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ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

関根哲男展「原生」 エネルギーホール6月30日~7月2日

2023年06月30日 | 展覧会より


游文舎では7月2日からたかはし藤水さんのインスタレーション「雫」展が始まるのだが、一足早く、エネルギーホールでは関根哲男さんの「原生」展が始まっている。
週末三日間だけなので、紹介させていただく。







遠目にはいつものように90㎝四方のパネルに何か貼り付けたものにしか見えない(「しか」と言いつつ、いつも素材には驚かされているのだが)
ところがさすがに今回はびっくりだ。何と人毛だ。床屋さんに頼んで半年分集めたという。それをボンドで古着のズボンに貼り付ける。身につけていた、というよりもついさっきまで人体の一部だったはずだ。「モノ」としての生々しさがこれまでにないほど伝わってくる。しかも呪力と深い関わりを持つ。位牌や墓をテーマにしたときのようなあっけらかんとした感じはない。それでもこれまで通り、素材の意味を換骨奪胎し、黙々と貼り付けていく。本当に意味はないのか?人は、毛糸なら何とも思わないのに、いわゆる薄気味悪さ、ぞわぞわした感じを抱かずに見ることは出来ない。意味とは人が勝手に作り上げているのだろうか。
しかし、繰り返すが全体を見るとそれらは神聖な空間にも見える。関根さんのひたすらの「営為」が空間を支配しているのだ。週末、ぜひご高覧下さい。

肉体と魂を描き切る―エゴン・シーレ展を観て(2)―

2023年02月13日 | 展覧会より


   自分を見つめる人Ⅱ(死と男)(1911年)

《自分を見つめる人Ⅱ》は死に神を背負った自画像である。さらにその二人とは別の腕がそれらを覆っている。何処まで分裂するのだろうか。シーレが描いた自画像は170枚とも200枚とも言われている。その多くは裸になって、鏡を見てポーズをとったものだ。時にはナルシスティックに。時には自分を痛めつけるように。性器もむき出し、自慰行為さえ描く。とても自意識からだけとは思えない。徹底的に自らを曝し、無意識の自我までもむき出しにする。こうして自身でも制御できない自我が、分裂した身体となって出現するのだろう。
 ところでオーストリア・ハンガリー帝国の首都として爛熟した文化を誇っていた世紀末ウィーンとは、言いかえれば、いつそれが崩壊してもおかしくない臨界状態でもある。ホフマンスタール、フロイト、ヴィトゲンシュタイン、シェーンベルク、カール・クラウス・・・改めて煌めくばかりの才能の出現に驚かされるのだが、彼らもまたその危機が生み出したとも言える。そして当時、ほとんどの芸術家が多かれ少なかれフロイトの影響を受けていたという。自分でも制御出来ない、無意識の領域をシーレがどれほど意図的に探っていたかは不明だが、そこには自身の不安と時代の不穏な気配とがシンクロしていたのではないだろうか。若くして父や身内の死に接し、死はいつも身近にあったという。しかも第一次世界大戦前夜、ヨーロッパの心臓部であるウィーンのざわめき。そんなウィーンの光と影を、シーレは極めて個人的な、一人の人間の中に照応させたのではないだろうか。1910年前後の作品には鬼気迫るものがある。


   抒情詩人(1911年)

《抒情詩人》は、身体こそ単独像だが、不自然な首の傾き、両目の視線の方向や表情の違いには、今にも分裂しそうな危うさがある。


   啓示(1911年)

一方、《啓示》(1911)は聖職者のような二人の人物に、半裸の男が身を屈めて向かっていく。自身の言葉に拠れば偉大なる人物にその男が感化され溶融されていくのだという。常に分裂の危機に瀕しているシーレの、何かにすがり、支えられ、自己が統一されることへの願望を表わしているのだろうか。そうした苦悶のうえでもなお彼が追求するのは「美」だ。「醜」なるものまでも凝視した上での「美」。僅か20歳そこそこで、明らかに自覚的にそれを行使している。恐るべき才能だ。
ところで先に坂崎乙郎の言葉を引用したが、それはルノアールが女性には頭脳は要らないという暴言と共にある。シーレは女性像にもちゃんと苦痛や快楽を込めていたということだ。もちろんそれは現代的な意味での女性尊重ではない。ただ確かにシーレは女性もまた多面的な人間として描いていたように見える。冒頭のポスターは、当時の恋人・ワリーの肖像と対になっている。出品されてはいないが、そこには心身共に苦しい時期のシーレを支えたワリーが、優しく穏やかに描かれている。一見、シーレの自画像と全く対等に見える。だがそれはシーレの願望なのではないか。彼が描いた他の女性像を通してみるとき、それは実は自画像と変わりがないのではないかと思うのである。女性モデルのポーズも、痛めつけ、ねじらせ、よじらせ、苦悶させる。それは自画像と同じであり、その苦痛や快楽を共有しつつ描こうとしていたのではないだろうか。それは分身たちなのだ。モデルと性的関係を持つことは当時一般的なことだったが、シーレの場合、とりわけ肉体と魂の一体化でもあったように思う。なんという不遜で、卑俗なことか。しかしそこまで徹底することによってはじめて「醜」は「美」に転化するのだ。


   母と二人の子どもⅡ(1915年)

《母と二人の子どもⅡ》は不思議な作品だ。ピエタ像を思わせるが母親の顔はまるで髑髏か死に神だ。ほとんど亡霊のような子どもと、カラフルな洋服を着た子どもという対照的な二人の幼児。常に死を身近に感じていたシーレはそれを母に、子供たちを分裂した自己として表わしているのではないだろうか。いや、そうとしかならなかったのではないか。このように宗教画の形を借り、母子像を描きながらも、シーレは自分しか描けなかったのだ。それだけではない。風景までも自身の危機や不安の置き換えではないだろうか。

さて、第一次世界大戦が勃発し、1915年結婚直後に徴兵されたシーレであるが、制作は続けられる環境にあったという。そして翌年ウィーンに戻ると、その後は作品が認められ生活も安定したという。しかし1918年、スペイン風邪で妻が亡くなった三日後に、自身も亡くなった。


   《横たわる女》(1917年)


   《しゃがむ二人の女》(1918年)

早すぎる晩年の作品である。確かに技術はしっかりとしている。かつての繊細さと危なっかしさの裏返しのような強さではない。《叫び》などで表現主義を代表するムンクの、晩年の作品が頭をよぎってしまった。しかしもし彼がもっと生きていたら、と考えるのはよそう。分裂するほどに自己を突き詰めた彼の自画像は、表現主義を超えて、唯一無二だ。






肉体と魂を描き切る―エゴン・シーレ展を観て(1)―

2023年02月09日 | 展覧会より


 東京都美術館で開催中の「エゴン・シーレ」展を観た。実は私はシーレの作品をあまり観ていない。俯瞰的な視点からの人物像、官能的な女性像などの印象は強烈だが、同時に挑発的とも言える作品は、若さのなせるところにも思え、きちんと向き合ったことがなかったのだ。1890年に生まれ1918年には亡くなるという短い生涯で、常に挑むような作品を描き続けた作家には、未完あるいは途上というイメージがあり評価しかねていた。28歳といえば、日本の青木繁も同じ年齢で亡くなっている。共に夭折が惜しまれるが、青木にはすでに完成した作家という安定感を感じるのも、その作風の違いのせいだろう。


     (参考)死と乙女(1915年)


     モルダウ河畔のクルマウ(小さな街Ⅳ)(1914年)
     
 
 今展は、世紀末から20世紀初頭のウィーン美術を中心に集めたというレオポルド美術館の所蔵品展である。オーストリア・ハンガリー帝国の混乱と凋落の中、ヨーロッパ全体に新しい芸術が胎動し、伝統的で保守的な芸術への文化的抵抗がウィーン分離派や、さらに新たな潮流を生み出した時代だ。おそらく最も有名な《死と乙女》こそないけれども、シーレを特徴づける作品と、それを取巻く同時代の作家の作品は充実している。圧倒的に人物画が多い中、初めて見た風景画は何処かファンタスティックで静かな情感を湛えていた。また、時代の寵児クリムトに心酔しながらも、その影響が希薄だったことがずっと疑問だったが、年代順に概観することができ、作風の変遷もわかりやすかった。


     頭を下げてひざまずく女(1915年)

 油彩画はしなやかな曲線と繊細な色使いながら、筆の運びは迷いがなく、こしの強い太い筆でぐいぐいと塗り込んでいる。思っていた以上に荒々しく、強靱で、意志的だ。人物ドローイングでもクリムトとの違いが明快だ。必要最小限の細く柔らかな線で対象の最も表現したい部分を一瞬にして捉えたクリムトと、強く途切れることのない線で難しいポーズを捉え切るシーレのデッサン。さらにそこにはモデルの激情までも込められている。それは1911年頃からいっそう明確になっている。この頃、ドイツ表現主義展に参加したり、ゴッホの《ひまわり》からインスパイアされた絵を描いており、シーレの志向に少なからず影響を与えたようだ。その作風はクリムト等の象徴主義に対して、オスカー・ココシュカと共に、オーストリア表現主義といわれている。このオーストリア表現主義というのを私はよく分からないのだが、そもそもドイツ表現主義にしても絵画区分としては印象が薄いのは、じきに抽象表現主義や超現実主義が現れ埋没したように見えるからだ。とはいえドイツ表現主義とも異質だ。目指すものが違いすぎたのではないか。ただ「表現主義=Expressionism」は「印象主義=Impressionism」に対立して現れた概念であり、その点では内面表現へと向かったシーレを、少なくともクリムトと分ける区分とはなるのだろう。
 またドイツ表現主義の作家たち、特にキルヒナーと比べてみると、その身体表現や色彩感覚が桁違いに優れている。キルヒナーの内面の不安は時代に連動し、それを表現したいがために絵画的表現は二の次になってしまったように思える。作品としての共感を得ることは難しい。シーレがそれに与しなかったのも当然だろう。彼は極めて個人的な人間の内面に迫ると共に、それを持った身体にも同様の価値を認めていたのだろう。さらにどんなにグロテスクであっても、陶酔するような美をそこに見出そうとしていたのではないだろうか。そうしたシーレの特質を最もよく表わしているのが自画像だと思う。今展でも彼の独自性を強烈に印象づける優れた自画像を見ることが出来た。かつて坂崎乙郎は「ルノアールは肉体しか描けなかった。シーレの自画像は苦痛に満ちている。肉体と魂を共有する人間を描いている」と言ったが、これほど突き詰めていては肉体と魂を共有しきれないのではないか、と言う予感は果して当たっていた。(続く)

木下晋展「明日へ」 ギャラリーみつけ(9月3日~10月2日)

2022年09月05日 | 展覧会より






ギャラリーみつけで木下晋展「明日へ」が始まった。「鉛筆画の巨匠」として知られるが、入り口から10点あまり、滅多に見る事のなかった油彩画が並ぶ。氏は油彩画で自由美術展に史上最年少の一六歳で入選した実績を持っており、20代までの作品だが、デッサン力、マチエール、迫真的な筆力に圧倒される。それでも1970年代にニューヨークに行きカルチャーショックを受け方向転換を迫られる。以降、独自の鉛筆画の世界を築き上げたのだが、作品が放つ「闇と光」「崇高さ」などには、単なる技術的な転向だけではないことを思い知らされる。
ギャラリーみつけでの展覧会初日、木下氏のトークが行われた。氏は瞽女・小林ハルさんと出会い、対話するうちに光を失った人の会話の中に「色」を感じ、その世界を知りたいと思ったと語った。それを描くのは10Hから10Bまで22段階の鉛筆だ。筆圧等で描き分けるのではない。絵具の色彩と同じように鉛筆を使い分けるのだ。それが闇をいっそう深く、光をより輝かせる。さらに氏は「知らない人は描けない」という。その内面に関心を持てなければ描く意味がないからだ。だからこそ、その画面には真摯な畏敬の念が込められている。

木下晋氏には2008年5月、游文舎開館記念企画として、公仁会ライフセンター内の旧游文舎ギャラリーを飾っていただいている。初めて実物作品を見た時、密度ある鉛筆画面に驚嘆しつつも、モデルの異様さに一瞬言葉を失ったことを告白しなければならない。老い、病み、崩れた顔や肉体を執拗に克明に描き出す。醜いと言ってもよい。しかし目を背けることを許さない。なぜそれらを描いたのか、描かなければならなかったのかを、彼らの目が、背中が訴えかけてくるのだ。モデルに対する価値の転倒を促したのが(今展には出品されていないが)小林ハルさんを描いた《102年の胎内回帰》であり、桜井哲夫さんを描いた《祝福》だった。
そういえば俳優で語り芸人でもあった小沢昭一は、自身について「芸能者として不適性」と言い、「クロウト」を訪ね歩いたという。小沢の言う「クロウト」とは何か? 本来芸能を司っていたのは、河原乞食のように、そうしなければ生きていけない人たち、命がけで芸を演じ、糧を得ていた人たちだ。生後間もなく視力を失い瞽女にならざるを得なかった小林ハルさんも、ハンセン病で、詩人になった桜井哲夫さんもまさに「クロウト」だ。そして木下氏もまた、絵描きになるしかなかった人だと思う。その眼差しは孤独の淵源に迫り、共振し、神々しいまでの画面へと転化し、天啓のように《祝福》というタイトルが与えられたに違いない。

今展で初見の作品では、2016年制作の《風》にそこはかとない情感を感じた。そして直前まで描かれていたらしい最新作《夢想》は、パーキンソン病を患う妻の、閉じられた眼だけを大きく描いたものだが、静謐な空間に、実は膨大な記憶を宿した時間を感じる、感動的な作品だった。

「芸術は呪術である」――「岡本太郎展――太陽の塔への道」

2021年03月01日 | 展覧会より


万代島美術館で「岡本太郎展――太陽の塔への道」を観た。入ってすぐに太陽の塔内部と「生命の樹」の模型が展示されている。まばゆいばかりの光の中、大きな樹を見上げると、生命の進化を表わす生き物がびっしりと実っている。万博閉幕後に扉を閉ざして放置され、ほとんど廃物同様になっていたのだという。
会場はその後、単独の絵画、立体、写真と続き、再びエスキースなど太陽の塔制作に関わる展示となり、塔地下の復元展示で締めくくられている。



「地底の太陽」は圧巻だった。「いのり」という呪術空間の中心だったが、万博後行方不明になったままで、当時の記録を元に復元されたという。黄金の巨大な仮面と、それを取り巻くような世界の仮面や神像たちが不敵に、大胆に、時にユーモラスな表情を見せる。生き生きとしている。実は岡本の最も好きなものたちが集められたのではないかと思ってしまった。そして胎内巡りをするかのような瞑想空間である地下展示のジオラマは、随分縮減されているにも拘わらず、地底で蠢くエネルギーを想像させた。ここは畏れと神秘の中で、戦いも信仰も一続きのうちにある古代の生の場そのものなのだろう。
1970年大阪万博から半世紀、すでにしてこれほどの空間アートが達成されていたとは――。もうこの時点で現代アートは出尽くしていたのではないか、とさえ言いたくなる。塔内部も展示空間(パビリオンの一つ)であったと知ったのは最近のことだ。観た人もたくさんいたはずなのに、それを聞く機会がなかったのは迂闊だった。あるいは覚えていなかっただけかもしれない。大阪万博は、地方の高校生になりたてだった私には遠いことだった。1964年の東京オリンピックは素朴に楽しんだけれど、その勢いに乗って地方を置いてきぼりにしたまま大はしゃぎでお祭り騒ぎしているようで、ほとんど目を向けていなかった。だから「太陽の塔」は「お祭り広場」という白々しい祝祭空間にふさわしいキッチュなこけおどしのモニュメントにしか思えなかったのだった。
岡本太郎に目を向けるようになったのは縄文の発見者としてである。縄文土器と言えば、東京オリンピックと同じ1964年に開催された新潟国体の炬火台のデザインが新潟県で発掘された火焔土器であり、子供心にも「美」とは違う、感動させるものがあると思っていた。だからずっと後に、それを言葉で表現した文章に出会った喜びは大きかった。パリで文化人類学を学んだ岡本は、体系づけられた芸術論や美術史が西欧の目だけから見た世界であり、彼らの「時間」で捉えられた流れにしかすぎないことをいち早く看破している。同時に日本の美の基準も、急速な近代化の中で西欧文化へのコンプレックスから急ごしらえされたものでしかないことも指摘する。縄文土器を初め、世界各地のプリミティブアートに向ける目は、日本も西欧も相対化出来る視線から生まれたものだ。
今展で観ることができたのは、もちろん岡本のほんの一部でしかないが、それでもそのスケールの大きさは十分に感じ取ることが出来た。岡本についてのプロフィールではよく、絵画、彫刻、陶芸、文章など“幅広く多才”と紹介されているが、それらはジャンル分けするのではなく全てがつながっていて、充満した変幻自在の一つの球体のように思う。だがそんな中で絵画にどこか窮屈さを感じてしまった。欠点をあげつらおうというのではない。批判のためではない。岡本の作品を技術の巧拙とか一般的な美の基準で捉えようなどとも思っていない。それだからこそむしろシュルレアリスムとも抽象表現主義ともつかない油彩画を観ていると、そこだけ借り物のようで違和感がある。


      <エクセホモ>1963年

1960年頃のいくつかの作品の前には「芸術は呪術である」と書かれたパネルがあり、まるで何かが降りてきてそのままキャンバスに描きつけられたような作品が並んでいたが、あれほどに原始から未来までの長大な時空間の中で美術を捉えているにも拘わらず、それから見ればほんの僅かな歴史しか持たない油彩画の、しかも直近の美術潮流の中に絡め取られている矛盾を見たような気がしたのだ。そこには直接西欧の美術潮流に浸かった者として、単に西欧に追随する――戦前も戦後も自己批判することなく――日本の美術界へのもどかしさもあったかもしれない。葛藤もあっただろう。しかし「残ったものよりも消えた世界の方がどの位い大きく無限の広がりをもって躍動していたか」「惜しみなく消えていった文化の巨大さ、高貴さ」(『美の呪力』1971年)という岡本のことである。前衛とは、直近のものを超える程度のものではないことは自身が最もよく知っていたはずだ。作品タイトルにもなっている「明日の神話」こそ、逆説的な前衛性を物語ってはいないだろうか。


      <いのり>

ところで私は地下展示のジオラマの中でも、無数の仮面が吊されている<いのり>というスペースが特に好きだ。仮面について岡本は次のように述べている。
「人間というのは根源的に矛盾的存在なのである。自分と自分を超えたものとを、いつも自分の内にもち、そしてその双方をしっかりとつかんでいなければ本当には生きられないのだ。・・・・・・矛盾を克服するためにさらに矛盾した様相で身をよそおい、一だんとそれを深める。仮面――。人間存在の矛盾律、その言いようのない二重性を克服するために仮面が存在しているとしか思えない。」(『美の呪力』)
仮面は神や祖霊など超自然的なものと結びつく手段であると共に、岡本自身が密かに身につけ、自己の内部の矛盾を克服するためのものでもあったのだろう。そうして様々な仮面をつけながら自分ではない、自分以上のものを創り出し、別の次元へと引き上げていこうとしたのではないだろうか。
「芸術は呪術行為である」とは岡本が崇敬するピカソの言葉にもある。絵を描くのは美的行為ではなく、世界と自分とを取り次ぐ一種の魔術であるとピカソは捉えていた。しかし西欧美術の行き詰まりの中で原始美術に目を向けたピカソは、原始の人々の、世界との交信・対峙の手段としての遺物を、換骨奪胎して自身の芸術創造に生かしたのではなかったか。ピカソの技術に及ばないことを自覚していた岡本は、しかし、ピカソよりもはるかに古代の精神を引き継いでいたと思う。だから岡本にとっての<ゲルニカ>である<明日の神話>は、メキシコの壁画のような巨大な壁画でなければならなかったし、それと対をなす「太陽の塔」の太陽は、彼を惹きつけてやまないオルメカ時代(メキシコの古代文明)の巨石の顔と重なって見えるのである。(霜田文子)