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ギャラリーと図書室の一隅で

読んで、観て、聴いて、書く。游文舎企画委員の日々の雑感や読書ノート。

井上智子さん個展「―溢れるオモイ―」

2024年03月19日 | 展覧会より

  井上さんと、作品「溢れるオモイ」

 

明治時代に建てられたという商家の大きな建物を活用した上越市の町家交流館「高田小町」、ギャラリーはその一番奥の蔵を改装したもの。天井や壁面の梁が印象的な空間に、井上さんの現代アートがしっくりとマッチしていた。「溢れるオモイ」は、紙粘土状にした新聞紙をぎゅっと手で握り、手形をそのまま残した断片と赤い絹地を並べた作品。握りしめた手の跡に込められた様々な思いが寄せ集められている。

游文舎「毒素の秋」展や「夏の庭」でおなじみの井上さんは、空間を生かした造形作品を展示していたが、今展ではたくさんの平面作品も見せていただいた。厚く塗り重ねた絵の具を掻き削った画面は、緊張感があったり、思い切りがよかったり、ほっとひと息ついたり、そんなリズムが心地よい。一つ一つの作品にオモイを乗せて、空間全体には優しく温かく、けれど真摯に制作に向き合い続ける井上さんの息づかいが溢れていた。

上越市本町6 高田小町内「ギャラリー蔵」にて、20日まで。


「今」を見つめる――池田記念美術館「八色の森の美術展」

2023年09月11日 | 展覧会より




相変わらずの残暑厳しい中にも、朝晩少し秋の気配を感じることがある。そんな日はちょっと出かけようかという気にもなる。
9月上旬、南魚沼市・池田記念美術館を訪れた。沿道には今年の乾燥と暑さに耐えて黄金色の稲田が続く。
駐車場から美術館入り口までの木立に掛けられた大きなビニールが風にはためいている。中学生の作品という。
そして入り口前の庭で向かい合って飛び跳ねている二頭の猪。陽射しに銀色の体がきらきらと輝く。水路の中にはアンモナイトと羽のような金属。6月、游文舎で個展をされた松尾大介氏の作品だ。



松尾氏の作品「太古の宇宙船」シリーズは館内にも。窓外の八海山と向き合うように、直立する。八海山まで取り込んだ「空間芸術」となっている。



菅野美榮氏のさまざまな植物を独自の手法で取り入れた作品、壁面には石井博泰氏の、何層も重ねられた色彩がそれぞれの色や輝きを放つ作品。



游文舎野外展「夏の庭」にも出品された、見附市の田中幸男氏は平面作品から半立体作品、立体作品への展開を見せる。







上二点は大嶋彰氏の作品。明快な色彩による直線的な画面の上に浮かぶのは、今、生まれ出てきて蠢いている、そんな自然の形態。実は大嶋氏の作品の間には子どもの、小さな作品が展示されている。素直で伸びやかでほのぼのとしたユーモアがあって、ともすると大人達の作品を食ってしまいそうな魅力がある。
大嶋氏は、そういう作品の力を率直に認め、なおかつそこから発散されるエネルギーを静かに受け止めているように思う。





室井久美子氏と葛生裕子氏の作品。それぞれ抽象を追求し、禁欲的に要素を絞りつつ、様々なバリエーションを見せている。

「八色の森の美術展」は連年開催で、今年で八回目を迎えた。県内外から現在活躍中の作家を集めた展覧会は、少なくとも新潟県内では他にない。公立美術館が評価の定まった作家の作品を展示するのは致し方ないとしても、今を知ること、同時代の作家たちが何を見て、何を考え、何を引き継ぎ、これから何をしようとしているのかを知ることは、我々自身を問うことでもある。そうした自覚的な展示を連年でこれだけ回を重ねていることに敬意を表したい。
そしてもう一つ、地元の小中学生たちとの連携だ。単に教育的な試みというだけではない。むしろ大人たちこそその感性から刺戟を貰っているのではないだろうか。
10月22日まで。

関根哲男展「原生」 エネルギーホール6月30日~7月2日

2023年06月30日 | 展覧会より


游文舎では7月2日からたかはし藤水さんのインスタレーション「雫」展が始まるのだが、一足早く、エネルギーホールでは関根哲男さんの「原生」展が始まっている。
週末三日間だけなので、紹介させていただく。







遠目にはいつものように90㎝四方のパネルに何か貼り付けたものにしか見えない(「しか」と言いつつ、いつも素材には驚かされているのだが)
ところがさすがに今回はびっくりだ。何と人毛だ。床屋さんに頼んで半年分集めたという。それをボンドで古着のズボンに貼り付ける。身につけていた、というよりもついさっきまで人体の一部だったはずだ。「モノ」としての生々しさがこれまでにないほど伝わってくる。しかも呪力と深い関わりを持つ。位牌や墓をテーマにしたときのようなあっけらかんとした感じはない。それでもこれまで通り、素材の意味を換骨奪胎し、黙々と貼り付けていく。本当に意味はないのか?人は、毛糸なら何とも思わないのに、いわゆる薄気味悪さ、ぞわぞわした感じを抱かずに見ることは出来ない。意味とは人が勝手に作り上げているのだろうか。
しかし、繰り返すが全体を見るとそれらは神聖な空間にも見える。関根さんのひたすらの「営為」が空間を支配しているのだ。週末、ぜひご高覧下さい。

肉体と魂を描き切る―エゴン・シーレ展を観て(2)―

2023年02月13日 | 展覧会より


   自分を見つめる人Ⅱ(死と男)(1911年)

《自分を見つめる人Ⅱ》は死に神を背負った自画像である。さらにその二人とは別の腕がそれらを覆っている。何処まで分裂するのだろうか。シーレが描いた自画像は170枚とも200枚とも言われている。その多くは裸になって、鏡を見てポーズをとったものだ。時にはナルシスティックに。時には自分を痛めつけるように。性器もむき出し、自慰行為さえ描く。とても自意識からだけとは思えない。徹底的に自らを曝し、無意識の自我までもむき出しにする。こうして自身でも制御できない自我が、分裂した身体となって出現するのだろう。
 ところでオーストリア・ハンガリー帝国の首都として爛熟した文化を誇っていた世紀末ウィーンとは、言いかえれば、いつそれが崩壊してもおかしくない臨界状態でもある。ホフマンスタール、フロイト、ヴィトゲンシュタイン、シェーンベルク、カール・クラウス・・・改めて煌めくばかりの才能の出現に驚かされるのだが、彼らもまたその危機が生み出したとも言える。そして当時、ほとんどの芸術家が多かれ少なかれフロイトの影響を受けていたという。自分でも制御出来ない、無意識の領域をシーレがどれほど意図的に探っていたかは不明だが、そこには自身の不安と時代の不穏な気配とがシンクロしていたのではないだろうか。若くして父や身内の死に接し、死はいつも身近にあったという。しかも第一次世界大戦前夜、ヨーロッパの心臓部であるウィーンのざわめき。そんなウィーンの光と影を、シーレは極めて個人的な、一人の人間の中に照応させたのではないだろうか。1910年前後の作品には鬼気迫るものがある。


   抒情詩人(1911年)

《抒情詩人》は、身体こそ単独像だが、不自然な首の傾き、両目の視線の方向や表情の違いには、今にも分裂しそうな危うさがある。


   啓示(1911年)

一方、《啓示》(1911)は聖職者のような二人の人物に、半裸の男が身を屈めて向かっていく。自身の言葉に拠れば偉大なる人物にその男が感化され溶融されていくのだという。常に分裂の危機に瀕しているシーレの、何かにすがり、支えられ、自己が統一されることへの願望を表わしているのだろうか。そうした苦悶のうえでもなお彼が追求するのは「美」だ。「醜」なるものまでも凝視した上での「美」。僅か20歳そこそこで、明らかに自覚的にそれを行使している。恐るべき才能だ。
ところで先に坂崎乙郎の言葉を引用したが、それはルノアールが女性には頭脳は要らないという暴言と共にある。シーレは女性像にもちゃんと苦痛や快楽を込めていたということだ。もちろんそれは現代的な意味での女性尊重ではない。ただ確かにシーレは女性もまた多面的な人間として描いていたように見える。冒頭のポスターは、当時の恋人・ワリーの肖像と対になっている。出品されてはいないが、そこには心身共に苦しい時期のシーレを支えたワリーが、優しく穏やかに描かれている。一見、シーレの自画像と全く対等に見える。だがそれはシーレの願望なのではないか。彼が描いた他の女性像を通してみるとき、それは実は自画像と変わりがないのではないかと思うのである。女性モデルのポーズも、痛めつけ、ねじらせ、よじらせ、苦悶させる。それは自画像と同じであり、その苦痛や快楽を共有しつつ描こうとしていたのではないだろうか。それは分身たちなのだ。モデルと性的関係を持つことは当時一般的なことだったが、シーレの場合、とりわけ肉体と魂の一体化でもあったように思う。なんという不遜で、卑俗なことか。しかしそこまで徹底することによってはじめて「醜」は「美」に転化するのだ。


   母と二人の子どもⅡ(1915年)

《母と二人の子どもⅡ》は不思議な作品だ。ピエタ像を思わせるが母親の顔はまるで髑髏か死に神だ。ほとんど亡霊のような子どもと、カラフルな洋服を着た子どもという対照的な二人の幼児。常に死を身近に感じていたシーレはそれを母に、子供たちを分裂した自己として表わしているのではないだろうか。いや、そうとしかならなかったのではないか。このように宗教画の形を借り、母子像を描きながらも、シーレは自分しか描けなかったのだ。それだけではない。風景までも自身の危機や不安の置き換えではないだろうか。

さて、第一次世界大戦が勃発し、1915年結婚直後に徴兵されたシーレであるが、制作は続けられる環境にあったという。そして翌年ウィーンに戻ると、その後は作品が認められ生活も安定したという。しかし1918年、スペイン風邪で妻が亡くなった三日後に、自身も亡くなった。


   《横たわる女》(1917年)


   《しゃがむ二人の女》(1918年)

早すぎる晩年の作品である。確かに技術はしっかりとしている。かつての繊細さと危なっかしさの裏返しのような強さではない。《叫び》などで表現主義を代表するムンクの、晩年の作品が頭をよぎってしまった。しかしもし彼がもっと生きていたら、と考えるのはよそう。分裂するほどに自己を突き詰めた彼の自画像は、表現主義を超えて、唯一無二だ。






肉体と魂を描き切る―エゴン・シーレ展を観て(1)―

2023年02月09日 | 展覧会より


 東京都美術館で開催中の「エゴン・シーレ」展を観た。実は私はシーレの作品をあまり観ていない。俯瞰的な視点からの人物像、官能的な女性像などの印象は強烈だが、同時に挑発的とも言える作品は、若さのなせるところにも思え、きちんと向き合ったことがなかったのだ。1890年に生まれ1918年には亡くなるという短い生涯で、常に挑むような作品を描き続けた作家には、未完あるいは途上というイメージがあり評価しかねていた。28歳といえば、日本の青木繁も同じ年齢で亡くなっている。共に夭折が惜しまれるが、青木にはすでに完成した作家という安定感を感じるのも、その作風の違いのせいだろう。


     (参考)死と乙女(1915年)


     モルダウ河畔のクルマウ(小さな街Ⅳ)(1914年)
     
 
 今展は、世紀末から20世紀初頭のウィーン美術を中心に集めたというレオポルド美術館の所蔵品展である。オーストリア・ハンガリー帝国の混乱と凋落の中、ヨーロッパ全体に新しい芸術が胎動し、伝統的で保守的な芸術への文化的抵抗がウィーン分離派や、さらに新たな潮流を生み出した時代だ。おそらく最も有名な《死と乙女》こそないけれども、シーレを特徴づける作品と、それを取巻く同時代の作家の作品は充実している。圧倒的に人物画が多い中、初めて見た風景画は何処かファンタスティックで静かな情感を湛えていた。また、時代の寵児クリムトに心酔しながらも、その影響が希薄だったことがずっと疑問だったが、年代順に概観することができ、作風の変遷もわかりやすかった。


     頭を下げてひざまずく女(1915年)

 油彩画はしなやかな曲線と繊細な色使いながら、筆の運びは迷いがなく、こしの強い太い筆でぐいぐいと塗り込んでいる。思っていた以上に荒々しく、強靱で、意志的だ。人物ドローイングでもクリムトとの違いが明快だ。必要最小限の細く柔らかな線で対象の最も表現したい部分を一瞬にして捉えたクリムトと、強く途切れることのない線で難しいポーズを捉え切るシーレのデッサン。さらにそこにはモデルの激情までも込められている。それは1911年頃からいっそう明確になっている。この頃、ドイツ表現主義展に参加したり、ゴッホの《ひまわり》からインスパイアされた絵を描いており、シーレの志向に少なからず影響を与えたようだ。その作風はクリムト等の象徴主義に対して、オスカー・ココシュカと共に、オーストリア表現主義といわれている。このオーストリア表現主義というのを私はよく分からないのだが、そもそもドイツ表現主義にしても絵画区分としては印象が薄いのは、じきに抽象表現主義や超現実主義が現れ埋没したように見えるからだ。とはいえドイツ表現主義とも異質だ。目指すものが違いすぎたのではないか。ただ「表現主義=Expressionism」は「印象主義=Impressionism」に対立して現れた概念であり、その点では内面表現へと向かったシーレを、少なくともクリムトと分ける区分とはなるのだろう。
 またドイツ表現主義の作家たち、特にキルヒナーと比べてみると、その身体表現や色彩感覚が桁違いに優れている。キルヒナーの内面の不安は時代に連動し、それを表現したいがために絵画的表現は二の次になってしまったように思える。作品としての共感を得ることは難しい。シーレがそれに与しなかったのも当然だろう。彼は極めて個人的な人間の内面に迫ると共に、それを持った身体にも同様の価値を認めていたのだろう。さらにどんなにグロテスクであっても、陶酔するような美をそこに見出そうとしていたのではないだろうか。そうしたシーレの特質を最もよく表わしているのが自画像だと思う。今展でも彼の独自性を強烈に印象づける優れた自画像を見ることが出来た。かつて坂崎乙郎は「ルノアールは肉体しか描けなかった。シーレの自画像は苦痛に満ちている。肉体と魂を共有する人間を描いている」と言ったが、これほど突き詰めていては肉体と魂を共有しきれないのではないか、と言う予感は果して当たっていた。(続く)