「さて今回はどうしよう?」 12月も中旬を過ぎると年賀状のことが気にかかる。
年賀状は小学校に行く頃、たどたどしい平仮名文字で従兄弟に書いたのが始めである。
それ以来、親戚、学校の友達、先生、就職してからの上司や同僚、取引の関係者等々、
だんだんその枚数は増えていった。就職してからは一気に枚数が増え職場が変わるごとに
新たな差し出し先を積み増していった。やはり職場における人間関係を、少しでも良くして
おこうという打算が働いたのであろう。しかし近年は徐々に枚数も落ち、落ち着いてきた。
それは自分の活動範囲が限定されてきて、交友関係の広がりがなくなってきたからだろう。
私は年賀状に対して自分の中で決めたルールがある。
それは自分の方からは「決して切らない」ということ。職場が離れ、どんなに疎遠になっても
相手から年賀状が来る間は出し続ける。しかし身近にいる人でも、相手から2年続けて
こなければ3年目からは出さないようにしている。年賀状はある種儀礼的な習慣である。
それを大切にする人にはそれを重んじ、そんなことはどうでも良く、面倒だと思う人に、
こちらから出し続けるのは相手に対して負担になると思うからである。
学校卒業後一度も会っていない地方の友人、会社を辞めて地方に帰って行った元同僚、
直接の関係がなくなった会社の取引関係の人達、結婚式以来会っていない親戚等々、
もう何十年と年賀状が往復している。そしてこれからも逢うことはないかもしれない人々、
実利的な人にとっては無駄なことなのかもしれない。しかし私にとっては自分の人生のある
時期を形作ってくれた大切な人達に思えるのである。普段思い出すことのない人達も
年に1度その人の住所と名前を見ると、当時のことを思い出し、その人の面影を思い出し、
生き生きしていた昔の自分自身を懐かしく思い出すのである。相手も出し続けているのは
同じような気持ちがあるのかも知れないと思う。多分このまま続き、どちらか鬼籍に入るまで
続くのではないだろう。
そして年賀状が往復しているもう一つの良さは、何時でも連絡をつけていいという許可証の
ようなものをも貰っているように思えることである。年賀状に住所や電話番号や携帯の番号、
最近はインターネットのアドレスまで書いてある。
彼の知っていることで教えてほしいことがある。彼のネットワークで紹介してほしい人がいる。
近くに行ったから逢ってみたい。昔の仲間で集まってみよう。なんらか連絡する用件があれば
躊躇することなく連絡できる。年賀状はそんな保険のような役割も持っているように思う。
多分ほとんどそのネットワークは使わないかもしれないが、それがあることに安心感はある。
毎年貰う年賀状は、人によりその様式はほとんど同じパターンで踏襲されているように思う。
家族の写真がプリントされているもの、干支の絵柄が変わるだけで文面はまったく同じもの、
その人らしい版画やイラストが印刷されているもの、毛筆で手書きのもの、等々まざまである。
私はサラリーマン時代は印刷したものを作り、親しい人には一言二言、添え書きをしていた。
しかし、還暦を迎えると、この味気ない年賀状を出し続けることに反省をするようになった。
何でもいい、自分のオリジナルな年賀状を出したいと思う。しかし悪筆で手書きは無理である。
版画やイラストを制作するセンスはない。市販品に頼ることなくオリジナル性を出すには
結局パソコンを使って制作するしかなかった。それで相手方の区分(親戚、友人、仕事関連)
別に自分の近況や周りの変化、自分の思いや希望、そんなことを織り込んで何パターンかの
文章を書き、それを出すようにしたのである。
年賀状は買った。「さて来年はどんな年賀状にしよう?」、もう1週間近くも考えているが、
まだ何のアイデアも浮かばない。元旦の配達は25日ごろまで投函にとか、後1週間である。
年の瀬を迎え世相も自分の周りも明るい話題は何もない。閉塞感に押しつぶされそうな
中で明るい話題を探すことは難しい。それでも、毎年年賀状をくれる人達にとって来年は
心から良い年であってほしいと思う。
年賀状は小学校に行く頃、たどたどしい平仮名文字で従兄弟に書いたのが始めである。
それ以来、親戚、学校の友達、先生、就職してからの上司や同僚、取引の関係者等々、
だんだんその枚数は増えていった。就職してからは一気に枚数が増え職場が変わるごとに
新たな差し出し先を積み増していった。やはり職場における人間関係を、少しでも良くして
おこうという打算が働いたのであろう。しかし近年は徐々に枚数も落ち、落ち着いてきた。
それは自分の活動範囲が限定されてきて、交友関係の広がりがなくなってきたからだろう。
私は年賀状に対して自分の中で決めたルールがある。
それは自分の方からは「決して切らない」ということ。職場が離れ、どんなに疎遠になっても
相手から年賀状が来る間は出し続ける。しかし身近にいる人でも、相手から2年続けて
こなければ3年目からは出さないようにしている。年賀状はある種儀礼的な習慣である。
それを大切にする人にはそれを重んじ、そんなことはどうでも良く、面倒だと思う人に、
こちらから出し続けるのは相手に対して負担になると思うからである。
学校卒業後一度も会っていない地方の友人、会社を辞めて地方に帰って行った元同僚、
直接の関係がなくなった会社の取引関係の人達、結婚式以来会っていない親戚等々、
もう何十年と年賀状が往復している。そしてこれからも逢うことはないかもしれない人々、
実利的な人にとっては無駄なことなのかもしれない。しかし私にとっては自分の人生のある
時期を形作ってくれた大切な人達に思えるのである。普段思い出すことのない人達も
年に1度その人の住所と名前を見ると、当時のことを思い出し、その人の面影を思い出し、
生き生きしていた昔の自分自身を懐かしく思い出すのである。相手も出し続けているのは
同じような気持ちがあるのかも知れないと思う。多分このまま続き、どちらか鬼籍に入るまで
続くのではないだろう。
そして年賀状が往復しているもう一つの良さは、何時でも連絡をつけていいという許可証の
ようなものをも貰っているように思えることである。年賀状に住所や電話番号や携帯の番号、
最近はインターネットのアドレスまで書いてある。
彼の知っていることで教えてほしいことがある。彼のネットワークで紹介してほしい人がいる。
近くに行ったから逢ってみたい。昔の仲間で集まってみよう。なんらか連絡する用件があれば
躊躇することなく連絡できる。年賀状はそんな保険のような役割も持っているように思う。
多分ほとんどそのネットワークは使わないかもしれないが、それがあることに安心感はある。
毎年貰う年賀状は、人によりその様式はほとんど同じパターンで踏襲されているように思う。
家族の写真がプリントされているもの、干支の絵柄が変わるだけで文面はまったく同じもの、
その人らしい版画やイラストが印刷されているもの、毛筆で手書きのもの、等々まざまである。
私はサラリーマン時代は印刷したものを作り、親しい人には一言二言、添え書きをしていた。
しかし、還暦を迎えると、この味気ない年賀状を出し続けることに反省をするようになった。
何でもいい、自分のオリジナルな年賀状を出したいと思う。しかし悪筆で手書きは無理である。
版画やイラストを制作するセンスはない。市販品に頼ることなくオリジナル性を出すには
結局パソコンを使って制作するしかなかった。それで相手方の区分(親戚、友人、仕事関連)
別に自分の近況や周りの変化、自分の思いや希望、そんなことを織り込んで何パターンかの
文章を書き、それを出すようにしたのである。
年賀状は買った。「さて来年はどんな年賀状にしよう?」、もう1週間近くも考えているが、
まだ何のアイデアも浮かばない。元旦の配達は25日ごろまで投函にとか、後1週間である。
年の瀬を迎え世相も自分の周りも明るい話題は何もない。閉塞感に押しつぶされそうな
中で明るい話題を探すことは難しい。それでも、毎年年賀状をくれる人達にとって来年は
心から良い年であってほしいと思う。