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60歳からの眼差し

人生の最終章へ、見る物聞くもの、今何を感じるのか綴って見ようと思う。

人工呼吸器

2012年12月21日 08時46分02秒 | Weblog
 私の義母は8年半前に脳内出血で右半身不随になった。当初あちこちの医療機関を回ってリハビリの治療も行ったが、年齢による体力や気力の衰えなのか、結局は車椅子生活になってしまう。同居しているのは一番下の娘だけである。しかし彼女も仕事を抱えているため、義母を特別養護老人ホームへ入れるしかなかった。お正月やお盆、年のうち何回かの大型連休を利用して自宅につれて帰り、家族が集まって一家団欒が恒例の行事になっていた。

 しかし90歳にもなると体力の衰えが激しくなり、食べ物をのみ込めなくなったり、タンがはけなくなったりと、嚥下障害が起きてくる。食べても誤嚥(ごえん)のリスクが出てきたため、胃に直接食べ物や水を入れる胃瘻(いろう)の処置を施すことになった。先月市内の病院で胃瘻の手術をしたあと、今月再び養護老人ホームへ戻った。退院当初は意識もしっかりしていて、正月に自宅に帰ることを楽しみにしていたそうである。しかし先週末、胃に入った食べ物が逆流し、それが気管支に入って呼吸困難を起こしてしまった。あまり時間を措かず発見されて、救急車で病院に運ばれ一命は取り留めたものの、意識障害を起こしてしまったようである。

 その日のうちに家族と医師とで今後の処置方法の話し合いになる。呼吸停止の時間がどの程度か定かではないが、やはり脳へのダメージは大きものと予測された。このまま自発呼吸に任せ様子を見るか、それとも人口呼吸器をつけるか、家族にその判断を迫られることになった。医者の方は遠まわしながら、歳も歳であり回復の可能性が少ないから、人口呼吸器は使わないほうが良いという説明だったようである。一旦つけてしまうと外せず植物状態の可能性が高くなるものの、付けなければ回復の可能性を否定することになる。結局、子供達3人の判断は呼吸器をつけるこという結論になった。

 当日の夕方私も病院に見舞いに行った。ベットの真ん中にちょこんと収まっている義母は、以前より一段と小さくなった感じがする。ただ上を向いて目を閉じているだけの義母は、誰がどう話しかけても何の反応もしない。個室の奥には大きな機械がずらりと並び、2つのモニターの数字は刻々と移り変わっている。口には太い管が差し込まれ、それをマスクのようなもので抑えてあった。ベットの上から点滴の管が2本垂れ下がり、他にも何本かのコードで義母は機械に繋がれている。病室では自らの呼吸なのか機械のポンプの音なのか、「スーハー、スーハー」と一定した間隔で呼吸音だけが聞こえてくる。口に入れたパイプを拒絶しないようにということで、薬で意識は落としてあるそうだ。モニターの一番上の数値は脈拍で、100~120の間を入れ替わっていく。普通の成人で60前後の脈拍だから、義母は常に走っているような状態で心臓が動いていることになるのだろう。果たして再び意識が戻るのであろうか、このまま意識が戻らなければどのような経過をたどるのであろうか、考えてしまう。

 一旦つけた人口呼吸器は人為的には外せないというのが今の社会的なルールである。意識が戻る可能性のある段階で、しかも人工呼吸器を使える状況で、それを使わずに死に至ってもそれは罪にはならない。しかし植物状態でこれを外せば罪になる。共に人為的な行為であるのに、なんとなく矛盾したルールであるようにも思える。義母の場合、意識が回復してくれれば幸いであるが、そうならない場合の可能性の方が高いようである。救急車で運ばれた段階で、しかもまだ意識が戻る可能性が考えられる時、家族はどう判断すればいいのであろう。「このままではあと1週間ぐらいですかね・・・」と言われれば、やはり「では付けて下さい」と言わざるを得ないと思うのである。その後の介護や医療費の問題でどんなに負担がかかろうとも、できる限りと思うのが家族としての「情」なのである。

 昔ノンフィクション作家の柳田邦男が書いた「犠牲(サクリファイス) わが息子の脳死11日」という本を読んだことがある。自分の息子が首をつり自殺を図ったが、死に切れず脳死状態になった。その時の親の葛藤を書いたものである。その本の中でこの事件が人によるって捉え方が違うことを、「一人称」「二人称」「三人称」という書き方で説明していた。息子が一人称、著者は二人称、家族以外が三人称である。息子は苦しみ考え抜いて自殺した本人。親はその突然の死を受け入れなければいけない存在。そして第三者はより客観的に意見を言う存在として、一つの事実を考えるときその立場の相違を体験談として書いてあったと思う。

 今回の義母を見舞ってその本のことを思い出した。私はあくまでも三人称である。三人称の私から見れば、義母はすでに90歳を過ぎているし、8年半も辛い想いをしてきた。この8年半の衰弱の流れを見て今回の出来事を考えたとき、これ以上の延命処置をすることの是非を思ってしまうのである。しかし二人称の子供達にとっては、「可能性があるのなら手を尽くす」ということになるのであろう。当然判断の順位は医者でもなく第三者でもなく、二人称の子供達である。もしこの二人称の判断を覆すものがあるとすれば、それは一人称の意思であろう。義母が元気な時に「延命処置はしないで欲しい」と言っていたとすれば、「これは本人の意思ですから」、と言うことで人工呼吸器の装着は回避していたのかも知れない。そんなことを思ってみた。

 これから家族に、転院の困難さや医療費の負担、長期看護の問題と大きな負担は続いていくことになる。まあこれも家族の親の死を受け入れるための手続きかも知れないとも思うのだが、できれば避けたいものである。今回義母のことを目の当たりにして、私自身どうするかを決めなければいけないと思った。私としてはまだ冷静な判断ができるうちに、「延命処置はしないでくれ」、そう女房と子供達には言っておこうと思っている。