Gabbie's Cafe

 天使のカフェへようこそ

Autumn in Winery

2006年11月29日 | Season's Special
     http://blog.goo.ne.jp/gabriels/e/cd0af055f56d49ef30b53308f948c43f

大好きな秋が終わる前に…と、丘の上のワイナリーへ足を運びました。ここは、実は知る人ぞ知る紅葉の名所…。と、いっても、先日行った深耶馬渓の紅葉狩りとは、随分と趣きが異なります。

新酒祭で訪れてから、たかだか一ヵ月半。あの時緑に溢れていたワイナリーは、がらりと姿を変えていました。くぬぎやメープルの木がたくさん植わっているので、この時期の中庭はこんな金色の世界が広がるのです。
お昼前のワイナリーは人っ子一人いなくて静か。閑散とした中庭に、晩秋のこもれ陽が降り注ぎます。音もなく散る落ち葉が、遊歩道をやさしく覆ってゆきます。

久しぶりに一人で散歩しながら、いつの間にかあのメロディーを口ずさんでいました。
古い曲です。エラ・フィッツジェラルドがサッチモと歌っていた「Autumn in New York」。
“Autumn in New York,why must it be so inviting”…と歌われる「ニューヨークの秋」は、そんなにも魅惑的なのでしょうか。あの二人にそう歌われては、ニューヨークに行くならぜひとも秋にしなければなりません(笑)。
              

連想ゲームのようにこの曲で思い出すのは、メグ・ライアンとビリー・クリスタルの映画「恋人達の予感(原題:When Harry met Sally・・・)」。20代の頃、大好きで幾度となく観た映画です。
サッチモのシビレル声と共にこの映画を最高に引き立てていたのが、なんといってもハリー・コニックjrのピアノ。小粋なアレンジで、このAutumn in New Yorkという曲も素晴らしくよみがえっていました。そうそう、ハリーとサリーもこんな色をしたニューヨークの街を歩いていましたっけ。

   

ワイナリーを後にしてからも、この曲だけがぐるぐると頭の中をまわり続けています。ノスタルジーを引きずりつつ、過ぎ行く秋をもう少し味わっておこうと聴き込んだアルバムを探し出しました。

      …アドベントに突入するまでの数日間、車にのせて、聴いてみようかな。

                  When Harry met Sally・・・





「氷点」

2006年11月28日 | Gospel

留守番の時間が長かったので、録画しておいた番組を観ることができました。長いから…と気負っていたのですが、あっというまに観てしまいました。三浦綾子さん原作の「氷点」を二夜連続のドラマ化したものでした。

自慢ではありませんが、三浦綾子さんの小説は、ひとつも読んだことがありません。同じクリスチャンとして、姉妹甲斐のないことだ…と思いつつ、どうしても読めなくて。恥ずかしながら、実は読書は苦手なのです。読みながら、気がつくとまったく別のことを考えていたりしてしまうので…。

でもドラマなら、子供の相手をしながらでも観られる。本当に恵みでした。

私が子供の頃、昼の連続ドラマとしてやっていたのを覚えています。(もちろん観てはいませんでしたが。)
今回、盛りだくさんな内容を2時間ずつ二夜の番組枠にはめるのは、きっと至難の業だったのでしょう。原作を知らない私の目にすらも、ちょっと無理があるなぁという感は否めなかったのですが、それでも、それにしても、こういう作品が幾度もドラマ化されることの重要さを、ひしひしと感じていました。

ご自身、まるでドラマのような人生を送られた三浦綾子さん。筆舌に尽くしがたい苦しみを経て、彼女が神様から受けたものは、何だったのだろう。そんな風に思いつつ観ていました。

理不尽なこの世での出来事に傷ついた私たちは、結局どこかにはけぐちを求めなければ生きていけないのかもしれません。誰かを責め、当たり、痛めつけないことには自分を保つことができない。そんな人間の弱さ醜さを、彼女は誰より知っていた人なのかもしれません。だからこそ、彼女にはあの作品が書けたのかもしれません。

そして、その弱さと醜さの犠牲者となることからの唯一の脱出の道が、十字架のキリストだと彼女は知らせたかったのかもしれません。罪の大きさや、誰が先に傷つけたかということが問題ではなく、誰がその罪を十字架の下に下ろせるか、誰が「赦す」という選択をすることができるか…なのだと。

あのローマ兵の槍を自分の手に握り締め、その先を十字架の上のイエス様に突き刺さないかぎり、イエスの十字架は自分自身のものにはならない、と、以前教えられたことがありました。そのときはその意味がよく解らなかったのですが…

登場人物の心の闇の中に、「イエスを十字架につけろ」と叫んでいたあの群衆の声を聞きました。そしてまた、自分の心の中にも…。

…そしてそんな私にも、あの物語のひとりひとりにも、十字架の上のキリストは言われます。
「癒しをうけなさい」と。






Thanksgiving

2006年11月23日 | Gospel

    今日は「勤労感謝の日」。でも実はこの祝日の意味が、ずっとよくわかりませんでした。

なのである時期から、私は「この日は欧米で言うところの“感謝祭”にあたるものだろう」と理解するようになりました。
耕して種を蒔き、間引いて水をやり、刈り取ってくれる人々と、目には見えないけれどその手の業を祝福して実りをもたらしてくださる創造主の“勤労”に、心から感謝する日。そう思えばこの時期のこの休日も、私なりに納得できるというものだからです。

「感謝祭」といってすぐに思い出すのが、大好きなノーマン・ロックウェルの絵。いつもは遠くに住んでいる一族が一同に会し、共に感謝祭の食卓に着いている。そしてその特別な食事のクライマックスとして、七面鳥の丸焼きがテーブルに運ばれてくる瞬間が、ロックウェルが得意とする見事な構図で描き出されています。

みんなが、素晴らしい顔をしている絵だと思います。もてなす者の喜び、もてなされる者の喜びが、こんなにも伝わってくる。

…それにしてもこんなに大きな七面鳥を焼くのは、きっと大した大仕事だったことでしょう。調理してくれるお母さんの勤労に感謝。そしてその七面鳥を切り分けるのは、たいていその家の家長の役目。これを切り分けるのも、きっと大仕事でしょうね。お父さんの勤労も、感謝されるに値しそうです(笑)。

なんにしても、感謝できる相手がいること、それまた感謝なことにほかなりません。この「感謝祭」の絵を見ていると、そんな温かい気持ちになってきませんか?


                    




どうもありがとう

2006年11月23日 | Kid's Plate

昨日保育園へお迎えに行くと、Tが作ったと言って、担任の先生がこれを手渡してくれました。

岡本太朗も真っ青?の、この表情をご覧あれ。紙コップの上に、小枝やお茶の実で飾った紙粘土の顔が乗っています。なんでも勤労感謝の日のプレゼントなんですって。

…でも、Tからこの力作をもらうには、私はあまりに勤労していないと感じてしまいました。そしてその場で、担任の先生に言ってしまいました。
「先生、いつも勤労、感謝します。これがふさわしいのは、本当は先生ですよね。」って!





パニエ

2006年11月21日 | Anniversary

今日は、母の65回目の誕生日。akiちゃん家が、親子でホームメイドのお菓子を作っていたのに導かれ、よし、ひとつ産後初のケーキでも焼いてみようと思っていたのですが…

今朝になってRが発熱。二週間前から患っていた中耳炎も悪化してしまいました。そしてどうやら私自身も風邪にやられたらしく、頭痛がし始めました。仕方なく、耳鼻科の近くのケーキ屋さんで、ケーキを調達することに。

可愛らしい佇まいのこの店の名はパニエ。たしかフランス語で“かご”という意味です。コルドンブルーに通っていた時、中身をくりぬいたブリオッシュの中にクリームとフルーツなどを入れてフルーツの入った小さなかごに見立てて作ったものを、たしかそう呼んでいた記憶があります。

ガラス張りの厨房の中では、幾人ものパテシェたちが忙しく働いています。そしてまばゆいショーケースの中には、そのパテシェたちの作品が、まるで宝石のように輝いていました。
少人数なので、一番ちいさなパリブレストを選択。バースデーのプレートとロウソクをつけてもらいました。

“パニエ”で、パテシェたちの立ち働く姿を見て、なんだか元気をもらいました。そろそろ本当にケーキを焼き始めよう…。そんな風に思って家路を急いだ秋の夕暮れでした。でも今日は、大事をとっておとなしく休もうと思います(笑)。    

                





深耶馬渓

2006年11月21日 | Season's Special

先週、cafeにも来てくださる横浜時代の友人、naoさんが私たちを訪ねてくれました。彼女は、私と母が所属していた教会の仲間でもあった人。懐かしい地元の話題で盛り上がり、私たちがもうずっと会っていない友人達の消息も聞かせてくれたりして、彼女との楽しい時はあっという間にすぎました…。

横浜からずっと離れている私たちにと、横浜の香りをたくさんお土産に届けてくれたnaoさん。そんな彼女になんとか大分のいいものを持って帰ってもらいたいと、今ちょうど見ごろを迎えている紅葉を見に行きました。
目指したのは紅葉の名所、深耶馬渓(しんやばけい、と読みます)。今年は例年になく暖かい日が続いていたのでちょっぴり不安でしたが、とてもきれいでした。紅葉狩りの観光客も多く、地元のTVも取材に来ているほどでした。

   


私の好きな聖書の話に、こんなのがあります。
あるときイエスとその弟子たちが、目の見えない人に出会ったとき、弟子たちがイエスにたずねるんです。“この人が目が見えないのは、この人自身が罪を犯したからですか?それともこの人の先祖が罪を犯したからですか?”って。
当時、人々の間では、わざわいは何か罪を犯した報いだと思われていたようです。けれども、イエスは全然ちがう答えをされるんです。
“この人の目が見えないのは、この人が罪を犯したからでも、この人の先祖が罪を犯したからでもありません。この人の上に、神のみ業が現れるためです”と…。
そして、手を触れ、その人の目を開かれるのです…。

私たちの中にも、そんな思いがあるのではないでしょうか。何か良くないことや、不都合なことが起きた時、“私の行いが悪いからかしら”とか思ってみたりして。
けれどもそんな時、起きた出来事に失望せずに、きっとこれはなにか良いことが起きるための前ぶれだ…と信じることができたなら、それはとてもすばらしいことだと。

もっと前から計画していたのに、ずっと予定が合わなくて、なかなかおいでいただけなかったnaoさん。でもこの紅葉を見たら、“ああ、今が時だったんだな…”と、なんだか嬉しくなりました。
そしてその聖書の言葉が、心の中に響いてきたのでした。“神のみ業が、現れるために”…。


          


   息を呑むほど美しい深耶馬渓の紅葉は、紛れもなく神のみ業に他なりませんでした。





たべてください

2006年11月18日 | Kid's Plate

Tの保育園では、よくクッキングの時間があるようです。保育園の給食の献立表には、毎月一回ぐらい“☆組おやつ”と書いてある日があります。きっとみんなで作ったものを、おやつに食べているのでしょう。
そういえばおいもほりの頃、掘ってきたおいもでおやつを作ったといっていました。いいアイデアだなぁと思いました。

少し前、おじいちゃんおばあちゃんの日というのがあったのですが、そのときバァバが、ちいさな丸いケースに入ったジャムをもらって帰ってきました。ふたには子供の手書きのラベルがついています。
園の軒先に実ったぶどうを摘み取って、みんなで皮をむいてつぶしてお砂糖を入れて、それを給食の先生がぐつぐつ煮てくれ、次にみんなで水あめをいれ、また先生がぐつぐつ煮てくれ…
そんなふうにして出来上がったのだそう。ケースに入っていたのはほんの大さじ一杯程度。けれども価値ある、大さじ一杯でした。

“ほんのすこしですが…”“つまらないものですが…”と、ついつい言ってしまう大人たち。
予防線?それともそれが大人の礼儀だからでしょうか。
日本では当たり前なこんな言葉も、良く考えたらへんな言葉。外国で言おうものなら“つまらないと思っているものを私にくれるの?”と誤解を招きそうです。そう思い始めてから、なんだかこの言葉が使えなくなりました。

“たべてください”と書かれた大さじ一杯のぶどうジャム。“ほんのすこし”でしたが、なんだか自信満々に輝いていました…






Pomodoro

2006年11月11日 | Good Food Fine Wine

ここ数日、久しぶりに主婦らしいことをしてました(笑)。ここのところ、あまりにサボっていたのですが、コルドンブルー時代の友人catsanのブログをみていたら、“ワタシもこんなことではいかん!”と思って、少々奮起しているところです(笑)。

朝食にミネストローネを作ったら、缶のトマトが半分残ってしまったので、もう一缶開けてお昼用にトマトソースを仕込むことにしました。
六月に採れた自家製のたまねぎとにんにくをみじん切りにしてオリーブオイルで炒めたら、おもむろにトマトを投入。木ベラでつぶしながらぐつぐつと煮込みます。11月にしてはあまりに暖かい日の続く今日この頃、庭のバジルはとうこそ立ってしまったけれど、まだまだ健在です。手のひらいっぱい分も入れるようにとジローラモさんの本で読んでから、私のトマトソースには、いつもこれでもかというほどの生のバジルの葉が入ります。
季節がら手に入らないときは、秋に剪定の月桂樹の枝で毎年作るリースから、一枚ずつとって入れたりして。煮込み方も浅めにして、こうなるとイタリアンというよりはフレンチなトマトソースができあがりますけれど。

でも今回は幸いバジルに恵まれて、濃厚なソースができました。これだけでも、十分ご馳走です。
ソースが煮あがる時間を逆算してペンネを茹ではじめる。好きな銘柄はアネージ。ここのペンネを食べてから、他のは買えなくなってしまったほど…。
本当はコルドンブルー時代に代官山でよく買った、キザキザがついていないのが好きでした。田舎ではもちろん手に入らないのですが…。

トマトも、本当は完熟した生のものを使って、あのとろけるような甘さと深い味わいを楽しみたいところでしたが、今年の夏はとにかく野菜には過酷な気候でしたから…。ぜひまた来年に期待してみたいと思います。

…むむ、たかがトマトソース、されどトマトソース。考え出したらなんだかやる気が湧いてきました(笑)。みなさん、来年はきっと一緒に食べましょう。Cafeランチ用に、キッチンガーデンで完熟したトマトで、おいしいソースを作りますからね!




ある秋の日

2006年11月06日 | Gospel

愛するおとうさまを天におくった友人たちとそのおかあさまを想いつつ、こんなに遠くにいて自分は何もできず…歯がゆい気持ちをそのままに、そっと電報を打ちました。

いつの日か天での再会が待っているとわかっていても、別れはどんなに寂しいでしょう。共に語り合い笑い合った日々を、どんなに恋しく思うことでしょう。

駆け寄って抱きしめたい気持ちがあふれます。けれどももしそこにいたのでも、何も言えない気もします。何も言えず、何もできずにただ見守るのかもしれません。

だからちょっぴりこの距離を、感謝するのかもしれません。何もできない自分が、何もできない距離に置かれていることを。感謝するのかもしれません。


記録を塗り替えてしまうほどずっと降らなかった雨が、さっき降り始めた。カラカラの大地に静かにしみこんでいくやさしい雨。大地を潤し、蒔かれた新しい命を育む恵みの雨。

雨音を聞きながら、昔、あのみ言葉を執り成してくれた友人を思う。新たな希望が、喜びが、ほらね…もう芽吹いている。

              涙と共に種を蒔く人は 喜びの歌と共に刈り入れる。
                種の袋を背負い泣きながら出て行った人は
              束ねた穂を背負い 喜びの歌を歌いながら帰ってくる。

                       詩篇126:5-6
 




天使の羽

2006年11月05日 | Gospel

                 いつも、天使の羽のようだと思っていたのです。

秋になり、ススキが穂を風になびかせるようになると、逆光の夕日をあびて金色に輝くその姿に、天使の背中についている羽はきっとこんな風だろうと…。

三連休の真ん中の昨日、せっかくのおやすみにTをどこにも連れて行かないのも可哀相だねと、車を走らせることにしました。
午前中にお客様を送り出し、小春日和のお日様を逃がさぬように、干してあるお布団を取り込んでから。(といっても、ここのところ九州地方は歴史的な晴天に恵まれ、連日暑いくらいなのですが…)
昼間のうちにお風呂にも入ってしまおう。そしてちょっと夕方出かけてみよう。

湯布院への最短の道は、もう一昨年の台風の時に崩落して以来ずっと閉鎖されていて通れません。その道は自衛隊の演習場の横を通るのですが、実はここが隠れたススキの名所。この季節にはぜひとも通ってみたい道なのですが…。
残念だなぁと思いつつ、それでは…と、数日前に開通した別府方面の道を行ってみる。塚原高原も今ススキがきれいだと、父が言っていたそうだから。

高原のススキは、とてもきれいでした。見渡す丘がススキの穂ですっかり真っ白になっているのは、ため息のでる光景でした。けれども、不思議と天使には出会えませんでした。何枚か写真を撮ってみるも、なんだかどれもピンとこないものばかり。…どうしてだろうと考えながら車に乗り込む…。

閉館前のトラピスト修道院へ立ち寄ってみる。時間が遅かったのでもうクッキーの生産ラインも止まっていて、誰もいない売店には修道士さんが一人。
なんだか寂しくなってしまったのか、“にぎやかなところに行きたい”とTが言うので、夕暮れの湯布院へ足をのばす。夜が早い湯布院でも、湯の坪横丁あたりならまだ賑わっているかもしれないから…。

途中、殺風景な工事現場の横を過ぎようとして天使に出会った。彼らは高原にはいなかった。

            

                そう…彼らは、高原にはいなかったのですね。