60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

2015年04月03日 10時03分15秒 | 日記
 着物販売のプロモーションイベントとして開催された「能」の単独ライブを見てきた。
 「能」と言えば、以前に浅草の浅草寺の境内で行われた「薪能」を見に行ったことがある。何の知識も無いままに見た「能」の舞台は、今までに経験したものとは全く異質なものであった。暗闇が迫る中、四方で焚かれる篝火の爆ぜる音、舞台の上では鼓が打たれ、古文のような理解しがたい謡にあわせて、煌びやかな着物をまとった舞手が舞う。舞台の上では全てがスローモーで、これが「幽玄の世界」なのか?と思う。しかし都心の真ん中ではビルの照明や自動車の音が聞こえてきて気分が散ってしまい、中途半端な気分のまま見終わったように覚えている。

   
 
 翌年もこの「薪能」を見る予定でチケットを買った。しかし当日は雨になり、急遽浅草公会堂に変更になる。会社帰りで場所の変更の戸惑いもあって、入場が遅くなり2階の後方の席からの鑑賞になってしまった。今回は外部の雑音も聞こえず、ゆったりとした席でゆっくりと鑑賞できると思った。しかし遠くで見る舞台での舞はあまりにもゆっくりで、抑揚の無い謡は内容が理解できず、自分とは無縁の世界を遠くから見ているようであった。やがて眠気を催して目を閉じる、これはまづいと再び目を開いても、以前の舞台とはほとんど何も変わっていない。それほどスローモーなのである。やがて気づくとすっかり眠っていた。

    
   

 
 3回目は千駄木にある国立能楽堂に行った。これが正式なのか、舞台には屋根がついていて、緞帳もなく欄干のある渡り廊下が伸び、その先の舞台の正面には松の木が描かれている。もともと能の舞台は野外にあり、能楽堂に収められた現在もそれが踏襲されているのだと言う。その日は狂言と観世流の能が演じられたように記憶している。やはり格式の高い能楽堂である、和服の女性も多く居ずまいを正さなければいけないような雰囲気である。こんな席で寝てしまうわけにはいかない。そう思って緊張して見ていた。
 狂言の方は昔(中世)の庶民の笑いやおかしみを演じたものである。何人かの登場人物の掛け合いのような会話、テンポの速いしぐさは現代の演劇にも通じるものがあるように思えた。能の方はやはり前回と同様に、自分の中にすんなりと入ってこなかった。それは分かりにくい謡の言葉にあるのか、それともあまりにもかけ離れたスローテンポが自分の感覚では受け入れられないのか、それとも初めから自分には異質なものという固定概念が強かったのか。・・・・結局その壁は乗り越えられず、教養として見た事があると言うことで終わってしまった。
 
     

 最後に能をみてから7年が経過していた。今回のイベントは能楽師による「能の解説」のようなものであった。シテ方観世流能楽師の人が、能の演目の中からいくつかをピックアップしてその触りの部分を謡い、また能面を付けて舞って見せる。まず背筋をピンさせ姿勢を正して地声での謡は迫力満点で圧倒されるほどである。能面を付け目の前で舞う姿は凛として、伝統芸の奥深さを感じさせた。
 そしてその解説では、・・「能」は室町時代に特に世阿弥が発展させたさせたもの、演目は源氏物語や伊勢物語、平家物語などの題材の中で登場する、どちらかと言えば脇役を取り上げたものが多いこと、ストーリとしては定型があり、たまたまその地を旅している人物(僧など)が、主人公の思いや存念を聞くが、それはその主人公の死後の霊魂だったと言う設定だそうである。何が表現され何が面白いのか等々・・・今まで能にあまり触れていなかった人に対して、ポイントを押さえてわかりやすい解説であった。今回の実演を伴う解説を聞き、私は能というものに一歩接近できたように思った。やはり歌舞伎や能などの伝統芸能は、その生い立ちや特徴などの解説があった方が受け入れやすいように思う。
 

      

 私の場合感性が鈍いから、どちらかと言えば頭で理解しようとする。例えば絵画でも、女性であればその絵を見て好きか嫌いかが先行するという。しかし私はその絵の技巧とか何を描こうとしたのか等の主題が分からないと、いつも「????・・・・」となってしまう。能にしてもいきなり薪能を見てしまうと、どう自分が反応して良いかに戸惑ってしまうのである。だから本当は今回のように少人数で真近に実演を伴っての解説を聞いてから能を見たほうが、理解が早かったのであろうと思う。それは男性と女性の違いなのか、それとも私の欠陥なのだろうか、








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