長男Tが、二年間通った保育園を卒園しました。
二年前の園庭で、真新しい園児服に身を包んで桜の下に立っていたTは、今よりひとまわりもふたまわりも小さくて、手作りの通園かばんが大きすぎて哀れをさそうほどでした。
自分の幼稚園時代に、あまり楽しんだ記憶のない私。教会付属の幼稚園に不足な点があったのではなく、ごく幼児期に取りこぼした親に甘えたいという思いが、丘の上の幼稚園への長い階段をのぼる足を重くしていたようでした。
なんにしても、わが子にはどうか幸せで心満たされた保育園時代を送って欲しい…そんな思いで、特に気を配ったつもりでした。
評判が良く、家からも近くて信頼もできていた幼稚園に、ほんの少し通っただけで引越しを余儀なくされた時、ひどく胸が詰まったのを覚えています。…せっかく良い幼稚園に出会えたというのに、あえてそこを後にしなければならないのは、本当に後ろ髪を惹かれる思いでした。
…そんな時、沈んでいた私に、友人や母がそろって言ってくれた言葉がありました。
「そんなにがっかりしないで。神様がT君の行く先に、必ず素晴らしい受け皿を備えていてくださる。きっとT君にとっての最善が、そなえられているから」
過疎がすすんで子供が著しく減り、幼稚園はなくなって保育園しかないというような町。キリスト教の教会のないこの町に、教会付属の幼稚園など望むべくもなく、町にある4つの全ての保育園がお寺の経営だと聞いたとき、キリストに連なる者の端くれとして、私の心は揺れました。
本当にもっと素晴らしい受け皿なんて見出すことができるのだろうか…そんな半信半疑の思いを引きずりながら、私たちははじめてS保育園の門をくぐりました。
園庭の奥に見える、本堂とお寺の鐘。大きな大きな楠のふもとに、守られるようにして並ぶ戦没者のお墓と碑。そろそろと入って行った私たちを迎えてくださった、お寺の住職夫人である園長先生の、優しくて澄んだ瞳。この目に会ったのは初めてではない…と、とっさに思ったのでした。
「色んな家の子がいていいと思うんです。」と、自分たちはキリスト者だと公言してはばからない私たちを異物視するのではなく、型にはめるのでもなく、むしろ尊重し、一貫してありのままで受け入れてくれた保育園。そんな彼らの姿勢に、私たちが教えられたことは少なくありませんでした。
卒園式の直前、「式の中には仏様に手を合わせるところがあるけれど、Tくんはキリスト様にお祈りするのでいいからね」と言ってくださった園長先生。その声には、本当に大切にすべきことは何なのか、一番見失ってはいけないことは何なのか、それを確信している人だけが持つ平安がありました。
そしてそれは、往々にして目には見えぬもの、また形式や流派を超えて共通するものなのだ…ということをも。
「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは目に見えないんだよ」
…星の王子さまの中に出てくるキツネの声が、なんだかだぶって聞こえてくるようでした。
そうです。そして、「大切なことは多くはない。むしろ、たった一つだけ」なのですね。
同じ枠の中に留まることは安心かもしれないけれど、思い切ってそこから出てみなければ見えないこともあることに、私たちは気付いたのでした。
…だから憂うことなく、目に見えるものに惑わされることなく、示された道をこれからも行こう。心地よいことも、辛く思うことも、はじめて見るものも、目に見えないことも、どれもこれも、私たちを愛してやまない存在からの最善だと知ればこそ。これからも行こう、どこまでも行こう。
桜の花の咲く園庭から2年。おめでとう、T。ありがとう、保育園。育まれてひとまわりもふたまわりも大きくなったTがまたあの門をくぐるときは、きっともう、ランドセルの一年生です。