東村山 北山公園の菖蒲
以前、会社の中で「斜(ハス)の会」というコミニティーを作って、仲間で世の中の流れに批判の目を
向けていた時期がある。それは世の中の動きや判断を今のマスコミに頼っていて良いのだろうか?
と言う疑問と不信感からである。物事をセンセーショナルに扱ったり、情緒的に捉え報道することで、
視聴者や読者の関心を引こうとする、そんな無責任なスタンスに対して批判的であったからである。
私の中のそんな目線は今も変わってはいない。そして日々疑問に思うことは様々である。
例えば今の管政権にしても、
確かに国会の現状は酷い状況だと思う。しかし元はと言えば、いつも世の中を批判ばかりしている
マスコミの扇動に乗り、小沢や鳩山、管という3人組の素性が見抜けず、結果的に民主党を選んで
しまった国民が愚かだったのだろうと思う。無責任なマスコミに最大の責任があるのだろうと思うが、
我々もマスコミの言うことをうのみにせず、斜に構えて聞くようにしなければ判断を間違うように思う。
例えば地球温暖化は二酸化炭素に起因するという説、ほんとうだろうか?と思っている。
地球が生まれた時は大気の90%が二酸化炭素で、10%が窒素であった。その二酸化炭素が
今は3.5%しかない。一時的にパーセントが上がったかもしれないが、基本的には減り続けている。
だから地球温暖化は二酸化炭素の問題ではない。太陽の放射熱が地球に降り注ぐエネルギーで
バランスが取れていたのに、人間が発する大量の熱がプラスアルファーになって、温暖化している
という説もある。この説で言えば、原子力エネルギーも、石油などの化石燃料によるエネルギーも
温暖化に対する影響はまったく同じだということになる。
またある説では、地球は長い周期で寒冷化と温暖化を繰り返しており、その周期の中での温暖化
であって二酸化炭素とは関係ないという説、など諸説ある。今は二酸化炭素の排出を悪者にして
報道しているが、本当にそれは断定して言えることなのかと、疑問に思うのである。
例えば福島原発の放射能汚染の問題、
今は放射能の人体に対する影響の度合いのデーターが整っていない。だから自治体や焼却施設
などでは、どう対処するかで右往左往している。そんな状況をマスコミが煽り住民を不安がらせる。
日本は広島と長崎で原爆を経験した。その時の死亡原因は爆風が50%熱線が30%で放射線は
20%と言われている。私の友人は広島の爆心地から40kmの所で1歳の時に被爆した。そして、
高校卒業までその地で暮らしていたが、周りの友人も被爆による障害は聞いたことがないという。
日本は世界で一番多くの被爆者がいる国である。これだけ多くの被爆体験者がいる日本で人体の
影響度のちゃんとしたデーターが揃っていないということは、反対に考えれば被爆による影響度は
言われているほど多くないのではないだろうかと思ってしまう。放射能という目に見えないがゆえに、
恐怖が増大するわけで、いつかは「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということになるように思う。
例えば遺伝子組み換え食品、
遺伝子をどう組み替えようがタンパク質はたんぱく質であり、それによって人間の遺伝子が損なわ
れたり、毒性を持つことはあり得ない。現在、遺伝子組換え作物の作付面積は年々増加していて、
2010年現在、全世界の大豆作付け面積の81%、トウモロコシの29%、になっているという。
そんな中で、遺伝子組換えの作物を食べたことで、なんらかの障害が報告されことがあるだろうか?
私の知る限りは1件もない。マイナスの科学的根拠もデーターもないのに、人工的な操作は危険だ
という先入観だけで不安がる。安心安全も度が過ぎればどんどん自分達の自由度を失うことになる。
例えば佐渡のトキ、
日本のトキは環境が大きく変わったことで絶滅したわけで、今さら江戸時代や明治大正の田舎の
環境に戻ることはない。しかも近親交配で繁殖したトキがその数を増やしていくとは考えられない。
これは一種の人間の懺悔の気持ちなのか、ノスタルジーなのであろう。大型哺乳類である人間が
地球にはびこれば、必然的に他の動物は安住の地を追われ生きづらくなり、絶滅の運命をたどる
ことは避けて通れないことである。だからと言って人間の方を切り捨てるわけにはいかないだろう。
例えば日本オオカミが絶滅したから、シベリアからオオカミを連れて来て北海道に放し、オオカミは
エゾ鹿を捕まえて生きていくだろう、と言う共存は成り立たない。結局人間と野生動物との共存は
叶わぬ夢なのである。人類が勢力が増すほど野生の世界はどんどん縮小されていく。そして人が
できることは動物園かサファリパークのように管理された中での種の保存しか無くなってしまう。
最近読んだ本にこんなことが書いてあった。
昔、殺虫剤に「DDT」というのがあった。(我々の子供の頃はこれを頭から振りかけられていたが)
1962年にレイチェル・カーソンが「沈黙の春」という本を出版し、農薬による自然破壊を警告した。
そしてそれは社会問題化し、「DDT」の製造禁止まで一気に進んでしまった。「DDT」というのは
極めて優れた殺虫剤で、昆虫の首のところにある神経細胞を選択的に破壊するもので、人間や
哺乳動物、鳥類などには影響なく、虫だけを殺すことのできる殺虫剤である。だから害虫の被害を
少なくするためには最強の方法だったわけである。
戦後開発されたこの「DDT」によって、ハマダラ蚊によって媒介されていたマラリアという病気は
アメリカやヨーロッパ、日本などの先進国ではほぼゼロになった。しかしその後製造中止になった
ため、撲滅が不完全だった開発途上国では、マラリアで毎年100万人から200万人の犠牲者を
出すに至ってしまった。皮肉なことに「DDT」による人間の健康被害は一例も報告されていない。
「沈黙の春」に書いてあることは「DDT」を使うことで野山の鳥が減った、と言うことである。昆虫が
死ねば当然それを餌にする鳥は他へ餌を求めていなくなる。果して何が正しかったのであろうか。
もう一つ、
1900年の後半頃にダイオキシンの報道が集中的になされ、大きな社会問題になったことがある。
当時「人間が作り出した史上最強の猛毒」とか「青酸カリやフグ毒より強い」とかまで言われていた。
日常でも温度が400℃から500℃、食塩がある中で可燃物を燃やすとダイオキシンが出るなどと
言われ、家庭での焚き火なども自治体によっては禁止された。その為、そのダイオキシンで各国は
膨大な予算をつけて毒性研究を行った。そして1999年にその結論がでた。それは「一般的には
毒性は認められるが、人間にはダイオキシンに対する防御が整っているので、毒物とは言えない」
という結果であった。結局は「シロ」だったわけである。
では、あのマスコミの大騒ぎは何だったのであろうか?そして「シロ」だったという報告は国民に広く
なされたのであろうか?考えてみれば焼却炉の清掃担当者や焼き鳥やのオヤジもダイオキシンに
晒されたいたわけで、彼らが真っ先に犠牲者になっていなければいけなかったわけである。
ダイオキシン騒動から15年、現在もしかしたらダイオキシンの影響ではないかと疑われているのは、
癌でも奇形児でもなく、女児を妊娠する割合が男児よりわずかに多くなる懸念であり、そのズレは
極めてわずかで、このズレを統計的なバラツキの範囲とも言われるぐらいである。
今のマスコミは物事を断定的に扱いすぎるのではないだろうか?ちゃんとしたデーターや根拠がなけ
れば、「科学的にはハッキリしていないけれど」という前提を付けるべきである。そして科学的な根拠
が出た段階で議論し、見直していく必要があるように思うのである。
追記
先日ある女性に「貴方は物事に動じず、いつも正論を言おうとしている。感情を抜きにした会話は
ある種殺伐としてしまい、相手との共感にはつながらないのではないか」、そんな風に言われた。
言われてみれば確かにそうなのであろう。感情を表に現さず、常に正しい判断をしようとしている。
「なぜそうなの?」と聞かれても、そうあることが正しいと思っているから、これはこれで仕方がない。
人は「正しいことを納得する」のではなく、「納得できることを正しい」とするそうである。そのことから
すれば、私は納得できることを探しているのであろう。今の世の中、主義主張や金や利権や打算で
物事が動いていく、そんな中にあって自分のスタンスを保っていくには自分が納得できることを正しい
とするしかないのである。そして私の納得がいく基準は論理立っていること、科学的根拠があること
なのだろう。今のマスコミの論調はどちらかと言えば、読者や視聴者の感情に訴えようとしている。
それは私にとっては正しい意見ではないのである。だから別の意見を探そうとする。そして、どちらの
方が自分にとって納得いくかを考えるわけである。周りの出来事に一喜一憂し、振り回されることは
自分の本意ではない。だから正面から受け止めようとせず斜(シャ)に構えている。そんな生き方が
習い性になって、喜怒哀楽が少なくなったのだろう。 これが、その女性への説明になるだろうか?
以前、会社の中で「斜(ハス)の会」というコミニティーを作って、仲間で世の中の流れに批判の目を
向けていた時期がある。それは世の中の動きや判断を今のマスコミに頼っていて良いのだろうか?
と言う疑問と不信感からである。物事をセンセーショナルに扱ったり、情緒的に捉え報道することで、
視聴者や読者の関心を引こうとする、そんな無責任なスタンスに対して批判的であったからである。
私の中のそんな目線は今も変わってはいない。そして日々疑問に思うことは様々である。
例えば今の管政権にしても、
確かに国会の現状は酷い状況だと思う。しかし元はと言えば、いつも世の中を批判ばかりしている
マスコミの扇動に乗り、小沢や鳩山、管という3人組の素性が見抜けず、結果的に民主党を選んで
しまった国民が愚かだったのだろうと思う。無責任なマスコミに最大の責任があるのだろうと思うが、
我々もマスコミの言うことをうのみにせず、斜に構えて聞くようにしなければ判断を間違うように思う。
例えば地球温暖化は二酸化炭素に起因するという説、ほんとうだろうか?と思っている。
地球が生まれた時は大気の90%が二酸化炭素で、10%が窒素であった。その二酸化炭素が
今は3.5%しかない。一時的にパーセントが上がったかもしれないが、基本的には減り続けている。
だから地球温暖化は二酸化炭素の問題ではない。太陽の放射熱が地球に降り注ぐエネルギーで
バランスが取れていたのに、人間が発する大量の熱がプラスアルファーになって、温暖化している
という説もある。この説で言えば、原子力エネルギーも、石油などの化石燃料によるエネルギーも
温暖化に対する影響はまったく同じだということになる。
またある説では、地球は長い周期で寒冷化と温暖化を繰り返しており、その周期の中での温暖化
であって二酸化炭素とは関係ないという説、など諸説ある。今は二酸化炭素の排出を悪者にして
報道しているが、本当にそれは断定して言えることなのかと、疑問に思うのである。
例えば福島原発の放射能汚染の問題、
今は放射能の人体に対する影響の度合いのデーターが整っていない。だから自治体や焼却施設
などでは、どう対処するかで右往左往している。そんな状況をマスコミが煽り住民を不安がらせる。
日本は広島と長崎で原爆を経験した。その時の死亡原因は爆風が50%熱線が30%で放射線は
20%と言われている。私の友人は広島の爆心地から40kmの所で1歳の時に被爆した。そして、
高校卒業までその地で暮らしていたが、周りの友人も被爆による障害は聞いたことがないという。
日本は世界で一番多くの被爆者がいる国である。これだけ多くの被爆体験者がいる日本で人体の
影響度のちゃんとしたデーターが揃っていないということは、反対に考えれば被爆による影響度は
言われているほど多くないのではないだろうかと思ってしまう。放射能という目に見えないがゆえに、
恐怖が増大するわけで、いつかは「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということになるように思う。
例えば遺伝子組み換え食品、
遺伝子をどう組み替えようがタンパク質はたんぱく質であり、それによって人間の遺伝子が損なわ
れたり、毒性を持つことはあり得ない。現在、遺伝子組換え作物の作付面積は年々増加していて、
2010年現在、全世界の大豆作付け面積の81%、トウモロコシの29%、になっているという。
そんな中で、遺伝子組換えの作物を食べたことで、なんらかの障害が報告されことがあるだろうか?
私の知る限りは1件もない。マイナスの科学的根拠もデーターもないのに、人工的な操作は危険だ
という先入観だけで不安がる。安心安全も度が過ぎればどんどん自分達の自由度を失うことになる。
例えば佐渡のトキ、
日本のトキは環境が大きく変わったことで絶滅したわけで、今さら江戸時代や明治大正の田舎の
環境に戻ることはない。しかも近親交配で繁殖したトキがその数を増やしていくとは考えられない。
これは一種の人間の懺悔の気持ちなのか、ノスタルジーなのであろう。大型哺乳類である人間が
地球にはびこれば、必然的に他の動物は安住の地を追われ生きづらくなり、絶滅の運命をたどる
ことは避けて通れないことである。だからと言って人間の方を切り捨てるわけにはいかないだろう。
例えば日本オオカミが絶滅したから、シベリアからオオカミを連れて来て北海道に放し、オオカミは
エゾ鹿を捕まえて生きていくだろう、と言う共存は成り立たない。結局人間と野生動物との共存は
叶わぬ夢なのである。人類が勢力が増すほど野生の世界はどんどん縮小されていく。そして人が
できることは動物園かサファリパークのように管理された中での種の保存しか無くなってしまう。
最近読んだ本にこんなことが書いてあった。
昔、殺虫剤に「DDT」というのがあった。(我々の子供の頃はこれを頭から振りかけられていたが)
1962年にレイチェル・カーソンが「沈黙の春」という本を出版し、農薬による自然破壊を警告した。
そしてそれは社会問題化し、「DDT」の製造禁止まで一気に進んでしまった。「DDT」というのは
極めて優れた殺虫剤で、昆虫の首のところにある神経細胞を選択的に破壊するもので、人間や
哺乳動物、鳥類などには影響なく、虫だけを殺すことのできる殺虫剤である。だから害虫の被害を
少なくするためには最強の方法だったわけである。
戦後開発されたこの「DDT」によって、ハマダラ蚊によって媒介されていたマラリアという病気は
アメリカやヨーロッパ、日本などの先進国ではほぼゼロになった。しかしその後製造中止になった
ため、撲滅が不完全だった開発途上国では、マラリアで毎年100万人から200万人の犠牲者を
出すに至ってしまった。皮肉なことに「DDT」による人間の健康被害は一例も報告されていない。
「沈黙の春」に書いてあることは「DDT」を使うことで野山の鳥が減った、と言うことである。昆虫が
死ねば当然それを餌にする鳥は他へ餌を求めていなくなる。果して何が正しかったのであろうか。
もう一つ、
1900年の後半頃にダイオキシンの報道が集中的になされ、大きな社会問題になったことがある。
当時「人間が作り出した史上最強の猛毒」とか「青酸カリやフグ毒より強い」とかまで言われていた。
日常でも温度が400℃から500℃、食塩がある中で可燃物を燃やすとダイオキシンが出るなどと
言われ、家庭での焚き火なども自治体によっては禁止された。その為、そのダイオキシンで各国は
膨大な予算をつけて毒性研究を行った。そして1999年にその結論がでた。それは「一般的には
毒性は認められるが、人間にはダイオキシンに対する防御が整っているので、毒物とは言えない」
という結果であった。結局は「シロ」だったわけである。
では、あのマスコミの大騒ぎは何だったのであろうか?そして「シロ」だったという報告は国民に広く
なされたのであろうか?考えてみれば焼却炉の清掃担当者や焼き鳥やのオヤジもダイオキシンに
晒されたいたわけで、彼らが真っ先に犠牲者になっていなければいけなかったわけである。
ダイオキシン騒動から15年、現在もしかしたらダイオキシンの影響ではないかと疑われているのは、
癌でも奇形児でもなく、女児を妊娠する割合が男児よりわずかに多くなる懸念であり、そのズレは
極めてわずかで、このズレを統計的なバラツキの範囲とも言われるぐらいである。
今のマスコミは物事を断定的に扱いすぎるのではないだろうか?ちゃんとしたデーターや根拠がなけ
れば、「科学的にはハッキリしていないけれど」という前提を付けるべきである。そして科学的な根拠
が出た段階で議論し、見直していく必要があるように思うのである。
追記
先日ある女性に「貴方は物事に動じず、いつも正論を言おうとしている。感情を抜きにした会話は
ある種殺伐としてしまい、相手との共感にはつながらないのではないか」、そんな風に言われた。
言われてみれば確かにそうなのであろう。感情を表に現さず、常に正しい判断をしようとしている。
「なぜそうなの?」と聞かれても、そうあることが正しいと思っているから、これはこれで仕方がない。
人は「正しいことを納得する」のではなく、「納得できることを正しい」とするそうである。そのことから
すれば、私は納得できることを探しているのであろう。今の世の中、主義主張や金や利権や打算で
物事が動いていく、そんな中にあって自分のスタンスを保っていくには自分が納得できることを正しい
とするしかないのである。そして私の納得がいく基準は論理立っていること、科学的根拠があること
なのだろう。今のマスコミの論調はどちらかと言えば、読者や視聴者の感情に訴えようとしている。
それは私にとっては正しい意見ではないのである。だから別の意見を探そうとする。そして、どちらの
方が自分にとって納得いくかを考えるわけである。周りの出来事に一喜一憂し、振り回されることは
自分の本意ではない。だから正面から受け止めようとせず斜(シャ)に構えている。そんな生き方が
習い性になって、喜怒哀楽が少なくなったのだろう。 これが、その女性への説明になるだろうか?