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月刊イオがおくる日刊編集後記

松本龍復興担当相の辞任と朝鮮人強制連行犠牲者の碑

2011-07-06 08:54:55 | (K)のブログ
 昨日と今日、話題を独占したのは、松本龍復興担当相の被災地での発言と辞任のニュースでした。
 何が嫌いかといって、私はエラソーにしている人間が何よりも嫌いなので、今回の松本さんの発言と態度はすごく不快でした。また、政治家としての資質という点でも問題があると思いました。

 しかし、アジア諸国への侵略や植民地支配などの日本の過去の国家犯罪を肯定したり、強制連行・強制労働や「日本軍慰安婦」の存在を否定したり、排外的・差別的な言動を繰り返す政治家に比べたら、可愛いものだと思います。次元が違うというか。
 昨年初から続く、「高校無償化」から朝鮮学校だけを排除している問題も、各自治体が朝鮮学校への補助金を凍結したり縮小させている問題も、朝鮮学校の教育内容に介入しようという問題も、すべて政治家が行っていることです。
 それらの政治家は、この日本社会でほとんど糾弾されることはないし、辞任に追い込まれることなく政治家を続けています。



 先日、群馬県高崎市にある県立・群馬の森という公園に行ってきました。そこにある「記憶、反省そして友好」という名称の碑を見るためです。この碑は、強制連行・強制労働によって群馬県で犠牲になった朝鮮人を追悼するために2004年4月に建てられたものです(写真)。



 こういう碑としては珍しく県の施設の中に建てられているわけですが、そのために、建てるに当たりいろいろと問題が起こったようです。この碑については、月刊イオの8月号で紹介しますが、その問題の内容をすべて書ききれないので、このブログで紹介したいと思います。
 訪ねた日、碑の建設を進め現在は「記憶、反省そして友好」を守る会として活動している方々から話を聞き、いただいたパンフレットに書かれていた内容です。

 碑の建設を進めたのは1998年に結成された「朝鮮人、韓国人強制連行犠牲者追悼碑を建てる会」です。
 紆余曲折のなか建立地が群馬の森に決定した後、そこが県の施設だということで碑文をどうするかを巡って問題がありました。
 最初に建てる会側が提示した碑文の原案は次のようなものです。ちょっと長いですが一部省略して紹介します。

 「20世紀の初頭、わが国は朝鮮を植民地として36年間支配してきた。…アジア太平洋戦争の拡大に伴い、労働力不足を補うために多くの朝鮮人が徴用された。戦争の長期化と敗色を深める中、さらに不足する労働力補充のため、我が国は朝鮮から強制的に連行する政策を採用した。…朝鮮人労働者は満足な食料も、衣服も与えられず、昼夜を分かたぬ苛酷な労働と悲惨な生活環境による病気あるいは事故、空襲などにより、無念にも異郷の地に命を落とした。今に至るもその数は定かではない。…
 21世紀を迎えた今、私たちはかつて我が国が朝鮮人にたいし、このような計り知れない損害を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、こころから反省し、二度と繰り返さない決意を表明する。
 私たちはあやまちを忘れることなく、新しい相互の理解と友好を深めていきたいと考える。ここに強制連行による犠牲者を心より追悼するためにこの碑を建立する。この碑に込められた私たちの願いを若い世代に引き継ぎ、さらに理解を深め、アジアの平和と友好の発展をねがうものである。」


 このような建てる会の提示に対し、県は外務省と相談し、次のような回答をしてきました。その内容があまりにもひどく、破廉恥です。

 ①申請団体名を「朝鮮人・韓国人強制連行犠牲者追悼碑を建てる会」から「労務動員朝鮮人犠牲者追悼碑を建てる会」と変えてほしい。「強制連行」という言葉は外務省とも相談したが「募集」「官斡旋」「徴用」とあってどこからどこまでを強制連行というのか線引きが困難だ。記録もなく、入国の時期、人数、規模、入国の経緯も明確でない。政府としては強制連行としての把握はしていないという見解だ。
 ②碑の名称「記録、反省そして友好」を単純明快に「朝鮮人追悼碑」としたらどうか。碑の名称は趣旨がすぐわかるものにしてほしい。「反省」は過去の国策への批判という面もあり、外交上の問題で政府が条約的に解決する問題だ
 ③碑文の原案については「強制連行」という用語は外務省とも相談したが政府は認知していないので認められない。村山、小渕談話の範囲で表現するよう変更してほしい。(そして碑文原案の前半の歴史経過を全文カットした文案を例示した)


 県の回答を見ると、日本政府が過去を何も反省しておらず、悪いことをしたという認識すらないことがわかります。日本は自らが行った戦争と侵略の過去に向き合おうとせず、まったく清算しようとしなかったから、しっかりと地に足をつけた国づくりができてこなかった、敗戦から60年以上が経った今もフワフワとし続け、そのツケがどんどん膨らんでいく。

 建てる会は何度か県と交渉したそうですが、苦渋の選択としていろんな部分で譲歩せざるを得なかったそうです。現在、立っている碑の碑文が、最初の原案と比べてどのように変わっているのか、実際に現地を訪れて確認してもらいたいと思います。ですから、ここには紹介しません。

 会のある人は「日本にまともな政権ができれば、碑文をきちんとしたものに書きかえたい」と話していましたが、いつの日になることでしょうか。(k)
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