Gabbie's Cafe

 天使のカフェへようこそ

Love never fails

2016年07月10日 | Gospel
一昨日、ダラスと東京で、同じアメリカの、肌の色の違う人たちの上に、全く対極のことが起きたのを目の当たりにした。
相手を憎み命を奪い報復を繰り返す人たちと、ワンボイスで神を讃える人たち。

この同じ条件の人たちの間で、一体何が違ったんだろう。

キリストは「互いに愛し合いなさい」と人々に言った。「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ」と。
「責めるところがあっても赦し合いなさい」「互いに相手を自分より優れたものだと思いなさい」聖書は、そんな言葉でいっぱいだ。

違う者同士が共存する地上において、時にそれは、とても難しいこと。
歯を食いしばって、プライドを飲み込んで、怒りに震え、悔し涙が出ることもある。
「あなたの敵を愛せよ」を実践するのに、白旗を上げて「私にはできません神様、だから力をください」と、祈るしかない自分を見つける。

罪深く欠けだらけの人間がこれをするわけで、いつでも成功するわけじゃない。祈ることを怠り、結局これを実践できずに、傷つけたり失ったりした貴いものに、悔やんでも悔やみきれないこともある。

でも。
愛すること、赦すことに失敗しても、何度でも挑もう。
できなかったことを神の前に差し出してその大きな全能のみ手に預け、神の赦しを受け取って、めげずにまた立ち上がって、謝り、赦し、愛することに挑もう。何度でも、何度でも、何度でも、諦めず、祈り励ましあい、赦し合い、愛し合おう。

だって、そうすることを一人一人が選ぶかどうかだから。
「ダラス」になるか「東京」になるかは、私たちの、その選択にかかっているのだから。

そして、選んだ先には、きっと違いがうまれる。
神は必ず、助けをくれる。
私たちはきっとそうして、地上の奇跡を見る。



Photo from TVOP

Holy Waste 〜 聖なるムダ遣い

2016年07月02日 | Gospel




聖書には「もっとも大いなるものは愛」と書いてある。
「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と、イエスは言ってる。

イエスのやりかたは、自分は安全なボートの上にいて
そこから溺れた人に浮き輪を投げるようなやり方じゃなかった。
なりふり構わず飛び込んで水に潜り
私たちを下から押し上げて助けるようなやりかた。

「神」という、宇宙最強の立場を捨てて弱い人間というカタチになることで
私らと同じ「罪人の一人に数えられる」ことで
私らの代わりに自分が裁かれることにより
私たちの犯した罪をチャラにし、当然払うべき罪の報酬をいう定めを
無効にしてくださった。

そのために、自分は命を落とすことになるのを承知の上で。

それは、私たちを愛していたから。
ちっぽけで愚かな私たちが、地上で罪により苦しんだあげく
助ける者もなく地獄に落ちて滅びていくのを
あまりにも不憫で見ていられなかったから。

そんなこと、しなくてもよかった。
でも、そうせずにはいられなかった。
無関心でいられなかった。
…愛してたから。


これが、神が人類への愛を表すのに選んだ方法。
世界で一番ナンセンスなストーリー。

そう、愛ってやつはいつもそうやって
ムダで、バカげてて、ナンセンス。


…でもそれが、愛なんだ。



実はイエスの愛は、ただムダに命を捨てるだけの
お涙頂戴ストーリーでは、終わらない。

「死んでも必ずよみがえる」という
その先の勝利を見据えた「死」だったんだ。
三日目のイースターの朝、イエスは墓からよみがえった。

この、シナリオを真に受けて、受け取る私たちには
その同じ輝かしき希望がある。

「死んでも生き返る」という
「人間の常識では考えられない神の現実」を受け入れて信じた時
私たちはこの世の常識という足かせを脱ぎ捨て
可能性無限大の全能の神の力を帯びて
輝かしい、勝利して余りある新たな命へと
生まれ変わるのだから。

主のよき力に守られて

2016年06月09日 | Gospel
主のよき力に確かに 静かに取り囲まれ
不思議にも守られ 慰められて
私はここでの日々をみなさんと共に生き
みなさんと共に新年を迎えようとしています。

過ぎ去ろうとしている時は、私達の心をなおも悩まし
悪夢のような日々の重荷は 私達をなおも圧迫し続けています。
ああ 主よ。どうかこのおびえおののく魂に
あなたが備えている救いをお与えください。

あなたが、もし、私達に苦い杯を、苦汁にあふれる杯を
なみなみとついで差し出すなら
私達はそれを恐れず感謝して、
いつくしみと愛に満ちたあなたの手から受け取りましょう。

しかし、もし、あなたが私達にもう一度喜びを
この世と、まぶしいばかりに輝く太陽に対する喜びを与えてくださるなら
私達は過ぎ去った日々のことをすべて思い起こしましょう。
私達のこの世の生のすべては、あなたのものです。

あなたがこの闇の中にもたらした ろうそくを
どうか今こそ暖かく、静かに燃やしてください。
そして、許されるなら、引き裂かれた私達をもう一度結び合わせてください
あなたの光が夜の闇の中でこそ輝くことを、私達は知っています。

深い静けさが私達を包んでいる今この時に、
私達に聞かせてください。
私達のまわりに広がる目に見えない世界のあふれるばかりの音の響きを
あなたのすべての子供達が高らかにうたう賛美の歌声を

主のよき力に 不思議にも守られて、
私達は来るべきものを安らかに待ち受けます。
神は、朝に、夕に、私達と共にいてくださいます。
そして、私達が迎える新しい日々にも、神は必ず、私達と共にいてくださるでしょう。

ボンヘッファー著 村椿嘉信:訳
「主のよき力に守られて」 新教出版社



Year of Jubilee

2016年05月03日 | Gospel


川崎に戻ってきた年に苗を買った7年目のオリーブ。
ずっとほったらかしにしてて、ゴメン。
去年はちゃんとオリーブの土を買って植え替え、置き肥もやって、2月には剪定もしたら、ずっと禿げていた枝から、新芽が沢山出てきた…!

来年の今頃は、きっとこの新枝に、たくさんの花がつく。実もなるかな…!

主が新しいことを始めておられる。
私はもうそれに気づいてる。
生ける主が、そのように日々語りかけてくださるから、私には分かる。
そして、信じることを選ぶ。

ヨベルの年。
すべてのものが、本来ある場所に戻る。
いなごの食いあらした年月が報われる。

もうすでに受けたものとして、私は今日、信じ、喜ぶ。


Reigns

2016年03月16日 | Gospel


Psalm 146

Praise the Lord.
Praise the Lord, my soul.
I will praise the Lord all my life;
I will sing praise to my God as long as I live.
Do not put your trust in princes,
in human beings, who cannot save.
When their spirit departs, they return to the ground;
on that very day their plans come to nothing.
Blessed are those whose help is the God of Jacob,
whose hope is in the Lord their God.
He is the Maker of heaven and earth,
the sea, and everything in them—
he remains faithful forever.
He upholds the cause of the oppressed
and gives food to the hungry.
The Lord sets prisoners free,
the Lord gives sight to the blind,
the Lord lifts up those who are bowed down,
the Lord loves the righteous.
The Lord watches over the foreigner
and sustains the fatherless and the widow,
but he frustrates the ways of the wicked.
The Lord REIGNS forever,
your God, O Zion, for all generations.
Praise the Lord.


詩篇146:(口語訳)

主をほめたたえよ。
わが魂よ、主をほめたたえよ。

わたしは生けるかぎりは主をほめたたえ、
ながらえる間は、わが神をほめうたおう。

もろもろの君に信頼してはならない。
人の子に信頼してはならない。
彼らには助けがない。

その息が出ていけば彼は土に帰る。
その日には彼のもろもろの計画は滅びる。

ヤコブの神をおのが助けとし、
その望みをおのが神、主におく人はさいわいである。

主は天と地と、海と、
その中にあるあらゆるものを造り、
とこしえに真実を守り、

しえたげられる者のためにさばきをおこない、
飢えた者に食物を与えられる。
主は捕われ人を解き放たれる。

主は盲人の目を開かれる。
主はかがむ者を立たせられる。
主は正しい者を愛される。

主は寄留の他国人を守り、
みなしごと、やもめとをささえられる。
しかし、悪しき者の道を滅びに至らせられる。

主はとこしえに統べ治められる。
シオンよ、あなたの神はよろず代まで統べ治められる。
主をほめたたえよ。

Psalm 46 for the "11th"

2011年09月12日 | Gospel

9.11から10年。追悼式典で、オバマ大統領が聖書のこの箇所を読んだ。
自らの言葉を一言も足すことなく、彼はただこの箇所だけを読んだ。

祈りのようにも、賛美のようにも、悔い改めのようにも、泥沼から救いを求める叫びのようにも聞こえた。
きっとこれは大統領の心からの祈り、そしてアメリカの祈りでもあったんだろう。

でも…不思議なことに、自分の、自分たちの祈りにも、聞こえる気がした。


9.11から10年。3.11から半年。節目のこの日に、このみことば。
…生きてる。やっぱり神は生きておられる。
生ける神から私たちへの、たった今語られる、生けることば…

3.11の前から、ずっとしまい込んであった大きな聖書を開く。と、もうすでにこの箇所に付箋が挟まれていた。

明日、なにが起きるかをご存知のただ一人のお方が、きっと挟ませたにちがいないと思った。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。
苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。
わたしたちは決して恐れない
地が姿を変え
山々が揺らいで海の中に移るとも
海の水が騒ぎ、沸き返り
その高ぶるさまに山々が震えるとも。

大河とその流れは、神の都に喜びを与える
いと高き神のいます聖所に。
神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。
夜明けとともに、神は助けをお与えになる。
すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。
神が御声を出されると、地は解け去る。

万軍の主はわたしたちと共にいます。
ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。

主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。
主はこの地を圧倒される。
地の果てまで、戦いを断ち
弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる。

「力を捨てよ、知れ
わたしは神。
国々にあがめられ、この地であがめられる。」

万軍の主はわたしたちと共にいます。
ヤコブの神はわたしたちの砦の塔。


God is our refuge and strength,
an ever-present help in trouble.
Therefore we will not fear, though the earth give way
and the mountains fall into the heart of the sea,
though its waters roar and foam
and the mountains quake with their surging.

There is a river whose streams make glad the city of God,
the holy place where the Most High dwells.
God is within her, she will not fall;
God will help her at break of day.
Nations are in uproar, kingdoms fall;
he lifts his voice, the earth melts.

The LORD Almighty is with us;
the God of Jacob is our fortress.

Come and see what the LORD has done,
the desolations he has brought on the earth.
He makes wars cease
to the ends of the earth.
He breaks the bow and shatters the spear;
he burns the shields with fire.
He says, “Be still, and know that I am God;
I will be exalted among the nations,
I will be exalted in the earth.”

The LORD Almighty is with us;
the God of Jacob is our fortress.







Dawn~夜明け前~

2010年11月09日 | Gospel

    『夜明けの前は一番暗い』 そんな言葉を何度信じて、がっかりを繰り返してきたことだろう。

やけくそになったり、投げやりになったり。
ほぼすっかりあきらめそうになりながら、それでも信じることを選んだ人の、なんと幸いなことでしょう。


突然の悪天候にビバークを余儀なくされた登山者も、きっとこんな気持ち…

危険で、寒くて、真っ暗で…
その夜明けの訪れは、信じられないほど遠い。

でも噴きつける寒風にうずくまってじっと耐えながら、夜明けは必ず来ると信じ続けた人に、朝はやってくる。


Joy cometh in the morning.


そのときが来たなら…

その『主の時』が訪れたならば…

わたしたちは歓喜し、もはや夜の暗さを思い出さない。

闇の勢力が衰退し、まったき光がとってかわる。



『夜明けの前は一番暗い』

それはきっと、訪れる光の明るさを、わたしたちが知るために。






Down by the Riverside

2010年09月04日 | Gospel

もう2ケ月半も前のこのことを、本当はもっと早くここに綴りたいと思っていました。
が、ふさわしい画像が見つからなくて、記事にできないまま夏がきて、そうこうするうちばたばたと夏休みになだれ込んでしまいました。。。

今日、友人のブログにこの写真があるのを見つけ、くすねてきてしまいました。(あっちゃんごめんね!勝手にもらっちゃったよ)
これは、今年の6月12日に行われた『多摩ラブフェローシップ・ゴスペルクワイヤ&多摩リバーサイド・ゴスペルクワイヤ』の10周年コンサートの時のショット。


この川崎の地に嫁いで来て、右も左も分からなかったこの地で、古くからのゴスペルの友がゴスペルクワイヤーをやっていたということだけでも、いま考えてみれば本当に奇跡としか言いようがなく…それが『多摩リバーサイド・ゴスペルクワイヤ(通称・たまリバ)』でした。
乳飲み子をかかえた子育て真っ最中ということもあり、いつでも自由に参加できたわけではなかったけれど、『たまリバ』は、当時の私には、異国で再会した旧友のような存在で、大きな心の支えになってくれていました。

やがて、『たまリバ』が『たまラブ(多摩ラブフェローシップ・ゴスペルクワイヤ)』に移行するときが訪れ、リーダーが替わり、雰囲気が変わり、メンバーが変わっていき…『リバ』のメンバーたちは、卒業するようなかっこうで、変化を迎えていきました。

今回、その『リバ』『ラブ』を通じて10周年を迎えるにあたり、いつもリハーサルをしている市民館の大ホールを借り、記念のコンサートを開くことになったのです。
『リバ』にとっては『リユニオン』というカタチでの、復活ステージです。

現役の『ラブ』と違い、何年もずっと歌っていなかった仲間たちが、このコンサートのために集まり、一ヶ月前からの練習でみごとな復活を遂げました。
私は『リバ』『ラブ』のどちらにも属していたことがありますが、今回は練習日の都合と大分にいたときからのブランクもあり、『リバ』のメンバーとして参加させていただきました。


…余談ですが、このGabbie's Cafeを開店した時、私はまさにこのクワイヤでの活動を断腸の思いで辞め、大分の地に移る時でした。
あまりに辛かったので、当時の記事にはそのことは何も書いていなかったけれど、思えば、そのクワイヤとの別れの辛さを紛らわしてくれたのが、このブログだったなぁと思います。

だからこのブログの開設からの日数が、すなわち私のクワイヤでのブランクの日数。…そう思うと、今こうして自分がこのブログを、この地で綴っているということが、実はものすごい奇跡なのだ、恵みなのだと分かります。


『たまリバ』とともに、私のゴスペルライフも奇跡の復活を遂げた気分。このコンサートがなかったら、たぶんいつまでも歌い始めるきっかけを捕らえられずにいたことでしょう。
本当に、私にとっては特別なスイート10のコンサートとなりました。


…そして、先週。
その時の出演者が集まって、コンサートのビデオを観る機会を与えられました。
10周年のために、スペシャルとして集まった面々。でも、みんな『これを機会にまた歌いはじめたい!』という思いに駆られていました。…少しずつでもいい。時々でもいい。このまま、終わらせたくない。ビデオを観終わり、コンサートの感想を述べる一人ひとりの口から、そんな言葉があふれてきました。
リーダーのMさんは、『みんなのこの思いに応えない理由がない』と、語りました。その声には、小さいけれど新しい炎が燃え始めるときの、希望にも似た力が含まれていました。


…神様のなさることは、すべて時にかなって美しい…

そんな聖書の言葉があります。

この、『たまリバ』復活の一連の流れを見ていて、本当にそうだと思います。

自分にとって、この10周年のコンサートは、まさに『神の時』と思えるようなタイミングでやってきました。けれども、その同じ『神の時』にいざなわれ、引力を感じて集った人は、私だけではなかったんだと感じます。

だから、きっとここには、何か神のご計画があるのだろうと期待します。

まだ見えない、想像もできない、驚くような大きなこと。。。神はこのクワイヤの復活を通して、きっとそれをご計画しているに違いない。。。

その大きな引力に身を任せつつ、運ばれていこう。その大きな恵みの真っ只中に。
そんな風に思う、今日この頃なのでした。


『見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それが芽生えている。
               あなたたちはそれを悟らないのか。
                 わたしは荒野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。』(イザヤ書43:19)


                    





信じよ、そうすれば

2010年06月26日 | Gospel

                   『信じれば、神の栄光を見ると言ったではないか』


『信じる』が先。

『栄光を見る』のがあと。

先払いの、後発送。



ほんとに届くの?

不良品じゃない?

変なものつかまされるんじゃ?

詐欺じゃない?


そんな不安とリスクをおして、『信じる』。

すると、届く。『神の栄光を見る』ことが私たちの手に。


『栄光を見たから信じる』じゃ、だめなんだ。

そこが、ミソ。




やっと届いても、時には不良品に見えるときも、詐欺にあったんじゃないかと思うときも。

これがそう?注文したものと届いたものが違うんだけど?と思うことも…。


でも、まだ信じる。

求めたものよりベターなもの、私にとってのベストが届いたんだってことに気づくまで、まだまだ続く心の中の戦い。


何年かかるの?

思っていたよりずっと待たなきゃならないの?


なんで?こんなに待たなきゃダメなの?

すぐしてくれられるはずなのに、どうしてまだ待たされるの?




たまに疲れちゃって、お月様のめぐりにもガクーーーッとなって。

我慢できてたこと、やり過ごせていたことが重たすぎになってきて。

自分の弱さも、苦しんでいるとなり人のことも。先の読めない真っ暗さも。
あっちを立てればこっちが立たない、ずっと二つの岸の狭間に立っているような、この折り合うことのないジレンマも。

全部重たい足枷に感じて。



マジメすぎ?アタマ硬すぎ?

だから前にも後ろにも、進めないの?

だから踏み出す一歩が、こんなに遠いの?



でも、『信じれば、神の栄光を見る』

その一言に、一縷の望みをつなぐ。

根拠?

あのお方が私の神だから。ただそれだけ。nothing else.


そういう強さが、今一番ほしい。

目の前にある、目の前で起こるどんなことにも揺るがされない、負けない強さ。

負けないだけでなく、笑い飛ばすほどの信仰を、神さま、私にください。







Advent

2009年11月29日 | Gospel

            …今年も、この時期がやってきました。クリスマスを待つ数週間。アドベント。

どうか今年の私たちのアドベントが、本当の希望の光の到来を待つ時でありますように。
クリスマスが、見せ掛けの美しさやその場の雰囲気に酔うだけのものではなく、あなたと私にとって本当の意味で、久しく待つだけの価値のあるものでありますように。
私たちがそれに本当の意味で気付き、アーメンと言うことができますように・・・今年は特に、それを祈ります。


久しぶりにカフェに戻ってきました。なんと半年も、留守にしてしまいました…ご無沙汰、失礼いたしました。
『マルタ』のようになっていたこの半年でしたが、これからまた、PCの前に静まる時間も持てそうな…


全て、『時』ですね。あらためまして、またどうぞよろしくお願いいたします。書かずにたまっているあんなことこんなこと、また少しずつ、綴っていきたいと思います。






だって好きなんだもん

2008年10月13日 | Gospel

長いことずっと、自分の中で勝手に作った、随分たくさんの変な決まりに縛られて生きてきました。
今までそのことに気付かず、またそのことがどれほど自分を自分らしくなくしてきたかにすら気がついていませんでしたが、それに気付いてからは、ひとつずつその“変な決まり”を解除していってます。
今年ももうあと2ヵ月あまりですけれど、いまから私の“今年の一文字”が決まってしまいそうです。
それはズバリ、“捨”。

自分が自分らしく輝くために、自分の人生に要らないものを、容赦なくドンドン捨てていく。それは目に見える“モノ”であることもあり、また目に見えない“プライド”のようなものでもあったりする。なんにしても、ごちゃごちゃくっついて私という存在を変形させていたものをひとつずつ脱ぎ捨てていくと、だんだんありのままの私像が浮き彫りになってくる。自分でも知らなかった、自分の本当の姿。それと出会うのは、実に新鮮で、楽しい出来事です。

今日、またひとつ要らないものを捨てました。
それは“好きを好きと言ってはイケマセン”という決まりごと。
賢く、分別があり、聞き分けの良い人間になりたいという思いから、私はいつからか、“頭で考えて手に入りそうにないものは求めてはいけない。好きだとすら、言ってはいけない”という決まりごとをつくり、そしてそれを自分に課してきました。それはたぶん幼少の時からはじまったことで、手に入る見込みのないものを求めてダダをこねるなどということは、私にはほとんどなかったように思います。そしてどうせ手に入らないのなら、いっそそれが好きだということすらも忘れてしまおうと思うようになりました。

でもやっぱり、本当は“欲しい”のです。不自然に押し込められた“好き”“欲しい”の感情は、やがて素直に“好き”“欲しい”が言える人へのやっかみに姿を変えました。でもやっかんでいる自分がいるなんて、私のプライドが認めなかった。…そうして私は、自分の心の奥底に複雑で苦い思いを、どんどん溜め込んでいきました。

…今日、本当に久しぶりにゴスペルのコンサートに足を運びました。事前のリハに参加していたので、もしかしたら自分も歌えるかもしれませんでした。けれどもやはり、ピッタリとしがみついて離れないRのために、私はみんなと一緒に舞台に上がることが出来ませんでした。

“若い頃にもう散々舞台では歌ったから、子供を泣かせてまで舞台で歌わなくて良いの”と、聞き分けの良い私は言いました。
…けれども、やっぱり私は歌いたかったのです。あとになって、あの舞台にいた人たちのように歌いたかった…と思っている自分を発見しました。

帰りの車の中で、私はゴスペルのCDをかけて一緒に歌いました。後ろでRが寝ているというのに、大きな声で。Tの聴きたがった“きかんしゃトーマス”も却下して(笑)。
そうして家に着く頃には、私の中で、窒息しそうな思いが不思議と消えていました。


たとえば誰かのことを好きになって、その人が自分のその思いを受け入れてくれなかったとしても、常識で考えてとても叶わぬ恋だとわかっていても、きっと大切なのは、その人のことが好き、という自分の気持ちを否定しないでいてあげること。
“好き”を“好き”と言えること。たとえ手に入らなくても、自分がタダをこねている子供のように感じたとしても、やっぱり好きなものは好き。そう、言えること。それはもしかしたらその人にとって、実際に願いが叶うことよりも、大切なことなのかもしれません。

本音の自分を受け止めてあげる。だって好きなんだもん、と言ってみる。いいじゃない、バカだなぁと思われたって。

そしてそう言えるところから、私は解放されていく。より正直で誠実な自分像へと近づいていく。

だって、好きなんだもん。ヘタでも、カッコ悪くても、私はこれが好きなんだ。そんな自分を胸張って見せられたら、きっと上手下手、カッコいい・悪いを超えて、私は“素敵”になれる気がする。

  変な決まりを捨て、代わりに“素敵”を身にまとう。私はこんな自分が、“好きなんだもん!”








Noah's Ark

2008年10月05日 | Gospel

    今日は日曜日。気持ちが良いようなまっすぐで素直な雨が、一日中降り注いでいます。

私たちの今通う教会の礼拝堂には、正面にノアの箱舟のステンドグラスが施されています。名前も、チャペル・ノア。別府方面から高速道路を走っていくと、大分・光吉インターの手前、左側に見える赤いとんがり屋根がそれです。

別府の山間の霧の中を抜けて大分市内に入る。いくつものトンネルを抜け、うっそうとした山陰から突然視界が開ける場所で、いつも決まって私は、ランディングする時の飛行機に乗っているような気分になります。丸みを帯びた銀色の天使の翼がETCのゲートを滑るように通り抜け、私たちは無事地上に降り立ちます。

約40分のフライトを終え教会に着くと、ホッとする笑顔たちが迎えてくれる。
窓の外の、音もなく優しく降る雨を眺めながら過ごす日曜日の朝。まるで箱舟に乗り込んで、四十日四十夜降り続く雨の中に漂っているような趣きです。天井から下がったいくつものオレンジ色のライトが、あたたかく包む毛布のように礼拝堂を照らします。

エンジェルキッズと呼ばれる子供たちの賛美リードから始まり、礼拝式。H牧師を通して語られるメッセージは、毎回毎回不思議なように私の心にジャストミートで響きます。まるで心を見透かされているかのような神からの語りかけ。どうなのだろう…という思いを持ちながら日曜日を迎える。すると必ずといって良いほど、礼拝メッセージの中で「お前の道はこれだ、これでいい、この線で進め」というような後押しの語りかけをいただく。私は励まされ、勇気と確信と新たなる力を頂き、再び鷲のような翼を駆って日常の歩みに出てゆくことができる。この教会に集うようになってから、毎週のようにそんな奇跡が続いています。この世の価値観で測られない。この世の限界で頭打ちされない。…そのことが、日々私を生かしてくれる。

今日のメッセージは、「人生と仕事」。私たちが持つべき生業(なりわい)への心構えというお話でした。実はちょうど、前日にそういうことを考えていました。私たちが日々、足が地に着いた生活をするということの大切さ、きちんとした計画のある人生を送ることの重要性。そしてまた、そうするためにストレイトにしておくべき神との関係…漂流記のロビンソン・クルーソーの、また大富豪ロックフェラーの人生を題材にしながら、神に祝福される人生の在り方が語られました。
それはこの先の自分の人生の指針を示してくれるものであり、また同時に多くのチャレンジを投げかけてくれるものでもありました。
神との約束の遵守、そして小さなことに忠実であることの大切さ。私たちは、何か大きなことを成し遂げていかねばならないのではなく、むしろ小さなことに誠実に歩むことが大切なのです。そしてその歩みの一歩一歩を確かにしてくださり、そこに大いなるみ業を表してくださるのは、紛れもなく神ご自身なのです。

また与えられたものを感謝しつつ、それで満足してしまわない人生。おおいに神に期待しながらいただいたものを元手にアグレッシヴに生き、労働に見合った正統な報酬を受け、そして今よりもさらに繁栄していく…。また自分が潤うと同時に、正しい形で神と人とに、それを還元していく…という歩み。それは実は、神に喜ばれる健全な生き方と呼ぶべきものなのですね。

「できるだけ得よ、できるだけ蓄えよ、できるだけ与えよ」というジョン・ウェスレーのことばにも、それはあらわれている。
私たちはもっと大胆になって良い。キリストに在って、私たちは大志を抱いてよいのだと、そんな促しが天から聞こえてくるようでした。

                       

老いも若きも、この場所で一週間の「霊の糧」をいただいて、またそれぞれの場所に出て行きます。
実は霊の糧だけでなく肉の糧、つまりランチタイムも魅力のひとつ。たいていはカレーが用意されますが、大きな鍋で一度に沢山作るからか、そのカレーの美味しいこと…!ガスの炊飯釜で炊かれたごはんもピカピカで本当に美味しくて、ついついおかわりしたくなってしまう。。。我が家では、カレーはもっぱらノアで食べるもの…と、作るのをやめてしまいそうです(笑)。

心も体もガス満になり、再び羽を生やして街を後にする時、私たちはいつも高速上から見える赤いとんがり屋根に向って「ありがとう、チャペル・ノア!」と挨拶して帰ります。
元気になって病院を退院する時のような、帰省していた実家を飛び立つような、「さようなら」というよりも「いってきます」な気分です。

さあ、新しい一週間のはじまりです。一体どんなことがまっているのだろう。この一週間の終わる頃、一体どんな課題を胸に、またこの箱舟の入口をくぐるのだろう。
でも、どんなことでも、おまかせしておけばいい。洪水を生き残るため片道40分かけてたどりつく私たちの心に、きっと神様は語ってくださる。その語りかけを信じて、目に見えるものに惑わされず、神の現実に今週も、歩みだして行く!




Make Us One ~あなたの愛で

2008年07月08日 | Gospel


                        「Make us one」

                    Make us one Lord, Make us one
                      Holy spirit, Make us one
                Let your love flow so that world will know
                       We are one in You.


                    「あなたの愛で」(by Piano Koji)

                       主よ、あなたの愛で
                    わたしたちをひとつにしてください

                     主よ、あなたの愛にとどまります
                        あなたの愛に歩みます



「Make us one」という曲に出会ったのは、もう10年以上も前。
そして今、この歌と同じ思いをこめて歌うことができる「新しい歌」に、主は出会わせてくださいました。

「Make us one」に出会った頃の私は、今よりもっともっと利己的で、自分にとって「都合の良い人・好きな人」とひとつにして欲しい、という思いが、先行していた気がします。

けれどもあれから10年が絶ち、その間に多くの山や谷、時には死の影の谷すらも通り、私は変えられました。

「あなたの愛で」を歌うとき、こころから、今、目に見えない垣根によって分かたれている人との関係の回復、そしてその相手と「ひとつにされていること」が真っ先に心に浮かびます。
メドレーのようにして「Make us one」をくちずさんでみると、「Holy Spirit」のところでわけもなく涙があふれてとまらなくなりました。


地球の裏側の、飢えている子供たちと、餓死していくわが子を見取らねばならないその親たちのことを思い、神の愛から切り離されて霊的に餓死寸前の同胞のことを思い、そしてまた一番身近な、去ってきた群れの兄弟姉妹、そして「肉の父母」のことを思い、ふと口をついて出たこれらの歌が、私の心の祈りと一体であることに気付きます。

キリストは、対立する二つのものを一つとするために、その間にある垣根を取り除くために、十字架にかかりに、地上に来てくださった。 だから、私たちは主に在ってその愛のうちにひとつにされる。

        そのことを、心から信じます。それが現実となるのを見る前に、信じます。






Prophecy ~預言~

2008年04月27日 | Gospel

自分が、どうやら「うつ」だったということに、ずっと気がつきませんでした。あれが一般に言うところの「うつ」だったのだと、自分を含めてだれも気づく者がいなかったのは、いま思えば幸いなことでした。

「うつ」が癒された今、つい先日までのあの苦しみはなんだったのだろう…と思い、もしや…と、うつの症状を説明しているHPをいくつか調べてみたら、自分の今までの状態が、まさにバッチリ当てはまることに気がつきました。

癒されるまで気がつかないなんて…私って一体…。

いや、たぶん神が知らせなかったのだ。神様は、「どうしてこんなことに気がつかなかったのだろう」というようなことも、私の目に隠すべきだと思われればお隠しなさるお方。
「うつ」に気付き、カウンセリングや投薬で治そうとしていたら、こんなに劇的な神の癒しのみ業を、私はおそらく体験することはなかったことでしょう。

いつからだろう。食事を作ったり洗濯物をたたむというような、ごく日常的な家事をするのに絶大な努力がいるようになったのは。たぶん、もう10年ちかい。

あの倦怠感、疲労感、無力感、絶望感。ひいては恐怖感。眠っても眠っても疲れがとれず、毎日のように奇妙な夢に悩まされる。

あなたはもう充分がんばっている、といくら言われても自分にOKが出せず、どうしても自分の存在が人に受け入れられていると思えない。

そんなすべての症状があとかたもなく消えてしまい、いぶかしむ気持ちの反面、妙に腑に落ちている。なぜなら神には、できないことはないのだから。


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オランダ・アムステルダムにて、極限の精神状態の中で神のみ手の中に救われた直後に、わたしに与えられた預言がありました。

「預言者」と紹介されて部屋に入ってきた二人の女性のうちの一人が、その場にいた、世界中から集まった10名ほどの若者のうちの3~4人を選んで指差し、それぞれに預言を与えていきました。
最後に私が指さされ、「あなたはエステル記を読んだことがありますか」と訊く彼女。

子供の頃通っていた教会学校では読んでいたけれど、もう10年以上も触れていなかった聖書。
エステル記って、なんだ?

「あなた、エステル記を読んで御覧なさい。お国は?日本?あなたは日本のエステルになるわ。」

・・・・。

「でもね、すぐにではないのよ。これから神の訓練がはじまる。あなたを使える器として整える訓練よ。神はあなたを削り、剪定し、それには痛みが伴うわ。あなたは、その訓練についてこられますか?」

その人がなにを言っているかもよく飲み込めないまま、なぜか私の目から涙がおちはじめました。
もう、15年も前のこと。


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…以来、エステル記は私にとって、聖書の中で常に特別なものでした。が、肝心の預言については、私はずっと忘れていたのでした。おりに触れて思い出すことがあっても、だいたい一笑に伏してきた。現代における「預言者」、または「預言」というものの信憑性について、はなはだ疑問を持っていたからかもしれません。だからあえてこのことは誰にも、ごくごく親しい友人にすら、話すことはなかった。
「気がふれている」。そう思われるのがおちと思ったからです。


しかし、まるで目隠しが取り払われるように全てが明らかになった今、到底あらがうことのできない圧倒的な神の臨在を前に、あの時の預言はただごとではなかったのだということを悟りました。15年にわたる訓練の時期とやらが、どうやら終わりを迎えたのだということも。


灰をかぶって伏していた時期があった。いなごに食い荒らされ、自分の人生はもう再生が不可能だと思った時期があった。漆黒の闇の中で、もう朝がやってくるとなど思えなかった日々があった。けれど今、荒れ野の時期が終わったのだと、深いところで確信があります。
神は私の目の前で、私の「いなごに食い荒らされた日々」をたった3日間で再生され、これから私の人生は、神のための器、通り良き管として、神に用いられることに費やされることとなるでしょう。


       古い全てが過ぎ去り、今、新しいことが、主ご自身のみ手により、はじまる。






有能な妻

2008年04月21日 | Gospel


             有能な妻を見いだすのは誰か。真珠よりはるかに貴い妻を。
            夫は心から彼女を信頼している。儲けに不足することはない。 
                         彼女は生涯の日々
                夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない。
                         羊毛と亜麻を求め
                   手ずから望みどおりのものに仕立てる。
                         商人の船のように
                       遠くからパンを運んで来る。

                       夜の明ける前に起き出して
                        一族には食べ物を供し
                    召し使いの女たちには指図を与える。
                         熟慮して畑を買い
                   手ずから実らせた儲けでぶどう畑をひらく。
                     力強く腰に帯し、腕を強くする。
                      商売が好調かどうか味わい
                      灯は夜も消えることがない。
                  手を糸車に伸べ、手のひらに錘をあやつる。
                貧しい人には手を開き、乏しい人に手を伸べる。
          雪が降っても一族に憂いはない。一族は皆、衣を重ねているから。
               敷物を自分のために織り、麻と紫の衣を着ている。

                        夫は名を知られた人で
                   その地の長老らと城門で座に着いている。
                  彼女は亜麻布を織って売り、帯を商人に渡す。
                   力と気品をまとい、未来にほほえみかける。
                      口を開いて知恵の言葉を語り
                     慈しみの教えをその舌にのせる。
                     一族の様子によく目を配り
                     怠惰のパンを食べることはない。
                    息子らは立って彼女を幸いな人と呼び
                      夫は彼女をたたえて言う。
                       「有能な女は多いが
                   あなたはなお、そのすべてにまさる」と。

          あでやかさは欺き、美しさは空しい。主を畏れる女こそ、たたえられる。
            彼女にその手の実りを報いよ。その業を町の城門でたたえよ。

                         箴言31・10~31


・・・はじめて読んだ時からずっと憧れている「理想の妻」像。まだ結婚すらしていない頃から、訳もなく惹かれた箇所でした。かっこいいな。素敵だな。こんな風になれるのかな。なれたら、いいな。

いまはかけ離れているけれど、神様みこころならばこんな風に、ぜひ私を作り変えてください…。