Gabbie's Cafe

 天使のカフェへようこそ

おいしいものフェア

2008年10月14日 | Cafe Sweets

この夏、川崎に行った時、友人の営む大好きな雑貨屋さん“Sunny Days”へ立ち寄りました。そしてその際に店主のあっちゃんから“11月においしいものフェアをするので、久しぶりにお菓子を卸しませんか?”とのお誘いをいただきました。

…神様は、本当に不思議です。夏の引越しがすっかり落ち着いて、ちょうどボチボチお菓子を作り始めた今、こうしてまた機会をいただけることに、本当に感謝があふれます。季節も、バターの溶けすぎないちょうど良い頃となりましたし、新しい自分だけのキッチンで、自分のペースでお菓子を作れることに、いまからワクワクしています。

この計画を知る何ヶ月も前に、漬け込みフルーツを仕込みました。漬け込めば漬け込むほど豊かな味が出るドライフルーツ。当時私は、家族のあんなことこんなこと、次々と起こる出来事に心身ともに大忙しで、“果たしてまたこのフルーツを使ってお菓子を焼ける日など来るのかしら…”なんて、まったく先の見えない日々を送っていました。いろいなことに自信をなくし、“もうお菓子作りは引退して隠居してしまおうかな…”なんて弱気になった時もありました。

けれども“またお菓子を作る日々”は、ちゃんとやってきました。色んな必要に引っ張り出されて重い腰を上げることになった今月。まったく別の方向から、二件の注文をいただいて作ったケーキたちが、私に再び腕まくりをする元気をくれました。

何ヶ月もの熟成を経た、漬け込みフルーツの瓶のふたを開けてみる。はじめに投入した洋酒とスパイス、そしてフルーツの、どの風味とも違う第三の芳香が立ち上り、鼻をくすぐります。それはそれは、えも言われぬ豊かな芳醇な香り…全てを忘れてしばし恍惚としてしまいます。
何にもしていないように見えても、実は瓶の中では神様の魔法が、着々と進んでいたのですね。

でも、なんだかそれは、私たちの人生にも似ている…実はそんな風に感じています。時間は、決して伊達に経つものではなく、私たちのことを豊かに熟成させてくれるもの。無駄な時間なんてひとつもない。それは癒し、休ませ、そしてあらたなるものに、私たちをつくり変えてくれる。。。

ふたつの大きなガラス瓶を前に、あれを作ろう、あんなのもいいな…と焼き菓子のイメージがどんどん広がっていきます。


半月後、私の手から羽を生やしたお菓子たちが旅立つところ、遠く離れた愛する土地、川崎のSunnyのお店に並んでいるところ、そしてあなたのお口に入るところをイメージしつつ、今は祈りをもって備え、最善のお菓子を焼くための、天来の愛と力を求めているところです。


 「おいしいものフェア Vol.2」at Sunny Days  2008.11.1(sat) 11:00~


【SUNNY DAYS】
小田急線・向ヶ丘遊園駅下車、南口を出て改札を背に左方向にロータリーを歩き、ミスドの前を通り過ぎてさらに50mほど行くと見えてくる、5階建ての白タイルのビルの1階の、道に面してお店の前に籠がいっぱい出ているお店。それがSunny Daysです。

11:00-19:00 木曜定休日。





だって好きなんだもん

2008年10月13日 | Gospel

長いことずっと、自分の中で勝手に作った、随分たくさんの変な決まりに縛られて生きてきました。
今までそのことに気付かず、またそのことがどれほど自分を自分らしくなくしてきたかにすら気がついていませんでしたが、それに気付いてからは、ひとつずつその“変な決まり”を解除していってます。
今年ももうあと2ヵ月あまりですけれど、いまから私の“今年の一文字”が決まってしまいそうです。
それはズバリ、“捨”。

自分が自分らしく輝くために、自分の人生に要らないものを、容赦なくドンドン捨てていく。それは目に見える“モノ”であることもあり、また目に見えない“プライド”のようなものでもあったりする。なんにしても、ごちゃごちゃくっついて私という存在を変形させていたものをひとつずつ脱ぎ捨てていくと、だんだんありのままの私像が浮き彫りになってくる。自分でも知らなかった、自分の本当の姿。それと出会うのは、実に新鮮で、楽しい出来事です。

今日、またひとつ要らないものを捨てました。
それは“好きを好きと言ってはイケマセン”という決まりごと。
賢く、分別があり、聞き分けの良い人間になりたいという思いから、私はいつからか、“頭で考えて手に入りそうにないものは求めてはいけない。好きだとすら、言ってはいけない”という決まりごとをつくり、そしてそれを自分に課してきました。それはたぶん幼少の時からはじまったことで、手に入る見込みのないものを求めてダダをこねるなどということは、私にはほとんどなかったように思います。そしてどうせ手に入らないのなら、いっそそれが好きだということすらも忘れてしまおうと思うようになりました。

でもやっぱり、本当は“欲しい”のです。不自然に押し込められた“好き”“欲しい”の感情は、やがて素直に“好き”“欲しい”が言える人へのやっかみに姿を変えました。でもやっかんでいる自分がいるなんて、私のプライドが認めなかった。…そうして私は、自分の心の奥底に複雑で苦い思いを、どんどん溜め込んでいきました。

…今日、本当に久しぶりにゴスペルのコンサートに足を運びました。事前のリハに参加していたので、もしかしたら自分も歌えるかもしれませんでした。けれどもやはり、ピッタリとしがみついて離れないRのために、私はみんなと一緒に舞台に上がることが出来ませんでした。

“若い頃にもう散々舞台では歌ったから、子供を泣かせてまで舞台で歌わなくて良いの”と、聞き分けの良い私は言いました。
…けれども、やっぱり私は歌いたかったのです。あとになって、あの舞台にいた人たちのように歌いたかった…と思っている自分を発見しました。

帰りの車の中で、私はゴスペルのCDをかけて一緒に歌いました。後ろでRが寝ているというのに、大きな声で。Tの聴きたがった“きかんしゃトーマス”も却下して(笑)。
そうして家に着く頃には、私の中で、窒息しそうな思いが不思議と消えていました。


たとえば誰かのことを好きになって、その人が自分のその思いを受け入れてくれなかったとしても、常識で考えてとても叶わぬ恋だとわかっていても、きっと大切なのは、その人のことが好き、という自分の気持ちを否定しないでいてあげること。
“好き”を“好き”と言えること。たとえ手に入らなくても、自分がタダをこねている子供のように感じたとしても、やっぱり好きなものは好き。そう、言えること。それはもしかしたらその人にとって、実際に願いが叶うことよりも、大切なことなのかもしれません。

本音の自分を受け止めてあげる。だって好きなんだもん、と言ってみる。いいじゃない、バカだなぁと思われたって。

そしてそう言えるところから、私は解放されていく。より正直で誠実な自分像へと近づいていく。

だって、好きなんだもん。ヘタでも、カッコ悪くても、私はこれが好きなんだ。そんな自分を胸張って見せられたら、きっと上手下手、カッコいい・悪いを超えて、私は“素敵”になれる気がする。

  変な決まりを捨て、代わりに“素敵”を身にまとう。私はこんな自分が、“好きなんだもん!”








Kitchen Counter

2008年10月09日 | Cozy Booth

                キッチンカウンターは、私のお気に入りの場所。

幅90cmの小さな空間ですが、料理をしたり出来あがったものを置いたりするのはもちろん、ここにPC用のコロ付きスツールを引っ張ってきて座り、本を読んだり手紙を書いたり…何でもこなせてしまいます。低いコーヒーテーブルでは小さなRの手がすぐに伸びてくる可能性があるので、この彼の視線より高いカウンターの上は、ある意味我が家の「安全地帯」であり「聖域」。ケーキの仕上げなど、デリケートな作業も落ち着いてこなせます。

トップがタイル張りなので、アロマランプやお香を置くのにも最適。角に小さな観葉植物を置けば、白木の風合いによく映って、ちょっと小洒落た風景に。

キッチンカウンターというものに、実はずっと憧れていました。でもちょうど良いものに出会えなかったり、素敵だと思っても予算オーバーだったり、これは!と思っても売約済みの紙が貼ってあったりで、なかなか手に入れることが出来ませんでした。最近まで住んでいた両親の家は純日本家屋な上に、移築して不思議な間取りになってしまっていたため、キッチンも狭く、たとえ出会っていても置けるスペースがなかった。

引越しを決めてすぐの七月末、たまたま福岡まで出かける用事がありました。県境を越える遠出など、滅多なことではしないのですが、ワケあってヤフードームのすぐ近くまで。
用事を済ませ、ちょうどお昼時だったので、ドームに隣接するホークスタウンという大きなモールに立ち寄りました。そしてその中のアウトレット家具の店で、このカウンターと運命の出会いをしました。

食器棚と言えるものがなかったため、実際必要でもあったのですが、アウトレットなだけにあり得ないようなグッドプライス。若干塗装に難があったりもしていますが、使うには全く支障ナシ。
棚も、引き出しも、観音開きの収納も、まさに私の求めていたもの。いいえむしろ、求めていた以上のもの…でした。高級家具のような重苦しさのない白木のライトな風合いも、小さいながら抜群の機能性も、今の自分のスタンスにちょうど良い感じです。
サブに使えそうな小さめで、ガラス戸の同種類のものとセットでほぼ即決。憧れのタイルトップ、車の後ろに詰め込んで、興奮気味で連れ帰りました。

新生活のスタートを補なうべく新調したものは、すべてがこれ以上ないほどのセレクションでした。決してサイズを測ったり、リストを作ったりした訳ではないのです。出かけた先や新聞の折込みチラシで「これだ」と思ったものをランダムに揃えただけでした。なのに、どれも測ったように新居にちょうど良い。きっと誰かが測ってくれていたのでしょうけれど…(笑)。
無駄買いもなければ、不足もない。多趣味が災いしてか、優柔不断で買い物の下手な私が、こんな短期間で、こうも百発百中に適材適所にモノを選べるというのは、とにかく奇跡だったのです。出費も、おそらく考えうる最小限。かといって、不本意に選んだものはひとつもありませんでした。手元の蓄えもピッタリなくなったけれど(笑)、これでもう向こう何年間かは、買い足すものなどなくて暮らせそうです。


そんな風にして私の元にやってきたキッチンカウンター。毎日朝一番から大活躍です。文字通り一分一秒を問われる朝のあわただしさの中、子供たちに供する朝食を用意するのもこのカウンターで。
子供を車に乗せ、途中でお友達も一人ピックアップして、登校時間に間に合って学校へ送り届けます。その後帰宅してホッと一息つき、洗濯機をまわしながらまたこのカウンターに戻って、今度は自分の朝食をフィックス。
冷めてしまったパンケーキを温めたり、お気に入りのスタバのマグにカフェオレを作ったりしているうちに、体内時計が一日のリズムを整えていくのがわかります。

                   


度重なる引越しにもめげずに私と一緒に動いてきた、15年選手のスチール製ペンダントライト。それを部屋の中のとっておきの場所に下げるのが、新しい場所に根を下ろす際にいつも私のする儀式のようなもの。蛍光灯の照明がどうしても苦手な私にとって、それは自分の居心地の良さを確保するための必須事項です。
夜、PCに向かいながらふと振り向くと、温かい白熱灯の光に白木のカウンターが優しく照らされています。それはなんとも心をホッとさせてくれる光景。たとえ裕福と言えなくても、「私らしさ」を選んだ幸福感がそこに象徴されている気がして、ついつい時間を忘れて眺めてしまいます。


…このカウンターと一緒に、私の人生はこれからどこに導かれていくのだろう。神の召しにいつでも対応できるよう、フットワーク軽くどこにでも動けるようにという私の願いも、このライトなカウンターには叶えられている気がします。そして観音開きの棚の中には、茶碗もおわんもグラタン皿も、もうちゃんと4人分。不思議だな…どうしてだろう?

                            

  今朝もこのキッチンカウンターから一日が始まる。そしてきっとこれからも、「私らしさ」と共に。







Happy Birthday K

2008年10月07日 | Anniversary


   とても久しぶりにこのケーキを作りました。Roule A L'Orange「オレンジのロールケーキ」。

                       今日は、Kの誕生日。

昔、Kが好きだと言っていたこのオレンジのロールケーキ。・・・でも、これはおとなりの奥さんから、三日前のご主人のお誕生日にと依頼されて作ったもので、残念ながらKのためではありません(笑)。

一度失敗してつくり直したりはしたものの、三年ぶりに作った割にはとても上手に出来たから、近くにいたらKにも作ってプレゼントしたいところだけど、今年は…ちょっとムリみたい。

長距離の電話越しに今夜は夜勤なのさ、と言ってみた。「何作るんですか?」と訊かれたので「君が好きと言っていたオレンジのロールケーキだよ」と返事をしたけれど、何も言わないKは、一体何を思っていたんだろう。

甘いものが大好きなK。私という人間についてとんと興味のないそぶりのKが、唯一取っ掛かり的に話題を作ってくれるのが、このケーキの分野。
Kにとって、私の作るケーキというのは、どういうものなんだろう。そもそもKにとって私という存在は、いったいどういうものなのだろう。…さっきからずっとそんなことを、考えている。


…訊いてみようかな。



                    K、お誕生日おめでとう。





P.S.…やっぱり今日も電話の向こうで、睡眠呼吸になっちゃった…(笑)。私の話は途中だったけど、でもいいよ。日付が変わるときまで起きててくれて、だれよりも先に「おめでとう」が言えたから。

今夜はこのまま、電話をつないでおくとしよう。どっちかの充電が切れるまで。1300kmを飛び越えて、すぐとなりで、君の寝息を聞いてるよ。






Noah's Ark

2008年10月05日 | Gospel

    今日は日曜日。気持ちが良いようなまっすぐで素直な雨が、一日中降り注いでいます。

私たちの今通う教会の礼拝堂には、正面にノアの箱舟のステンドグラスが施されています。名前も、チャペル・ノア。別府方面から高速道路を走っていくと、大分・光吉インターの手前、左側に見える赤いとんがり屋根がそれです。

別府の山間の霧の中を抜けて大分市内に入る。いくつものトンネルを抜け、うっそうとした山陰から突然視界が開ける場所で、いつも決まって私は、ランディングする時の飛行機に乗っているような気分になります。丸みを帯びた銀色の天使の翼がETCのゲートを滑るように通り抜け、私たちは無事地上に降り立ちます。

約40分のフライトを終え教会に着くと、ホッとする笑顔たちが迎えてくれる。
窓の外の、音もなく優しく降る雨を眺めながら過ごす日曜日の朝。まるで箱舟に乗り込んで、四十日四十夜降り続く雨の中に漂っているような趣きです。天井から下がったいくつものオレンジ色のライトが、あたたかく包む毛布のように礼拝堂を照らします。

エンジェルキッズと呼ばれる子供たちの賛美リードから始まり、礼拝式。H牧師を通して語られるメッセージは、毎回毎回不思議なように私の心にジャストミートで響きます。まるで心を見透かされているかのような神からの語りかけ。どうなのだろう…という思いを持ちながら日曜日を迎える。すると必ずといって良いほど、礼拝メッセージの中で「お前の道はこれだ、これでいい、この線で進め」というような後押しの語りかけをいただく。私は励まされ、勇気と確信と新たなる力を頂き、再び鷲のような翼を駆って日常の歩みに出てゆくことができる。この教会に集うようになってから、毎週のようにそんな奇跡が続いています。この世の価値観で測られない。この世の限界で頭打ちされない。…そのことが、日々私を生かしてくれる。

今日のメッセージは、「人生と仕事」。私たちが持つべき生業(なりわい)への心構えというお話でした。実はちょうど、前日にそういうことを考えていました。私たちが日々、足が地に着いた生活をするということの大切さ、きちんとした計画のある人生を送ることの重要性。そしてまた、そうするためにストレイトにしておくべき神との関係…漂流記のロビンソン・クルーソーの、また大富豪ロックフェラーの人生を題材にしながら、神に祝福される人生の在り方が語られました。
それはこの先の自分の人生の指針を示してくれるものであり、また同時に多くのチャレンジを投げかけてくれるものでもありました。
神との約束の遵守、そして小さなことに忠実であることの大切さ。私たちは、何か大きなことを成し遂げていかねばならないのではなく、むしろ小さなことに誠実に歩むことが大切なのです。そしてその歩みの一歩一歩を確かにしてくださり、そこに大いなるみ業を表してくださるのは、紛れもなく神ご自身なのです。

また与えられたものを感謝しつつ、それで満足してしまわない人生。おおいに神に期待しながらいただいたものを元手にアグレッシヴに生き、労働に見合った正統な報酬を受け、そして今よりもさらに繁栄していく…。また自分が潤うと同時に、正しい形で神と人とに、それを還元していく…という歩み。それは実は、神に喜ばれる健全な生き方と呼ぶべきものなのですね。

「できるだけ得よ、できるだけ蓄えよ、できるだけ与えよ」というジョン・ウェスレーのことばにも、それはあらわれている。
私たちはもっと大胆になって良い。キリストに在って、私たちは大志を抱いてよいのだと、そんな促しが天から聞こえてくるようでした。

                       

老いも若きも、この場所で一週間の「霊の糧」をいただいて、またそれぞれの場所に出て行きます。
実は霊の糧だけでなく肉の糧、つまりランチタイムも魅力のひとつ。たいていはカレーが用意されますが、大きな鍋で一度に沢山作るからか、そのカレーの美味しいこと…!ガスの炊飯釜で炊かれたごはんもピカピカで本当に美味しくて、ついついおかわりしたくなってしまう。。。我が家では、カレーはもっぱらノアで食べるもの…と、作るのをやめてしまいそうです(笑)。

心も体もガス満になり、再び羽を生やして街を後にする時、私たちはいつも高速上から見える赤いとんがり屋根に向って「ありがとう、チャペル・ノア!」と挨拶して帰ります。
元気になって病院を退院する時のような、帰省していた実家を飛び立つような、「さようなら」というよりも「いってきます」な気分です。

さあ、新しい一週間のはじまりです。一体どんなことがまっているのだろう。この一週間の終わる頃、一体どんな課題を胸に、またこの箱舟の入口をくぐるのだろう。
でも、どんなことでも、おまかせしておけばいい。洪水を生き残るため片道40分かけてたどりつく私たちの心に、きっと神様は語ってくださる。その語りかけを信じて、目に見えるものに惑わされず、神の現実に今週も、歩みだして行く!




Cafe At Home

2008年10月01日 | Season's Special


台風が近づいていたりして、ここ数日雨が続き、気温がぐっと下がりました。いくら九州とはいえ、そろそろ秋物を出さなくちゃ…と思っていましたが、あわただしく過ごしているうちに、気がつけば今日から10月。

ついこの間まで、ヘビーローテーションでアイスコーヒーを落として冷ましたりしていたのに、なんだか申し訳ないくらい温かい飲み物ばかり所望するようになっていたりして。

雨雲が去って今日はお日様が出ると聞き、請け負っているケーキ作りの仕事も後回しにして長袖やはおり物を出して洗ったりしていたら、あっという間に一日が終わってしまいました。でもこれでいつ寒くなっても大丈夫。あとは季節の変わり目で、体調を崩さないように気をつけなくちゃ。

秋は、やっぱり好きな季節。でも、おしゃれをするのが楽しみな秋は、多分今年が初めてです。

この夏、引越しをした際に、実は大量の衣類を処分したのです。自分のも、子供のも。今まで住んでいた広い田舎家に比べ、アパートの一室は収納場所も限られているから…というのもありました。が、いくらでも場所があるからと、もう着ないのにあえて取っておいてしまったものを処分するいい機会でもあったのです。折りしも新聞の折込チラシで、半年に一回の古着回収があることも知り、渡りに舟とばかりに張り切って選別をはじめました。

かなり思い切った取捨選択をしたので、驚くほどの古着の量。大きなビニール袋に6袋はあったでしょうか。夏の暑い盛りに、汗をかきかき冬服の選別などしていると、なにやら気が変にでもなりそうでしたが、今、秋になり、こうして見てみると、手元に残した衣類たちがなんともいとおしく思えたりします。無駄が省けた分、コーディネイトにも迷わずに済みそうな。

一年前に買った、オフホワイトのロングのカーディガン、黒のブイネックのセーター、ユニクロで買ったカフェオレ色のジップアップにフリースのタートルネック。
…去年おばあにいただいたスカーフ、ずっと前に無印良品の店で衝動買いしたブラウンのマフラー…色んなものが出てきました。今年はなんだか、どれも上手く着こなせそうな気がします。一昨年お友達のお母様がくださったかわいらしいボンボンつきのてぶくろには、もしかしたら私はもう年齢オーバーかしら…^^;
引越しの際に姿見を新調したので、その前でああでもないこうでもないと合わせてみる楽しみが増えました。

買ったはいいが、赤ん坊のRを抱っこしたまま脱いだり履いたりが大変だから…と、ずっとお蔵入りしていたショートのブーツも、今年はデビューさせちゃおう。
私が持っている靴の中で、きっと一番高価な(笑)赤茶色のローヒールの革靴は、七年前に靴屋さんで一目惚れしたのを夫が買ってくれたもので、履き心地も見た目も素晴しくて、ずっと一番のお気に入り。私には珍しくきちんと手入れしていたから、きっとまだまだ履けるはず…。
ずっとサンダルで過ごしたあとで、久しぶりに履いてみたワラビーの重さがなんとも心地よくて、年甲斐もなく、子供に気付かれない程度にちょこっとスキップしてみたりして。

秋になり、寒い季節のためのそんなアイテムに再会するのは、しばらく会わなかった友人と会うような、なんだか嬉しい気持ちです。


実は、今日読んでいた本の中に、自分を魅力的に見せる努力について、ちょっと新鮮なことが書かれていました。以前にも読んだことのある本で、ああ、そういえばこんなことが書かれていたな、と思い当たりつつ、やはり今回も、私にとってとても鮮烈な言葉でした。

「自分を魅力的に保つ努力、労力を払い自分に投資をすることは、決して自己中心的なことではなく、むしろそうしないことが自己中心的だ」と言うのです。

ふむ…なるほど…と腑に落ちる思いがしました。

この世に生きている以上、私たちは何らかの形で、誰かの何か、なのです。娘であったり、母であったり、妻であったり、嫁であったり。上司であったり、部下であったり、また友人であったりお隣さんであったりと…とにかく、よほど山奥で仙人のように孤立無援の人生を送っていない限り、私たちは誰かの何か、という肩書きを背負って生きている。その「私」が、素敵でいることに全く無頓着であるということは、これすなわち、自分でも気がつかないうちに、誰かの顔にドロを塗っているかもしれない。それでもなお、にもかかわらず自分の有り様に無頓着であるということは、実に自己中心的なマインドなのだ…と。

もちろん、人の為に自分を磨くというのでは、本末転倒なのだろうと思います。自分がそうすることを楽しめることが、きっと第一に大切なこと。
でも、私のように、ただ自分の満足のためだけに、素敵な洋服や化粧品にお金をかけたりすることに、ついつい罪悪感を感じてしまうタイプの人間には、この言葉は少なからず福音であり励ましでした。

そうか、オシャレは自分の為ならず…私が素敵になって、誰か(たとえば小学生の息子とか)が得をすることになるのなら…自分への投資の意味も広がろうというモノ。


…まぁそんな小難しいことでなくても、これといった大層なことをしなくても、アラフォーの私としては、確かにここらでひとつ、自分をトリミングしてみたいところ。私たちが引っ越してきたのと同じ日にこの同じ建物に美容院がオープンしたのも、きっと何か訳があってのことなのでしょう。
引越しのご挨拶がてら、髪型を自分の好みに限りなく近づけてみたついでに、今まで試さなかったあんなこともこんなことも、思い切ってしてみるつもりです。

なりふり構わず、ただ無我夢中で走り続けてきた人生の前半戦を終え、これからは少し自分に頓着してあげよう。素敵な歳の重ね方ができるよう、今できることをはじめてみよう。
夢中でかき集めてみたものを少し厳選してみよう。取捨選択して無駄を省き、自分が自分らしく輝けるためのアイテムだけを身の回りにおいて、身も心も軽くなって人生の後半戦に臨もう。この先どんな歩みが待っているとしても、決して対応に困ることのないようにフットワークを軽くしておこう。

どこに出かけるでなくても、それこそおうちで一人でコーヒーをいれて飲む時でも、今ここに誰かと一緒にいるような意識でいられたら、と思います。たとえばあなたがいつひょっこりお茶に寄ってくれたとしても、いつでも魅力的にお迎えできるおうちカフェの店主でいたいなぁ…なんて思うのです。

  そんな素敵な「誰かの何か」になりたいと願いつつ、今年の秋を満喫したいと思っています。