日刊イオ

月刊イオがおくる日刊編集後記

千客万来

2011-04-30 09:00:00 | (淑)のブログ
 宮城出張中、県対策本部の置かれている東北朝鮮初中級学校(以下、東北初中)には1日たりとも途切れることなくさまざまな来客がありました。他県からボランティアに来た活動家や物資を届けにきた同胞、社民党議員、日本のボランティアの方、テレビ局などなど。思いがけなく幼馴染のご尊父とも19年ぶりに再会しました。
 たくさんの来客のなかでもひときわ印象に残っているのが、東京朝鮮中高級学校(以下、東京中高)の生徒らの訪問です。生徒らは自分たちの用意した文化公演で後輩たちを少しでも元気付けようと、はるばる東北初中を訪ねてきたのです。震災から今日まで、日本各地から多くの支援があったことは報じられている通りですが、生徒らが直接現地を訪ねたのはこれが初めてのことでした。公演は歌や踊り、空手演舞といった内容で、東北初中の生徒・児童らは先輩たちの姿を食い入るように見ていました。
 それから真心のこもったプレゼントも渡されました。一つ一つに東北初中生徒・児童らの名前が書かれた防災頭巾と、東京中高全校生徒がメッセージを寄せた下敷きとノートが、1人1人に手渡されました。
 公演の前には東京中高と東北初中、それぞれ2人1組になって交流を深めました。最初は恥ずかしがってうつむいてばかりの生徒・児童らでしたが、すぐに打ち解けてオッパ、オンニ(お兄さん、お姉さん)たちに存分に甘えていました。特に幼い児童らはオッパ、オンニたちに遊んでもらって本当に嬉しそうでした。
 教員の話によると震災当時、東北初中では泣きじゃくる下級生を上級生が抱きかかえなだめる光景が見られたそうです。誰が指示するでもなく自然に。そういった上が下を思いやる姿は私が滞在していた間にも随所で見られました。ある教員は「我が校では小学1年生は王子さま、お姫さま」とも仰っていました。
 東京中高と東北初中の生徒らが交流する姿から、学校単体だけでなく民族教育の現場全体で連綿と受け継がれる、相互扶助の精神を垣間見ることができました。
 去り際に東京中高の生徒が東北初中の生徒にこんなことを言っていました。
「つらいことがあったらいつでも言ってくれ」。
それだけの言葉ですが、これが出会って数時間の関係でもけっして上辺だけの言葉に聞こえないのは、民族教育で育った生徒ゆえだと思います。(淑)

住み慣れた土地を遠く離れて

2011-04-29 12:23:23 | (相)のブログ
 つい先日、福島第1原発20キロ圏内から避難し福島県外で生活している1組の同胞夫婦に会って話を聞くことができた。震災、原発問題の悲劇を最も端的な形で体現しているのが県外避難者。その人たちを取材せずに、被災同胞の今を文章にすることはできないと思ったからだ。
 福島県浪江町で焼肉店を営む李益正さん(70歳)夫婦は現在、千葉県・成田で避難生活を送っている。震災、原発事故直後の大混乱の中、成田に住む妹家族から連絡をもらい、車で10数時間をかけてこの地にたどり着いた。しばらく妹家族の家に身を寄せ、現在は被災者向けに提供されたUR都市機構の賃貸住宅で暮らす。光熱費は自己負担だが、家賃は向こう6ヵ月間は無料。一部生活支援物品も提供された。
 春の暖かい日差しに包まれた昼下がり。2時間ほど家にお邪魔して、原発事故から避難までの一部始終、避難後の生活ぶり、今後のことなどについて話をうかがった。
 20キロ圏内の「避難指示区域」が立入禁止の「警戒区域」になる数日前、意を決して一時帰宅したという李さん夫婦。限られた時間の中、自宅兼店舗の整理もそこそこに、貴重品や当面の生活必需品を運び出した。
 「用事を済ませて家に鍵をかけた瞬間、いろんな思いがこみ上げてきた。両親の墓にも行きたかったが、結局行けなかった・・・」
 李さんはそう言ったきり、言葉を詰まらせ、涙ぐんだ。「福島の同胞や分会の人たちに会いたい。店を開けて、常連のお客さんの顔が見たい」。
 住み慣れた土地、生の基盤からある日突然引き離され、今や戻ることもままならない。妹家族が近くにいるとはいえ、見知らぬ土地での生活は不安と苦労が絶えない。収入源が途絶えたので、当面の職探しも急務だが、地方都市に住む高齢夫婦にとって簡単なことではないという。仮の生活がいつまで続くのか。仮の生活が本当の生活になってしまうかもしれない。そんな考えも脳裏をよぎるという。

 「必ず戻れると信じている。戻って、店を再開させるんだ」。そう話す李さん。
 避難後、福島の総聯活動家や同胞たちからの励ましの電話に元気づけられているという。福島県本部からは定期的に「朝鮮新報」が届く。福島をはじめ被災地同胞社会のニュースは紙面を通じて知る。「イオ」も読んでくれているという。
 先日、福島朝鮮初中級学校で教鞭をとる息子を通じて、祖国からの慰問金を受け取った。「日赤や地方自治体、東電、どこよりも祖国からの慰問金が早かった。本当にありがたい」。
 李さんは浜通り支部原町分会の副分会長を務めている。「模範分会」の称号を2度もらった歴史ある分会だ。震災と原発事故の影響で、分会の同胞たちは離散した。しかし、集まることをあきらめてはいない。大変な状況だけど、3~4ヵ月に1回でもどこかで集まろうと考えている。

 「頑張ってください」などと軽々しくは言えなかった。別れ間際、「お話を聞かせていただいてありがとうございました。お体に気をつけて」といったありきたりなあいさつしかできない自分の語彙の貧困さを恨んだ。
 今回の東日本大震災と原発事故は多くの人々の人生を変えた。自分ではいかんともしがたい要因によって生がほんろうされる苦しみはいかばかりだろうか。普通であればくじけそうになる状況で、李さんを支えているのは、自分の家、自分の店、自分の生活を取り戻すんだという強い気持ち、そして同胞コミュニティからの支援や励ましといった、人との繋がりだと感じた。
 さまざまな境遇にある被災同胞たちをどのように支え、助け、寄り添っていくのか。みなが知恵を、お金を、力を出し合い、中長期的な視野をもって取り組んでいくべきだと思う。相互扶助やネットワークの力といった、同胞社会が誇ってきたリソースはまさにこういう事態にこそ必要とされ真価が発揮されるのではないだろうか。
 オチが毎度同じでごめんなさい。(相)

表紙の話

2011-04-28 09:36:42 | (愛)のブログ

5月号は地震関連の特集だったため、毎月の連載表紙「暮らしの中に!」もお休みすることになりました。 

そのかわり地震関連の写真を表紙にということになったのですが、1枚の写真ではなく、記者が撮ってきたたくさんの写真を使って今回は表紙にしようという編集長の意向を受け、5月号の表紙のカタチとなりました。 

 

毎月表紙を決めるときは、表紙になったものとは別に、他のパターンも作り、それらを編集部内で人気投票し、各号の表紙を決めます。

今回も別パターンを作ったので、せっかくだからブログに載せてしまおうと思います。

色違いのものを2枚。

  

 

 

切り抜きしたものを1枚。

 

切り抜きしたものはがんばって切り抜いたものの、あまり人気がなかったです。

 

5月号は、たくさんの被災地の写真を取材に出向いた(相)さんたちが撮ってきてくれたのですが、もっともっと載せたかったものの誌面の関係上載せきれなかったのが少し惜しかったなと感じています。

 

さて、昨日表紙の撮影へと2ヵ月ぶりに任香淑先生のところに(里)さんと行ってきました。

6月号の表紙は通常通り「暮らしの中に!」をお届けする予定です。

今回もかわいいグッズをたくさん準備していただきました。内容は6月号がでてのお楽しみとしてまだ発表はしないことにします。(愛)

 

 


東京第2初級新校舎竣工―学校は心の故郷

2011-04-27 08:44:20 | (K)のブログ

 4月24日、63年前に4.24教育闘争が行われたこの日、東京の枝川にある東京朝鮮第2初級学校の新校舎竣工式が行われました。
 ご存知の通り、東京朝鮮第2初級学校は、2003年12月、東京都から校舎の一部を取り壊して都有地を明け渡せ、4億円の地代相当金の支払えと、裁判を起こされ、3年半にも渡る闘いを強いられました。学校の歴史や裁判の経緯、その闘いと支援の輪の広がりなどは「枝川朝鮮学校支援のページ」をご覧ください。http://kinohana.la.coocan.jp/edagawatop.htm

 裁判が和解された後、休むまもなく進められたのが新校舎建設事業でした。不況の中にもかかわらず、多くの同胞や支援者が協力し合い学校を建てました。竣工式を迎えた人々の顔は誇りに満ち溢れていました。
 竣工式の模様などは月刊イオ6月号でお伝えしますが、今日は、新校舎のご案内です。東京第2は、こういってはなんですが、東京でもっとも「ボロい」校舎でしたが、まったく違う学校に生まれ変わりました。とにかく素晴らしい学校です。

 上の写真が表の通りから見た新校舎。入り口が広くて「どうぞ、お入りください」と言っている感じです。中に入ると体育館、講堂に使えるスペースが広がります。下の写真がその場所で行われた式典と、式典が終わった後、2階から眺めた様子です。左上が2階の廊下になっていて開放感のあるつくりです。
 校舎の中、教室のすぐ横にこうした広いスペースがあるので、雨の日でも子どもたちはのびのびと運動できるようになっています。

  1階の体育館の横には音楽室、5、6年生の教室があります。2階には1~4年生の教室などがあります。教室と教室の間には、下の写真にあるように、オープンスペースが設けてあり、本も置いてあって、子どもたちがくつろぐことができます。
 そして、なんと、本校にはエレベーターも設置されています。

 運動場は人工芝。下の写真は校舎2階から見たグラウンドで、左側の土の部分が昔の校舎が建っていたところです。もう一枚の写真は、祝賀宴の様子、運動場から見た校舎です。

 校舎入り口を入ってすぐ左手にあるのが、「마음의 고향(心の故郷)」と題されたモニュメント。同胞はもちろん、日本や韓国の市民など幅広い支援の輪の中で裁判闘争の勝利を勝ち取り新校舎建設を成し遂げたことを記念して、「枝川朝鮮学校支援都民基金」によって作られたものです。

 そこに書かれている、説明文の一部を紹介し、今日のブログを終わります。

 「東京朝鮮第二初級学校は、1946年1月、植民地から解放された在日朝鮮人が自主的に作り上げた学校です。枝川の地は、1941年、埋め立てを終えただけの未整備の荒れ地に朝鮮人が強制移住されてできた集落でした。その地に解放直後、自らの力で学校を建てたのです。以来、日本国政府の朝鮮人学校閉鎖令によって「都立朝鮮人学校」とされるなど苦難の時期もありましたが、一世、二世の力で学校を守り、また、朝鮮民主主義人民共和国からの教育援助もあり60余年間に2000余名の卒業生を送り出してきました。……
 2007年3月、東京地裁の和解勧告を、両者が受け入れたことによって裁判は終わりました。和解による土地の購入は、市場価格よりは安価とはいえ、その負担は決して小さくありませんでした。1964年に建てられた校舎はすでに老朽化が進み、耐震構造への補修も不可能なため、続いて新校舎建設という課題に取り組みました。土地購入、新校舎建設には、在日朝鮮人だけでなく、韓国の市民、全国各地の日本人からの多くの寄付金があてられ、ここに名を連ねる人々や基金会員等多くの方々の協力により、2011年4月、新しい校舎が完成しました。
 私たちは、東アジアの平和と共生の道を求めて、このモニュメントを「마음의 고향(心の故郷)」と命名し、在日および朝鮮半島の同胞と日本人の協働をここに刻むことにしました。」(k)

 


レンズが震えた

2011-04-26 10:46:21 | (麗)のブログ

朝日新聞出版 AERA「東日本大震災 レンズが震えた」

 世界のフォトグラファーが「東日本大震災」を撮った写真集です。

先日、書店に並んでいたので購入しました。

 

写真集は、地震発生時から411日までの一ヵ月の全記録を収録しています。

中には、雑誌やWEBなどで見たことがある写真も多く出てきます。

 

天井にぶら下がったパソコンのキーボードや瓦礫。

赤ちゃんをおぶり途方に暮れている母親。

避難所で寝ながらトスをあげるバレ-ボール部の少女。

地震発生後の都心の様子。

泥にまみれた多くの写真たち。

流されたピアノ。

沈んだ車の上を泳ぐ鳥。

そして被災者たちのまっすぐ前を見据える目。

 

ひとつひとつ、食い入るように見ました。

写真が物語る震災の爪痕。嘆き悲しむ姿もあれば、友達と笑顔で抱き合う子どもたちの姿、

久しぶりの入浴に至福の表情を浮かべる姿。様々な表情が見えてきます。

 

1995年に出版された共同新聞社の写真集「阪神大震災」を貸してもらったのですが、

記録に残る写真集などを資料として持っておくのはもちろん

ただの「過去」にしないということも踏まえ、

こういった写真集、雑誌などを買うことにしています。(麗)


被災地・岩手をたずねて

2011-04-25 09:12:04 | (里)のブログ

おとといまで、被災地である岩手に行っていました。
滞在したのは3日間だけでしたが、その間いろんな同胞たちに話を聞くことができました。
沿岸地域の数ある被災地の中で、私は大船渡に行ったのですが、
テレビや新聞で見る瓦礫の山はまさにそのままで、かろうじて瓦礫の間に車が通れる道ができているくらいでした。
津波の力で家の上に乗っかってしまった家、建物と建物の間に乗っかった車など、そのままの状態でした。
元の町がどうだったかなんて、到底想像もできません。
津波の威力のすさまじさを感じたし、この中で同胞たちが助かったのが奇跡のように思えました。


震災から1ヵ月以上経って、被災地では当初とは異なる解決課題が出てきていました。
ライフラインも徐々に復旧しだして、個々人が自分の今後の生活に対してようやく落ち着いて考えられるようになり、動き出しています。
住宅問題、そして仕事の再開が、大きな課題です。
現在、仮設住宅の建設は用地の確保などの困難から大幅に遅れています。
また、被災者の仕事の問題に関しても、すぐには解決できない構造的な理由がありました。
今回取材に行った大船渡の場合、主な地元の産業が漁業であるため、
まずは港の復興がなされないと、そこに付随する飲食業などの復興は難しいと、被災した同胞は話していました。
田舎町であるため雇用も少なく、ふたたび自営の店を再開させるしか生計のめどが立たないのです。

大船渡で出会った同胞たちはみんなそれぞれ、家や自営の店舗を流された人たちでした。
私が印象的だったのは、各々が前を向いている姿でした。
家や店舗を流され、何も残らなかったとしても、時間は流れていき日々の生活は差し迫ってくる。
気を落としてばかりいられないというきびしい現実の中で明日のことを考えている同胞たちがたくましく映りました。

いわゆる「過疎地」の同胞社会の中での人と人とのつながりについても、今回の取材を通じて再認識しました。
岩手は他の被災地である宮城や福島、茨城よりも同胞数が少なく、ウリハッキョもありません。
同胞一人ひとりの存在が貴重な岩手の同胞社会に対し、
今回の震災がもたらした被害は、目に見えること以上に甚大です。
総聯県本部委員長をはじめ、少ない同胞たちが一丸となって駆け回り、被災した同胞たちを物心両面で支えていました。
はたから見ている私からしても、倒れてしまうのではないかと心配になるくらい、動き回っていました。

そんな中、被災同胞たちが口々に語っていたのは、悲しみや苦しさではなく、
たくさんの同胞たち、そして祖国への心からの感謝の言葉でした。
店舗を流失したある同胞は、近年総聯との付き合いをあまりしてこなかったそうですが、
今回祖国からの慰問金を受け取って本当にありがたかったとこぼしていました。
まさか自分達がもらえるだなんて思わなかった、本当に本当に感激したんだと言っていました。
総聯県本部の対応からも、守られていると実感したし、「負けずにがんばろう」という気持ちがわいてきたといいます。
そして、盛岡にある県本部事務所に行った際、日本各地から送られてきた救援物資の多さを見て、改めて力を得たと話していました。


困難な時ほど、組織の力、人と人とのつながりがどれだけ力強く、ありがたいものなのか、
今回の取材をとおして肌で感じました。(里)


宮城へ来て

2011-04-23 09:00:00 | (淑)のブログ

水曜日、高速バスで宮城県に入りました。

 震災から一ヶ月以上が経って宮城の同胞たちの生活はどう変わったのか、また変わっていないのか。彼らが何を思い、何を求めているのか。被災地の「いま」を取材するためにやって来ました。

仙台市内に入って最初に受けた印象は、「想像していたより正常」でした。しかし森の奥に在る東北初中に到着して校舎を見て回ってから「正常」などという考えは瞬時に消え去りました。
東北初中の校舎は倒壊の危険性があるためもう使うことができません。新学期は寄宿舎を仮設校舎としてスタートしました。寄宿舎の一室を教室にして、8畳ほどの小さな部屋で最少1人、最多で6人の生徒が授業を受けています。生徒数が少ないので国語や算数といった基本科目の授業に関してはさほど支障はありません。ですが雨の日の体育となると、教室が狭くて準備運動をするのもままならないほどでした。初級部2年生の女の子は「元の校舎のほうがいい。大切だから」と、幼いながらも1年間過ごした校舎とのお別れを悲しんでいました。反面、ある教員は「以前より生徒たちの顔が近くてよく見える」と、楽観的でもあります。仮設校舎は教員たちの愛情のこもった環境づくりにより、立派な「学校」です。仮設校舎での学校運営は問題も多々ありますが、そこかしこに全国の同胞から送られてきた応援メッセージが掲げられていて、学校はものすごく大きな愛情で包まれている、そんな印象を受けました。

対策委員会に同行して被害の大きかった石巻市と女川町にも行ってきました。
沿岸地域に限っては同じ被災地でも、被害の度合いは仙台市内とは比べ物になりません。まったくの別物です。
文字通り、「壊滅」。以前ここに何があったのか、ここが何だったのかも判別できない。ここで失われた多くの命と、ご遺族の悲しみは簡単な言葉ではとても言い尽くせません。3・11の地震の破壊力と被害がいかほどだったのか、自分は何ひとつ分かっていませんでした。これまで口にした数々の軽はずみな言葉を恥じ入るほど。
いま一度被災者の皆さまに深くお見舞いを申し上げます。
 
ここへ来てから否応なしに飛び込んで来るのは、生と死が混在した異様な景色です。
瓦礫の山、車の墓場、鼻につく異臭、撤去や建設の風景、人々の復興への営み。
ご家族の安否をいまだ確認できていない被災同胞にもお話を聞くことができました。彼らの痛みは癒えていません。癒えるはずがない。だけど立ち止まっていられない。必死に生きていかなければならない。そう感じました。
被災地に咲く満開の桜が、それでも季節は巡り、春は来ると言っているように思えます。

この間東北初中で寝泊りしているのですが、専従活動家や教員、同胞の方々に本当に本当にお世話になっています。
寝食の心配から取材の段取りまで、彼らがサポートしてくれるおかげで何不自由なく生活し、取材をすることができています。不便など、何一つありません。ややもすれば、ここが被災地でこの人たちが被災者だということを忘れそうになるくらい、明るく、力強く、暖かい方たちです。

いま被災地へ来て、深い爪痕を目の当たりにし一体自分に何ができるのかと無力さを感じずにはいられません。でも見て聞いたからには伝える義務がある。ここで出会ったすべての方々に、微力ながらも精一杯の言葉でお返しをしたい。残された時間のなかでより多くの声に耳を傾けたいと思います。
今日もがんばります。(淑)

ふたたび福島へ

2011-04-22 10:52:18 | (相)のブログ

 4泊5日の福島出張から一昨日帰ってきました。
 震災から1ヵ月。現地同胞たちの生活、そして県内唯一のウリハッキョ、福島朝鮮初中級学校はどうなっているのか。福島の今を取材する旅でした。

 被災地の状況は? 正直なところを言うと、前回と大して変わりありませんでした。前回訪れてから2週間ちょっとしか間隔が空いていないので、当然といえば当然かもしれません。もちろん、総聯福島県本部を中心に被災同胞復興支援対策が講じられ、少しずつ前進はしています。
 今回、茨城との県境にある勿来からいわき市北端の久之浜まで、海岸沿いを車で走りました。「いわき七浜」と呼ばれる美しい浜辺の景観は無残に破壊されたままでした。



 いわき在住の同胞にも数人会って話を聞きました。彼らの目下の心配事は、放射能もそうですが、地震です。今月11、12日に連続して浜通り地域を震源とする大きな余震が起こりました。広範囲で停電や断水が起こるなど、同地域に住む同胞も少なくない被害をこうむり、営業を再開させたお店も再び営業停止に追い込まれました。「生活が正常に戻りかけていた時期の余震は本当に痛い」と話す同胞たち。私が訪れたときには店の営業は再開していましたが、いつまた起こるかもしれない余震におびえながら不安な生活を送っていました。

 この間、郡山市の福島朝鮮初中級学校で寝泊りしました。8日に卒業式を、11日に入学式を行った同校では翌日から新学期の学校生活がスタートしました。子どもたちは元気いっぱい。一見、普段の日常が戻ってきた印象を受けましたが、震災と原発問題の影響は少なからず学校に暗い影を落としていました。
 福島滞在中の19日、文部科学省が、福島第1原発事故を受け、校庭・園庭での放射線量が毎時3・8マイクロシーベルトを上回った福島、郡山、伊達三市の小中学校と保育所・幼稚園合わせて13校・園の屋外活動を控えるよう県の教育委員会に通知したというニュースが入ってきました。国際勧告に基づく暫定基準を設定した上で、学校生活の目安を設けた形です。





 福島朝鮮初中級学校の放射線量は前述の基準値をはるかに下回るレベル。現在、学校の中で最も数値が高い場所は運動場で、毎時1マイクロシーベルト弱だそうです。学校側は放射能測定器(ガイガーカウンター)をレンタルして、定期的に校内各所の放射線量を測定しています。試しに測定器で運動場の地表の放射線量をチェックしてみたところ、結果は0・974マイクロシーベルトでした。



 ただ、この基準値が適切なものなのかどうか、私には判断しかねます。学校では大事をとって、運動場の使用を原則的に控えている状態です。児童・生徒たちの体育の授業やクラブ活動も体育館などで行っています。5月に予定されている運動会も、運動場で行うのは厳しいだろうというのが学校側の見通しです。
 一時県外に避難した児童・生徒たちもまだ数人が戻ってきていません。



 22日の午前0時をもって、原発から半径20km圏内が「警戒区域」に設定されました。
 総聯福島県本部によると、原発30km圏内に住む同胞は16戸。20~30km圏内に残る一人を除いて全員が県内外に避難しています。
 久之浜から隣町の広野に向かうトンネルの前に立てられていた、「10キロ先 立入制限中」「この先立ち入り禁止 『避難指示』発令中」の看板。ここから10km先、広野町を越えると原発20kmエリアに入ります。「避難指示」区域は今から数時間前に立ち入り禁止の「警戒区域」に変わりました。この看板も今では別のものに換えられているはずです。トンネルを抜けた先に広がる光景を思うと、胸が痛くなります。(相)


還暦祝いに参加して

2011-04-21 10:29:30 | (愛)のブログ
先日、会社の大大大先輩の還暦祝いが都内某所で行われました。
その方は40年間ものあいだ朝鮮新報社にずっと勤めておられる方です。
2次会のカラオケでは20代ではあまり知らない歌のオンパレードでしたが、
40代~60代の方たちはとてもなつかしそうに、青春時代に戻ったように歌っていました。

一昨年から去年にかけて、会社の朝青員たちで、あるドキュメンタリーを作りました。
それは、朝鮮新報社で40年以上もの間勤めておられる発送部のC部長の人生を
朝鮮新報社の歴史とともに振り返るというドキュメンタリーです。
そのドキュメンタリーは、私たち若い者たちが会社の歴史を振り返り、
よりよく知るうえできっといい勉強になるだろうと製作したもので、
決して外向けに作ったものではないのですが、会社に長く勤めてきた方の歴史を振り返るというのはとても新鮮でした。
C部長の仕事に対する情熱などを取材し、映像を制作する中で、朝青員たちは仕事に対する姿勢を正されました。

一応責任者だった私の手元には、その際朝青員たちが取材した膨大なテープたちが残っています。
今回還暦を迎えられた発送部U副局長とは先輩後輩という間柄ということで、
U副局長にも一部そのドキュメンタリーに登場してもらいました。
還暦祝いの会が終わったあとに、そのお二人が登場する部分の取材テープを何となく見返しました。
お二人が語っていたことで印象深かったのは、朝鮮新報社は自分にとっては「青春そのもの」という言葉でした。
自分たちにも先輩がいて、いろいろ教わり、仕事をする中で自分を育ててくれた。
そして教わったものを今度は若いものたちに教えて、
そうやって先人たちのものを受け継いでいきながらこれからも発展していかなくてはいけないということ。
今回お祝いの会に参加して、そしてテープを見ながら、その意味について深くまた考えさせられました。(愛)

上京30年、思えば遠くへ来たものだ

2011-04-20 09:33:09 | (K)のブログ


 就職で上京する前、某地方都市に住んでいたころ。駅に向かっていて電車が来るのが見えたら、懸命に走って電車に乗り遅れないようにと必死だった。1本、電車を乗り過ごすと、時間帯が悪いと15分はホームで待たなければならなかった。

 今は目の前でドアが閉まり電車が発車しても、まったく動揺しない。ホームのベストポジションまで歩いている間に、次の電車が到着したりする。電車はすぐに来て当たり前。ホームで5分も待たされるとイライラする人間になってしまった。


 東京に来て、ちょうど30年になる。
 30年前と言えば、「FOCUS」が創刊され、「キャプテン翼」「タッチ」の連載が始まった年。テレビでは「おれたちひょうきん族」が始まったが、当時はテレビをまったく見なかったので(上京当時はテレビ自体がなかった)、1年ほどそんな番組があることを知らなかった。JRはまだ「国鉄」だったし、東京ディズニーランドはまだなかった。

 東京に来て初めて「もんじゃ」というものを知った。それまでは名前も聞いたことがなかった。一番最初に見たときは「なんだこの嘔吐物のようなものは」と思ったものだ(もし、もんじゃを食べながらこのブログを読んでいる人がいたら申し訳ありません)。
 東京の黒いダシのうどんにも驚かされた。どんなものかと食べてみたが、予想通りに不味かった。立ち食いの串揚げの店がなかったのも寂しかった。
 ホッピーというのも東京に来て始めて知ったもので、これはけっこう気に入って、いつも飲んでいた。

 こう書いていると、情報や文化のやりとりの濃度は、今と比べると薄かったと思う。東京は日本の中心ではあったけれど、巨大な地方都市のひとつという感じではなかったか。今は、もんじゃやホッピーのことは日本全国で知っているだろう。また、東京にいても、関西、讃岐といろんなうどんが楽しめるようになった。串揚屋もけっこうできてきた。各県別のアンテナショップもたくさんある。

 インターネットの発明と普及が情報や文化のやりとりを活性化させたのは確かなのだが、それは東京(首都圏)と地方の間のことで、地方同士、例えば九州と東北の間の情報や文化のやりとりの濃度は昔とそれほど変わっていないのではないか。30年の間に東京の位置づけがずいぶんと変わったと実感する。
 今回の福島第1原発の事故で、「東京が東北をはじめとする地方の犠牲や支えによって成り立っている」という論調をよく聞くが、その度合いが年月が経つごとに増えていっているという感じもするし。


 東京で就職せずに、首都圏以外でずっと住んでいたら、今とはぜんぜん違う感覚をもった人間になっていたのだろうと考えたりする。

 でも、東京に来て30年、人生で一番長く住んでいるのが東京だが、まだまだよそ者だという感覚が抜けない。(k)

月刊イオ5月号、完成しました!

2011-04-19 11:48:19 | (麗)のブログ
月刊イオ5月号が完成しました。特集は「東日本大震災」です。
5月号では、被災地と同胞たちの被害報告、支援などの様子を集中的に扱った内容となっています。

全記事を読むと、改めてその被害の大きさ、辛い現実を突き付けられました。
それと同時に、全国各地からの同胞たちの支援の輪、日本人市民との垣根を超えた助け合い、
苦難を乗り越え様々な決意を胸に卒業を迎えたウリハッキョの生徒たち…
様々な思いが詰まった記事を読んでいて、とても胸が熱くなりました。

住み慣れた我が家、店、ハッキョ、そして日常。なにもかもを奪った大震災。
生きる気力を失いそうになるなか、明日を生きるための「人々の温もり」というものの重大さを、改めて感じた特集だと思いました。


被害報告の他にも、被災された同胞へ向けて全国各地から届いた応援メッセージなども共に掲載しています。
ご愛読ください!(麗)

「ピョンアリ賛歌」

2011-04-18 09:23:22 | (里)のブログ
イオには「今月のピョンアリたち」という連載があります。
「ピョンアリ」とは朝鮮語で「ひよこ」のこと。
ひよこのように可愛い、赤ちゃんの写真を掲載しているページで、とても人気があります。
編集部に送られてくる写真を見るたびに、「か、可愛い!」と思わず顔がほころびます。

何ヵ月か前、編集部に赤ちゃんの写真ではなく、
このページを思って書かれた詩が送られてきました。
埼玉県にお住まいの、とある同胞女性(75歳)が送ってくれました。
ほんわかする内容のとてもあたたかい詩なので、
ここで紹介させていただきたいと思います^^


「ピョンアリ賛歌」


それは月初めのある日
「イオ」と共にやって来る
ひと月ぶりの恋人の再来
待ちこがれる心境
あせる気持ちを
そっとしずめながら
いつものとびらを開く
そこはまぎれもないピョンアリたちの世界、
ピョンアリたちの部屋
いかにかざりたてたショウウィンドウも
このページをかざる
宝石のごとき
ピョンアリのかがやきに
かなうはずはない

さめた心、とざされた心にも
熱い光となって
至福の世界へといざなう

思い思いのポーズ
気取ったポーズに
はにかみポーズと
まばゆいばかりのその微笑みは
何を語るか

夢、夢、夢、
末は社長か学者かリーダーか
きらめく舞台を彩る
歌姫か舞姫か

よくよく見ると
行間のどこかから
ハルベ、ハンメの自慢の笑顔が
のぞいているようだ

ハルベは思う
あと10年は生きたい
ハンメは思う
いや100までは生きたい

愛しいピョンアリたちが
強くたくましくはなやかに
はばたきとび立つ
その日までは…



小さな「ピョンアリ」たち、
そしてイオの「今月のピョンアリたち」ページに対する「愛」があふれていますよね!
本当にコマッスムニダ。(里)

都知事選と原発問題

2011-04-16 09:00:00 | (淑)のブログ
日曜日、都知事選がありましたね。
「天罰」発言で批難が高まりひょっとしたらひょっとするかもなどと思っていましたが、愚かでした。
首相がころころと変わる一方で、10年以上にわたりかくも悠々と続く石原都政。
再選について言いたいことは尽きませんが、今回は一点のみ。
石原氏が筋金入りの原発推進論者であることから、この度の再選は東京都で原発存続派が依然多数であることを物語っています。原発に対する危機感が薄いからなのか、「変化」を望まない保守的な国民性からなのか分かりませんが、福島県は最悪「閉鎖」とまで言われているのに、都民にとっては結局「ひと事」に過ぎないのでしょうか。
では「がんばれ、ニッポン」と一体誰に向かって言って、日本はどこへ向かおうとしているのでしょう。
これだけの事態で存続派が多数を占めるのは、震災後、政府がしかるべき原発政策をとらなかったことに起因していると思います。今さら評価尺度をレベル7に引き上げた裏側には、政府の原発に対する当事者意識の欠如、過小評価があったからでしょう。
たとえ日常が犠牲になったとしても、これからは原発に頼らない新しいライフスタイルを模索していかなければならない。これほどの被害を受けた今だからこそ、政策の転換を実現しなければならないと思います。でなければ日本の未来がないのは明らかです。そう地球が最後の警笛を鳴らしているように思うのです。

10日、折りしも日本全国で同時多発的に原発反対を訴えるデモ行進が行われました。
東京・高円寺でのデモ行進は主催者によると参加者の数、1万5000人。
高円寺でリサイクルショップなどを営むグループの呼びかけに集った若者たちが、駅前などを練り歩きながら「原発はもういらない」「福島を救え」と訴えたそうです。

今回の都知事選、石原氏の獲得票は261万票。未投票は400万票だそうです。
261万よりも、私はこの見えない400万の無関心が恐ろしい。
デモ参加者は1万5000。遠く及ばずとも、この小さな火種が今後原発問題が長引く中でさらなる広がりを見せてくれたらいいのに。(淑)

被災地での食事

2011-04-15 08:42:40 | (相)のブログ

イオ5月号の作業も終わり、編集部では6月号の制作に取り掛かっています。
先月、東日本大震災関連の取材で宮城、福島、茨城の各被災地を回りました。未曾有の大災害の記録を残すという意味で、被災地の様子以外にもさまざまな写真を撮りました。毎日の自分の食事のメニューも可能な限り写真に収めたので、それを紹介したいと思います。 



まずは、3月17日夜、宮城県仙台市の東北朝鮮初中級学校に到着した後に食べたのが、このクッパです。宮城県対策委員会で準備してくれたものです。寒さで冷えた体を暖めてくれるクッパは本当においしかった。 



そして、翌朝食卓に出てきたのがこれ。 見てのとおり、おかゆです。学校で生活する人々の食事は1日2食だとは聞いていましたが、これを食べた後、夕方まで何も食べずに体がもつか、心配になりました。食べて2時間後には空腹感が襲ってきたのを覚えています。もちろん、不満とかそういうのではなく、被災地における非常事態を日々の食生活で身をもって体験することができました。 救援物資を運ぶなど、外で活動する組には昼食用におにぎりを持たせてくれます。これを移動の車中などで食べるわけです。具が入っていないシンプルなおにぎりですが、対策委員会の女性スタッフが作ってくれたおにぎりは、この間、お店に入って食べたどんな料理より心にしみました。 

ほかにも、中華丼などさまざまなメニューが食卓に上りました。 



そして、私が仙台を発つ前日の夕食のメニューがこれです。 ピビンバに具だくさんのスープ、キムチにおしるこまで豪華なものでした。これは、山形の女性同盟の方々が炊き出ししてくれたものです。この時の食卓が一番みなの笑顔が多かったように思います。 
宮城以外にも、福島や茨城でたくさんの同胞にお世話になりました。被災地なので、決して豪華な食卓ではありません。でも、日本各地から送られてきた物資や、手に入る材料を駆使して作られた料理を通じて人々の温かさに触れることができました。本当にありがとうございました。




明日から福島県に入ります。福島取材は先月末に引き続いて2回目です。震災から1ヵ月が経った被災地の同胞の姿、新年度が始まったウリハッキョの様子などを取材する予定です。
被災地で記者は何ができるのか。この間、震災の現場に身を置きながら考え続けてきました。限られた時間、限られた条件の中での取材。現場で見たことがすべてではない、現場に身を置いたからといって物事の本質を正しく認識できるわけではない。でも、現場にいて初めて見えてくるものもある、そこにいる人間にしか伝えられないことがある。現地同胞たちの声を丹念に拾って、彼らの悲しみや苦しみ、悩み、そして希望を読者にあるがままに伝えることが、自分のすべきこと。そう思います。とくに福島は原発の問題で他県よりも複雑な事情を抱えているので、なおさら現状を広く伝えるべきだと切実に感じます。(相)


外務省に電話

2011-04-14 09:00:00 | (愛)のブログ
前回、外務省HPに朝鮮民主主義共和国の名前が載っていないとブログで書きましたが、
その件について理由を聞いてみようと直接電話してみました。

その理由について、電話対応した外務省北東アジア課のタカハシさんは
外務省HPでは他国の政府から日本政府に送られたもの、日本の公共機関などに対して送られたものにだけ載せているということ。
北朝鮮から送られてきたものは朝鮮赤十字社から日本赤十字社宛てに送られたものなのでこれに該当しないということでした。

以下やり取り(A=自分 B=外務省北東アジア課タカハシさん)
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A:ガボンは日赤あてに送っていますが?セルビアも赤十字社経由で送っていますよね。
どう違うのでしょうか?
B:う~ん…そうですねえ…。…これ以上はこちらではお答えの仕様がありません。
A:じゃあどなたに聞けばお答えいただけるのでしょうか?その二つが掲載されていて、朝鮮だけ載せないということは他に明確な理由があるからじゃないのですか?
B:…少々お待ちください。
(そこから約5分程保留音)

B:赤十字経由で送るにしても事前に政府間のやり取りがあったということです。そこが北朝鮮とはちがうのだと思います。北朝鮮とは政府間のやりとりがなかったので。
(A心の声:そりゃあ国交もないからそうだろう)
B:…これ以上はお答えの仕様がありません。

A:台湾は国交もないですが、掲載されているのはなぜでしょうか?
B:いまHPみてらっしゃいますか? これはHP見ていただければわかるのですが、「財団法人交流協会のホームページ」にとぶようになっております。
A:朝鮮はこのような形で表記はしないのですか?
B:う~ん… 少々お待ちください。
(そこから約5分程保留音)
これは台湾にこういった交流協会がありまして、この交流協会とは外務省ともやり取りがあったので掲載しています。北朝鮮の現地にはそういうものはないので。
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以上が理由でした。
私の電話を担当したのは、北東アジア課の女性の方だったのですが、丁寧な受け答えの中にも言葉の端々には苛立ちが感じ取られました。
この電話を終えて少し考えてみると、やはり日本の政治のスタンスを感じずにはいられませんでした。政府間のやりとりがないから、交流がないから載せていない。そもそもそのきっかけすら作らないのは日本じゃないでしょうか? 
編集長がブログでも書いていましたが、4月13日までだった朝鮮民主主義人民共和国への「制裁措置」を日本はまた1年間延長しました。もっともらしく思える理由をつけて。事実の裏側もみようとしないで。
「制裁」という圧力では何も変わらないと、いままでの年月は物語っているのに。

本心としては、本当は日本政府批判なんて今はあまりしたくはありません。
余震だってまだ止まらない、原発問題だって収束しないような状況ではそっちの対処に全集中してくれ!と思うからです。
でも、よそ見ばっかりして次々とびっくりするような決定を下す日本政府にやはり落胆してしまうのです。(愛)