「フーコー再考」大澤真幸・萱野稔人(その3)
もう一つの龍の尾亭「メディア日記」で、4月30日に聴いてきた対談メモのまとめの3回目(最後)をこちらにアップしました。
よろしければこちらもご覧くださいませ。
メディア日記「フーコー再考」
この対談で、一貫して大澤真幸氏は晩年のフーコーはプレ・フーコーに戻ってしまった、と主張しています。
萱野稔人氏は、ドゥルーズを引用したり、初期考察『監獄の誕生』の後半を引いたりして、フーコー自身の「退却」というか「退行」という大澤説を、そのまま肯定はしていないようです。
今、フーコー思考集成の「パレーシア」の部分を読み始めたばかりなので(ドゥルーズのスピノザ論も中途半端なのに!)私はまだよく分かりませんが、二人の対談の中で浮かび上がってきたフーコーの思考の軌跡は、そのまま今回の大震災における
「人為」の裂け目から「自然」の闇=空白をのぞき込まされた恐ろしさの地点、今私たちが「フクシマ」の名を背負って立ち続けている場所に、繋がっている印象を持っています。
少しもフーコー的なる営み(つまり「知」と「権力」の偏在=遍在を指し示す仕事)は、全く古びていないどころかたった今、何よりも必要とされ続けているように思われてなりません。
私の中では、声高に政治とか科学とかに「要求」することによって、逆にその「状況定義力」の磁場のありようから瞳をそらしてしまうことになりかねない危険を察知する上で、フーコーフラグは立てておくべき基本的「避雷針」か「魔除け」の作用は持っているのではないでしょうか。
どうすればいいのか、なんてことには絶対答えてはくれませんけれど。
でも、フーコーが亡命弁護士の強制送還に反対して口にしたといわれる言葉(萱野氏による)、
政治的には私は原則主義者だ。権力には何を使っても徹底的に抵抗する。
これからはセキュリティが主権・政治を凌駕していく。セキュリティが法を越えていく。
セキュリティを理由にして原則がふみにじられていく。
この「セキュリティ」を比喩的に捉えてしまうのはまたそれはそれで「危険」かもしれませんが、いろいろに考えさせられることばだと思います。「安全だ」と主張することも「危険だ」と主張することも「非常時」における「セキュリティ」をめぐった「状況定義力」=権力のせめぎ合いを示しているといえるでしょう。
政治的には原則主義者だ、というフーコーの言葉を、私は実践的に捉えていきたい、と考えています。
原則的だからフーコー的になれるって話じゃないからね、もちろん(笑)。原則的、もフーコー的、もそれだけじゃ意味はない。
むしろ、その「セキュリティ」をめぐる「状況定義力」=権力の磁力の作用状況について、その細部に偏在する偏りを感知しつづけつつ、それが編制されて大きなベクトルになる動きの「裏」に出ることで、微細な力であっても「他者の言説」の欲望を内面化してそれを自らのものと取り違えることだけはせめて回避できるのではないか、ということだ。
その一瞬の動きの連続でしか「ゴールは割れない」ってことでしょう。
責任が東電経営陣にあるのか、会社自体なのか、株主が出資の限りにおいて責任を背負うのか、貸し付けた銀行の責務は?国策として関与した政府の責任は?
そういう垂直的な統合軸をいくら求めても、「そこより他の場所」に権力は維持されていくという「印象」「感触」があたかも老人の「残尿感」のように残っていうだけのことだろう。
いや、そういう真実の追及はされるべきだと思う。それは大切だと繰り返し思う。
でも、本当に求められているのは、「帰ることのできない家に戻りたい」という失われた町・ふるさと・生活そのものを希求する「切ない思い」の「対象」だ。真理も権力も、その空白の中に瞳によって絵を描くその絵の中の「生活」を求めるような事柄に関しては、直接的に関与できるはずがないだろう。
実際には、原発事故の近くの町には、戻るまでに相当の時間が必要だろう。避難場所で別の仕事を見つけ、新たな生活を営み始めた後で「戻れる」ことになったとしても、そのときすでに、避難場所で生活を立て直した人たちと、「空白の中に存在しない生活」を求めた人との間には、溝が広がっていはしないか。
そういう「亀裂」をも潜在的には抱えて私達は生きていかねばならない。
たしかにフーコーが見事に分析したのは、17世紀から20世紀にかけて資本主義が生み出していった近代における「権力」の様態だった。
でも、どうなんだろう。震災以後も、フーコーの考察が時代に追い越された感は全くないなあ。むしろ、きちんとフーコーを踏まえなければ見えてこないことばかりじゃないだろうか。
ああ、週末暖かくなったから冬物をしまって夏物を出さなきゃならないけど、本も読みたいし。犬の予防注射もあるし、米も買わなくちゃならないし、精米もしてこなくちゃならないし、忙しい……。
勉強し、瞳を凝らそうとすればするほど、課題や疑問ばかりが深まっていく。
そういうもの、なんでしょうけれど。
もう一つの龍の尾亭「メディア日記」で、4月30日に聴いてきた対談メモのまとめの3回目(最後)をこちらにアップしました。
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メディア日記「フーコー再考」
この対談で、一貫して大澤真幸氏は晩年のフーコーはプレ・フーコーに戻ってしまった、と主張しています。
萱野稔人氏は、ドゥルーズを引用したり、初期考察『監獄の誕生』の後半を引いたりして、フーコー自身の「退却」というか「退行」という大澤説を、そのまま肯定はしていないようです。
今、フーコー思考集成の「パレーシア」の部分を読み始めたばかりなので(ドゥルーズのスピノザ論も中途半端なのに!)私はまだよく分かりませんが、二人の対談の中で浮かび上がってきたフーコーの思考の軌跡は、そのまま今回の大震災における
「人為」の裂け目から「自然」の闇=空白をのぞき込まされた恐ろしさの地点、今私たちが「フクシマ」の名を背負って立ち続けている場所に、繋がっている印象を持っています。
少しもフーコー的なる営み(つまり「知」と「権力」の偏在=遍在を指し示す仕事)は、全く古びていないどころかたった今、何よりも必要とされ続けているように思われてなりません。
私の中では、声高に政治とか科学とかに「要求」することによって、逆にその「状況定義力」の磁場のありようから瞳をそらしてしまうことになりかねない危険を察知する上で、フーコーフラグは立てておくべき基本的「避雷針」か「魔除け」の作用は持っているのではないでしょうか。
どうすればいいのか、なんてことには絶対答えてはくれませんけれど。
でも、フーコーが亡命弁護士の強制送還に反対して口にしたといわれる言葉(萱野氏による)、
政治的には私は原則主義者だ。権力には何を使っても徹底的に抵抗する。
これからはセキュリティが主権・政治を凌駕していく。セキュリティが法を越えていく。
セキュリティを理由にして原則がふみにじられていく。
この「セキュリティ」を比喩的に捉えてしまうのはまたそれはそれで「危険」かもしれませんが、いろいろに考えさせられることばだと思います。「安全だ」と主張することも「危険だ」と主張することも「非常時」における「セキュリティ」をめぐった「状況定義力」=権力のせめぎ合いを示しているといえるでしょう。
政治的には原則主義者だ、というフーコーの言葉を、私は実践的に捉えていきたい、と考えています。
原則的だからフーコー的になれるって話じゃないからね、もちろん(笑)。原則的、もフーコー的、もそれだけじゃ意味はない。
むしろ、その「セキュリティ」をめぐる「状況定義力」=権力の磁力の作用状況について、その細部に偏在する偏りを感知しつづけつつ、それが編制されて大きなベクトルになる動きの「裏」に出ることで、微細な力であっても「他者の言説」の欲望を内面化してそれを自らのものと取り違えることだけはせめて回避できるのではないか、ということだ。
その一瞬の動きの連続でしか「ゴールは割れない」ってことでしょう。
責任が東電経営陣にあるのか、会社自体なのか、株主が出資の限りにおいて責任を背負うのか、貸し付けた銀行の責務は?国策として関与した政府の責任は?
そういう垂直的な統合軸をいくら求めても、「そこより他の場所」に権力は維持されていくという「印象」「感触」があたかも老人の「残尿感」のように残っていうだけのことだろう。
いや、そういう真実の追及はされるべきだと思う。それは大切だと繰り返し思う。
でも、本当に求められているのは、「帰ることのできない家に戻りたい」という失われた町・ふるさと・生活そのものを希求する「切ない思い」の「対象」だ。真理も権力も、その空白の中に瞳によって絵を描くその絵の中の「生活」を求めるような事柄に関しては、直接的に関与できるはずがないだろう。
実際には、原発事故の近くの町には、戻るまでに相当の時間が必要だろう。避難場所で別の仕事を見つけ、新たな生活を営み始めた後で「戻れる」ことになったとしても、そのときすでに、避難場所で生活を立て直した人たちと、「空白の中に存在しない生活」を求めた人との間には、溝が広がっていはしないか。
そういう「亀裂」をも潜在的には抱えて私達は生きていかねばならない。
たしかにフーコーが見事に分析したのは、17世紀から20世紀にかけて資本主義が生み出していった近代における「権力」の様態だった。
でも、どうなんだろう。震災以後も、フーコーの考察が時代に追い越された感は全くないなあ。むしろ、きちんとフーコーを踏まえなければ見えてこないことばかりじゃないだろうか。
ああ、週末暖かくなったから冬物をしまって夏物を出さなきゃならないけど、本も読みたいし。犬の予防注射もあるし、米も買わなくちゃならないし、精米もしてこなくちゃならないし、忙しい……。
勉強し、瞳を凝らそうとすればするほど、課題や疑問ばかりが深まっていく。
そういうもの、なんでしょうけれど。