
出勤前にドトールで珈琲を飲んでいくことにした。
地下鉄の出口を上がったところにあるこのお店は朝7:30からオープンしている。
朝食代わりにドックやサンドイッチを食べる人、新聞を広げる人、ただぼんやりと過ごす人、
仕事の喧噪のなかに飛び込む前のひと時、心を落ち着かせる準備時間なのだろう。
8時を過ぎると来店客が増え、カウンターは時に立て込んで人が並ぶ。
この店はフランチャイズ店で、朝はオーナーの娘さんと従業員の2名体制でこなしている。
オーナの娘さんがレジ前に立ち、従業員の女性が後方にまわる。
前のお客さんが注文する。
「ブレンド」
「店内でお召し上がりですか」
「うん」
「サイズはどうしますか?」
「S」
「200円いただきます」
「つぎのお客さま」
「ブレンドMと ミラノサンド、持ち帰りで」
「砂糖とミルクはどうなさいますか」
「ミルクだけ」
「640円になります」
もう一人の従業員に「ミラノサンドおねがいしま~す」と告げる。
「すみません、少しお持ちいただけますか」
「次のお客さまは?」私の順番になる。
前のお客さんの珈琲を紙カップに注ぎ、蓋を締め、袋の口をあけながら注文を聞いてくる。
「アメリカンとジャーマンドック」
「アメリカンのサイズはどうしましょう」
「Sサイズ」
「400円いただきます」
小さなトレイに珈琲を置き、
「そちらに進んで、少しお待ちいただけますか」
「次のお客さま」と後ろのお客に声をかける。
店内調理のドックなどの注文があると、出来上がりに時間がかかり、レジ前に人がたまる。
それでも次から次へとお客の注文を聞いて行く。
この人は何人さばけるのか、これで間違いは起こらないのだろうか、と不安になる。
ドックが出来て、トレイを持ってレジの向いの少しテーブルが高くなっている一人席に座った。
大口をあけドックをほおばりながら、レジに立つその娘さんの動きに興味を持った。
後ろを振り返って珈琲をコップに注ぎ、トレイの上に珈琲カップをのせ、スプーンを添え
レジを打ち、釣銭を渡し、持ち帰りのコーヒーに蓋をし、ティッシュを一緒に紙袋に入れ、
次のお客さんの注文を聞き、そのまた次のお客さんの注文を聞く。
ほとんどレジ傍から離れることなく、何通りかの動作をもくもくとこなしていく。
4人、5人と並んでも、あわてる風もなく、よどみなくさばいていく。見ていて見飽きない。
ここまで、無駄がない応対と動きを見ると、優れたマシーンのようにも思うほどである。
毎日毎日、ここにに立って客をさばいていけば、全てのことを体で覚えているのだあろう。
お客さん何人かのオーダーを頭に入れ、それに伴う何十通りの作業手順をどうこなしていくか
たぶんなにも考えることも意識することもなく自然に体が動いて行くのではないかと思う。
パソコンのキーボードを打つとき、どこにどのキーがあるかうる覚えなのにもかかわらず、
指が勝手に動いて文字を打ち出している、そんな感じなのであろう。
「いらっしゃいませ」「おそれいります」「ありがとうございました」「行ってらっしゃいませ」
お客様との会話はマニュアル通りである。無表情なその言葉は人の心には届いていない。
今はこの手の店が飲食業も小売業も大半を占めている。
マックもセブンもチェーン展開するほとんどすべての店がマニュアルで動いているのである。
よほど雑な接客をしない限り、誰がレジに立とうが同じである。相手の顔が見えないのである。
よほど通いつめない限り、その店の人の顔を覚えることはない。
今ニュースになる派遣切り、人が契約で労働力を売る。人は労働力というマシーンになっている。
企業は労働力としか人を見なさない。その労働力を金で買い、マニュアルで制御していく。
だから会社は不況になってくれば、マシーンダウンして行くだけ、そこに一人一人の顔は見えない。
マニュアル化された社会やマニュアル化された人間、そのような社会の末路のように感じてしまう。
それでいいのだろうか? 良くはないだろう。ではどうする?
ドトールに入って15分、空きになったコーヒーカップと皿がのったトレーを返却口に運ぶ。
ガチャリと食器の音がしたと同時に「恐れ入ります」という無機質な声が返ってきた。
自分自身も大きなマシーンの中をコンベアーに乗せられて動いているように感じてしまうのである。
「ありがとうございました」「行ってらっしゃいませ」、締まるドアーの後ろから声が追っかけてくる。
地下鉄の出口を上がったところにあるこのお店は朝7:30からオープンしている。
朝食代わりにドックやサンドイッチを食べる人、新聞を広げる人、ただぼんやりと過ごす人、
仕事の喧噪のなかに飛び込む前のひと時、心を落ち着かせる準備時間なのだろう。
8時を過ぎると来店客が増え、カウンターは時に立て込んで人が並ぶ。
この店はフランチャイズ店で、朝はオーナーの娘さんと従業員の2名体制でこなしている。
オーナの娘さんがレジ前に立ち、従業員の女性が後方にまわる。
前のお客さんが注文する。
「ブレンド」
「店内でお召し上がりですか」
「うん」
「サイズはどうしますか?」
「S」
「200円いただきます」
「つぎのお客さま」
「ブレンドMと ミラノサンド、持ち帰りで」
「砂糖とミルクはどうなさいますか」
「ミルクだけ」
「640円になります」
もう一人の従業員に「ミラノサンドおねがいしま~す」と告げる。
「すみません、少しお持ちいただけますか」
「次のお客さまは?」私の順番になる。
前のお客さんの珈琲を紙カップに注ぎ、蓋を締め、袋の口をあけながら注文を聞いてくる。
「アメリカンとジャーマンドック」
「アメリカンのサイズはどうしましょう」
「Sサイズ」
「400円いただきます」
小さなトレイに珈琲を置き、
「そちらに進んで、少しお待ちいただけますか」
「次のお客さま」と後ろのお客に声をかける。
店内調理のドックなどの注文があると、出来上がりに時間がかかり、レジ前に人がたまる。
それでも次から次へとお客の注文を聞いて行く。
この人は何人さばけるのか、これで間違いは起こらないのだろうか、と不安になる。
ドックが出来て、トレイを持ってレジの向いの少しテーブルが高くなっている一人席に座った。
大口をあけドックをほおばりながら、レジに立つその娘さんの動きに興味を持った。
後ろを振り返って珈琲をコップに注ぎ、トレイの上に珈琲カップをのせ、スプーンを添え
レジを打ち、釣銭を渡し、持ち帰りのコーヒーに蓋をし、ティッシュを一緒に紙袋に入れ、
次のお客さんの注文を聞き、そのまた次のお客さんの注文を聞く。
ほとんどレジ傍から離れることなく、何通りかの動作をもくもくとこなしていく。
4人、5人と並んでも、あわてる風もなく、よどみなくさばいていく。見ていて見飽きない。
ここまで、無駄がない応対と動きを見ると、優れたマシーンのようにも思うほどである。
毎日毎日、ここにに立って客をさばいていけば、全てのことを体で覚えているのだあろう。
お客さん何人かのオーダーを頭に入れ、それに伴う何十通りの作業手順をどうこなしていくか
たぶんなにも考えることも意識することもなく自然に体が動いて行くのではないかと思う。
パソコンのキーボードを打つとき、どこにどのキーがあるかうる覚えなのにもかかわらず、
指が勝手に動いて文字を打ち出している、そんな感じなのであろう。
「いらっしゃいませ」「おそれいります」「ありがとうございました」「行ってらっしゃいませ」
お客様との会話はマニュアル通りである。無表情なその言葉は人の心には届いていない。
今はこの手の店が飲食業も小売業も大半を占めている。
マックもセブンもチェーン展開するほとんどすべての店がマニュアルで動いているのである。
よほど雑な接客をしない限り、誰がレジに立とうが同じである。相手の顔が見えないのである。
よほど通いつめない限り、その店の人の顔を覚えることはない。
今ニュースになる派遣切り、人が契約で労働力を売る。人は労働力というマシーンになっている。
企業は労働力としか人を見なさない。その労働力を金で買い、マニュアルで制御していく。
だから会社は不況になってくれば、マシーンダウンして行くだけ、そこに一人一人の顔は見えない。
マニュアル化された社会やマニュアル化された人間、そのような社会の末路のように感じてしまう。
それでいいのだろうか? 良くはないだろう。ではどうする?
ドトールに入って15分、空きになったコーヒーカップと皿がのったトレーを返却口に運ぶ。
ガチャリと食器の音がしたと同時に「恐れ入ります」という無機質な声が返ってきた。
自分自身も大きなマシーンの中をコンベアーに乗せられて動いているように感じてしまうのである。
「ありがとうございました」「行ってらっしゃいませ」、締まるドアーの後ろから声が追っかけてくる。
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