ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

愛知・三重・長野の旅①

2015年11月27日 | 旅行
 朝、6時に帰省していた愛知県の実家を出発して西に向かい、木曽川を立田大橋で、長良川を長良川大橋で渡って、岐阜県へと入り、木曽三川公園センターの手前で左折して、治水神社へと向かった。
 この神社は、宝暦治水の工事で亡くなった84名の薩摩藩士を祀ている。宝暦治水とは、江戸時代の1754年(宝暦4)2月から1755年(宝暦5)5月まで、幕府の命により薩摩藩が行った治水工事のことで、濃尾平野の治水対策として、木曽川、長良川、揖斐川の分流工事が行われた。しかし、想像以上の難工事で、薩摩藩が最終的に要した費用は約40万両にも及び、工事中に薩摩藩士51名自害、33名が病死し、工事完了後に薩摩藩総指揮の家老平田靱負も自害するという結果になりったのだ。この工事は一定の成果を上げ、治水効果は木曽三川の下流地域300か村に及んだが、本格的な治水工事の完成は、明治初期のヨハニス・デ・レーケの指導による木曽三川分流工事を待たなければならなかった。ここで、参拝するとともに、境内にあるいろいろなモニュメントを見て回ったが、風が冷たく吹いていた。
、その後、土手上を少し南下して、千本松原の河口側の南端にある、薩摩藩士の慰霊と宝暦治水の偉業を記念する宝暦治水碑に立ち寄った。朝のこととて、誰もおらず、静かに碑を見学して、カメラに収めた。
 次に目指したのは、伊勢長島一向一揆関係地で、この一揆は、1570年(元亀元)頃から1574年(天正8)にかけて戦われた、石山合戦に伴なって、伊勢長島を中心とした一向一揆で、激しく織田信長と対峙した。1571年(元亀2)、1573年(天正元)、1574年(天正2)と三度に渡る合戦が起こり、織田信長方は苦戦し、氏家卜全、林通政、織田秀成(織田信長の弟)などの有力武将が討ち死にする。しかし、最後には、長島城に立て籠もった一揆勢は信長に追い詰められ、皆殺しになって終わった。
 来る時に通った長良川大橋を再び渡り、長良川と木曽川の間の土手上を南下した。何度か人に聞いて、長島城の跡にやってきた。ここは、今では、長島中部小学校・長島中学校の敷地となり、遺構の大半は失われているが、東側に石垣および堀が残り、本丸の南西隅にあった樹齢300年以上の黒松があり、案内板も立てられていた。案内板と黒松をカメラに収めてから、次の願証寺へ向かうことにした。国道1号線を越えて、水田地帯へと入っていって、ようやくその寺を見つけた。この寺は、伊勢国桑名郡長島(現在の三重県桑名市)にあった浄土真宗の寺院で、長島一向一揆の拠点となったのだ。一揆後廃絶されていたが、その後再興され、河川改修のため現在地に移転したが、1975年(昭和50)に、一向一揆の400年の追悼法要がここで行われ、境内に“長島一向一揆殉教の碑”も建立された。今では、田園の中の小さな寺院だが、“長島一向一揆殉教の碑”の前に立つとなんだか、440年以上前の一向一揆で殺された多くの農民たちのことを偲んで、神妙な気分になった。
 その後は、国道1号線に出て、西へ向かい、伊勢大橋で、長良川・揖斐川を越えていった。次に向かったのは、「四日市公害と環境未来館」(三重県四日市市)だ。戦後復興から高度経済成長期に入る頃、経済優先の社会背景のもと、全国各地に大規模な工場が次々と建設され、工場周辺ではさまざまな公害が発生した。この四日市市でも、大気汚染によって多くの人々がぜん息に罹患(りかん)するなど、四代公害病の一つ“四日市ぜんそく”と呼ばれる深刻な公害問題が生じた。「四日市市立博物館」の2階にあるこの施設では、公害や環境に対する体系的な展示や体感・体験的な展示を行っていて、ぜひ一度見学したかったのだ。この展示を見ていると、戦後の高度経済成長政策の中で、急速な工業化がはかられ、生産が拡大し、国民所得が増大して、世界第2位の経済大国になり、国民生活も大きく変化した中で、公害、環境悪化が進行し、4大公害病(熊本・新潟水俣病、イタイタイ病、四日市喘息)などの深刻な事態が起こったことが思い知らされた。いかに、この期に国土が変貌させられ、生活環境が悪化させられたかがわかり、暗澹とした気持ちにさせられた。 、
 見学後は、反転して、高速道路を使い、パーキングエリアで、昼食に味噌カツ定食を食べてから、伊勢湾岸道から東海環状自動車道、中央道と乗り継ぎ、岐阜県から長野県へと入っていった。その後、恵那山トンネルを越えた園原インターチェンジで下りて、山道を走って、阿智村へと到着した。目指したのは、「満蒙開拓平和記念館」(長野県下伊那郡阿智村)で、満蒙開拓は、1931年(昭和6年)の満州事変以後、1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗戦まで、「満州国」(中国東北部)や内モンゴル地区に、国策として送り込まれたもので、入植者約27万人におよび、集団で開拓にあたった。その中でも、全国で最も多くの開拓団を送出したのが長野県南部地域だった。そこで、この村では、「満蒙開拓」に特化した記念館を設置し、歴史・資料の記録・保存・展示・研究を行い、後世に正しく歴史を伝えるための拠点とするためにつくったとのことだ。満州移民史を扱う日本で唯一の民間施設らしい。内部を見学すると戦時下の国策に翻弄された人々の様子が伝わってきて、痛々しかった。太平洋戦争末期のソビエト軍参戦により、開拓地を放棄して、逃げまどい、戦死・病死したり、子供を中国人に預けたり、捕まってシベリアに抑留されたりと、様々な悲劇があったとのことだ。
 それから、近くにある長岳寺を参拝したが、武田信玄の墓があることで知られていて、境内には、いろいろな碑が立ち並んでいた。
 参拝後は、車を飯田市内へと向かわせ、飯田城跡にある「飯田市立美術博物館」を見学したが、飯田城についてのいろいろな情報を得られて、良かった。
 その後は、飯田市内を走って、今日の宿である、「殿岡温泉湯元 湯~眠」には、夕方5時頃に到着した。まず、温泉に入って、今日の汗を流したが、とても気持ちの良い湯だった。その後、館内で夕食を取り、部屋に戻って、テレビを見たり、明日のコースを考えたりしていた。そうする内にまどろんできたので、床に就いた。続く


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