日刊イオ

月刊イオがおくる日刊編集後記

71年目の4・24、無名戦士の墓で

2019-04-25 10:00:00 | (瑛)のブログ


4、5月号の本誌で1948年の4・24教育闘争について書いたこともあり、闘争から71年目を迎えた4月24日、「朝鮮学校のある風景」の金日宇さんらが呼びかけている、第7回「그날을 그리며 되새기는 마당(今、ふたたびあの日を称え、心に刻む場)」に行ってきた。

地下鉄千代田線「乃木坂」駅から徒歩3,4分、青山墓地へと向かうと、無名戦士の墓には、この闘争で官憲の銃弾に倒れた金太一少年と、当時在日本朝鮮人連盟兵庫県本部委員長だった朴柱範先生の遺影が飾られていた。遺影の周りには、花々の絵。本誌4月号で紹介した魏正さんの作品だ。

兵庫県出身の魏さんは、4・24教育闘争でアボジが逮捕され、母校が闘いの場になった経験をお持ちだ。

今年の新作は闘病生活を送る魏さんの家のベランダに咲く花だった。

誌面で見るのと実物を見るのとではやはり違う。あれほど苦しい病気と闘いながらも、これほど丁寧に、さらに花の色が放つ力のようなものが感じられ、心が震えた。

魏さんには同胞結婚相談中央センターにいらしたときに御世話になったが、「愚直」という文字がぴったりの方だった。同胞同士の出会いを増やすために、尽力されていたことを思い出す。



小雨が降るなか、始められた会。冒頭、金日宇さんは、「4月24日という日にこだわりたい。雨が降っても、風が吹いても思いを馳せる場所にしたい」と語り、当時、兵庫県の朝鮮学校に通っていた呉亨鎮さんは、無名戦士の墓が建てられ、ここに関西で命を落とした金太一、朴柱範さんが合葬された経緯を話してくれた。



「無名戦士の墓」は1935年3月28日に建立されたもので、小説「女工哀史」「奴隷」の作者の細井和喜蔵の死後、友人たちが遺志会を結成し、遺作の印税で建てたという。

戦後は、日本共産党と関わりの深い「日本国民救援会」が、墓石の頭部に「解放運動」の文字を刻み、毎年パリコミュン記念日の3月18日に墓前祭を開催。在日朝鮮人が合葬されるようになったのは48年4月からで、日本国内で日本の官憲などによって犠牲になった朝鮮人をはじめとする外国人も、所属する団体などに推薦書を出し、審査が通れば合葬できるようになった。
(詳細は「朝鮮学校のある風景」54号、151~158ページに掲載」)

墓には、4・24教育闘争時に逮捕され、軍事裁判で重労働15年の刑を受けた、元朝連兵庫県西神戸委員長だった金台三さん、植民地時代から解放後にかけて獄死したり、暗殺、虐殺された同胞や殉職した同胞や愛国者たち100人が合葬されている。

呉さんは、日本政府による朝鮮学校への差別が続くなかでも、保護者のオモニたちが国連で差別を訴えた結果、勧告を獲得、同胞社会で民族教育をめぐる新しい映画、演劇が生まれるなど、「新しい歴史が作られている」と力強く語った。



梁玉出・在日本朝鮮民主女性同盟顧問は、4・24当時、女性たちがどのように闘ったのかについて、過去の出会いを振り返りながら、生き生きと語ってくれた。

「4・24教育闘争は山口から始まりました。下関での『1万人の徹夜闘争』に参加した1世のオモニは、赤ちゃんをおんぶしていったが、替えのおしめがなくてぐっしょりになった。お腹がすいた赤子は泣く、乳は出ない。周りの大人には、『あなたは子どもが小さいから帰りなさい』と言われたけど、『この子のためにがんばる』と闘いつづけました…」。

兵庫県出身の梁さんは、当時兵庫県庁で、同胞たちが占領軍や県知事に民族教育の権利を求めた際、勇敢に闘った女性の話も聞かせてくれた。

「MPがピストルを出したとき、ブラウスをはだき、『撃て!撃てるんやったら撃ってみい!』と闘った女性がいました。この女性が誰なのか、ずっと探しました」

参加者には日本の方もいた。呉さんの体験を冊子にまとめたある女性の「気づいたことを、伝えていきたい」という言葉も染み入った。



4・24から71年。体験者は減っている。

語りつづける場、耳を傾ける場…。貴重な時間だった。場を作ってくれた方々に感謝したい。(瑛)


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