Gabbie's Cafe

 天使のカフェへようこそ

叔父からの贈り物

2005年11月23日 | Cafe Sweets

二日前に、叔父から小包が届きました。
小さな箱の横面には、北海道のお菓子の老舗“六花亭”のロゴ。開いてみると中には、さまざまな種類のお菓子たち。きっと誰もが一度は口にしたことのある“マルセイバターサンド”や、十勝の甘納豆、北海道の上質なバターを使った焼き菓子など、和洋取り混ぜたバリエーションの豊かさに感嘆しながら、一つ一つ大切に籠に移しました。

幼い頃、初めて“六花亭”の名前を耳にしたのも、たしか叔父からだったと思います。市販のものよりひとまわりちいさな上品な白い包み、素朴なタッチで描かれたふきのとうの絵が印象的でした。二重になった紙製の銀紙をあけて見ると、中には板のホワイトチョコレート。ブロックのひとつひとつに刻印されたふきのとうの字と絵がかわいらしくて、食べるのを躊躇してしばし眺めていたのを思い出します。そしてその味わいときたら…。世の中にはこんなにおいしいものがあるのか…!というほどでした。

母の弟にあたる私の叔父は、横浜元町の老舗レース店の重役として一ヶ月の半分は旅の空にある人です。
幼いころから、私にとって叔父は憧れの存在でした。いつもスーツをスタイリッシュに着こなしていて、そばに行くとコロンのいい香りがしました。彼のように太い金のブレスレットや重たい結婚指輪が少しも厭味でなく似合う日本人は、ちょっと珍しいかもしれません。
話術に長けていて社交的な叔父のいる空間は、いつも華やぎます。出張の帰りに彼が立ち寄るときくと、私はいつもわくわく嬉しくなりました。
全国各地を飛び回る仕事柄でしょうか、国内外のおいしいものに精通していて、お酒も多様にたしなみ、叔父の家を訪ねるといつでも過分にもてなされました。お鮨屋さんのカウンターで好きなものを握ってもらうという経験を初めてしたのも、この叔父の招待でした。
思えば私が初めて海外に出て行こうという思いを持ったとき、その為の土台を提供してくれたのも彼でした。
私が育つ過程の中で、折に触れて叔父はその時々の最先端の世界や上質なものとの出会いを私にもたらし続けてくれました。そう、六花亭のホワイトチョコレートもそのひとつ…。そんな有形無形の贈り物の中でも、一番古い記憶の中にある出来事を、私は今も忘れることができません。

叔父には私と同い年の息子がいます。私たちが5、6才の頃だったでしょうか、一緒に遊んでいると叔父がそばに来て、自分の息子にこう言いました。“お前は男の子だから、しっかりなっちゃんを守ってあげなくちゃいけないぞ”。
そんな昔のこと、叔父はもう覚えていないかもしれません。けれども、取るに足りないほどの小さな子供の自分が初めて人格を尊重されたと感じた…とでもいいましょうか、存在価値を言い表してもらったというほうがふさわしいかもしれませんが、この時の叔父の一言が、私にとってそれはそれは印象的なものでした。
誰かからのこんな一言で、人は初めて自分が大切な存在だと知るのかもしれません。そして私にとっては叔父のこの一言が、自分の今までのセルフイメージを支えてくれるほどの大きな一言だったのだと、今振り返ると思うのです。

“Tくんの口に合うものがあるといいけれど”…と、出張先から贈ってくれたお菓子でいっぱいの箱を眺めながら、今はもう母親になった姪のことを、昔と変わらず心にかけてくれる叔父を想いました。
お礼のe-mailを送ったら、“今日からまた出張…”との返信。忙しい人だから、次に会えるのはいつのことになるのか分からないけれど、叔父が今まで渡し続けてくれた目に見えないたくさんの贈り物を、私もこれから自分の子供に渡していきたいと思っています。
私にとっての叔父のような存在との出会いが、自分の息子たちにも待っていますように…と祈りつつ。





Millesime 2005: l'Excellence!

2005年11月18日 | Good Food Fine Wine

まだ飲んでいないのですが・・・
今年のボージョレ新種はおいしいそうですね。普段あまりワインに興味のない方も、こんな事を言われるとちょっと飲んでみたくなりませんか?
以下、転送・・・

今年は「素晴らしい2005年」と現地ボージョレーワイン委員会の報告が入っています。
Millesime 2005: l'Excellence (Inter Beaujolais) 
「こんな年はいままでなかった!こんな年はほとんど見たことがない。」 
2005年は明らかに、1959年や1964年、1976年のように偉大な年の一つとなる見込と発表がありました。毎年セールストークとして優良年が語られますが、実際、2005年には素晴らしい年となる兆候がみられ、成功するワインとなるあらゆる要素が例外なく集まっています。

●少ない収穫量
 :全体の収穫量としては、例年より25%少ない。果実に凝縮感がある。
●とてもよく成熟したぶどう
 :夏の間、日中の暑さと夜間の涼しさが交互に訪れ、風通しが良く、ぶどう
 の果房が熟すには理想的な状態であった。
●完璧な衛生状態:今年は病気がほとんど発生しなかった。収穫の時期にいろ
いろなところ異口同音に「果実が小さく、見事なぶどう」と語られた。
●糖度が高く、糖と酸の見事なバランス
 :ぶどうはとても良く濃縮されている。
                   プティットメゾン サイバーワインショップ 2005年 11月3週号 より 



ボージョレ・ヌーヴォー

2005年11月17日 | Good Food Fine Wine

今年も、11月の第三木曜日がやってきました。
数日前、つけっぱなしのテレビから、成田へ到着したというのを耳にしてはいたのですが、忙しさにかまけて今年の第三木曜が何日なのかを確認することもせずにいました。
ブログに何を書こうかなぁと思いをめぐらせつつ、ふと心に浮かんだのがこの新酒のことでした。“そういえば今年は何日だろう・・・”カレンダーに目を向け、それが今日であることに気づいてびっくり。なんとなく来週のような気がしていたものですから・・・。慌ててネットを開き、まだ買えそうなものを注文しました。

 毎年この時期、ボージョレ・ヌーヴォーがやってくると、必ず思い出す人がいます。
Y氏。彼は横浜青葉区のフランス料理店で給仕の仕事をしていたときの私の上司でした。小さなホテルに付随するこのフレンチレストランは、今どき珍しく正装の給仕たちによってワインが抜かれ、コース料理の皿が運ばれる店でした。
重々しいビロード張りの椅子に、トップクロスのきちんとかかったテーブル、調度品の磨かれた店内。年老いた料理長のあとを引き継いだのは、リヨンで修行を積んだ若いながらも実力のある敏腕シェフ・ド・キュイジーヌ・・・そんな店で、Y氏はワインアドバイザーとして活躍していました。小柄だけれど黒服に蝶ネクタイのよく似合う人でした。20代半ばでワインのことをほとんど知らなかった私が、ソムリエナイフの使い方からブショネ(悪くなったワイン)のかぎ分け方、より良くお客のグラスにワインを注ぐ注ぎ方など、彼から学んだことは数知れません。ボージョレ・ヌーヴォーにヴィラージュというのがあって、それはただのヌーヴォーとは違うんだと、そんなことすら私は彼から教わったのでした。

初めて店を訪れた時、面接のテーブル越しの優しくて社交的なオーナーの横で、一言も話さず笑いもしないY氏をみて、なぜだか“私の使命はこの人を笑わすことだな”などと思ったのを妙に思い出します。“このコワモテを攻略すればこの店でやっていける”・・・そんな魂胆がよぎったのだったと思います・・・が、実際の彼は、私の予想に反してウイットに富んだ愉快な人物でした。それでいて仕事をきっちりこなす、面倒見のよい理想の上司。そしてそれ以上になによりも、彼は一流の職人でした。
注文されたワインをセラーから出してきて、お客に傾けて差し出し銘柄を確認する。慣れた手つきで封を開き、T字型のソムリエナイフをするするとまわす。音もなくすっと抜けたコルクの香りを嗅ぎ、テーブルの隅にさり気なく置く。そしてテイスティングのグラスに、一口分のワインを注ぐ・・・。Y氏がワインを供する時のその動線の美しさとプロとしての仕事の上質さに、よく惚れ惚れと見とれたものでした。

そんなY氏が異動になると聞いたのは、私が店に入ってまだ一年も経たない頃でした。実はその店は某大手企業の傘下にあって、近くの大学のキャンパス内に学生用のコンビニとカフェテリアを開く計画が持ち上がり、Y氏はその責任者に指名されたのでした。

Y氏が黒服を脱ぐ・・・私にとっては大事件でした。
才能ある器を天職の場から引き抜いて、コンビニの店長になれなんて・・・なんてもったいない。こんな無粋な、本質を踏みにじった話があるものか・・・と若かった頃の自分が猛然と憤ったのを思い出します。反対の署名でも集めはじめそうな私に、当のY氏はまるで他人事のように“まぁ、しかたがないよ”と言い、私は神妙になって黙りこみました。理想の上司であったY氏は、そうして従順な部下として店を去っていきました。

最後に会った時、Y氏はポロシャツとジーンズに緑のエプロンを着けてコンビニのレジに立っていました。変わらず理想の上司として、彼は今もアルバイトの学生やパートの主婦たちの為のシフトを組み、毎日ペットボトルやスナック菓子の在庫を管理しているのかもしれません。企業にとって都合のよいパーツの一部として・・・でもそれはそれで“まぁ、しかたがない”ことかもしれない。
あれから何年も経ち、もう会うこともない。でも思い出す度、やはりY氏にはどこかで黒服を着ていてほしいと思ってしまう私です。

“ボージョレ・ヌーヴォーの当たり年”と言われたあの秋、天井の高いフレンチレストランで客にワインを供していたY氏の面影に敬意を表しつつ、遅ればせながら今年も、新しいぶどう酒の到来を楽しみにしています・・・。



ガトーショコラ

2005年11月12日 | Cafe Sweets

大切な友人が、素敵な音楽を届けてくれました。
しかも、彼女のオリジナルです。
しかもしかも、今の私の心の必要にマッチするように、特別に編集してくれたと言うではありませんか・・・。
ターンテーブルに、そっとのせてみる。そこには丁寧に選ばれた言葉たちが、囁くように伝えてくれていました。
神様からの愛、信じることへの励まし、希望への誘い。

以前よく、神様の声が聞こえたらいいのに・・・と、もどかしく思ったものでした。
愛しているというのなら、ちゃんとそう言ってくれなくちゃ、五感に訴えるように、分かるように知らせてくれなくちゃ・・・本気でそう思って、落ち込んだりしたものです。

でも今は、こんな風に心にかけてくれる友達の言葉や、歌や詩の中にイエス様の姿が見える。
理屈ではなく、なにがあるからという条件つきでもなく、自分は神様から愛されているという実感があるのは、どうしてだろうと考えてみる。
そして、それはちょうどケーキが焼けるようになった日の、あの感覚に似ていると気づきました。
がんばって、がんばって、泣きべそかいてもうまくやれなかったことが、ある時気づくと無理なくできるようになっている。羽のはえそろっていなかったひな鳥が、ある日突然ふわりと巣を飛びたつように・・・。

神様の愛を信じることも同じなのかもしれません。聖霊が私たちに下るとき、私たちは力を受ける。私たちの努力ではできなくて、ある日突然、翼を得る。
神様の愛が、これ以上ない現実として心を満たす・・。そして“その時”は、神様だけが選びとって与えてくださることができるもの。

前回、友人のために焼いたガトーショコラは、残念ながら満足のいく出来ではありませんでした。
それでもとてもおいしかったと言ってくれた彼女。
ある日ふわりと天使の羽を得て、おいしいガトーショコラが焼けたなら、真っ先に届けよう、あの声の主に・・・。




変わらないもの変わるもの

2005年11月09日 | Cafe Sweets

ひとつは青の市松模様、もうひとつはそら豆色の可愛らしいボールに入って、友人が丁寧にいれてくれたカフェオレは出てきました。
フランス映画の中で、顔がすっぽり隠れてしまうほどの大きなカフェオレボールを両手で包んで飲んでいるシーンを初めて見た時のことが、ふと思い出されました。
あれ以来、カフェオレボールというやつにずっと憧れていたのです。どんぶりさながらのあの大きさ。うどんでも入っているのか!?と思いきや、中に入っていたのは意外にも泡立ったミルクがたっぷり入ったフレンチコーヒー・・・。“コーヒーはカップで飲むもの”という既成概念を打ち破る、衝撃のワンシーンだったわけです。

先日、あるレストランを訪ねて生まれ育った横浜に行きました。
それはデパートの中にあり、テーブルには白いクロスがかかっていて、座るときに給仕の人が後ろから椅子を押してくれるような、きちんとした店でした。
幼いころから、何か特別なことがあると決まって母がそこへ食事に連れて行ってくれたものでした。そこへ行く時には、なんだか自分が大人になったような気がしてわくわくしたのを思い出します。
私の人生の中で、節目節目に母とこの店で食事をするのが、決まりのようになっていました。流行り物の派手さはないけれど、いつも変わらない質の良い料理とサービスに出会える数少ない店として、私にとって特別な場所でした。
10年ぶりに訪れると、その店は元の場所にはありませんでした。聞けば最上階のレストラン街にリニューアルオープンしたとのこと。エスカレータを上った先には、すっかりきれいになって様変わりを遂げた同じ名前の店がありました。
ふぅんと思いつつ店に入り、席に着く。垢抜けて洗練された雰囲気の店内。けれどもテーブルには昔のように白いクロスはかかっていませんでした。以前よりずっと年齢層が低いウエイトレスたち。店はすっかり、若者向けのカジュアルなものに変わっていました。

不思議とがっかりはしませんでした。むしろ、世の中のものはすべて変わっていくんだなと妙に腑に落ちた感じがしただけでした。変わっていかなければ生き残っていけない現実があるんだなぁ・・・と。

変わっていくもの朽ちていくもの別れを告げねばならないもの・・この世はそんなものばかり。でもそれでいいんだと言えた時に、一歩前に進めるのかもしれません。そしてそう言えるためには、決して変わらないものに根をおろしている必要がある気がします。もちろん、そう言えない時もある。でも、変わらないものは必ず変わらずに私達を待っていてくれる。そう言えるようになるまで・・ね。

長いこと憧れているのに、なかなかカフェオレボールを購入できずにいるのは、自分のものにしてしまうといつか特別なものでなくなるような気がするからかもしれません。
でもいつか店でカフェオレを出すときは、顔も隠れんばかりのおおきなボールを傾けて、ほっとしながら飲んでほしいかな。