簡潔に形態を写し取った線刻。落ち着いたアースカラー。複雑で豊潤なマチエール。現代アートと見まがうが、れっきとした2万年前の洞窟壁画なのだ。現代人と同じDNAを持つクロマニヨン人の“作品”を前にして、科学技術こそ蓄積され進歩しているけれども、感性は何ら進化していないのだとつくづく思う。それどころか、限られた道具や技術を駆使してあれだけのものを作り上げた創造力や想像力は、われわれを遙かに凌駕していたのだろう。
日頃上野界隈は美術館しか訪れないが、ポスターに引きずり込まれるように国立科学博物館で開催中の「ラスコー展」を観た。ラスコー洞窟壁画の再現展示である。
くびれたり、くねったり、分岐したりしながら続く洞窟に、全長約200mに渡って600頭に及ぶ動物たちが描かれているという。それぞれの特質が描き分けられているだけでなく、岩質に合わせて彩色画にしたり、線刻画にしたり、それらを組み合わせたり、と技法も使い分けられている。それどころか重なり合うように駆ける動物たちや、でっぷりと太った牛など、動きや遠近や肥痩も巧みなのだ。わずかな灯りの中でこれだけのものを描くには多くの人を要し、世代をまたぎ、長い年月をかけたであろうことは想像に難くない。画中にはいくつもの記号めいた物がある。表現=認識を共同体が共有し、伝える手段だったのだろうか。空間ごとの統一感を見るとき、文字こそ持たないが、高度な伝達体系が存在していたことに驚く。
また「井戸状の空間」と呼ばれる穴には、槍が突き刺さり腸(はらわた)がはみ出たバイソンと、鳥の頭を持った男性が倒れている図が描かれている。洞窟中唯一、物語性のある場面だ。同じドルドーニュ県のヴィラール洞窟にも同様の場面があるという。前期マドレーヌ文化の神話の一場面らしい。他にも尻を向けたサイや装飾のある武器等が描かれており、様々な象徴が複雑に絡み合っていることを思わせる。
ところで図録解説の「自然主義的に描かれた」という表現には違和感を覚えた。抽象表現を体験した現代人にこそ自然主義的とかリアリズムとかいった表現区分があり得るが、三次元を二次元で表すこと自体がすでにリアリズムではないし、さらには「荒々しい」、「強い」、あるいはスピード感といった概念を表そうとする意志が明確に見てとれるのだ。
それにしてもなぜわざわざ闇の奥底で描いたのだろうか。胎内に回帰するような、本能的なものだろうか。ゆらめく灯りの中で、描かれた動物たちも揺らぎ、迫り、遠ざかり、共に儀式に参加していたのかもしれない。時には「どうだい、強そうだろう」とか「でかいなあ」とか言い合っていたのだろうか。となると、作品としての価値も生まれていたことになる。人が表現するということを、芸術の根源を、考えずにはいられない。そして2万年を隔てて忽然と現れた遺跡と対峙するとは、われわれの想像力も試されていると覚悟しなければならない。(霜田文子)