2月15日は藤川天神に向う途中で薩摩川内市樋脇町倉野地区にある笹嶺(ささみね)馬頭観音と、瀬戸(せど)大石塔を訪ねました。
笹嶺馬頭観音 薩摩川内市指定文化財

道路横の階段を10mほど上ります

鹿児島市から国道328号で入来峠を越え入来副田温泉を過ぎ、左折して県道333号、356号を進み旧倉野小学校を目指します。
小学校周辺が見え始めると道路左手に小さな案内看板があり左折、田んぼ道を100m程度進むと左上に見えます。坂道にはドングリが一杯落ちていて足元に注意しながら上りました。
観音様の正面

右側面

左側面

案内看板には次のように書かれています。
「馬頭観音は、人の煩悩を食べ尽くして救済する観音ですが、江戸時代以降、牛馬の安全と増産や死んだ家畜の供養などの信仰の対象として、一般に広がリました。他の観音と違い、憤怒の表情で、馬を頭上にいただいているのが特徴です。
この像は、三面八臂(顔が三面、手が八本)で彩色が施され、その精巧な彫刻技法は驚<べきものがあり、美術工芸的な観賞価値も認められます。手法から江戸時代のものとみられますが、作者は不明です。」
手が八本と書かれていますが、右側は3本しか判りませんでした。鹿児島は明治初期の廃仏毀釈が激しく、殆どのお寺、仏像、石仏などが打ち壊されていますが、この観音様は全く無傷に思えました。彩色が施され、きれいなお姿です。
上に行けるような山の斜面

後から判ったのですが、瀬戸(せど)の大石塔はこの上の雑木山に立っていました。昔は子供たちの格好の遊びだったことでしょう。
瀬戸の大石塔 案内標柱 ブロック塀の先端部から上がる

ここは初めて訪れる場所です。石塔は広い場所にあると思い先に進むと廃屋と苔むした車がありゴミが散乱した荒地でした。周辺を見ると斜面にロープが張られていました。訪れる人は殆どないのでしょう、落葉が厚く積もり足元がもろい感じでした。20m程度上がるとすぐに石塔が見えました。
大石塔

石塔の形はよく見かけるもので、高さは2m程度。横には長方体の石柱もありましたがいずれも風化が進み苔むして文字らしきものは見えませんでした。礎石の横には小さな石塔頂部のようなものが2個と湯のみ茶碗が一つだけ置かれていました。
案内標柱の側面には次のように書かれていました。
「養老四年(720)大伴旅人率いる隼人征討軍は船で川内川を遡行、倉野渡瀬(わたりせ)(船着場)に上陸し祢地原(ねじはら)(現在の柳原)を通り討伐に向かったという。渡瀬はここから北西八〇〇mの位置にあり、この直下の道路が祢地原に通じる昔の道である。
征討軍は炎暑と熱病によって数千の兵が斃(たお)れたと『続日本紀』に記されていることなどから、この大五輪塔は戦病死したこれら将兵の供養塔ではないかと推定している郷土史家もいる。
馬頭観音よりもずっと古いもののようです。文字などが残っていたら史跡としての価値もあるのでしょうが惜しいことです。川内川や周辺の田んぼを見渡せるような場所ですが、雑木が茂り見晴らしは利きません。
周辺の林と石積み

大石塔は期待はずれでしたが、周辺の雑木山や石積みは歴史を感じさせるパワースポットみたいな雰囲気が漂い興味深いものがありました。川内川近くには倉野磨崖仏、梵字、六地蔵塔もあります。こちらは道路のすぐ横に見えていて判りやすい場所です。
笹嶺馬頭観音 薩摩川内市指定文化財

道路横の階段を10mほど上ります

鹿児島市から国道328号で入来峠を越え入来副田温泉を過ぎ、左折して県道333号、356号を進み旧倉野小学校を目指します。
小学校周辺が見え始めると道路左手に小さな案内看板があり左折、田んぼ道を100m程度進むと左上に見えます。坂道にはドングリが一杯落ちていて足元に注意しながら上りました。
観音様の正面

右側面

左側面

案内看板には次のように書かれています。
「馬頭観音は、人の煩悩を食べ尽くして救済する観音ですが、江戸時代以降、牛馬の安全と増産や死んだ家畜の供養などの信仰の対象として、一般に広がリました。他の観音と違い、憤怒の表情で、馬を頭上にいただいているのが特徴です。
この像は、三面八臂(顔が三面、手が八本)で彩色が施され、その精巧な彫刻技法は驚<べきものがあり、美術工芸的な観賞価値も認められます。手法から江戸時代のものとみられますが、作者は不明です。」
手が八本と書かれていますが、右側は3本しか判りませんでした。鹿児島は明治初期の廃仏毀釈が激しく、殆どのお寺、仏像、石仏などが打ち壊されていますが、この観音様は全く無傷に思えました。彩色が施され、きれいなお姿です。
上に行けるような山の斜面

後から判ったのですが、瀬戸(せど)の大石塔はこの上の雑木山に立っていました。昔は子供たちの格好の遊びだったことでしょう。
瀬戸の大石塔 案内標柱 ブロック塀の先端部から上がる

ここは初めて訪れる場所です。石塔は広い場所にあると思い先に進むと廃屋と苔むした車がありゴミが散乱した荒地でした。周辺を見ると斜面にロープが張られていました。訪れる人は殆どないのでしょう、落葉が厚く積もり足元がもろい感じでした。20m程度上がるとすぐに石塔が見えました。
大石塔

石塔の形はよく見かけるもので、高さは2m程度。横には長方体の石柱もありましたがいずれも風化が進み苔むして文字らしきものは見えませんでした。礎石の横には小さな石塔頂部のようなものが2個と湯のみ茶碗が一つだけ置かれていました。
案内標柱の側面には次のように書かれていました。
「養老四年(720)大伴旅人率いる隼人征討軍は船で川内川を遡行、倉野渡瀬(わたりせ)(船着場)に上陸し祢地原(ねじはら)(現在の柳原)を通り討伐に向かったという。渡瀬はここから北西八〇〇mの位置にあり、この直下の道路が祢地原に通じる昔の道である。
征討軍は炎暑と熱病によって数千の兵が斃(たお)れたと『続日本紀』に記されていることなどから、この大五輪塔は戦病死したこれら将兵の供養塔ではないかと推定している郷土史家もいる。
馬頭観音よりもずっと古いもののようです。文字などが残っていたら史跡としての価値もあるのでしょうが惜しいことです。川内川や周辺の田んぼを見渡せるような場所ですが、雑木が茂り見晴らしは利きません。
周辺の林と石積み

大石塔は期待はずれでしたが、周辺の雑木山や石積みは歴史を感じさせるパワースポットみたいな雰囲気が漂い興味深いものがありました。川内川近くには倉野磨崖仏、梵字、六地蔵塔もあります。こちらは道路のすぐ横に見えていて判りやすい場所です。