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ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

品田さんの視線の先を追いながら―品田正伸さん追悼公演

2016年10月21日 | 日記
10月15,16日、アルフォーレ・マルチホールで柏崎日報記者だった故・品田正伸さんの遺作『ナナの恋』が上演された。劇団Fouを中心にした「ナナ恋プロジェクト」による追悼公演である。
水音の幻聴に悩む水道管漏水検査技師・永瀬のもとに、ある日、見知らぬ女性・ナナから一枚の葉書が届く。「・・・私の大切なもの、お願いしますね。」
そして水族館でのスリリングで荒っぽい出会い。ナナは、永瀬が知らないはずの、1945年の“記憶”を呼び戻そうとさせる。
永瀬の父・隆は太平洋戦争中、旧日本軍が建設したタイとビルマ(現ミャンマー)を結ぶ泰緬鉄道で、日本陸軍と、現地人労働者や連合国軍捕虜との通訳をしていた。工事は難航を極め、さらに過酷で劣悪な環境により多くの犠牲者を出していた。隆は軍と村人との板挟みになり、やり場のない思いをクワイ河にぶつけていた。それを聞いていた魚たちは、川を下って海に行き、また生まれた場所に戻ってくる・・・戦後、永瀬は贖罪のために青少年の教育に尽くす。
ナナは隆の遺した手帳を息子に渡そうとしていたのだった。そしてホステスとして働きながら、郷里の若者が留学できるよう寄宿舎を作る資金を稼いでいた。
一方、ODAを利用して現地に日・タイ友好親善の象徴となる博物館を作ろうといういかがわしい日本人たちがいる。彼らは、不都合な真実が記された手帳を狙って永瀬とナナに魔の手を伸ばすが、ナナの働くバーのママの機転で窮地を救われる。
水音が通奏低音のように響き、水にまつわる言葉やことわざが随所に散りばめられ物語の水脈を作る。そして水源を辿るように、永瀬も観客も泰緬鉄道に思いを馳せることになる。
漏水検査技師や漏水感知隊が、コミカルな会話を繰り広げ狂言回しの役を担うが、時代錯誤な装置を使って生真面目に職務を遂行しようとする公務員の姿は、軍命に盲従していた(せざるを得なかった)兵士たちを思わせもする。
圧巻だったのはホールの4つの壁面を代わる代わる使いながらの演出だ。観客はぐるぐるとからだを回しながら観ることになるが、単に場面転換としてだけでなく、時空を超えた物語の重層性を体感するかのようだ。アングラ芝居の雰囲気を色濃く残しながらも、視線は暖かい。
長いセリフ、市内外から集まったにわか作りのキャスト・スタッフなど、苦心の舞台であっただろうことは確かに窺えたが、宛て書きかと思わせるようなはまり役で、水を得た魚のように生き生きと演ずる役者たちがそれを補って余りあった。

予備知識もなく、写真も撮れず、あらすじはうろ覚えだけれど、それでも観終わってこうして書き留めておきたくなったのは、品田さんを、そしてその立ち位置を振り返り、記憶に留めておきたいと改めて思ったからに他ならない。
30年くらい前になるのだろうか、もし劇団Fouがなかったならば、私は柏崎で演劇に触れることはなかっただろう。その中でも「召命」や「盲導犬」などの印象的な舞台の演出をしたのが品田さんだった。聞くところによると座長・猪俣哲夫さんが劇団を旗揚げするにあたって指導を受けたのが品田さんだったという。私はFouを介して以外、品田さんとはほとんど交流はなかったが、柏崎日報のコラムにずっと注目していた一人ではある。
今回の作品は、92年に柏崎で起きたタイ人ホステス・ナナさん殺害事件に想を得ているという。品田さんは白骨死体発見など、何度かコラムに取り上げているが、加害者の、殺害後の恐怖や悔恨についてまでも書いている。戦後の平和な日本の、一見のどかな地方都市の出来事である。戦時と現代と、タイと日本と、そこに広がる茫漠たる時空に品田さんは重なるものを見ていたのだ。
コラム集は昨年友人たちにより『アジアの片隅で』と題されて刊行された。“アジアの片隅”の日本はかつてアジアの盟主たらんとして泥沼の戦争に突入した。そして品田さんはアジアの片隅の柏崎で、過去と現在、戦争と平和、人間の業と闇、そして良心・・・それらを行きつ戻りつしながら手探りで、実直に問い、見つめていたのだろう。
公演パンフから、猪俣さんの一節を引く。
「・・・病床で書き上げた作品を、本人亡き後に上演するのは寂しい限りだが仕方ない。品田さんのコラム集は昨年刊行したし、今回は戯曲の上演。品田さんの残した足跡をしっかり紹介できたのではないかと思っている」
品田さんと、上演に関わった人たちに感謝したい。(霜田文子)


ドナルド・キーンが見続けた日本の70年

2015年09月23日 | 日記


 ドナルド・キーンセンター柏崎が開館してちょうど2年となる9月21日、記念公演・講演会が開催された。
 まず、キーン氏の講演の演題は《思い出の作家たち》~今なお、心の中に生きている五人の巨星~。単行本のタイトルにもなっている、それこそ煌めくような、日本を代表する作家たちとの交友の記憶である。今回はそのうちの司馬遼太郎を除く四人、いずれもノーベル賞に深く関わった人達についてであった。
 安部公房は「ノーベル賞はほしくない」と言っており、その理由を「受賞後にいい作品を書いた人はいない」からだとして、賞の発表時期になると姿をくらましていたという。
日本で最初の受賞者が川端康成だったことを、キーン氏は必ずしも喜んではいなかった。三島由起夫こそが受賞すべきだと思っていたからだ。三島の、賞に賭ける思いは生きるか死ぬかの切実さだったという。
 三島の受賞を阻んだ理由として、北欧における「日本文学の権威」と見られていた人物の、日本文学への浅い理解と偏見ではないか、という。三島を左翼の危険人物と見ていたのだ。一方の川端についても、決して代表作とは言えない二作を以て、選ばれているのである。
 安部が言うとおり、川端はその後作品らしい作品を書くことはなかった。キーン氏は、大岡昇平の言葉を引いて「ノーベル賞が二人の作家を殺した」と言う。川端自身が「いずれは私の名は文学史上に三島を発見した人という光栄のみで残るだろう」と言うように、三島こそノーベル賞をもらうはずだった、とキーン氏は語った。
 ドナルド・キーンセンター柏崎では、10月1日から「ドナルド・キーンの選ぶ三島由紀夫お気に入り作品ベスト3」が始まる。キーン氏が最も高く評価した『金閣寺』『宴のあと』『サド侯爵夫人』について、三島からキーン氏に宛てた手紙を糸口に、作品とキーン氏の論考とを往還する企画である。氏の講演を思い出しながら見てみたい。
 次いで、ドナルド・キーン全集の編集を担当している、新潮社編集委員の堤伸輔氏との対談では、戦中、戦後の日本と日本人について、ユーモアを交えながら親身に、時に厳しく語った。
 武器を持ちたくないという思いから語学将校になったが、アッツ島で多くの日本人の遺体を見ることになった。「玉砕」の背景にある、捕虜になることを恥とする考え方が理解できなかったと言う。その後、ハワイの捕虜収容所に移動になり、ハワイ大学図書館で、日露戦争の本を読み、この時代には捕虜は恥ではなかったこと、日本の伝統ではなかったことを知り、日本兵が非常に気の毒だと思ったと言う。さらに沖縄に派遣され、そこで軍人ではなく民間人をも巻き込んだ戦争を見ることになった。
 キーン氏の任務は日本兵の日記を読むことであったが、そこには個人としての、家族のある、普通の人間の心情が書かれていたと言う。米軍は、日本人が皆狂信的と喧伝していたが、これが誤りであることを知ったと言う。戦後、“嘘をついて”原隊復帰せずに日本に来たキーン氏は、その光景を見てすぐに立ち直るとは思わなかったと言う。しかし日本人はみな親切で、敵愾心を感じなかったとも言う。
 いったん帰国後、昭和28年、日本に留学し、日本の復興を見ていくことになったが、かつては地下鉄で文庫本を読むなど、一般人が高い文化を示していた日本が、今や本を読まない国になってしまったと嘆く。
 最後に、現在の日米関係に触れ、今の総理大臣も自分も、二つの国の関係をよりよくしたいと考えているが、自分は日本文学を愛し、一人でも多くの外国人に知って欲しいと活動してきたが、一緒に戦争をしようとすることは恐ろしいことだと述べ、「どんなことがあっても戦争は避けるべきだ」と言い切った。 (霜田文子)

「太平洋戦争とドナルド・キーン」 

2015年03月11日 | 日記
冬期休館していたドナルド・キーンセンター柏崎が3月10日よりオープンし、併せて特別企画展「太平洋戦争とドナルド・キーン」も始まりました。9日には内覧会と、キーン氏と読売新聞東京本社国際部次長・森太氏の記念対談がありました。
 森氏は社会部記者だった10年前、「戦後60年戦場の手記 家族よ故郷よ」という特集記事を執筆されています。アメリカ国立公文書館で、GHQ関連だけでも400万点はあろうかという史料の中から、ガダルカナルやサイパンで戦死した日本兵の日記に出会ったのです。それらに圧倒され、遺族に返したいという思いから、デジタルデータにして日本の遺族を訪ねたのでした。
企画展示室には、兵士の日記(森氏のデータからの複製)が展示されています。中には銃弾が貫通した痕のあるものや、語学将校によって翻訳された英文が添えられているものもあり、当時の様子が生々しく伝わってきます。
 対談で浮かび上がったのは、日本とアメリカの戦略の歴然たる違い。なぜ日本軍は日記を書くことを許したのかという問いに対して、キーン氏は「日記を書くことが当たり前だった日本の伝統」と「外国人には日本語は読めないと思っていたから」だと言います。しかしアメリカは日本の戦術や日本人の思考を理解したいと、日記を収集したのです。それを担ったのは、2000人ともいわれる語学将校たちでした。敵性語として英語を禁じた日本と、汝を知れと日本語や日本文化を習得しようとしたアメリカ。結果は目に見えています。
 キーン氏が語学将校になったのは「反戦主義でどうやって戦時を過ごすか」と考え、「人を殺さずにすむと思った」から。海軍語学学校は当初はカリフォルニア大学バークレー校にあり、日系人などを中心に教育していましたが、開戦後日系人が追われ、コロラド大学に移り、そこで極めて優秀な学生が集められたということです。わずか11ヶ月間で、漢字交じりの様々な書体を解読するという離れ業は、米軍の、現実的にして周到かつ厳しい教育によってなされたのでした。そしてハワイ情報局に配属されます。悪臭のためよけられていた箱から小さい黒い日記を拾い出したキーン氏。悪臭は血痕によるものでした。日本にいる時は愛国的で、絶対勝利を信じていた兵士達が、米軍の潜水艦や空爆、食糧不足に遭遇し、悲惨さを実感していくのがほとんどのパターンだと言います。そして日記の中で、多くの日本の友達に出会ったとも言います。
 戦後多くの語学将校が日本語から離れた中で、キーン氏等わずかの元将校たちが、日本文学や文化の海外紹介に大きな役割を果たしました。キーン氏を日本語に引き留めたのは、日本兵の日記だったのです。
 最後にキーン氏が薦める、戦争を知るための本です。
高見順『高見順日記』、大岡昇平『レイテ戦記』、井伏鱒二『黒い雨』、そしてドナルド・キーン『日本人の戦争』。                        (霜田文子)

       特別企画展チラシ(部分)