ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

「台詞」の力を信じて――朗読劇「サド侯爵夫人」(2)

2015年12月04日 | 游文舎企画

森秋子(右)と吉沢京子(左)

マルキ・ド・サド(本名ドナスィアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド 1740~1814)は娼館での乱行(マルセイユ事件)などでバスティーユ牢獄に収監され、フランス革命後、一時解放されるも、再び投獄され、最後は精神病院で没した。原作はマルセイユ事件からフランス革命後の18年間にわたる、ルネの心の動きを中心に描く。
6人の女性たちの語りのうちにサド侯爵の姿が浮かび上がってくるのだが、それはまた、それぞれの価値観、道徳観を表す尺度ともなっている。例えばルネの「貞淑」とは、夫に尽くすこと、夫の愛を信じることであり、モントルイユには「おまえが貞淑というと妙にみだらにきこえる」と言われてしまう。モントルイユの法・道徳とは、フランス革命前の貴族社会を代表するものであり、反道徳・悪徳の代表であるサドとは徹底的に対立する。しかし、革命後の貴族階級の危機の中で、「旧体制への反抗者」としてのサドを利用しようとする、実にご都合主義でもあるのだ。一方、姉の夫であるサドと関係を持つアンヌ、革命後は娼婦となって身を滅ぼすサン・フォン伯爵夫人はサドの共感者であり、代弁者でもある。二人が不謹慎、不道徳な言葉を放ちながらもどこか爽快感があるところに、この作品の魔力がある。だから敬虔なシミアーヌ夫人が偽善を告白すること、シャルロットがサン・フォン夫人への共感を表明することにも十分に納得してしまう。6人の女優たちの丁寧な朗読がそれを支える。
それにしてもサドとは何者か。女性たちのフィルターを通したサド像は、決して真実の像を結んではくれない。そこに観客はもどかしさを感じると共に想像をふくらますことになる。しかしどんな想像力も、サドが牢獄で勝ち得た想像力の自由には及ばないだろう。サドが牢獄でとんでもない悪徳小説を書いたことに対するルネの台詞がいい。
「牢屋の中で考えに考え、書きに書いて、アルフォンスは私を一つの物語の中へ閉じ込めてしまった。牢の外側にいる私たちのほうが、のこらず牢に入れられてしまった。」
「バスティユの牢が外側の力で破られたのに引きかえて、あの人は内側から鑢一つ使わずに牢を破っていたのです。・・・・・・何かわからぬものがあの人の中に生れ、悪の中でももっとも澄みやかな、悪の水晶を創り出してしまいました。そして、お母様、私たちが住んでいるこの世界は、サド侯爵が創った世界なのでございます。」
ここで、この芝居が母娘の対話を中心にした、密室での対話劇であることを改めて考えることになる。18年の歳月を、二人はほとんど変わることなく、サドの周囲でぐるぐると想念を巡らすことだけで過ごしてきたのだ。