが、何とか峠を越えてホッとしています。

今日は料理の話をしたいと思います。
イオでは料理の連載は人気連載ということもあり、毎年違ったコンセプトで料理を紹介しています。
08年は旬の食材を使ったキムチとおかずの紹介。09年は忙しいオンマに捧げる簡単レシピ、
10年は青商会の料理人の方々に「今月の一品」を紹介して頂き、11年は1~6月までは朝鮮宮廷料理を、
7~12月までは「お洒落Koreanダイニング」と称しておもてなし料理を紹介しきました。
イオに掲載された料理は1部HPにもレシピを掲載しています。http://www.io-web.net/
ぜひ日々の生活にお役立てください。

通常料理の取材には、編集部から2人で必ず赴き、
料理のセッティング、撮影、レシピの確認などをします。
そして、ありがたいことに(必ずではないが)その料理を味見という名目で頂けます。
私は2008年度に半年ほど同行したことがあったのですが、いつも紹介される料理があまりにおいしくて、
写真を撮るのは大変(当時はフィルムで撮っていたので、いつもハラハラ)でしたが、
楽しみな取材でもありました。
2012年度からは(里)さんとペアになり、料理の取材にいくことになりました。
今年担当してくださる方もとても素敵な方です。詳しくはイオ1月号を見ていただければと思います。

考えてみれば、日々食べるモノというのはとても大切なんですよね。
例えば、肉が値段が手頃でも、好きでも、
そればっかり食べてると中性脂肪が増えていくだけ…、バランスよく摂取しないと生活習慣病にも陥ることに。
逆に食べるものに気をつかえば、健康な体作りの基礎ができていく。
その重大さに、今回の取材に赴いて、気づくようになりました。
あまり食に対する欲がないせいか、一人暮らしのときは簡単に一品で済ますことがほとんどでしたが、
もっと食べものに気をつかわなくては!と改めて思いました。

それと同時に、料理の撮影をがんばろうと思います。
1月号の料理の取材が終わった次の日、ある番組で料理写真家誕生の物語が紹介されていました。
料理人がカメラマンに言った名言。「料理が生きてるうちに撮れ!」
聞いたとき、衝撃でした。もっと色々とがんばらねばと反省と奮起!しました。

1月号の料理はまだ内緒です。ぜひ月刊イオ2012年度1月号で!
1月号、今月16日にでる予定です。(愛)

来週の水曜日は

2011-12-10 09:00:00 | (淑)のブログ

 来週の水曜日12月14日は、日本軍「慰安婦」問題の解決を求める韓国水曜デモが1000回を迎える日です。
 それに際して、10~12月にかけて日本と韓国をはじめ世界各国で連帯行動―デモや勉強会、映画上映会、チャリティコンサートなど―が行われています。(詳しくはこちらから) 
 14日、韓国では第1000回水曜デモがソウル日本大使館前で、東京では「外務省を『人間の鎖』で包囲しよう!」と題し、外務省前で集会、その後衆議院議員会館で院内集会が行われます。
 1991年に「慰安婦」被害者の金学順ハルモニが初めて名乗りを上げて20年。当時234名いた被害女性は、現在67名になってしまいました。言うまでもなくハルモニたちはみなご高齢で、一刻の猶予もありません。
 しかし日本政府は、国連をはじめとする人権機関の勧告も無視し続け、今年9月、韓国政府の「慰安婦」問題をめぐる2国間協議の提議も、「解決済み」と拒否しました。また、現在「韓国挺身隊問題対策協議会」がソウルの日本大使館前に設置を計画している「平和の碑」に関しては、建設を中止するよう求めています。日本政府は「両国の外交問題に否定的な影響を与える」として反対していますが、「否定的な影響」を与えているは一体どちらの態度なのか。日本政府の不誠実な態度は、火を見るより明らかです。

 炎天下の日も、雨の日も、雪の日も、大使館前に立ち続けたハルモニたちの水曜日。1000回という数字は言葉でいうほど軽いものではありません。なぜ被害者であるハルモニたちが、安息の晩年を過ごすこともできず、被害回復のため自ら立ち上がらなければいけないのか。1000回なんて本当は迎えてはいけないのです。ハルモニたちの絞り出す声に、日本政府は今度こそ応えるべきです。

 「慰安婦」問題は過去の問題ではありません。ハルモニたちの願いは、事実を認め謝罪し、そしてもう二度と同じ過ちを繰り返さないでほしいということ。過去から学ばなければ歴史は必ず繰り返される。ハルモニたちはその事を伝えるために、来る水曜日もデモに出かけているのではないでしょうか。
 日本政府が「慰安婦」問題に真摯に向き合い、ハルモニたちの水曜日を終わらせるためにも、一人でも多くの方が連帯行動に賛同、参加してくれることをお願い申し上げます。
 12月14日水曜日、午前11時半、日比谷公園集合です。(淑)

新潟・福島ハッキョ合同生活~子どもたち編~

2011-12-09 09:00:00 | (K)のブログ



 今日は、子どもたちについてです。子どもたちについては、書き出すと切りがないので、内容を絞って書きたいと思います。

 放射能を逃れ新潟にやってきた福島ハッキョの子どもたち(特に初級部低学年)は、到着するとすぐに運動場で思い切り遊んだそうです。福島にいたときは被曝の恐れからほとんど運動場など外には出られませんでした。
 初級部1年のあるオモニは次のように言っていました。
 「福島にいたときは、『外で遊んじゃダメ』『これに触ったらダメ』…と、子どもに『ダメ』とばかり言っていました。子どもが悪いわけではないのに。まだ理解できない歳なのでかわいそうでした。特にうちの子は外で遊ぶのが大好きなので、新潟の学校に来て思い切り遊んでいる姿を見たときは良かったと思いました」

 今回の合同生活は、一にも二にも、子どもたちの安全のための措置だったわけですが、親元を離れて暮らさなければならなかった子どもたちにはやはり、心身ともに大きな負担をかけたことも事実です。
 合同生活の7ヶ月の間、初級部低学年は週に1度、高学年と中級部は2週間に1度の割合で福島に戻りました。学校の車やバスで往復しました。新潟ハッキョと福島ハッキョの距離は約150キロ。車で2時間半ほどかかるそうです。福島のハッキョからまた家に帰るとなると、遠いところだと「5時間ほどかかった」という家庭もありました。
 やはりホームシックにもかかり、福島から新潟に戻る時には涙を流す子も多かったそうです。あるアボジは、「福島ハッキョで別れるときに、こちらに見えないよう泣いていたが、知らないふりをしていました」と語っていました。

 しかし、合同生活は子どもたちを心身共に大きく成長させたと、保護者や先生は口をそろえて言います。
 自分の身の回りのことを自分でできるようになったとか、年下の面倒をよく見るようになったとか、いろいろあるのですが、一番成長した部分は、新潟をはじめとする日本全国の同胞たちの支援と愛情を直接受けることで、同胞社会の大切さを身をもって知ったことだと言います。
 福島の校長先生は「多くの支援がなければ合同生活は成り立たなかった。福島の保護者も子どもたちもその支援を心から感謝している。その感謝の気持ちが子どもたちを一回りもふた回りも大きくさせたと思う」と、新潟の校長先生も「子どもたちは、日本全国からの支援を見てたくさんのことを感じ、大きな刺激を受けたはずだ。同胞たちの愛を直接体験することができた」と感慨深げに語ってくれました。




 子どもたちの言葉も紹介しておきます。
 「ぼくたちのために、新潟のオモニたちが本当によくしてくれた。日本各地遠くからも来てくれた。本当にありがたかった。未来の主人公としてがんばりたい」(福島・中3の李くん)
 「新潟のオモニたちがこの間、食事を作ってくださった。忙しい合間を縫ってきてくださった。本当にありがたかった。そのような愛情を受けるたびに力がわいてきた。これからもがんばって生活していかなければと思った」(福島・中3の金くん)
 「日本全国の同胞たちが福島のことを心配していることを知り、同胞たちの団結力と、ぼくたちのことを思う気持ちが強いということが良くわかった」(新潟・中3の金くん)
 「多くの人たちから支援物資を送ってもらったり、支援していただいた。そのたびに感謝の気持ちをこめて手紙を書いた。遠くから送ってくださる人たちも多く、私たちのためにという同胞のみなさんの気持ちを強く感じることができた」(福島・中2の李くん)


 合同生活は2学期末まで行われる予定でしたが、12月3日をもって福島の子どもたちと先生は福島に帰ることとなりました。
 福島ハッキョでの5回に渡る洗浄作業、運動場の土の入れ替えなどで、放射線量の数値が十分下がり、安全性に対する見通しがある程度たったこと、今後冬季に入り道路の凍結などが予想され往復が困難になること、親元を離れた生活はやはり子どもたちに精神的に大きな負担をかけることなどが理由です。

 新潟での最後の夜には、みんながプレゼントを交換し合っていました。福島の中3の金くんは、自分のお小遣いで同級生におそろいのTシャツをプレゼント。袖には一人ひとりの名前が刺繍されていました。新潟の初5の金さんは同級生と初級部2年の女の子にメッセージを添えたノートをプレゼントしていました。2年生にもプレゼントしたのは、金さんは新潟で数少ない寄宿舎生で一番年下だったため、福島から来た2年生を本当の妹のように可愛がり面倒を見てきたからです。
 福島の子どもたちはみんな、「帰れるのはうれしいけれど、でも寂しい」と相反する気持ちを正直に語っていました。新潟の子どもたちは本当に寂しがっていました。





 今後のことを少し書きたいと思います。
 福島ハッキョでは昨日8日に歓迎する集いが盛大に行われ、学校生活がスタートしました。学校は郡山の中心部に比べて放射線量が低く、家から通うよりも学校にいるほうが安全だということで、新たに寄宿舎生活を始める子どもたちも何人かいるようです。
 しかし、保護者や先生たちの心配がなくなったわけではありません。福島のオモニたちは、「まだまだ心配」と言っていました。校長先生も「運動場など外で過ごす時間を制限したり、通学時にマスクをするなど、ルールを決める必要がある」と言っていました。事故を起こした福島第1原発が今後どうなるかわかりません。今後また避難しなければいけないという可能性も0ではありません。

 一旦、合同生活は終わりましたが、新潟と福島の二つのハッキョは、これからも「一つの学校」として連携を深めていきたいとしています。具体的には何も決まっていませんが、これから迎える卒業式や運動会など様々な行事を合同で行っていきたいという声が、新潟、福島両方の保護者や先生たちから上がっていました。(k)


新潟・福島ハッキョ合同生活~先生編~

2011-12-08 09:20:53 | (K)のブログ


 私の昨日のブログ「新潟・福島ハッキョ合同生活とオモニたち」の続編です。今回は先生たちのことを書きたいと思います。

 合同生活でもっとも苦労をしいられたのは、やはり先生たちではなかったでしょうか。
 福島のある先生は、最初、学校ごと新潟に移るという話を聞いた時、「そんなことが可能なのかと思った」と語り、新潟のある先生は「学校をどのように運営するのか不安だった」と語っていました。新潟6人、福島8人のすべての先生たちが、多かれ少なかれ不安を抱えていたのは間違いありません。当然です。

 まず、合同生活の期間が最初から12月3日までと決まっていたわけではありません。最初は6月中旬の運動会までとなっていました。それが1学期末まで、2学期末までと延長されていき、最終的に12月3日になったわけです。だから、「計画を立てて進める」ということが難しかったでしょう。
 また、合同生活といってもいろんな形が考えられます。新潟には移るが、クラスも授業もまったく別々に行うということも考えられたそうです。最初から「このようにする」と決まっていたわけではなかったといいます。
 結局、校長も2人、担任も2人、クラスはひとつにし子どもたちの学校生活はすべて一緒に行うということになりました。

 同じ朝鮮学校とはいえ、細かな点では当然違いがあります。学校として取り組んでいくこと。例えば、「ウリマルの模範学校を目指す」とか「勉強を頑張る模範学校を目指す」とかという大きな目標。初級部高学年以上は「少年団活動」というものを行いますが、その運営のしかたも違っていたり、授業の進度も微妙に違っていたといいます。(学校の目標に関しては、両校の目標2つをまとめてやってしまおうということになったそうです)
 「両校の先生が心を一つにするのが一番大切だったし、一番たいへんだった」と福島の具校長は語ります。
 新潟と福島の先生たちは、常に話し合いを持ち、一つひとつに合意をみて、慎重に学校生活を進めていきました。お互いの児童・生徒がどのような子どもたちなのか、クラス指導をどうするのか…。

 福島の先生8人はもちろん、新潟の先生6人も全員がもともと寄宿舎生活をしていました。新潟ハッキョを卒業した先生が2人いますが、新潟市外の出身だからです。
 だから学校で授業を教えることだけをやれば良いわけではありません。もともと寄宿舎にいた新潟の子ども3人(きょうだいです)に福島の16人がプラスされ寄宿舎で暮らす子どもたちは19人に。学校が終わると、先生から「お兄さん」「お姉さん」になって子どもたちの面倒をみなければいけません。初級部低学年だとまだ、洗濯やお風呂、掃除など身の回りのことができないし、病気にもなる。当然、ホームシックにかかる子どもたちが多かったそうです。泣きながら「寝られない」と言ってくる子どもたちを元気づけることも何度もありました。
 当番制で、朝・昼・晩の食事の準備の補助をするのも先生の仕事でした。
 本当に24時間、子どもたちのためにがんばっていて、頭が下がるというか、私には先生たちがスーパーマンに見えました。




 そんな先生たちのことが、子どもたちも大好きで、初級部の低学年はいつも先生のひざの上に座ったり、だっこしてもらったりとなついていました。


 先生たちも、学校全体の規模が2倍になり活気が溢れたことを喜び、そのメリットを享受していました。「本来の学校らしい学校生活を送れるようになった」「他の先生といろいろと相談できることがうれしかった」「もしかしたら一生会話を交わすことがなかったかもしれない先生と深く付き合うことができた」とそれぞれの先生が語っていました。
 そしてすべての先生が、新潟の同胞たちの支援、日本全国からの支援に心からの感謝を語ってくれ、「合同生活をやって本当に良かった」と振り返っていました。

 12月3日に行われた合同学芸会の最初の演目は、全校児童・生徒による合唱でした。そこで歌われたのが、「우린 한마음」という曲。日本語に訳すと「私たちの心はひとつ」とでもなるでしょうか。

 この曲は、福島の国語の先生が子どもたちの心情を集めて詩を作り、新潟の音楽の先生が作曲してできたものです。合同生活の中で生まれた数多い結晶のひとつです。(k)

※次回は子どもたちについて書きたいと思います。ご期待を。

映画「TESE」

2011-12-08 09:00:00 | (瑛)のブログ
11月末から川崎で上映が始まった映画「TESE」http://chongtese.net/を紹介します。
 映画は、サッカー朝鮮民主主義人民共和国代表の鄭大世選手を南アフリカ、ドイツと3年半にかけて追ったドキュメントです。

 大世選手と会ったのは、彼がフロンターレに籍を置いていた頃でした。最近は、テレビなどのメディアで目にする機会も増え、また昨年は夢のワールドカップにも連れて行ってもらい、4年半の間、色んな夢を見せてもらったことに感謝しています。

 大世選手は、数ある選択肢の中でも「茨の道である朝鮮代表」を目指しました。映画を見ながら、私が知る大世選手は一面に過ぎなかったかぁということ、さらには在日朝鮮人を取り巻く、いろーんな問題を知ってもらうためには、私たちはもっともっと語っていかなくては、と感じたしだいです。

 映像の中で大世は、朝鮮代表を誇りながらも、「韓国に行ってもウリナラに行っても日本人扱い。…自分にはホームがない」と、時に日本代表への憧れを口にし、試合に敗けたくやしさをぶつけます。それは、朝鮮代表との意思疎通に悩む姿でした。生まれ育った環境やともに過ごした時間が少ない分、そのなかで認められることは簡単なことではない、過去の代表選手の証言からもその重い事実は浮き彫りになります。

 映画は、日本、朝鮮、世界とフィールドを広げていく大世選手の姿と、彼を生み出した在日朝鮮人社会という二つの軸を示しながら、逆境を「可能性」に変えていく鄭の逞しさに迫っていきます。監督は東京朝鮮中高級学校卒業生の姜成明さん、「TESE」をぜひご覧ください。(瑛) 

新潟・福島ハッキョ合同生活とオモニたち

2011-12-07 09:00:00 | (K)のブログ


 福島第1原発の事故により、福島朝鮮初中級学校は放射性物質による被爆を避けるため5月15日から学校ごと新潟朝鮮初中級学校へ避難しました。それから約7ヵ月間、新潟と福島の二つの朝鮮学校は合同生活を送ってきたわけですが、12月3日の合同学芸会をもって一旦合同生活を終了し、福島ハッキョの先生や子どもたちは福島へと帰っていきました。

 私は、合同生活の最後を取材するため、12月1日から新潟ハッキョへ入りました。

 たまに、取材した内容、書きたい内容が多いのに、でも枚数が決められていて書きたいことの10分の1も書けないということがありますが、今回の取材はまさにそうでした。
 また、歳をとるにしたがい涙もろくなってきていますが、今回、取材の中で何度も目頭が熱くなり困りました。

 新潟ハッキョでの3日間に見聞きしたことのうち、今回はオモニたちのことについて書きたいと思います。


 避難する福島ハッキョも大変でしたが、受け入れる新潟ハッキョはじめ新潟同胞社会も大変でした。
 まず、福島ハッキョの児童・生徒16人、教員8人が新潟ハッキョの寄宿舎で生活するということで、話が決まって来るまでの数日間で教員やオモニ会のオモニたち、同胞たちが寄宿舎の大掃除を行いました。それまで新潟ハッキョの寄宿舎には3人のきょうだいと先生6人(新潟の先生全員が寄宿舎生活です)が暮らしていました。使っていた部屋はわずかで、半分以上が「物置」のようになっていたといいます。
 あるオモニの話によると「隅々まで徹底的に掃除をした」といいます。
 そして、5月15日には新潟同胞あげての焼肉パーティーを学校で開いて迎えるという心遣いをしました。

 新潟のオモニたちが一番、力を注いだのが食事の準備でした。それまで9人だった寄宿舎の住人が33人に増えたため、新潟ハッキョオモニ会の8人のオモニと女性同盟の顧問など計10人ほどがローテーションを組んで、毎日、朝・昼・晩と食事を作るために学校に通いました。メニューも子どもたちの健康を考え新たに作成したそうです。
 朝はオモニ1人とハッキョの教育会副会長が、昼はオモニ1人とそれまでも昼ごはんを作っていた日本人の食母(シンモ)が、夜はオモニ2人が食事を作ってきました。先生も当番制で補助をしてきました。朝食は7時半からなので慣れないうちは6時半ごろには学校に来ていたそうです。
 オモニたちもそれぞれ仕事を持つなど日々たいへん忙しい。またそれぞれ条件が違うので、多く受け持つオモニもいれば、少ないオモニもいるけれど、どのオモニも自分の生活をやりくりして食事を作り続けてきたといいます。回数が多いオモニだと週に5~6回は学校に来ていたそうです。

 私も取材期間、食堂で子どもたちと一緒にご飯を食べましたが、毎食たいへん豪勢で美味しかった。

 12月2日、最後の夜は通学生も学校に残り全校児童・生徒が集まって食堂で「さよなら会」が開かれました。この日は、新潟のオモニ8人全員、福島からも4人のオモニと1人のアボジがやってきて、昼から夜のために豪勢な食事を作りました。おかずの種類は約10種。フライドチキンやポテトフライ、チャプチェ、焼きそばなど、子どもたちの大好きなメニューがずらーと並びました。


 新潟のオモニたちはこの日のために全校児童・生徒におそろいのTシャツを準備しました。背中には「福島・新潟 One Heart,for you」の文字が。また、福島のオモニたちから新潟のオモニに、感謝の心をこめた贈り物が渡されました。


 お別れ会では、オモニやアボジ、生徒、先生たちの代表が前に出て、送る言葉、感謝の言葉をのべました。ほとんどのオモニたちが目頭を押さえており、こちらも涙腺が緩んできたのでした。

 取材で話を聞いた何人かのオモニの言葉を紹介したいと思います。
 「もし自分の子どもが親元を離れて遠くに避難しなければいけないと思うと胸が痛みます。オモニたち全員が自分の子どもだという気持ちで食事を準備していました。福島の子どもたちがいなくなると寂しい。いつでも訪ねてきてほしい」(新潟オモニ会前会長のSさん)
 「子どもたちがいなくなると寂しい。大変だったけど子どもたちの顔を見るのが楽しみで、楽しみながらやっていました。後半は日本各地からオモニたちが助けに来てくれて楽になりました」(子ども3人をハッキョに送る日本人のオモニ、Sさん)
 「子どもたちは帰ってくるたびに成長していました。新潟のオモニたちには感謝しても感謝し切れません」(福島ハッキョ・オモニ会会長のCさん)
 「新潟のオモニたちは自分の子ども以上に愛情を注いでいただいた。新潟の同胞のみなさんには、急に子どもたちを受け入れてもらい、また急に福島にもどることになっても、このように温かく見送ってくれて本当に感謝の気持ちで一杯です」(2人の子どもを送る福島のKさん)
 「ウリマルや祖国の歴史を学ばせたくて朝鮮学校へ子どもを入れました。本当に入れてよかったと思います。在日同胞の皆さんは困難な時に手を差し伸べてくれ、家族のように接してくれました。異国にいても血の濃さを感じました。私個人としてはこのまま新潟にいても良いという考えもありました」(今年初級部に子どもを入学させた福島のRさん)


 こんなに熱い心をもった新潟のオモニたちですが、最後に付け加えると、年齢を訊くとだいたいが10歳から20歳、若く答えるというお茶目な方たちでした。(k)


締め切りまであと3日…!

2011-12-06 09:25:43 | (麗)のブログ
 ただいま編集部は、1月号の締め切りまで大詰めに取り掛かっています。
 新年号なだけあって新連載、新しい筆者、イラスト担当者など、2012年度のイオを盛り上げてくださる方々との打ち合わせ、特集や取材、出張などでバタバタと忙しい日々を送ってきました。

 私も新連載のイラストを担当してくれる人を探していたわけですが、過去にイラストを担当してくださった方のイラストを見ていくと、朝鮮大学校美術科の先輩方が非常に多いことがわかりました。恩師から年が近い先輩まで、いろんな方が素晴らしいイラストを描いてくださっています。

 今回、新連載のイラスト候補を悩みに悩んだ末、同い年で同じ美術科出身、さらに同じ大阪府生野区出身で東京に暮らしている、中学・高校・大学と、ずっと一緒だった友達に依頼することを決意。
 友達だからかえって頼むときは緊張しましたが、よろこんで引き受けてくれました。本当にありがたいなーと感謝の一言です。

 先週、(瑛)さんと彼女と3人で打ち合わせを行いました。久々の再会です。
 相変わらずのTHE・大阪人パワーを炸裂させていました。私とは正反対の性格ですが、同じ関西弁を聞いていると懐かしさや安心感がこみ上げてきます。バイタリティあふれる彼女の姿を見てこっちまで元気づけられた気がしました。

 さて、締め切りまであと3日…!無事に終えることを願うばかりです。(麗)

もう待てない、高校無償化

2011-12-05 09:10:00 | (里)のブログ



おととい、東京大田区で、朝鮮学校への高校無償化を求める全国集会が行われました
会場となったホールには、1400人もの人々が集いました。
集会のキャッチフレーズは、「もう待てない、高校無償化」。
高校無償化適用をめぐる状況、関係者の心情をそのまま表したものでした。

朝鮮学校に対する「高校無償化」はいまだに実現されていません。
昨年11月、菅直人前首相が朝高の無償化審査手続きを「凍結」した時から、
半年以上もの長い間、審査再開を求めてたくさんの人たちが闘ってきました。
今年8月、菅前首相が退任とともに「凍結」を解除したことにより、事態の進展が期待されましたが、
3ヵ月が経った今もなお、審査が済んでいません。審査にかかる時間は2ヵ月程度だという話だったのに。

その背景の一つには、朝鮮学校に対する国の無償化審査再開を「暴挙だ」として、妨害する勢力の影があります。
11月末に、民主党と文科省を訪れ、朝高無償化の早期実現を求めたという日本の市民団体の方は、
「教育上の観点からぜひ実現までがんばっていきたい。ただ、菅首相が審査再開指示を出した後、
反対、妨害の意見が多数寄せられ、その対応に追われている現状がある。今しばらく時間をいただきたい」と言われたそうです。

さらに警戒すべきなのは、地方自治体による、各級朝鮮学校への補助金打ち切りの広がりです。
東京、埼玉などの自治体は2010年度の補助金を実際に打ち切り、その影響が各地に広がっているのが現状です。
集会でも、そのことについて発言する方が多くいました。
ある区議会議員は「議員たちの中には、『国も朝鮮学校を高校無償化から外しているし、東京都も補助金を停めているのに、区はどうして補助金を出し続けなければいけないのか』と迫る者もいる」と警鐘をならしていました。
埼玉の市民団体の人は「次々と難題を突きつけて、補助金の支給を引き伸ばしていこうというやり方は許せない」と怒りをあらわにしていました。
埼玉県知事は朝鮮学校の教科書の内容に問題があるとした上に、さらには整理回収機構(RCC)の債権問題まで取り上げ、補助金を打ち切りました。
「教育問題に政治や外交を結びつけるべきではない」「教育内容に対する不当な介入をしてはならない」といった論は、
まったく通用しない状況が広がってしまっています。


集会は「高校無償化」からの朝鮮学校排除に反対する連絡会の主催で行われました。
ほとんどが日本の方々です。
そして韓国からは、地震被害を受けた朝鮮学校を支援するための団体である「モンダンヨンピル」代表の
クォン・ヘヒョさんはじめ、支援者が駆けつけてくれました。
「日本社会の人権意識を問う問題だ」「私たち自身の未来の問題だ」と、本当に熱い気持ちを寄せてくれていることに、
ただただありがたいな、と感じます。希望もわいてきます。
でもそれとは逆に、「朝鮮学校つぶし」を「熱意を持って」行う人たちが存在することもまた、事実です。
それが大きく露呈したのが、この「高校無償化問題」だと思っています。
朝鮮学校を守るために、そして私たちが暮らす日本社会をよくしていくために、
この闘いから引き下がることはできないと、いま一度感じさせられました。(里)



今日(12/4)は第40回「在日朝鮮学生美術展」東京展最終日

2011-12-04 09:00:00 | (愛)のブログ

先日、目黒区美術館区民ギャラリーで開催されている「第40回在日朝鮮学生美術展」東京展に行ってきました。
イオ11月号でも単独記事として紹介されましたが、「在日朝鮮学生美術展」も40周年を迎えました。
詳しくはイオ11月号の「子どもたちの豊かな感性を表現―40周年迎えた在日朝鮮学生美術展」の記事を
読んで頂ければと思います。

「在日朝鮮学生美術展」http://www.gakubi.com/
通称「学美」に行くのはかなり久しぶり。
最近の「学美」を見て思う事は、ほんとうに多種多様な作品がでているなということ。
そして、「学美」をみていると、
在日朝鮮学生の美術力はどこの世界の子どもたちよりもパワーがあるのではないかと思わせることです。
特に小学生以下の作品たちは「ソウゾウリョク」(創造力、想像力)が爆発していて、
見ているだけで、いやがおうにも刺激を受けます。
中高生の作品も私が学生時代の頃には考えられなかった作品たちが多数あり、見ていてとても楽しかった。
まさに「美術の玉手箱や~」といった感じ。

しかし、それらを引き出す美術教員の方々の力もすごいなと改めて感じました。
私は朝鮮大学美術科学生時代、全国の美術教員たちが集まって開催される
「学美」の審査のお手伝いをさせてもらったことがあります。
そこでは、全国の美術教員方が学生の作品について真剣に語りあっていました。
時には1つの作品について、1時間以上も話し合ってたのを見たこともあります。
朝から夜遅くまで、何日間にかけて行われる「学美」審査。
学生たちの美術教育に対する美術教員たちの真剣さに、毎年圧倒されました。

今回の東京展では、学生たちの映像作品(アニメーションからショートフィルムまでジャンルも多様)も展示。

そのレベルの高いこと!!
特別金賞をとった作品などはとても中学生が作った作品などとは思えませんでした。

そして、どの作品をみても思うことは学生たちが真剣に作品たちと向き合い、
それが見事に表現されているということでした。
確実に「学美」は成長している感を受けます。

今年は40周年ということもあり、学生たちの作品をフォトモザイクで作ったものも展示されていました。

ひとつひとつのピクセルが学生たちの顏になっています。

東京展は今日12月4日が最終日です。
最終日ということもあり、10:00~14:00で展示が終了だそうです。
学生たちののびのびとした自由な表現力はかなり見物です。
今日は朝からぜひ「在日朝鮮学生美術展」へ足を運ぶ、そんな文化的な1日はいかがでしょうか。(愛)






「女たちの記憶への旅」連続講座

2011-12-03 09:00:00 | (淑)のブログ
 先週の土曜日、「VAWW RAC」主催の「女たちの記憶への旅」プロジェクト・連続講座の第1回目が早稲田大学で開かれ、私も聞きに行きました。
 「VAWW RAC(VAWW Research Action Center/「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクション・センター)」は、1998年、「VAWW-NET」ジャパンを発足し、女性国際戦犯法廷、NHK番組改ざんの真相と責任を問う裁判、日本軍「慰安婦」問題の解決を求める取り組みなど、その他数々の運動や活動を行ってきました。今秋、「VAWW-NET」ジャパンを発展的に再編し、「VAWW RAC」と改称し、新たなスタートをきりました。
 再スタートに際し、新たに10のプロジェクトが立ち上げられ、今回の連続講座もそのプロジェクトの一環として企画されました。
 「女たちの記憶への旅」プロジェクトは、画家である富山妙子さんの90歳の半生と、彼女の思想・作品などから、日本におけるフェミニズムの運動の軌跡をたどろうというもの。第1回はご本人をお招きした公開インタビューで、主に富山さんの出生にまつわる話や、戦時中どのように過ごされたのかなどが話されました。
 1921年兵庫に生まれ、日本帝国主義の時代に少女期を過ごした富山さんは、戦後韓国の民主化運動に関わり、民衆の抵抗をテーマにした作品や日本軍「慰安婦」をテーマにしたたくさんの作品を発表しました。講座では「慰安婦」をテーマにした作品の一つである、スライド「海の記憶」(1988年製作・上映)が上映されました。静止画と音楽、語りで構成された映像作品で、日本軍「慰安婦」被害者が強いられた苦痛をアートで表現したものです。語り部がムダン(巫女)であったり、物語仕立てになっていたりとファンタジーのような要素が入っていますが、内容そのものは取材に基づいて作られたものだそうで、15分ほどの短い映像ですが、訴えかけるものがあり見ごたえのある作品でした。
 私は富山妙子さんの存在を今回初めて知ったのですが、富山さんが日本軍「慰安婦」問題をテーマにした作品の制作を始められたのは1986年。1991年に元「慰安婦」被害者が名乗りでて問題が広く知られる前のことなんですね。社会が目を背ける問題に富山さんはいち早く取り組み、そして90歳になられた今も活動を続けていらっしゃいます。
 今回は連続講座の第1回とあり、それほど深くはお話が展開されませんでしたが、それでも彼女の存在を知り、作品の一端に触れられただけでも、私にとっては十分意義のある講座でした。
 残念だったのは、参加者の数が少なかったことと、大学で開催されたにも関わらず若い世代の参加者が少なかったこと。運動を継承していく立場にある若者こそが、彼女のような方々の思想や、運動の体験をもっと積極的に学ぶべきなのに・・・と思っていました。
 連続講座以外にもVAWW RACでは、日本軍「慰安婦」問題をはじめ、歴史教科書問題や沖縄米軍基地の問題などたくさんの運動を推し進めています。今後も可能な限り足を運んで、この貴重な取り組みを当ブログでこまめに発信していきたいと思います。(淑)

セバスチャン・サルガド講演会

2011-12-02 08:54:51 | (相)のブログ
 先週の金曜日(11月25日)、東京・渋谷の日本写真芸術専門学校で行われた世界的フォトジャーナリスト、セバスチャン・サルガド氏(68)の講演会に行ってきました。サルガド氏は同校の名誉顧問を務めています。今日の写真家の中で最も偉大な写真家の一人と言われているほどの人物の話を無料で聞ける機会はそうあるものではないので、在日本朝鮮青年商工会(青商会)を通じて講演会の案内が回ってきた瞬間に申し込みました。
 今回の講演会のタイトルは「明日への対話~dialogue with youth about tomorrow's earth」。サルガド氏が現在取り組んでいるプロジェクト「創世記ージェネシスー」をはじめ、環境問題、東日本大震災に原発事故など地球規模の問題が取り上げられました。
 文明やコミュニティのあり方、他者とのかかわりなど講演の内容は多岐にわたり、非常に興味深いものでした。サルガド氏のたたずまいはフォトジャーナリストというより哲学者のようでした。

 サルガド氏はアフリカの干ばつや飢餓、世界の労働者の実態、移民や難民などのテーマを地球規模の視点でとらえてきました。訪れた国は120ヵ国に及ぶとか。そんな彼の作品の特徴はその「美しさ」。一度見たらその世界に引き込まれ、鮮明に記憶に残ります。悲惨な状況を写しているのに、絵画のような美しさで切り取る―。ときにそれは「神々しさ」さえ感じます。見る人によっては好き嫌いが分かれるかもしれません。インターネットで検索すれば写真を見ることができるので、興味のある方はぜひ。
 氏は「私はどんな過酷な状況の中でも、生きようとする人間の尊厳を撮っているのだ」と語ったことがあります。写真は見る人の好みの問題とも言えますが、彼の写真はそういう個人の趣味のレベルを超えて、長年にわたって世界の一流の写真家たちに影響を与えています。そしてその活動に対する注目度においても際だった存在であることは間違いないと思います。
 
 今回来日したサルガド氏は講演会に先立って夫人とともに学生たちとのワークショップも行っています。決しておざなりではなく、学内で選抜された学生たちの作品をサルガド氏が数日間にわたって直接講評し、指導もするという本格的なもの。それらの作品を、サルガド氏の写真集の編集も担当するレリア夫人の手で1冊の写真集にまとめられます。そのぶん指導は厳しく、一定の水準に満たない作品はボツになって掲載されないそうです。世界最高と言われる写真家からガチの指導を受けられる学生たちを本気でうらやましく思いました。(相)

朝鮮学校に教育保障を! 12・3 全国集会

2011-12-02 08:00:00 | (瑛)のブログ
 朝高が高校無償化から排除されている―。

 新しい一日が明けた今日も、厳しい現実が私たちの前に頭をもたげています。

 明日12月3日、朝高への無償化適用を求める「朝鮮学校に教育保障を! 12・3全国集会」が東京・大田区民会館アプリコで開かれます(JR蒲田駅から5分、18時45分開会)。
 「無償化適用」がここでまた延期・不適用となれば、解決は少なくとも1年は延びてしまい、生徒たちや、保護者の方々の苦しみはさらに続きます。もう、待ってられないのです。

 集会では、朝鮮高校生、韓国「モンダンヨンピル」共同代表である権海孝さん(冬ソナの金次長役など数々のドラマ等に出演されている社会派の俳優)、韓国のバンド「ウリナラ」、朝鮮学校弁護団などが登壇の予定です。

 一昨日、子どもが通う朝鮮学校から、集会参加を呼びかける朴明姫・オモニ会会長の手紙が届いていました。読み終えた後、「あきらめてはならない」と襟を正されました。以下、朴会長の思いをお伝えしながら、明日の集会に多くの方が足を運んでくださり、日本政府に「早期適用」の声を届けてくださることを祈ります。


 オモニ会会員の皆さま、アンニョンハシムニカ。
 もうすでに子どもたちがこの集会のチラシを持ち帰っていると思いますが、オモニたちにとっては高校無償化という問題はまだ遠い未来のことのように思えるのではと思い、オモニ会からもお知らせを出すことにしました。実はこの問題は高校に限ったことではなく、それを皮切りに朝鮮学校全体に対する処遇が改悪されることにつながっているのです。
 
 昨年度以来、日本各地の自治体で続々とウリハッキョへの補助金廃止の決定がなされている中、私たちオモニたちの大半は(あぁまたか)という失望とあきらめの気持ちだったのではないかと思います。ですが、何度も繰り返され私たちが慣れきってしまっているこの状況に、怒りを感じて行動してくださっているたくさんの日本の方々がいることを知ってください。今まで数え切れないほどの「高校無償化からの朝鮮学校排除反対!」という集会の呼びかけ人になってくださったり政府に要請してくださっている日本の方々のどれほど多いことか。

 東日本大震災のあと、東北ハッキョに届いた全国からの救援物資(本校のオモニ会も全国に先立って物資を送りました)で、交流校である八木山中学で炊き出しをし「こんなときこそ助け合って!」と皆が気持ちを一つにしていた年度最後の3月31日、宮城県知事は東北ハッキョへの補助を凍結しました。
 
 その発表のあと、「有権者の差別心を満足させる為に、その都度機会原因的に理由をとってつけては無償化の対象から朝鮮学校を外し、挙句の果てに、震災の被害を受けて一番苦しんでいる時に、その土地の朝鮮学校の補助金を打ち切りにして追い討ちをかけるような、人の心を心とも思わない、浅ましい社会のあり方に憤りを抱く」とすぐさま発言してくださった方がいます。日本各地で弁護士会や大学の先生方のような方々も集まり応援してくださっています。韓国でも支援の輪が広がっています。映画「ウリハッキョ」の金明俊監督他が呼びかけてくださった「モンダンヨンピル」の活動はすでに有名です。

 私たちが子どもたちのためにできることは、それでも声をあげ続けていくことしかありません。橋下市長(元知事)の言うとおり大阪朝高が肖像画さえ外したら、無償化は適用され補助金も支給、ウリハッキョは安泰だと思いますか? 答えはNOです。次は教科書でありウリマルでの授業であり教員免許です。終わりはないのです。大学入学資格の問題を考えればわかりますよね? 

 私たち自身がもっと怒らなくてはならないのです。子どもたちを、この社会状況の中でも自己肯定感を持って育てるためにと、大事に守ってきたウリハッキョへの許しがたい暴挙に対して。度重なるショッキングな報道や発表にも打ちひしがれることなくあきらめることなく、声をあげていかなければ。

 今回の全国集会は大田区で行なわれます。蒲田駅から徒歩5分です。自転車でも行ける方が多いのではないでしょうか。ぜひ、一人でも多くのオモニたちが参加してくださいますよう、心からお願い申し上げます。


                     

私の中のウリハッキョ⑥同級生たち

2011-12-01 09:00:00 | (瑛)のブログ
 先日、母校の中学生たちが社会見学の一環としてわが社を訪れた。
 一行の中には同級生の娘もいた。彼女は14歳の娘を持つ母親なんだなぁと、懐かしい顔を思いだしながら、母校に学ぶ世代が一巡していることを実感したのだった。
 1年後には高校生となる彼、彼女たちにイオ編集部や、同胞の新聞社はどう映ったのだろう。感想を聞いてみればよかった。

 朝鮮学校の初級部3年から習い始める「社会」の科目では、日本社会のさまざまな仕組みとともに、在日朝鮮人コミュニティについて習う。

 今、日本でも外国人が増えていてエスニックコミュニティが注目されているが、日本の植民地支配によって異郷暮らしを余儀なくされたコリアンは、支部、学校、出版社、商工会、旅行社、結婚相談所など、暮らしを支えるための基盤作りに情熱を注いできた。私のような3世は、できあがったコミュニティの恩恵を受けるばかりだったが、大人になって、また保護者になってからは子どもたちのために、そのコミュニティを支える役目を担っているわけだ。

 この年になると、小学校から一緒に過ごした幼なじみたちも子育てが一段落したり、人生を色々と経験したりして、とくに頻繁に会えるわけではないけれど、会うと、なんとも形容できない安心感に包まれる。もちろん幼い頃から互いを知っているので、恥ずかしい思い出もあったりするのだが、飾らなくてもいい、というのが気持ちを楽にさせるのだろう。

 朝高の途中でヨーロッパに留学し、大学、社会人と米国で過ごしたある友人は、最近日本で暮らし始めた。時々、私たちに声をかけてくれ、美味しい料理とお酒をもてなしてくれる。日本にいる限り、同窓会の場には必ず顔を出す義理深い彼女は、誰に対しても物怖じせず、自分の意見を伝える。その姿は中学の時代そのままだ。今では事業家として才能を発揮していて頼もしい。海外に旅立ってからは、孤独な日々も多かっただろう。手紙のやり取りをした日々が懐かしくよみがえる。

 ウリハッキョと聞いて連想するものは人それぞれだろう。私は一緒に過ごしたトンチャンセン(同級生)たちを思いだす。(瑛)