龍の尾亭<survivalではなくlive>版

いわきFCのファンです。
いわきFCの応援とキャンプ、それに読書の日々をメモしています。

私が書いてみてもしょうがないんだけれど。

2015年03月18日 01時19分54秒 | 大震災の中で
三原じゅん子とかいう国会議員が

「八紘一宇」(一発で変換された!)
について、次のように発言したという。

 「日本が建国以来、大切にしてきた価値観『八紘一宇』。八紘一宇の理念のもとに、世界が一つの家族のように、むつみ合い、助け合えるように、そんな経済及び、税の仕組みを運用していくことを確認する崇高な政治的合意文書のようなものを、安倍総理こそがイニシアチブを取って、世界中に提案していくべきだ」(自民党・三原じゅん子参院議員)

ソースはこちら
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2446997.html


私がブログで書いても仕方がないと思うけれど、書いておかなければ気が済まないので、止むを得ず書く。

「八紘一宇」を辞書で引くと大辞林にはこうある。

引用開始------
はっこういちう —くわう— 6【八紘一宇】〔日本書紀「掩二八紘一而為レ宇」より〕
天下を一つの家のようにすること。第二次大戦中,大東亜共栄圏の建設を意味し,日本の海外侵略を正当化するスローガンとして用いられた。
大辞林 第三版
引用終了------

国会議員がこれを正式なところで主張するということは、まあ国語辞典に載っているスタンダードな物の見方に沿っていえば、
この議員は

「日本の海外侵略を正当化」

している、と解釈可能だ。

もしかするとこの議員はあまりにも無知なだけなのかもしれない。

従って主観的には「歴史修正主義」的な解釈じゃない、とでも思っているのかもしれない。
そしてあるいは誰かバカの上手な「使い手」に助言されているのかもしれない。

しかし、いくらなんでもこりゃ国民に対してすら失礼だろう。どれだけ私たちを危ない目に合わせたいのか。

この不用意な発言では、日本の常識に照らしてすら、侵略戦争を肯定している、というロジックが成立してしまう。

いまさら現政権の思想のインチキ臭さやひどさをいちいち書くつもりもないが、これはちょっとあんまりじゃないか。

これで政治的に「得をする」人について、シミジミ考えざるを得ない。

一体誰が得をするんだろう?

田舎芝居じみたヤクザの威しや警察の尋問ペアのように、しばらくの間ひどいことはバカに言わせておいて、その後で美味しいところを取ろう、というヒトがいるのだろうか。
せめてそうであって欲しいとすら考えてしまう自分に「自己憐憫」を抱いてしまいそうだ……。

それにしても筋が悪い。

日本がロシアや中国のような「陣取りゲーム」のプレイヤーになるのは勘弁して欲しい。この言葉は、かつて「陣取りゲーム」(帝国主義)を正当化したマジックワードという面を持っていた。

アメリカ的な「正義」フィクションもどうかと思うけれど、せめて「正統性」への配慮はあるよね。

憲法も、辞書も、ないがしろにしておいて、まるでできの悪い西部劇でてもあるかのように、
「私が法律だ」
みたいなことをされても挨拶に困る。

「八紘一宇」という言葉は、大日本帝国が日本の侵略戦争を正当化する論理として用いた経緯があるのだから、使い方には注意が必要な言葉に決まっている。

そんな言葉を、なんの説明もエクスキューズもなしに敢えていきなり「三原某」に語らせてせているのなら、かなり悪質なやり方だし、「三原某」が本当に自分で勝手にその辺から掘り出してきたのだとすれば、子供が銃をもてあそぶようなものだ。

危険水域を越えて広がる「バカ」な振る舞いは、もはや確信犯、と呼んでいいのかどうかすら怪しい。むしろ「病気」、もしくは精神分析の対象と呼ぶべきか。




スマホを買おうと思ったのに、SIMを買ってしまった(笑)。

2015年03月17日 19時41分48秒 | ガジェット


先週からスマホを買おうとしているのに、別なものばかり手にしてしまう(苦笑)。


ここ2週間ぐらい、Ascend mate7 購入を巡って心が揺れているのに、一昨日はIiyamaの23インチピボットモニタを買ってしまったし、今日は、IIJの格安SIMを購入してしまった。


今日は格安SIM変更のお話。

買ったのは、

IIJmio SMS付きSIM2GB 税抜き1,040円/月。

昨年半ばから

BIGLOBEの5GBライトSプラン税抜き1,505円/月

を使っていたのだが、3日で600MBを越えると速度制限がかかるのに、その間も高速通信分を消費するBIGLOBEに釈然としないものを感じていたこともあり、またBIGLOBEの速度がどの記事を見ても遅いということにがっかりもしていた。


他方、Jmioは2ギガ使えるという高速通信のオンオフができ、低速でいいときには高速の通信を無駄遣いせずに止めて置くことができる。

しかも4月からお値段据え置きで1GB高速通信分が増えるという。

そんなこんなで試しに使ってみようと思ったのだ。

月末までのBIGLOBE & IIJmioの二枚使いをすることにしたので、どんな速度なのか、使い勝手の実際はどうなのか、いずれ報告したいと思う。

それにしても、6インチスマホを買いたいという欲望は、どうして成就しないのか?

これが20歳代だったら、間違いなく購入していただろう。

年を取ると、衝動に瞬発力がなくなるということだろうか。

しかし一方、次々に対象をあたかも「表現形」のように取っ替え引っ替え「交換」=「消費」していくことをせずに済むようになったともいえるかもしれない。

自分の欲望のありようを見定めながら、本当に欲しいもの(そんなものはない、と言われてしまいそうだけれど)を探せるようになってきた、といってみたい気もする。

まあ、家電店や通販サイトをうろついてないで、もっと落ち着いて本でも読めって話なんですがね。



iPhone6plusの大きさがアリならAscendMATE7。

2015年03月16日 07時54分02秒 | ガジェット
6inch、この大きさが「アリ」なら、
値段と質感、スペックを含めて、ファーウェイの

AscendMATE7

が現時点でのベストだと思う。
あとは、いつ買うか。

もしくは考慮中にコレを越えるものが出てくるか。
でもまあ、nexus6にしてもiPhone6plusにしても、galaxyにしても、しばらくはお値段的に無理でしょう。

今年のSIMフリースマホの戦いは、主として5インチ以下で展開するのでは?

にしても、LTEテザリングに特化した4inch大容量バッテリースマホ、とか、ないよねえ(笑)

一つヨドバシの店員さんから提案をうけたのは、2万円以下でLTE対応スマホ

freetelのpriori2LTE

が出てきたから、その電池パックを二つにしてテザリング1日持たせるのも可能では?というお話。考慮する価値あり、かな。

Ascend mate7を買いに行ってIiyamaのピボットモニタを買ってきた(笑)

2015年03月15日 21時43分38秒 | ガジェット
今日、ヨドバシカメラ郡山店に言ってきました。
お目当てはもちろん
ファーウェイ製の6インチフラッグシップスマホ(ファブレットに近い?)、

Ascend mate7

です。ヨドバシカメラ郡山店は、駅ビルの南から、駅前の元西武デパート(古い!)が入っていたビルに転居していました。
入ってみると、スマホ売り場に関して言えば先週末行った秋葉原の店舗とほぼ同じような感じ。「SIMフリースマホはありますか?」と尋ねたところ、「もちろんです!」という感じで(笑)案内してくれました。

人気のZenfone5、発売直前のVAIOphone、ファーウェイの人気機種
Ascend G620s,Ascend mate7、なども揃っていて、なかなかやる気に溢れていました。

あれこれ商品を見ている時、2,3分一人でいると必ず店員さんが声をかけてくれて、いろんな提案をしてくれます。

それぞれインセンティブやモチベーションがちがうのでしょう、様々な角度からいろんな商品を勧めてくれるので(笑)、勉強になります。

ただ、開店直後ということもあってか、店員さんの数の方がお客よりも多く、ともすると、補導員にしょっちゅう声をかけられて、まるで万引き惧犯行為をとがめられている少年のような気分になってきました。

結論は、ファーウェイのAscend mate7恐るべし、でした。SIMフリーでこれだけのスペックと質感で5万円で買えるのはこれだけでしょう。これと比較すると、Nexus6もiPhone6plusも、有り得ないほど高いですよねえ。二年縛りでなんだか割り引きされた気分にはなるけれど、ソフトバンクが参入した数年前とは違い、端末とSIMが分けられる子とはとっても市場にとってとてもプラスだと思う。
そういう意味でもVAIOのスマホよりファーウェイの

Ascend mate7

に、むしろ市場を作るぞ!という気概を見た思いがします。

ちなみに今使っている6.4インチファブレットのXperiaZultraは、上着の内ポケットには入るものの、ズボンのポケットは絶対無理。

今更ながら微妙な選択をしちゃったなあ、と感じつつ、結局Ascend mate7の前でぐずぐずしていたら、4人の店員さんに声かけられちゃいました。
で、結局買ったのはIiyamaの縦横回転可能な23インチモニタ(爆笑)。
自分でも意味が分かりません。でも、たぶん四人もの人にいろいろ勧められて、むしろ買えなくなっちゃったんだと思う。

考えてみたら、持ち歩きする機器より、家で裁断した自炊本のPDFを快適に見ることの方が先決でした。というわけで、シムフリースマホは先週末に引き続き今週末も空振りでした。

今年はさらにいろいろなところからシムフリータブレットやスマホが出てくるはず。ファーウェイのAscend mate7 をベンチマークとしながら、さらに検討していきます。
(といいつつ来週あたり購入していたりして)




Ascend mate7にしようと思う。

2015年03月14日 22時46分26秒 | ガジェット
今この文章はNexus7にBluetoothキーボードを接続して書いている。
タブレットのフタにもなるというコンパクトなキーボードだ。
Bluetoothの認識にいつも数分ほどかかり、毎回
「壊れたんじゃなかろうか」
と心配するのだが、結構しぶとく生き残っている(笑)。

この8ヶ月、BIGLOBEの格安シムをSONYのXperiaZ Ultraに入れ、それを母艦としてテザリングしてきた。

iPhone5+XperiaZUltra+Nexus7+充電用電池

の4つをほぼ常に持ち歩いていたことになる。

1,ポケットにいれるにはiPhoneが必要。
2,SIMを入れるにはXperiaZUltraが必要。
3,単行本の裁断PDFを読むにはNexus7が必要。

4,それらを格安SIMとテザリングでつなぐにはバッテリーが必須。

というわけだ。
iPhone5がソフトバンクのSIMしかうけつけない。
そしてフリーSIMを入れられるのはXperiaだけ。
6.4インチもある「Wi-Fiルーター」というのはあり得ないわけだし、かといってSIMをコンパクトなルーターに指すと、結局

ルーター+iPhone+XperiaZUltra(もしくはNexus7)+バッテリー

ということになって、別に荷物が減ったことにならないのだ。

SIMフリースマホを入手すれば、少なくても3年落ちのiPhone5を持ち運びしなくても済むし、電池容量さえ大丈夫なら、持ち歩きは

スマホ+タブレット

の2台で済むはずだ。というわけで、電池容量が大きいことが一番の条件となる。
Ascend mate7
にしようと思うのはそのあたりが大きい理由だ。

明日あたりヨドバシあたりに買いに行こうかと思うが、どうなることやら。久しぶりに物欲にとりつかれている。

Zenfone 5か Ascend Mate7か。悩むSIMフリースマホの選択

2015年03月13日 23時25分56秒 | ガジェット
SIMフリースマホやタブレットの宣伝やレビューがネットを賑わせている。
先週末、六本木で夕方から結婚式があったので、早めに出かけて秋葉原をウロウロしてみた。

相変わらず大手家電店でメインに売っているのは(看板や売り場の大きさでいえば、ということだが)大手キャリアの端末だが、SIMフリースマホも4番目の地位を確立しつつあるという印象を受けた。

端末で目を引いたのは

Zenfone 5(ASUS)

だ。店員の人に聞いても「売れてます!」と元気がよい。手頃な価格(16Gなら30,000円を切る値段)、LTE対応、画面も5インチ、そして手に取った質感も悪くない。

もう一つ気になったのは

「Ascend G6」「Ascend P7」「Ascend Mate7」

などの Huawei(ファーウェイ)の製品だ。mateの実機はなかったが、P7,G6などを触れた印象も悪くない。
ネットでの比較記事

を見ても納得。触ってみても質感はかなりよい。

中でも、値段は高いが

Ascend Mate7

は、中級機種の Zenfone 5とは違う魅力がある。
6インチで電池が4100mAhもあるのだから、ファブレットと呼ばれていた範囲に近いのだろう。テザリングに使うなら、このぐらい電池があると安心だ。

Zenfone5 約30,000円
(5インチ145グラム2110mAh)

Ascend Mate7 約50,000円
(6インチ185グラム4100mAh)

が候補になる。

もう一つ候補になるとすれば、電池の保ちで

ARROWS M01(富士通)

かもしれない。
スペックは平凡で値段も高め(36,000円程度?)だが、電池の保ちはよいらしいし、本体も持ち歩きやすい大きさだ。



ちなみに今使っているのは
SONY XperiaZ Ultra 約33,000 円
(6.4インチ220グラム3050mAh)


iPhone5
(4インチ112グラム1440mAh)

iPhone5はソフトバンクのSIMを解約したのでWi-Fi用端末。Wi-Fiルーターなしには使えない。三年経って飽きてもきた(笑)


SONY XperiaZ Ultraは なかなか面白い機種で明らかにニッチな存在だ。

どうしても1台で済ますなら、これだろう、と今でも思う。
ただ、7 カ月使ってみると、薄型大画面だけに電池の保ちが悪い。
テザリングの「親機」として使おうとするなら、どうしても毎日充電器を持ち歩くことが必須だ。
そしてポケットに入れるにはいかにもデカい。バッグを持てない状況では非常に困ってしまう。

ほかには

Nexus7(2013)
( 7インチ330グラム3950mAh)

を持っているのだが、これは読書用に最適な大きさだ。裁断したPDFを読むのには、これが必要。電池の保ちも圧倒的に良い。

とすると私の場合、Wi-Fi版Nexus7と併用するSIMフリースマホは何か、といえば

Ascend Mate7

になるような気がする。

筐体が大きすぎますかね?

でも、小さいスマホはLTEの対応も少ないし、電池も小さくて当然だし。

Zenfon5のコスパとの比較かな。



こういうものは一台しか持っていないならそれで我慢すればいい。

多少不便でも済ませられる。

そういえばちょっと前までは、平気でノート型パソコンを持ち歩いていたのだ。

だが、持ち運べる端末が増えると悩みも増える。

さて、どうしましょうかね。





追悼 渡邊新二

2015年03月09日 20時29分27秒 | 今日の日記
別のところに書いた原稿がボツになったので、こちらに上げておきます。
知り合って3年半。その間何度会っただろうか。
決して長くもなければそんなに親しくもなかったはずなのに、彼がガンで亡くなったことを知ったとき、古くからの友人を喪ったような深い喪失感に襲われるのを止めることができなかった。

人にはそういう不思議な出会いがある。そんなことを教えてくれたのが、彼だったのだ。

以下、その原稿です。
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「日々の新聞」1月15日号で追悼記事が掲載された渡邊新二さんのことをもう少し書いておきたい。

 彼のお通夜に九州から弔辞が届いた。そこには、渡邊さん自身が死の直前であるにもかかわらず、遠くにいる友人を気遣い、自分の病状を伝えるかどうか逡巡しつつもついに言葉にしないまま終わった、というエピソードが綴られていた。細やかな感性・感情を持ち、同時に理性的に振る舞おうと努めるその姿勢は、ワーグナーを聴きながら穏やかに最期を迎えたという追悼記事にも重なるものだった。

 私がどうしてもそこに付け加えておきたいのは、渡邊さんの「直観」についてである。

 17世紀の哲学者スピノザは、人間の認識を3つに分けて論じている。まず感情による第一種認識を挙げ、これは概ね偏見を招くと述べる。次に理性に基づく第二種認識があるといい、当然感情よりこ理性の方を重視する。だが注目すべきは、理性が一番ではなく、その先に第三種認識として「直観」を挙げている点だ。それは第一印象に依る直感とは違う。自然の摂理と響き合って全てを一挙に的確に捉え、それを自ら至福として楽しむことのできる認識こそが「直観」だとスピノザはいう。

 仕事でお世話になって以来時々お会いする機会があったのだが、渡邊さんはいつも楽しげに政治・経済・文学・科学などの話題を縦横無尽に語り、倦むことがなかった。シャイで小さめな声とはうらはらの、美しい音楽にも似た明晰な言説を聞くたび「これがスピノザの『直観』か」と私は一人で納得していた。

 できれば一度スピノザについてゆっくり話がしたかった。彼の知性から溢れ出てくるクリアな観念の連鎖は、「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である」というスピノザの主著『エチカ』の結語を彷彿とさせる。そこには何者にも隷属しない精神の自由が確かに存在していた。ご冥福をお祈りしつつ、彼の「精神」は「永遠の相の下で」常に私たちと共にあることを心に刻んでおかねばならない。

 そんな風に思った。

 最後に彼と話をしたのは、去年の初夏のころだっただろうか。
私の家族にガンが見つかって、セカンドオピニオンの取り方や、今後のこと、がんセンターについて、などを新二さんに教えてもらった。
 ガンに関するアメリカの最新論文などにも目を通し、柏のがんセンターに通いつつ、その治療の詳細や治験薬についても相当調べて詳しく知っている様子だった。そのときはやはり二時間ほどしゃべっただろうか。淡々と、しかし淀みなく途切れずに圧倒的な知識が溢れてくる、穏やかな話しぶりは変わりがなかった。

「新しい世代の治療薬は、根絶するというより、押さえながら生活の質を高めるという性質だね。ただ、いつまでも効いているというわけでもないんだよ。あるときに効かなくなると、爆発的に増殖することもある。だから、そうなるとそこでまた別の薬を考えなければならないのかな……。色つやがいい?そう、消化器系じゃなければガンもそんなにやせたりしないんだよね。」

 最後の会話の内容が、病気のことだったのが残念だ。もっといろいろな話題を聞いてみたかった。
 第一、彼の人生がどれほど波乱に満ちたものだったのか、まだアメリカ留学でMBAを取得し、ドイツの大学で政治学を学びつつフランスにも「留学」したところまでしか聞いていない。

 葬儀の夜、地元のバイウィークリー紙「日々の新聞」に渡邊新二追悼記事が掲載され、それがテーブルに置かれてあった。

その記事はこちら「鎮魂歌(レクイエム)」。

帰国してから司法書士の資格をとり、市議になってから県議に挑戦した、そのあたりのことを聞けなかったのも心残りだ。政治を語るときのさりげない語り口と、それでも生き生きした雰囲気が彼の「力能(りきのう)」をもっともよく示していたと感じられただけに。

病室でワーグナーを大音量でかけて、周りの人がちょっと困った、という話も聞いたが、彼らしい話だ。

 きっと、「普通の人」からみたら「頭の良い変な人」だったのかもしれない、と思う。彼ほどの頭脳はあいにく持ち合わせていないが、他人事には思えないところがある。これからも

「彼ならこの事象をどう考えるのかな」

とつい思い浮かべてしまう、そんな種類の人だ。

もっと早く会いたかった。
もっと話をしたかった。

大切な人のことは、誰でもそう思うのかもしれないけれど、特別な意味を持つ友人であり先輩だった。
新二さんは別にそんなことを意に介さないのかもしれないけれど。






平田オリザコメント(いわき市の実情を描いたディスカッション演劇プログラム)

2015年03月04日 13時19分28秒 | 大震災の中で
平田オリザプロデュースの、演劇プログラムの公演を観に行ってきた。

NHK未来塾の公演 
~いわき市の実情を描いたディスカッション演劇~
2015.03.02於:いわき総合高校 演劇2本とトークセッション



いろいろ考えさせられた、といえばそれで終わってしまいそうだが、ちょっとだけ粘って思考の軌跡を記録しておきたい。
まず、記憶を頼りに平田オリザさんのコメントの意図を再現してみます(そのままじゃありません。あくまでメモ程度です。あしからず)

☆平田さんのコメント1

もっとオブラートに包まずに描いてほしい、最後に方向性(希望)を出してほしい、お金を取る芝居として考えるとどうなるのか、などの意見や質問を踏まえてのお話。




まず最初に「彼らにはテーマは設定しなくていい」と言ってある。
芝居を実際見たのがはじめてというかたも多くいると思うが、これは、基本的になにかこちらでメッセージがあってそれを伝えてみなさんに納得してもらうものではなく、考えるきっかけにしたり、帰り道にあれはこうだったんじゃないか、などとと議論してもらうためのもの。

今回やってきたのは、ある一定期間内に10分とか15分ぐらいのお芝居をチームで作るという大学生とか、演劇を志す人たちのためのプログラム。

これはその作る過程自体に意味がある。

お金を取ってやるものではない。
お金をとってやるなら、一人で書いて一人で演出した方がクオリティは上がる。

このプログラムはそうではない。
創作の過程でみんながものすごく苦しんで、しかも演劇というのは一定時間経つと幕が上がってしまう、本番が始まる、それまでにできる最善の答えを出して行かなければならない、それを体験するもの。
これはある意味では、芝居を一緒に見たみなさんが今ここでやっているこの話し合いと同じことだ。

それをを作る過程でやってきたわけ。
だからたぶんみなさんにとってもリアルに感じてもらえたのではないか。

このプログラム自体に意味があるので、できたものをお金を取るということではない。

もう一つ答えとしては、ずーっと彼らに言ってきたことだが、プロの作品だったらば、もっと冷酷に、もっと冷静に福島とかいわきとか双葉郡とかの現状に向き合ってもっと意地悪にならないといけない。

それは大変なことで、それは芸術家が一人でやる作業。
それはまたちょっと別のものと考えた方がいい。

☆平田さんのコメント2

演劇それ自体というより、観客を巻き込んで対話する空間になっている。それは意図したことだろうが、どういう意図なのか、という質問に対して、




もちろん、最初からそういう意図でやっている。
これは教育プログラムで、大阪大学の授業で実施しているもの。
(欧米などの大学では)演劇をやっていない人を対象にやっているプログラムでもある。

もう少し解説をしておくと、ドラマと言うのは全員が同じ行動をとってはドラマにならない。
たとえばここで誰か一人が急病で倒れたとする。

みなさんどうしますか?

だいたい救急車呼ぶかなにか事件性があれば警察を呼とか、するだろう

隠すっていう人はいない。「もう絶対これ隠す」とかね。それはおそらく、ない。
もし隠すなら、隠すなりの事情がないといけない。

だから、何か事件が起こったからドラマになるというわけではない。

ある事件が起きたときに、共同体の中で、いろんな人がいて、いろんな人がバラバラな意見になるような事件が起きないとダメ。

(授業などでは)よく忠臣蔵に例える。

忠臣蔵の時、赤穂藩には300人ぐらい侍がいた。
関ヶ原からもう100年、完全にサラリーマン化している。

だからそこではずっとおしゃべりばっかりしていた。小さな藩の中で。

このおしゃべりをは、カンバセーション=会話という。
会話ばっかりしてた。
会話だけだとお芝居にならない。

ところが、ある時藩が潰される、という大きな運命に全員が直面する。
そのときにみんな自分でも思ってもいなかった価値観が表にあらわれることになる。

「殿が死んだから切腹だ」
「城に立て籠もる」
「討ち入りだ」
「いやちょっとうちは家族がいるからお金をもらって再就職する」
ETC.
いろんな意見が出ることによって、会話から対話=ダイアローグが起ってくる。

演劇には、対話が起こることが必要。

要するに演劇というのは作る過程においても、作品においても、ダイアローグ(対話)っていうものがどうしても必要になってくる。

そのダイアローグの手法を学んでもらうことが、演劇のプログラムとしての一番のポイント。

もうここまで聞いていただければおわかりのように、福島県、とくに相双地区はまさにそういう大きな運命、しかも価値観はものすごく分かれちゃうような事態に直面した。

だれも、あの原発があの状態になって、しかも微妙な状況。

(不謹慎な話かもしれないが)仮にもっとチェルノブイリみたいな大惨事だったら、みんな逃げる。
だが、今福島が抱えている問題は「よく分からない」。
みんなちょっとずつ違う。

住んでいる場所が500メートル違うだけで受け取るお金が全然違う。

津波で家が流された人と原発で避難した人とのお金が全然違う。

そんなことが起こると、誰も日本人の誰一人考えていなかった。
それが起こったわけです。

イスカンダルからヤマトが放射能除去装置を持ってきてはくれない。簡単な解決はない。

だからこそ、今もずっとみなさんは対話せざるを得ない状態が続いているということ。


(今回演劇をつくってくれたメンバーは)高校生もいるが、大学の学生たちが中心。ですが、これから福島を背負っていかないといけない学生たちだ。
彼らに一番必要なのは、対話力だろう。

はっきりした答えは出ないんだけれども、いろんな価値観を持った人が集まって、一定期間内に何か結論を出していかなければならない。そして前に進んでいかなければならない。そういう時に、今日やったような対話力をつけるプログラムが有効だと思います。

ちなみに、ふたば未来学園で、この四月から一年生からこのプログラムをほぼ毎週やらせていただく。

(以上、平田オリザさんのコメントまとめ)

様々なドゥルーズ(國分×千葉対談)再掲載

2015年03月02日 12時57分06秒 | メディア日記
これも、ブログの引っ越しで読めなくなってしまったので再掲載します。
これは三年前の対談なのかな?でも、この二人とドゥルーズに関心があるかたには便利かと。
もちろん間違いだらけの私的メモです。くれぐれも念の為。


『様々なドゥルーズ 國分功一郎×千葉雅也』(1)イントロダクション

2012/03/19 23:50:00



イントロダクション3/17新宿朝日カルチャーセンターで行われた講座の受講メモです。内容は必ずしも保証できません。あくまで忘備録的メモとして。

1,國分氏によるイントロダクション-------------------------國分氏千葉氏は1月に博士論文を東大に提出したばかり。國分氏は『思想』にドゥルーズ論を連載中(第2回が5月号掲載予定?) ドゥルーズは1925年フランス生まれ。50年代~60年代に有名になり、世界中でポストモダン(ポスト構造主義)の一派と呼ばれていた。 日本での紹介は浅田彰の『逃走論』。それは間違いなく社会現象であり、デファクトスタンダード(千葉)でもある。 その中の今村仁司と浅田彰の対談を見ても、当時としては(軽やかな側面を強調した嫌いはあるにしても)なかなかの水準の紹介だったと評価すべき、とざっくりとした確認。 つぎに、映画を見たい。 
「アベセデール・デ・ドゥルーズ」
(アルテチャンネルという仏の放送局で放送→ビデオ化→2004にDVD化)  

アルファベット=単語を提示されて、それについて答える形式。以下ドゥルーズの語りを國分氏が同時訳。ドゥルーズ「ふだんはこういうこと(準備をあまりせずにインタをうけること)はしない。救いはこのインタは封印され、死後にのみ公開されることだ。アーカイブになったようなものだ。純粋な精神になってしまったようなものだ」 

A animal(動物)インタビュアー「ペットは嫌いですよね。ノミ・ダニばっかり話してますよね」「イヌよりネコの方がいいっていってますよね。」ドゥルーズ「(省略)→この部分はYouTubeにあるので、アベセデール・デ・ドゥルーズで検索を」

B boisson(飲み物)インタビュアー「よく飲みましたよね。そして止めましたよね」ドゥルーズ「アル中だった。飲むって量の問題なんだ。(食べ物は量の問題ではない)。よく人はアル中を馬鹿にする。『止められるよといいつつやりつづけていて飲み続ける。意味が分からない』と。(だが)飲んでいるときに人がたどりつきたいと思っているのは最後の一杯なんだ。そこにたどりつくためにあらゆることをするってことなんだ。」

○國分氏(解説) ここにはよくドゥルーズのありようが現れている。ここに沈潜しているということ。ドゥルーズは欲望を重視していた。にもかかわらず最後の一杯にたどり着きたいのだ。

C culture(文化)インタビュアー「あなたは教育がない人間だといってますね。仕事に役立つためでしかないといっていますね。他方毎土曜には展覧会・映画に行って努力している。それはプチパラドクスですね」ドゥルーズ「私はインテリが嫌いだ。教養あるものと出会うとすくみおびえてしまう。こわい。いやだ。知識人ってのはなんでも知っている。で、なぜ自分が『教養がない』というかというと、知識の蓄えがないからだ。発表しないものは何もない。どんなことを勉強するときも、何かこれこれのために、と勉強しているんだ。そして全部忘れてしまう。6年10年後にまたやろうとすると楽しいんだけど、忘れている。例外はあって、スピノザは暗記してる。けど、それは例外。 知識人はしゃべってるばっかで、きたない。書くことはキレイだ。 自分は確かに映画を観たり展覧会にいったりする。 私は待ち構えている。動物が獲物を待ち構えるように。自分は出会いを待っている。人ではない。人と会うと失望する。」

○國分氏(解説) モノと出会うということをプラティック(実践)としてドゥルーズは持っていた。 ドゥルーズは晩年フーコーとのやりとりで、フーコーが快楽を言うのに対して、それは中断だからダメだという。ドゥルーズは欲望をプロセスとしてとらえ、獲物を待ち構える契機を大切にしていた。  これが大事だと思う。 たしかに「ガタリ」との出会いはありますね。 でも、二人は会って話さない。 ガタリがドゥルーズに手紙を出し、その手紙をドゥルーズが読む。そして書く。 つまり、ドゥルーズは「ガタリになって」書いているのでは?(國分氏の仮説) 「書く」ことが(によって?)生成変化を求めることになっている。欲望のプロセスを作動してくれるものを待つ。(以上、國分氏の映画紹介)この項続きます。 





『様々なドゥルーズ 対談:國分功一郎×千葉雅也』講座メモ(2)


2012/03/20 06:44:00


2,展開(動かないドゥルーズ)

千葉(國分さんのドゥルーズは)ドゥルーズ単独の印象がある。
(かつて日本で受容されたドゥルーズの印象は)「ドゥルーズ=ガタリ」ユニットへの印象で、それ(國分さんのドゥルーズ)とは違う。

浅田彰が紹介したのはガタリが「入って」いる。ガタリはいわゆる「活動家」(政治的?と言う意味か foxydog注)。あちこち飛び回り権力を渡り歩いて展開していくタイプ。

國分「ドゥルーズはある種の独我論者だ」って浅田はいっている。


千葉 ドゥルーズは動かない。受動的、依存症、アディクション。そのことも含めて、80年代に(既に)捉えられていた(そういう意味でも浅田彰は時代を抜いていた)。しかし一方では、ドゥルーズは独特の耽美主義に陥る、ドゥルーズ=ガタリは生産的だ、という評価もあった。
(浅田彰がそう評価している、ということか?ちょっと不明foxydog注)。

数年前、國分さんと行ったシンポジウム「ドゥルーズの逆説的保守主義」でもそういう話が出たが、ドゥルーズがベケット論で指摘している「尽き果ててしまう、消尽してしまう」という批評表現のような側面が、ドゥルーズにもある。(そして実は)ドゥルーズ=ガタリのいわゆる躁状態の中にも、ドゥルーズの「だらけた身体」がある。「器官なき身体」とのかかわりがある。ドゥルーズは肺が悪かった。抗生物質耐性菌に罹患していた、いわゆる「結核の思想家」である。68年~69年にかけて博士論文の審査の時期に片肺摘出の手術を受けている。そのため、博士論文の審査は厳しく追及されなかった。時代が時代だから、いつ中断されるかも分からなかった(学生運動の季節だったため)ということもあったかもしれないが(笑)。身体が思うように動かない。意志や意図を持って身体を操作するのではなく、その統御(オーガナイズ=組織化)をはずれる。それは共通感覚の失調をもたらす。ドゥルーズは「欠如」より「疲労」に興味がある。だるーくなっていく。どちらかといえば(彼の言説は)鬱質の話ではないか。沈殿に逆説的クリエイティヴィティを見いだす、というような。

國分 ドゥルーズは「非主意主義」(ショウペンハウエルとは対極)。むしろ出会いによって自分の中から発動する。芸術至上主義的、詩的に構築するという意味ではアドルノ的では?ドゥルーズの独我論は自我もない。ちょうど「無人島」(ドゥルーズ自身の比喩?)にいると他者がいない、という意味で。他者を想定するからモノや世界がある、といえる。「自己が想定できる対象」を想定することができなくなると、自我もありえないし、主体もありえない。その結果、無人島にいる→無人島になる=自我なきBodyすなわち「器官なき身体」!(つまり)他者がいなくなると自我が島と一体化する。ドゥルーズはまた、自分の子供の頃のことを出発点としない。(子供の頃こういうことがあったから、的な精神分析的トラウマをエンジンにしないということか?foxydog)ドゥルーズの出発点は22、3歳の頃のディビッド・ヒューム論。ヒュームは一般には保守主義者と見なされているが、そこにラディカルなものをみていたヒューム、をドゥルーズは論じている。(この辺り、國分さんの連載中のドゥルーズ論のポイントの一つである「自由間接話法」との具体例としての関連も聞きたかったが聞けませんでしたfoxydog)ドゥルーズの「いかにして精神が主体になるかだ」という指摘。精神は観念のまとまり・あつまりであり、それがシステム化したとき初めて主体が生じるのだ。デカルトのコギトはそこで志向が止まっている。しかしヒュームはむしろ突き詰めてラディカルに考え抜く「経験論」だった。経験→習慣→主体の生成つまり、ドゥルーズは保守主義をラディカルに読み直した。

千葉 
点で考える→デカルト 
線の中間で考える→ヒューム<自己の統一性はいつ解体するか分からない>ラディカルに世界を不安定化させている。

かつての日本におけるドゥルーズ受容(浅田彰『逃走論』の「スキゾ・キッズ」)は、大まかに言うと   

国家・社会・世間=パラノイアック
個人=スキゾフレニック

という図式の上で既存権力から逃げ延びて敵の権力にはまらずかってな動きをすればいいだった。これは言ってしまえば個人主義のススメ、賢い消費者のススメだった。そこでのポピュラーなドゥルーズ像は

1,世間VS個人を前提にしている。まあ、これはこれで間違っちゃいないが。しかしそれだけではない。

2,1での個人はちゃんとしている。でも、ドゥルーズは身体が動かない。  「脱領土化」・「脱中心化」というキーワード。

1の「世間→個人の逃走」は分かりやすく健康。一方、2の自分自身(私・自我)からの逃走はある種の自己破壊。つまり自己解体の契機をはらんでいる。この1と2は不可分であるとドゥルーズ=ガタリはいう。このヤバサ。self-destruction.役割分担と自己が認識することはペアになっている。世間や社会、世界がなければ、自己が世界や社会を認識することもできない、という意味で。芸術とは、それを崩すこと。「向かっていく」がやりすぎちゃまずい、と(ドゥルーズ=ガタリは)言っている。

「(変化は?)ハンマーでめった打ちするような仕方ではなく、やすりをかけるように、でなければならない。」

ここが魅力的なレトリックだと私(千葉)は考えている。人生訓的な「度合いに気をつけろ」ドゥルーズの直観には、そういうことがある。やりすぎはいかん、と。「生成変化を乱したくなければ、動きすぎてはならない」手前での踏みとどまりということ。☆「動き」とは自己・自我から離れて他人に憑依するようなこと。

國分(でもそれは)どちらかというと、そのバランス感覚はドゥルーズ=ガタリの方じゃない?マゾッホとサドの超越論的探求「ここでやめたいというところでやめてはいけない」ってフロイト読解でしょ?欲望というものは止めてはいけなくて、中断しない……

千葉ちがう。 超越論的探求には二つある。サド→死=止まらないマゾ→宙づり=微妙サド=フロイトでやっちまう、止められない。でもそれだけじゃないという話。快楽になるとはじけちゃうからダメだっていうこと。宙吊り=やりすぎないことが必要。性急に快楽を求めてはいけない。

國分そうか。分かった。フーコーはハードSM(だしまくり哲学)ドゥルーズはソフトSM(寸止めの哲学)なんだ!(ということで前半1時間終了)この項つづく。※






『様々なドゥルーズ 國分功一郎×千葉雅也』講座メモ(3)

2012/03/20 09:42:00


3,千葉雅也氏の博士論文より

千葉 動きすぎてはいけない。ほどほどの自己解体でもう一度まとまり直す。そういう感覚は芸術のプロセスに触れたことがあれば分かる。「別の仕方で」(レヴィナス)まとまりをつけること、といってもいい。つまり---ここから---
1常識的まとまり=全体性良識的全体性   ↓
2自己破壊・研鑽   
 ↓
3別な仕方でのまとまり(哲学的には個体性)
---ここまで---ここまで含めて「逃走」である。ドゥルーズには孤独な行為志向がある。ちょうど一個の島が大陸から離れていく感じ(國分注?)つまり、「離れていくこと」の志向が存在する。それに対して、ガタリ的な側面はイタリアの共産主義的「新たな連帯」を意識している。
つまりは<離れていくこと>分離するドゥルーズ   
↑<しすぎてはいけない> 連関している ドゥルーズ     
 ↓<繋がっていくこと>繋がるドゥルーズ

foxydog注----ここで言われているのはドゥルーズが「分離」でガタリが「連帯」ではないので念のため。ドゥルーズが、「ガタリによって書く」という側面で顕れているのが繋がっていくドゥルーズ、ということです。注終了--

(日本における)つながりのドゥルーズについていえば、

foxydog注----ここから、日本におけるドゥルーズ受容の問題点、というかその修正の話になります。つまり、「動きすぎてはいけない」(千葉)というドゥルーズの側面から、浅田彰がかつて提示した「逃走」のイメージを修正していく感じかと。注終了-----


「アンチ・オイディプス」は、反フロイトだったが、精神分析になじみ深いフランス人とは違い、日本人にはわかりにくかった。日本でドゥルーズ=ガタリといえば「リゾーム」。リゾーム(地下茎)とは、上下の階層をぶちこわしてあらゆるものが水平に繋がっていくイメージ。これはネグリ=ハートの「帝国」的な70年代の欲望的な「新しい群衆」とも関わっている。76年「リゾーム」はフランスで出版され、日本でも、ドゥルーズの著作としては初めて同時代に訳された。それだけに(日本における)影響も大きかった。それまでに訳されていたのは、早い時期としては『マゾッホとサド』、『ベルグソン』『プルーストとシーニュ』などがあったが、なんといっても「リゾーム」。ここから、浅田彰の『逃走論』の流れが出てくる。ドゥルーズ=ガタリの概念に、いくつかの「原理」があるのだが、その中で二つ重要なものをあげると、第1原理異質なモノが接続していく(ネグリ=ハートのいう「世界的連帯」)第4原理非意味的切断の原理(突然切断されてもかまわない)この二つが重要。そもそも(浅田彰が使用したレトリックとしての)パラノイアック/スキゾフレニックという区別は、パラノ→巨大な意味づけの体系スキゾ→そこから逃れるイメージの連鎖ということ。しかし、逃走もまた問題あり。前者の極端な展開は機械化=全体化に対して後者も、自分独自の意味づけを極端に進行すると、巨大な妄想となり、もう一つのパラノイアになってしまう。つまり後者の脱組織化の全体化は、カオスであって(foxydog注:あくまでたとえ、と断った上で、症状としての統合失調症に触れている)結果、前者の全体性と同様、ファシズムに極めて近いことになる。これはマズい。つまり、ネグリ=ハートの「マルチチュード」は、結局カウンター帝国になるのでは。繋がることも大切。だが同時に無関心も大切。(以上、千葉氏の博論の「動きすぎてはいけない」のさわり)この項つづきます。






『様々なドゥルーズ 國分功一郎×千葉雅也』(メモ4)
foxydog

2012/03/22 16:03:23

ここから、私の理解力を超えていきます。
でも、ある意味ここからが面白いところでもあるわけで、意味不明なメモの部分もありますが、?をつけながら書いて行きます。ご容赦のほど。


國分

「無人島になる」のではなく、「無人島である」として、つまり存在論としてドゥルーズを僕(國分)は読んでいる。

僕(國分)の理解としては、

そもそも社会はリゾームなのだ。
それに無理矢理ハイアラーキーなシステムを作ってるんだ。

そういう風にドゥルーズの存在論として読んではどうか?

人間はモノを考えるのではなく、いやおうなく考えさせられる……ある種の自己破壊

(となると)
行動原理として「別の仕方でのまとまり」はどうやって可能なのか?

実践的には本を読めばいい?(國分)

國分の暫定解

習慣は経験から独立している。
原理は反復して出てくる。
(それは反復そのものではなく)そこからたどり着いた習慣として現れる。イデーとして現れる。


千葉
(たしかに)この実践の努力は存在者全てが、存在者としてやっている。
コナトゥスのバランスというか。

統制的理念としての純粋理念
「内在平面」ってこと。

※foxydog注ーーーーーー
ここ、いきなりトリップして、ドゥルーズ哲学のキモの部分に触れた感じがあります。
全部は分からないけれど、このあと
二元論(千葉)か一元論(國分)か、とこのあと二人は話を敢えて図式的に展開してくれます。
コナトゥスはスピノザがいう自己保存の努力(力能)。これは神=自然の現れ、その一部としての力能ってことでしょうか。

「内在平面」とは、これはさらによく分からないのですが、いわゆる経験と超越の間の分割線(「/」)を持たない純粋平面ということ、みたいにWikiには書いてあります。
ちくま文庫のドゥルーズ『ヒューム』の後書きにも触れられていた二元論的な枠組みの「間」をどう繋ぐか(いわゆる脱構築するか)的ポイントがここでしょうか?
とにかく突然難しく、つまりは面白くなります。
注終了ーーーーーーーー

「哲学は純粋な無人島を記述できるか?」

國分→できる!

千葉→できない!
存在の秩序はさまざまな潜在性としてある。

國分
でも、ドゥルーズは純粋に記述できると思ってるんじゃない?夢物語のような内在性として考えていたのではないか?

それは哲学は一元論であり得るか?(ということ)

超越論的経験論。
死の欲動も発生として見る。
純粋な発生としての無人島を構想していたのでは?
何でも発生から考え、いかなるものも想定しない。
「出来事」しかない!

千葉
これは同意。
(しかし)私は二元論者。二元論は実践的になる。

國分
(そういう意味では)フーコーは二元論者。
「知と権力」とか「言うと見る」
「言葉と物」は共産党批判。相互影響を叙述していく人間主義。明らかにフーコーは上部構造と下部構造というマルクス主義のアンチテーゼだった。

ドゥルーズのフーコー評
「二つの領域にまたがっているものがある。それが権力」
「権力は欲望の形態だ」
ドゥルーズはそう考えていた。

千葉
ピーター・フォルワード?は
ドゥルーズは解脱だ、という批判をしていた。英米系はフーコーの方が実りがある(と考えている?)

國分
(まあ実践的なんだけど)フーコーはあるところで思考をストップしている気がする。

考えるってことは政治ではなく倫理なんだ。
<考える=世界を変える>

発生=出来事→(強制)→考える→世界が変わる

(ところが、たとえば)フーコーは、18世紀の身体論において、

君主制においては八つ裂き刑のような「見せしめ」刑があった。
今そんなのがあったらそんなにみんな見に来ませんよ。やじゃないですか。
でも、民衆が見に来るんですこの欲望はどこからくるのか。
この欲望はなんらかの形で作られていたはず。

見ることの欲望=協力

になっている。だが、フーコーは権力を問うために有る程度でストップしている。
欲望の体制をどう分析し、どう介入するか。

千葉

欲望一元論(ですね)。
フーコーの権力論はマルクス主義をひきずっている。欲望の体制委はなんらかの形で規定される、といったが、無人島は無規定ではないか。

國分
無人島と欲望一元論
ドゥルーズとドゥルーズ=ガタリに分ける。

foxydog注ーーーーーー
ここから少々意味不明になります。もうちょっと勉強しないとつながらないのですが、メモだけ残しておきます
注終了ーーーーーーーーー

千葉
欲望も歴史的に規定されていく。
同一性と差異 秩序付け
秩序付けからはずれていく。

國分
社会的領域と欲望

社会的領野で欲望が動く。それをつきつめると無人島。

フーコーは権力論=二元論のいきずまりを感じたのではないか。
晩年の「自己への配慮」はむしろ倫理。
僕(國分)はこれが好き。

原理なき原理
暴力的野蛮
良い加減
テキトーな基準でやめる
暴力的なある有限性

非意味的切断

繰り返し→(切断)→習慣

哲学的経験論じゃない、事実じゃん?!
この発想がドゥルーズにはあったと思う。

千葉

正義の倫理(原理・原則)
とは違うタイプの
ケアの倫理(かまう。ケアレスも必要!)

もう一つの厳密さがそこにある。

國分
フランスのスカーフ問題でドゥルーズが発言しているのが興味深い。

foxydog注ーーーーーー
スカーフ問題とは、ムスリムの女子生徒が学校でスカーフを着用したことに対し、学校においてはフランス国民は非宗教的でなければならないという観点から着用を禁止された事件のことか。
注終了ーーーーーーーー

ドゥルーズは、「少女に聞け」という。
どこまで、何をしたいのか聞くべきだ、と。

度合いを聞け!

その欲望はどこに由来しているのかを考えなければいけない。

個別対応、折衝、ネゴシエーション、プラティック=実践

ドゥルーズのカント批判でもある。

自己破壊のマネージメント

自己の調子
他者との調子
を整えていく
ドゥルーズはサドがあんまり好きじゃない。
革命は「かならず悪い方向にいく」
そういう意味ではネグリ=ハートとは違う。

千葉
ドゥルーズはモザイク的(普通の哲学なんだけどね)

國分
超越論的領野でさえ、経験論で考えるのがドゥルーズ

経験的習慣づけが必要。
(自己へのテクノロジーを含めての)

(千葉?)
度合いのいい加減さをつかって、カント・デカルトが止めたものをもっとつきつめていく。
過激ないい加減さ。

発生論へ。

ドゥルーズを体系的に見る
いい加減さの体系性=経験論

既に早い時期、蓮實重彦の
『批評あるいは仮死の祭典』

「つないでは切り離す身振り」
が指摘されている。
「と」・「&」の発想(ヒュームに由来する)。

「と」のポテンシャルが既に着目されていた=当時の批評的読解水準はそこまで言っていた。

それを哲学的読解が<経験的な側面において?>引き継いでいくことを考えてもよいのではないか。

(以上)


質問1
ドゥルーズ初期にはヒューム論での法律・制度への関心がみられる。それは後年変わったのか?

千葉
質問の意味が分からない(笑)
ヒュームは認識論ではなく、社会実践的哲学。

國分
法律には条文と判例があって、実は実践的「運用」がポイント=創造性

そこに
「やすりでけずるように」
という側面がみられる。

法=法則→自然の法則
存在それ自体の法則性
自然を社会のように。

質問2
今日はあまりスピノザの話題がでなかったので。
『批評と臨床』にドゥルーズのライプニッツ評とスピノザ評があった。
ライプニッツには光と影がある、スピノザには光だけがある、といったものだったが、どういうことか?

ライプニッツは、モナドとモナドの間に必ず隔たり=共約不可能性がある。

スピノザは直感知。無限に広がる。

例としては、海のざわめきについてライプニッツは、
海のざわめきを聞いているとしても、一つ一つ音を立てているものが統覚される。

それはモル的総合。

クリアに聞こえているのは混雑し、ぐちゃぐちゃだからクリアに聞こえるのだ。

デカルトは、明晰判明ということをいう。
それに対してライプニッツの明晰さは、波のざわめき=無限の要素を纏めたクリアさ。
だから、必ず影がある。

『差異と反復』はほとんどライプニッツで押している。

スピノザは光しかない。

千葉

ドゥルーズは、ライプニッツ的な認識が基本。
むしろ一つ一つご聞こえたらビョーキ。
バラバラに感じるのは、たとえば自閉症の人がシャワーを一本一本針のように感じる、そういう感じに近いだろう。

ライプニッツ的なものがドゥルーズのベース。
それがうまくまとまってるかのように、光であるかのように、夢のように、というところがスピノザであろう。

質問3
全体性を自己破壊して別の仕方でのまとまりを目指すと言うが、それは(結局)再構築するってことではないか?

國分
中途半端というか、同じに見えるということか?
そういう意味では、前と後で何も変わらない、と見えることはあり得る。
一見。

それじゃダメじゃないか、という異論は「あり」だと思う(千葉・國分ここで声をそろえる)。
(それじゃあ中途半端だ、十分変化してない!とい批判は)ありです。
でも、僕らはこちら(ドゥルーズの)側に立つ、ということです。

もう一つ。
ライプニッツについての海のざわめきの例では、「クリア」というコトバの意味のレベルが違うのでは?
という質問が確かにあったのですが、わたしが質問の意図が分からなかったので省略します。

(以上で終了)



國分功一郎「スピノザ入門」メモ」(再掲載)

2015年03月02日 12時35分58秒 | メディア日記

國分功一郎 「スピノザ入門全12回」


https://www.dropbox.com/s/a6qi3kmzp7a9os5/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%8E%E3%82%B6%E5%85%A5%E9%96%80%EF%BC%88%E5%9C%8B%E5%88%86%E5%8A%9F%E4%B8%80%E9%83%8E%EF%BC%89%E5%85%A8%EF%BC%91%EF%BC%92%E5%9B%9E.pdf?dl=0
國分さんの講座を受講したときのメモです。
ここのブログにもバラバラには入っているのですが、閲覧しにくいのでこちらをどうぞ。
スピノザ、ドゥルーズ、國分功一郎、いずれかに関心ある方はぜひ。
もちろん、あくまで講義記録ではなく私的なメモですから、間違いを多く含みます。
あくまで個人的なメモです。念のため。でも、國分さんのスピノザ論の決定版が出るまでは、素人にとってこの講座の意義は計り知れないと思うのです。

(再掲載)千葉雅也×國分功一郎『動きすぎてはいけない』出版記念トークイベントのメモ

2015年03月02日 12時12分09秒 | メディア日記

國分×千葉のペアでは参照必須?のイベントメモのリンクが切れていたので以下に再掲載します。


ブログを乗り換えるといろいろ面倒てす。
(ちなみに國分さんのスピノザ講座全12回の詳細メモもバラバラになってしまっ手読みにくいので、後で再アップしますね)

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千葉雅也×國分功一郎『動きすぎてはいけない』出版記念トークイベントのメモです
foxydog
スピノザ
2013/11/10 22:35:00

JUGEMテーマ:読書
千葉雅也×國分功一郎
『動きすぎてはいけない』出版記念対談
のメモです。例によって話を聞きながらメモと記憶を頼りに再構成していますから、間違いとか抜けとか「ダマ」とかだらけだと思います。ご承知ください。でも、メモ書いて載っけておく、と思わないと全部忘れちゃうんですよね。
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☆千葉
今回博士論文をベースとして『動きすぎてはいけない』という本を出版することになった。
ここで國分さんとやるのは二回目。

前回は國分さんの『暇と退屈の倫理学』出版のときだった。

國分さんは『スピノザの方法』で博士論文、そして『暇と退屈の倫理学』という人生に直結する本で大ブレイクしたが、そこでは、人生を生き生きとさせていく技法が語られている。

他方、僕は常に怠惰さや人間が弱ってしまうところに注目している。

ある種の不思議なユニット。
積極性・スーツの國分、微妙ににだるそうにしている・ジャージの千葉というコンビ。

もともと博士論文がベースだがかなり書き直している。
学位論文だからガチガチに硬かった。
まだ硬いところは残っているが、広くみなさんに読んでもらいたいな、という思いから書き直した。
序論はほぼ完全に新しく書いた。

その書き直しの過程で、もともとはっきしていなかったテーマ、「非意味的切断」とかをはっきりさせたり、人生論的な意味みたいなものも少しずつきわだたせるかたちにもなった。
國分さんがまとまったプレゼンを作ってきてくださっているらしい。全く内容を聞いていないので楽しみだ。

が、その前にまず基本的な本の内容を説明したい。

まず一点目-----------------------------------
この本はジル・ドゥルーズという20世紀の哲学者についての研究書。
大きくいうと「関係」ということを問題にしている。
コップとテーブルとか、人と人との関係。

20世紀後半、すべてのものは実は潜在的に関係しているという考えが大流行した時期があった。
いろんなレベルで、自然科学でも意味のレベルでも。

それを「関係主義」という。

日本の仏教でも古来から「縁起説」というものがあった。
要するに「みなさんのおかげです」みたいな(笑)

ドゥルーズの哲学には、わーっと、四方八方に関係性が広がっているといっている、そういうところも確かにいっぱいあって、日本では仏教的な世界観とも近いものとして受容されたところがある(80年代かな?)。

確かにドゥルーズにはそういうところもある。

でも、本当にそうなのか、と一度疑ってみたい。
実はいろんな意味で部分的に関係から降りる状態が当たり前だし、僕たちにとって大事なんじゃないか、と。

「あちこちにちっちゃな孔(あな)がある」
という感じ。

ひととかモノとかとやりとりするのに、相手の全てではなくある側面に関わっている。
だからあちこちで切れている。
見えていないところが世界にはいっぱいあって、それが重要なんじゃないか、それをドゥルーズの哲学から読み取っている。

次に二点目-----------------------------------

「関係しすぎる」、というのが世の中に蔓延している。
そういう(社会的)会的現実がある。
2000年代後半降、SNSが普及して、LINE、Facebook、Twitterとか、誰かとずーっとつながっている、スマホ見てるってことがある。自分一人で孤独に考えたりすることが困難になり、人からどう見られているか気にしないでは生きられなくなった。

強迫観念にとらわれる状態がソフトにソフトに進行している。

だからたまにはネット見んのやめろ、ってことになる(笑)

それが大事で、「限定された紙とペンだけで考える」って必要なんです。
そういうことが最近切実。

「つながることが大事」、と昔ドゥルーズは読まれてきていたけれど、今はある程度切らなきゃいけないんじゃないか。
コラボとか80年代とかやってたが(たしかにミュージシャンとかかっこよかったけどね)
、今は当たり前。でも、それでなんかになるのか?本当の創造ってそんなんでできるのか?

そこでそういう実践的な関心から「切断」を考えている。

三点目。-----------------------------------
ある研究対象について、王道の研究もある。
ドゥルーズについていえば「多種多様な関係」についてとか、「差異について」とか。
これはオーソドックス。

でも、そうじゃなくて、むしろ縁遠いところから(搦め手から)アプローチし、すべてをひっくり返すやり方が面白い。

テーマ主義とかいわれるのがその典型。
蓮實重彦の『夏目漱石論』がそれ。
「人が横たわるシーンで何かが起こる」
みたいな。

そういうことを参考にしていてドゥルーズで「切断・分離」ってあんまり目立たないけれど、面白い。

「~しすぎてはいけない」というドゥルーズのフレーズもそう。

ところどころ出てくるが、誰もふれていない。

つまり、方法の問題として正面突破ではなく、天の邪鬼な視点、マイナーなテーマからドゥルーズ像を明らかにしたい、と。

三点を紹介しました。以上イントロでした。

☆國分

千葉雅也の方法はなんなんだろう?ちょっとこんなものをつくったので我慢して聞いてください(笑)

METHODOS MASAYAE(雅也の方法)
國分先生、プレゼンソフトで<ジャック・デリダのものまね>をしつつ、つかみをしてます。(省略)
会場は「笑い」

この本は本っ当に素晴らしい本です。今日はそのうちの一万分の一ぐらいお話ししたい。
まず私的なことから。

この本を読んで
Francis Baconの絵(の画像をHEADⅣを提示)
を思い出した。
この絵は個人的に大切な絵です。
大学二年生のとき、初めてドゥルーズについてサークルの雑誌にこの絵のことを書いた。

この絵は当時(一般に)いわれていたことに対する解決であるように思われた。
僕が大学生だった90年代前半は、アイデンティティ・共同性・(政治的な発展形態としての)ナショナリズムなどはとにかく全然ダメという思想が強かった。

閉じられたものは×
開かれたものが○

そういうイデオロギーがとっても強~力にあった。

僕はその頃そういう本をよく読んでいたが、しかし、どこか違和感があった。


千葉君の本でも触れられているが、

ジジェクは、ジャクソン・ポロックをドゥルーズ的画家と考えた。
出来事だけがある、みたいな。アクションペインティングですからね。

でも(本にもあるように)千葉君は違うという。

むしろベーコンの絵が、全面的には抽象化されていないところに注目し、
<ベーコンの絵は輪郭を失っていない。そこをドゥルーズは評価している>
、と述べている。ベーコンをポロックとは区別しているわけだ。

「輪郭を救うこと」ってことをベーコンは大切にしている、と。

形が崩れ、ゆがみ、ボロボロになっているが、そこからなんとか輪郭線を引っ張り出してくる。

私も絵だけをみて、なんとなーくそんなことを考えていた。
何かが全部ポロックの絵のように雲散霧消してしまうってことはないし、望ましくもないんじゃないか、と。

たしかに私たちのアイデンティティやフィギューは弱いしぼやけているし、はかないが、しかしこういう輪郭があるんじゃないか、というこのベーコンの絵にベーコンの絵に惹かれた。

メチャクチャになりすぎるのはよくない。
めちゃくちゃになるのと生成変化とは違うでしょう。
輪郭はあるでしょう。

そういう問題意識が、僭越ながら千葉君と共通している。

「輪郭を消せ」、とかおかしいでしょう、と。

「形象の輪郭線は表象からの逃走線だ」
「狂わせ過ぎないこと」

これって常識派?

☆千葉
まあ。

☆國分
そういうところが響き合っていることに感動した。
私的な思い出の中で私的にドゥルーズを経由して考えていたことと、千葉君がこの本で言おうとしていることが響いてきてとっても感動しました。
これが私の私的な話です。

さてまず、この本は基本的に非常にメチャクチャ難しい。僕も相当力を入れて読んだが、分からないところもある。

でも、この本は既に話題になっているし、読まれているし、これはなんかおもしろそうだぞ、ということになっている。

これが大切。

難しくては分からないところはあるけど、だけど何か人に訴えかけるところがある。
それを通じて人は学んで、次第に理解していくようになっていく。読めるようになってくる。

そこから、この本の新しさは、いったいどうやって体験されるのだろうか、
という問いが出てくる。

内容だけの問題ではない。

この新しさはなんなのか、とかんがえると、

それは

「あたらしい論述水準の創造」

だ。
今までの論述水準には大きく考えて二つあった。

1,禁欲的な哲学論文

2,哲学のポップな応用

でも、単なるポップな哲学の応用は、あまりおもしろくない。なぜなら、禁欲的な哲学論文に対するなんの攻撃にもならないから。

しかし、千葉君の本はちがう。

たとえば、千葉君は

P 92「ヒュームの連合説は解離説でもある」

と書く。

別にポップに応用していることでもないし、こう読むと面白いよ、ということでもない。

ヒュームの連合説はたしかに解離説でもあるんですね。
つまり、ヒュームはそうはいっていないが、ヒュームの哲学に潜在的に含まれている説が、あらわれてくる。

次の例。
P125「観想=縮約する」

ドゥルーズは

物質はなんでもギュッと「縮約」することで生きている。

という。同時にまた

疲労とは、「観想」はできるが(受け取ることはできるが)、「縮約」できないのが疲労だ
「観想できるが縮約できないものが疲労だ」

ともドゥルーズは言っている。

そこから千葉君は、
「あらゆるものが縮約をするなら、あらゆるモノは疲労するよね。」

と読んでいく。
これは読み替え、でもない。顕在的ではないかもしれないけれど、ドゥルーズのテキストに潜在的に含まれている。

さらにそれを進めて、
要素を吸収して縮約して何かを創造するというのが、そしてそこから概念を生み出すのが哲学だとするならば、

「ある意味で固有の仕方で哲学していないような存在者は存在しない、すべてのものは花だって麦だって全部、哲学してるよね、」

ということになる。

確かにいえる。
千葉君が勝手なことを言ってるんじゃなく、ドゥルーズからこういえる。

ドゥルーズの哲学の定義はこうで「も」ある、ということですね。

今までとは全く違った、応用でも変奏でもなく、読み替えでもない、新たな論理水準。
突拍子もないんだが実はそうじゃなくて、それを作り出しているのが千葉雅也の本の新しさであり、(繰り返すが)ポップな読み替えではないよ、ということ。

これが一つ目の方法。

さらに、千葉君は
自由間接話法「的」にドゥルーズを読んでいる。

直接話法と間接話法の間にあるようなもの。

要するに間接話法は、語っている側と語られている側の区別がなくなっちゃう話法。

僕は、『ドゥルーズの哲学原理』で、これを多用することがドゥルーズの方法だ、と書いた。
誰かがこういっているっていうんじゃなくて、論理そのものの中に入って行って、匿名な論理そのものから結論が導かれるように書く方法。

もしかしたら千葉君の文章はある瞬間そう「も」読める。

しかし、今日のポイントはあくまで「的」である、というところ。

僕がはっとしたのはp15に「私」出てくること。

千葉君の本文中に全部で数えたら369ページの中で11回出てくる(笑)

わざとですよね、千葉君だから。
(そう、わざとです<千葉>)

私は「私」が出てくるのにドキッとした。というのは、ドゥルーズは「私」が無くなっていく哲学だから。

でも千葉君は違う!
それは千葉君が選択している。
そしてその選択が隠されずに「私」として示されている!

この11回出てくる「私」はまるで小麦粉を水で溶いたときにできてしまうダマのようなもの。

つまり、溶けきらないものがある。匿名の流れのようなものがあるかに見えて、実はとけきらないものがあるんだ。

『動きすぎてはいけない』の中で、僕(國分)が研究者として最も重視したいのは

ドゥルーズ哲学は全てを大いなる匿名の流れの中にとかし込んでしまう哲学「ではない」、
生成変化とは自他を一緒くたにすること「ではない」、ということです。

こういうことを千葉君は非常に繊細に描く。
きちんと自分の「ダマ」を残している。

つまり、言ってることと書きっぷりが完全にきちんと一致している。

逆にいうとですね、突き詰めると、ドゥルーズの本って、「私」が全然出てこない。
ちなみにそれを物まねしている僕の本(『ドゥルーズの哲学原理』も「私」って一回も出てこない。

これはつまり(私が出てこないのはある種)、ごまかしなんじゃないのか?
(哲学論文では基本「私」はもちろんご法度だが、それを前提としてもなお)

そういうのって、ホントはダマがあるのに、匿名の中の流れに全てがあるかのように書いているんじゃないのか。

千葉君の本は正直に、書いてある。
千葉君の哲学は正直な哲学だ、と思う。

むしろ、ドゥルーズや僕の本は、カッコ付けなんじゃないのか?

そこが誤解されやすいんじゃないか、と思われる。

なるほど一見、千葉君の文章はレトリックが凝っているから、装飾的な文章といわれるかもしれない。けれど、カッコ付けとは正反対。

むしろカッコつけているのはこういうの(『ドゥルーズの哲学原理』)を言う(笑)

これが千葉雅也の方法論の二つ目。
「正直」ということ。

これは、千葉君のエクリチュールだけの問題だけではない。
これは千葉君が、あるいは千葉君を離れても我々が、実は普段実践していることを隠さないということ。

ありもしない理想じゃなくて、ふだんしていることを隠さないで正直に隠さないで論じる。

そうすると『動きすぎてはいけない』の本のテーマと直結してくる。

ここで三つ目のポイント

「うまくやっていくこと」
Savoir y faire
を挙げる。

P175「欲望の純化を回避するような仮のマネージメントをしていないだろうか(しているだろう)」
ってこと。

精神分析では

最初に「欠如」があって、その後はそれを追い求めて、「対象a」をただひたすら追い続けていくようになる

とか、そういうことが書いてある。が
「ちょっと待て」
と。
別に「対象a」を追い求めてその彼方にある「欠如」なんて求めていったりしないよ、と。

普通に、いい加減にごまかす、適当なところでやめてごまかす。
これは非常に千葉哲学をよく示しているのではないか、と。

これが3つ目の千葉哲学の方法ではないか。
たとえば

「ツイッターのタイムラインに流された不完全な情報によってふるまいを左右されかねない」

これは、よくある。
つまり、はっきりいうと私もよく「エゴサーチ」するわけで、それを腹を立てて「ふざけんなよ」とかなったりしている。

反論したくなるけど反論しないように我慢するのに大変な精神力を使っている。
でももしかするとよく調べてみるとそんなことじゃないかもしれない。
でも、そうはしない。

「SNSのメッセージを一つ見逃していて、ある会合への参加を選択できなかったことで、別の行動が可能になる」

こういうことがある。つまり、
「それは分かっているんだかわかっていないんだかわかんない」
ってことがある
「悪気があるし、ない」
みたいな。

千葉君はこれを「有限性を善用する」という。

全部調べて確証をもってからじゃなきゃリツイートしない、なんてことはない。リツイートしちゃうわけです。

そういうのがあるわけです。そういのを逆に善用していこうよと。

そのために千葉君が取ったのは、
「接続ばかりが強調されるドゥルーズではなくて、切断を強調する」
ということですね。
つまり「接続の原理」ではなく「非意味的切断」を再検討する。

その際に、千葉君がもってきたのが「リゾーム」っていうドゥルーズ=ガタリ豊崎光一訳の本です。

昔はあんなに論じられていたのに、今は触れられていない。
ドゥルーズ=ガタリが「非意味的切断の原理」をこの本で強調していたのに、誰も触れていなかった。

ここで千葉君の本が学問的に面白いのは、
『リゾーム』といういささかいかがわしいものと、デイヴィット・ヒュームという非常に硬い経験論の哲学の「関係の外在性定理」というものとを、繋げちゃったわけです。
これは驚きです。
これも新しい論述水準の創造によって、全く違和感なく読めるわけです。

池田剛介さんはこの本を「インスタレーション的」といっている。
あちこににいろいろ飛ぶようにできている。
僕の本は直線的なんだけれども、ある種この本はネットワーク的。


ここで4つ目の方法論。
論述の仕方においてもつながったり外したりしていて、既存の接続を絶対視しないということをいろんな形で行っている。
この論述は独特。

P248「レトリックの『位置価』」
というところがポイント。これが千葉君の論述の仕方をよく表している。

もちろんどういう意味かとか、歴史的にどうかとかは押さえるが、それだけではなくて、
ある論述のレトリックにおいてどういう位置にそれがあって、どういう意味を持つか、を注目して考えている。
この部分だけの話ではなくて、この文章全体のこととして読めるかな、と。

☆千葉
いやいやありがとうございます。ちょっと感動してしまって。
その通りですねえ。
「私」、11回ですか。数えてないですけど。

☆國分
ある程度意識的?

☆千葉
そうですね。自分の責任で断言するしかない。しかもちょっと浮いた断言をしなければならないときに「私」を使っている。
本全体が中立的なものにならないように、自分の立場というかたより=ダマがあるってことを示している。
もう一つ、英米語圏の論文は比較的最近「I(アイ)」を使う。
フランス語圏でも「私たち」(一般的)と「私」(個人的主張)を使い分けるってのもある。
それを念頭に置いていた。

☆國分
本を書くとこの人称がとても気になる。『暇倫』でも意識して、私たちをなるべく使わないようにした。
気にしてみると、上野千鶴子さんとかすごく一人称の使い方は精密。

☆千葉
そうでしょうね、フェミニズムの文脈とかではそこがすごく重要ですから。

☆國分
それを精密にこの本で千葉君がやっているっていうのはドゥルーズが「我々」でだけ考えていることを踏まえると重要。
っていうかドゥルーズの論点の中にも「ダマ」っていろいろあるよね。

「子供が悪口を言ったら父親はおこらなければならない」

とか。こんなの全然ドゥルーズ本人の判断なのに、あたかも今まで論じていたことから出てくるかのように書かれている。だけど、千葉君はここで立ち止まって、ここではある価値をドゥルーズが「密輸入している」と。

☆千葉
僕の方法を自分でどうとらえているかというと、
「イディオム分析」(固有語法)
なんです。
いろいろ本を読んでいたりインタビュー調査でも重要なんだけれど、本人が口癖みたいにに繰り返すキーワードがある。でも本人がその意味を本当によくは分かっていない、というのがあるじゃないですか。だからそういうところに着目してやっていく、というのがある。

逆に自分が書く場合もできる限り変なイディオムは使わないようにして書くというのが書くことの作法なんだけど、そうはいっても、「関係」でも「存在」でも、普通の言葉をイディオム的につかっちゃったりしている。だから自分の言葉の中で言葉をイディオム的に使っちゃうことって避けられないと思う。

だったらせめて意識的にその位置をコントロールしよう、と。

ドゥルーズ自身コントロールしきれているのか?っていう疑問がある。

☆國分
[Trop]英語でいえば[too]ですが、それを、言われてみればあそこにもあったな、と。
ま、わかるでしょ、みたいにドゥルーズが書いていて、それが意外に議論が成立していて、この[trop]についてのイディオム分析が新鮮だった。

この「動きすぎてはいけない」のタイトルは早くから決まってたんだよね。

☆千葉
そうそう。最初の最初から決まっていて、
「生成変化を乱したくなければ動きすぎてはいけない」

これは何をいっているんだ、と。
確かにドゥルーズは旅行が嫌いだった。ここにいてもイマジネーションを働かせればいろいろなれる、という意味だろうとは思ったけれどもね。

これ勘違いする人がいるかもしれないんだけれども、(そしてあえて勘違いさせているわけですけれども)何か「人生訓」のようにね、僕がいってるかのようにパッと見、勘違いして買ってくれる人がいるのはいいんだけれども、これは実はドゥルーズの固有語法である。と同時にそれが人生のヒントとして役に立ったりするという二重の機能があったら(いいな)と。

☆國分
というかみんな「動きすぎてはいけない」じゃなくて「働きすぎてはいけない」って読んだりして。

☆千葉
そうそう、それで買っちゃっても全然いっしょですから。そういうことです。

☆國分
これ動かないってことじゃないですから。

☆千葉
すぎないほどに働く。

☆國分
さて、では次いきましょう。

「うまくやっていくこと」
Savoir y faire
これが本当に面白いなと思って。

これについてちょっと。

(この本では)ラカンの純粋欲望と対象aの話をしているんですね。
簡単にいうと、人間は生まれ落ちたあとで心に大きな傷を負う。それが大文字の「欠如」。それを埋めたいんだけれども、埋められないから、それを埋め合わせになるもの「対象a」を追い求める。それが人生だ。というのがラカンの考え方。

☆千葉
赤ちゃんは周りに親とか支えてもらわないと生きていけないですよね。
不安でさびしくて。何かが欠けているといつも思う。
その穴、それを埋めるのにたとえばとんかつが食いたいというところまで繋がっているというが精神分析。この場合とんかつが「対象a」ってことになります。

☆國分
そうですね。ま、(ラカンのこんな考えは)どうかと思うわけですけれども(笑)。

☆千葉
まあね(笑)。

☆國分
その場その場で追いかけているものが対象a。

☆千葉
とんかつとかね(笑)
「Savoir y faire」自体は後期ラカンの話ですよ。

☆國分
で、ラカンは早い時期には
ほんとは「対象a」は全部「欠如」につながっていくんだと言っていたけれど、

そうじゃなくて、「対象a」は、実は純粋欲望をごまかすために役立ってるんじゃないか、という読みを60年代以降、後期ラカンは出してくる。

このやり方で今ここで対象aとうまく付き合っていくことが

Savoir y faire

それを重視している。

ラカンの考えの最初の段階は、「対象a」はあくまで欲望の対象で、原因は「欠如」だった。
(寂しいから手近なものでとりあえずは間に合わせるけど、根源的な寂しさに人は常に向かおうとするって感じ?)

けれど
後期ラカンは、「対象a」が原因なんだと、定義しなおしている。

これは僕も知っていたけれど、どうしてそうするのかが分からなかった。
千葉君の本を読んでそれが分かった。

『暇倫』でも同じ展開がある。

パスカルが言ってる。
キツネ狩りとか、ほんとはウサギがほしいんじゃないだろ?「対象a」にすぎないんだろ、と。
本当は暇だからなんだろ、と。ウサギは原因じゃないんだろ、と。
(パスカルは)いやな奴(笑)。

☆千葉
で、ラカンはさびしんだろ?と(笑)

☆國分
ところが、私の後半では、
ハイデガーの退屈の第二形式に触れていて、これが
Savoir y faire
と通じているんじゃないかと。

日常生活って、そんなもんじゃね?それが人間らしい生活だよとね。

「対象a」と楽しんでいこうよってことだから、共通してるんじゃないかな。

ドゥルーズにもそういう「ダマ」があって、たとえば結婚の問題を当然視している。
「フィアンセ」、とかすぐ使うんですよ。

アリアドネはディオニュソス的なものと不可分=「婚約」
ドゥルーズはすぐ結婚させたがる。「美味しんぼ」か!

☆千葉
多いんですよ、結婚のレトリック。
要するに言いたいのはその二つは不可分であるとか、本質的に関係があるとか、とかいうときに「結婚」とか「フィアンセ」とか言っちゃう。

☆國分
これは完全に好み(イデオロギー)だよね。

非対称的総合とかいうところの例として子供の叱り方が出てくる。
こんなのも「ダマ」だよね。

でも、個人史とドゥルーズの思想を繋げているでしょう。これ非常に面白かった。自民党っぽい(笑)

独身→ヒューム
結婚する→ベルグソン
子供ができる→ニーチェ

さて、論点をいくつかだしておきたい。

最後、第9章が動物論で終わっている。
僕は動物論に非常に関心がある(飼うのはすきじゃないが)。

ハイデガーは
動物は
とりさらされていて(虜になっている)→餌に気を取られているみたいな感じ。
かつ、
さらにとらわれている(麻痺状態)→その動物にふさわしい環世界で生きている。
しかし人間は取りさらわれてはいるがとらわれてはいない(マヒ状態にはなっていない)。人間には「環世界はない」、といっている。

これはユクスキュルの『環世界』の論と密接に関連している。

ハイデガーはユクスキュルに反対してこう言う。
動物は「環世界」を持っているが、人間は「環世界」を生きていない。
だが人間は世界を創っていくんだ。人間はとらわれてはいない。動物はとらわれている、と。

千葉君の文章にはこのハイデガーの「とらわれ」と「とりさらわれ」の区別が論じられていなかったから、この「位置価」を考えると、もっと面白くなるんじゃないか。

また、千葉君の本では、「世界をもっと貧しくする」ってことを書いている。
そこで
1、要素を少なくする
2、要素に対する反省を削ぐこと
と指摘している。一個目はけっこういえるけど、二個目はなかなかいえない。

この二個目が面白かった。

もう一つ、「負の人間中心主義」が面白かった。

「負の人間主義」というのは、動物は「愚かさ」から守られている。動物は「賢い」と。人間だけが「愚かになれる」つまり「負の人間中心主義」。それを反転すると創造的になれる、と千葉君がいっている。

で、僕の質問は、最後に出てくる「死を知る」動物ってことですね。
ドゥルーズは実は動物こそが死を知っている、という話をする。

ハイデガーは人間だけが死を知る、という。死ぬのは人間だけだ、と。
でも千葉君はドゥルーズを読みながら、あるいはドゥルーズが「動物こそが死をしっている」ってね。

僕も、ドゥルーズに教わる前から考えてた。
野生の動物はいっつも命を狙われている。むしろ死ぬことを予期しているのではないか。

それと、「負の人間中心主義」はどう関係してるの?

僕(國分)は、動物のとらわれについていえば、動物が別にとらわれているわけじゃない、と考えている。

人間も動物も「とりさらわれているだけだ」と考える。
人間も動物も「環世界」を生きているんだと。
で、千葉君と同じように、その「環世界」を貧しくする、つまりは没頭するってことが大事だと。何か没頭しているときには明らかに世界は貧しくなってるわけです。
あるものにエネルギーが集中的に注がれていて、それがある種「動物になる」ことじゃないか、と僕は書いた。

☆千葉
ちょっと明日の学会が始まっちゃってるみたいで(笑)。
でもありがとうございます。それだけ國分さんの思考を揺り動かすことができた、ということでありがたい。

まず、「動物になる」ということから。ここでは

「有限になることが大事だ」

という話をしている。
僕はもともと美術的なものをやっていた。
作品を創ることから批評を考え始めて、そのためには哲学が必要だってことで哲学に進んだ。だから、モノを創ることがベースにある。
そのときある種のアーティストは空の青にだけ集中してひたすら空の青を写真に撮り続けるみたいなこと、「青人間」のこだわり、みたいになることがある。

それはある種「ダニ」になるみたいなこと。

もう一つは作品をいつ完成させるか。
これ、追求しようと思ったらきりがない。
だから、適当なところで終わるしかない。
絵を描いていても、「ま、こんなもんだ」ってところで止めるしかない。
これが「非意味的切断」ってこと。
ご飯を食べててもういいや、っていうのも、胃袋の大きさとかはあるけど、どこで終わりにするか、あるいは何時から仕事を始めるかっていうのもたいした意味はない。これが

「非意味的切断」

実際にものを創って、一個一個の作業をやって、進めていって、完遂させる。
これが僕の基本的なテーマ。

それが「有限性と切断」ということを考えること。「動物」ってことです。

ハイデガーの「人間論」とか、ドゥルーズの「負の人間中心主義」とか、いずれも人間は一つの定まったことだけをするのではない、むしろ「おろか」だからいろいろ可能性があるってこと。
無限の可能性とか、人間しか言わないけど、それが人間の愚かさでもあり、創造性でもある。
何をやったらいいか分からないから無限の可能性がある。

でもね、現実にモノを創る場合、そういうのじゃだめだしね。それじゃ作品は作れない。

☆國分
「環世界」をぷらぷら移動してしまうってのが退屈の根拠だってオレも書いてるんだけど、いろいろな可能性があるから、結局何もできないってことになる。

☆千葉
そうだね。
☆國分
そうすると、非意味的切断の、どこで切るかってのはやっぱ適当なの?

☆千葉
適当でしょう。ある程度の理由はあるだろうけど、根源的には無意味(非意味?)

デリダが言ってるけど、「決断の瞬間は狂気だ」、と。
「これだっ!」て決めるときには、ある意味狂わないと決められない。
いろんなことを考慮しようと思ったら無理。
最後のジャンプは狂気(とデリダはややロマンチックに言うけど)

彫刻なんてのはよく分かる。
ノミで削り込んでいく。
ただ考えてても丸太のままだから、とにかく削ってかなきゃならないですからね。

☆國分
オレが関心あるのは
どうやったら「環世界」貧しくできんのかなってこと。
オレはそれでスピノザ主義になっていく。
スピノザは人間の体が多くの仕方で刺激されるようになっていくのがいいことだ、と。

刺激されるのとされないのとあるじゃん。
勉強すると刺激の可能性が増える。これがいい。
千葉君の本でいうと実験の可能性が増えていって、体質が分かってくる、っていう言い方をスピノザはする。
こうやると貧しい「環世界」の中に没頭することができる、と。
その辺りどう?

☆千葉
國分んさんの考えは、何かを楽しむためには「楽しみ方」を学ばねばならないってことなんだよね。
その学習するっていう動機付けっていうのが國分さんの話のいいところですよね。
ドゥルーズを読んで学習意欲を高めるとか(笑)。

僕の話だと、なんかどっちかっていうと自分自身に対してこだわりポイントをイディオム分析してみて、こだわっちゃうスタイルとかこだわりを核としてなんか作れない?ってことになる。

学習はする方がいいけど、まず「イディオム分析」してみようよ、って学生にはアドバイスしてみる。
その上で可能性を広げる上で勉強しようと。
 
☆國分
なるほど常に既に、刺激を受け止める体質を当然個体は持っているわけだから、つまり「ダマ」をもっているってことね。

☆千葉
そう「ダマ」を見つけるんですよね。だからそれはある種精神分析的介入ですよね。

☆國分
それが『動きすぎてはいけない』の中でどうすれば
Savoir y faire
の根拠となるようなポイントが形成されるか

☆千葉
そうですね。
自己自身をテーマ批評をするということかな。

☆國分
あと、スピノザのこともちょっといいたいな。
やっぱ今言ったようなのは非常にスピノザ的。
刺激される可能性を増やしていく。さらに体質を学んでいく。
自分の中の身体の必然性・法則を知って、それに従って生きることが重要だ、という。
で、必然性と自由が対立しないというのがスピノザ。
☆千葉
それって、自分の体にできることとできないことって人によって違っていて、無理しないでやれることをやろうよ、ということですよね。

☆國分
そう。ある意味常識的。

☆千葉
それは逆に言えば、無理して他人の基準に合わせるなってことにもなる。

☆國分
そうだね。

☆千葉
そこがいいところだと思う。

☆國分
え、それいいところなの?

☆千葉
ただ、スピノザは共通概念を形成しようということになるじゃないですか。
自分の体質のポイントと組み合わせて似た相手を選んで「いい感じ」になる。
仲良くなれそう。それを広めていって、という共通概念があるでしょう?

☆國分
千葉君としてはそれ、どう?

☆千葉
んー僕は生き方としてはスピノザ的に生きるんだろうなと思うよ。
でも、どうしても共通概念を見つけられないとか、ドロップアウトするとか、共同性に乗れないというのを、どう考えるか?

☆國分
千葉君がスピノザに言及したところで紹介したいのは
P148にエチカが言及されている。これはこの通り。

簡単には反論できなかった。

でも、ちょっと言っておくと、僕が博論でやったのは『知性改善論』という失敗作。

この『知性改善論』という本の冒頭(失敗した方法論なんだけれど)、自分は名誉欲・金銭欲・性欲から抜け出したいと思った、という。
でも、やろうと思ったけど、日常生活を大変革しなきゃならないから、無理だと。
もう一回やろうと思って、考えを変えて、それを捨てて絶対善を求めようとした、と。
そのとき、名誉欲・金銭欲・性欲は本性上不確かだけど、「絶対善」は本性上確かだ。あるとすればね。
だから前者を捨てて後者を取るんだ、と。

でも、やっぱりうまくいかなかった。スピノザは二回挫折している。
しかしながら、その挫折の中からそこを抜け出せる考えを見いだした。

「どうやって名誉欲・金銭欲・性欲から抜け出そうかを考えているときだけは自由だった」

つまり、スピノザにも「ダマ」はあるわけ。

ところが、『エチカ』になると、そんなことはなかったかのように話が進行する。

☆千葉
哲学はダマを押しつぶすものですよ。
でも、『エチカ』も「備考」の中にちょっとダマがあるんじゃないかな。

☆國分
そうそう。ダマを押しつぶすんだけど、ちょこっと「備考」とかに出てくるんだよね。
ドゥルーズは「『エチカ』の定理は大河だが、『備考』は地下水脈だ」
なんていってる。
今日はあんまり反論できなかったけど、『エチカ』の中のダマを読んでいくってことが僕の課題だね。

☆千葉
まとめると、一冊の本は決して均質にはできていないんですよね。
一般的な語りのどこに「我」が出るか。
もう一ついうと、社会の常識に完全に合わせようとしないで、乗れない部分、社会的抵抗がある。ダマがある。こだわりの再発見、イヤのものはイヤという。

☆國分
でもね、社会の中でダマになるのはなかなか大変だと思います(会場笑)。
僕はすすんでやるけどね。

☆千葉
やってますよねぇ(笑)

☆國分
大変ですよ(笑)
☆千葉
でもダマになりすぎちゃだめなんですよね。

☆國分
適当に溶け合ってないとね(笑)。
そこがやっぱり

「ダマになりすぎてはいけない」という……。

☆千葉
話聞いてもらえないからね。
これもまたSavoir y faire「うまくやっていくこと」
 
でも、「ダマになるな」っていう圧力、管理社会の圧力がひどくなって、無難に無難にやらなきゃならない、というところでは、(それに対応するのに)自分のイディオム分析をして、自分の体質にはこういうこだわりがあるんだってことを再発見して、それで
「この社会のここはヤだ、イヤなものはイヤだ」

っていうダマの部分を大切にするのは大事だな、と。

☆國分
社会の中でダマになるってことでいえば、序章が一番変わったよね。
千葉くんが、スキゾってのは、よそ見寄り道、気が散ってしまう、という受動的惰性的なものだと言っていて、でもあの頃(80年代には)こういう視点がなくてね。
あのころは、主体性から主体的に逃げろっていう主意主義的な、意志に強い価値をおく(強迫的な)ものだったね。

「おまえは世界のダマになれ」

みたいなね。
この本(『動きすぎてはいけない』は)、そういう風なダマになれ、とかいう話じゃないんだよね。

あくまで混ぜてるとダマができちゃうっていう話で。

そこでSavoir y faireを出したっていうのはすごく大きなメッセージですね。

(以上)
於:リブロ池袋2013年11月7日(金)


ドゥルーズのインタビューDVD『アベセデール』のイベント(國分功一郎×千葉雅也)

2015年03月01日 07時44分03秒 | メディア日記
『アベセデール』の地図を作成する 國分功一郎×千葉雅也 トークイベント (2015-02-28 14:00~17:45)のこと。

ジル・ドゥルーズという哲学者が、死後に公開する、という約束で応じた、400分を超えるインタビュー映像が年内に発売される、その記念イベントに行ってきた。

全部を観ることはもちろんできない。いくつかの項目を観客とともに観ながら、國分功一郎、千葉雅也両氏が解説を加え、途中休憩を挟んで4時間近く、という長丁場のイベントだった。


これが素晴らしい。

哲学者が自宅で、敢えて無防備に様々なことを「語る」その語り口、表情、言い淀み、冗談めかしたトーンなどなど、すべてが意外にも上質なエンタテインメントになっている。

一晩たったあとでもなお、ドゥルーズの語り口が未だに身近に寄り添っているのを感じる。

今朝早くデリダの没後10年特集になるのだろうか、雑誌『思想』をたまたま読んだ。収録された対談でその中の一人が、デリダの講義を直接フランスで聴いたことが大きかった、と語っていたが、そういうことってあると思う。ちなみにデリダは繊細な壊れ物のような代物ではなく、ハイデガーでもカール・シュミットでもガンガン論じるし、しゃべりながらよく笑うし、文章だけの印象とは全くちがっていた、とも。

ドゥルーズもそうだ。アクロバット的に難しい活字の著作とは全く違って、素人の私にもその思考の軌跡が身近に感じられる「気さくな、まあ少しずつ気むずかしいところもある」初老のご隠居さんの印象がある。
休憩の時、國分さんと千葉さんに
「『スピノザと表現の問題』が読めなくて」
といったら、「そりゃそうだよ。まずは『実践の哲学』から行きましょう」とお二人に諭されたが(笑)、スピノザを読むためにもチャレンジしておきたい一冊だ。
ドゥルーズもいっている。「素人向けのベートーベンの演奏とかあるかい?」って。
音楽と同様に、直ぐには分からなくても聴いておくと後から分かるということがある、ともインタビューでドゥルーズは語っている。

楽しみがまた増えた。
けっしてドゥルーズを身近に置いて読んできた訳ではない。むしろフーコーとかデリダの方が読んできた冊数だけ考えればずっと多い。フーコーはコレージュ・ド・フランスの講義録が出る度に買って眺めてはきた。ドゥルーズは、この人が正直何がしたいのか分からなかった。なんだか難しくて歯が立たないし、それを乗り越えてまで読もうとは思わなかった。

間違いなくフーコーの方がかつてはずっと身近だった。

たが、「読んだものなどみんな忘れた。でもスピノザだけは別だ」とドゥルーズはいっている。
そんなところからも身近さをかんじるようになってくる。

今はとにかく自分の立っている場所の近くでドゥルーズの言葉が「鳴っている」
とかんじるのだ。
千葉さんや國分さんの助けを借りながら、もう少しドゥルーズも近くに置いておこう。そんな気持ちになるイベントだった。
発売が今から楽しみである。

内容はメモを取らずにひたすら映像を見、お二人の話を聴いていたので、今回はメモなし。忘れちゃった頃DVDが発売になるから、そしたらじっくりまとめます。