龍の尾亭<survivalではなくlive>版

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5月11日(水)のこと<天皇夫妻の訪問は福島市と相馬市でした>

2011年05月11日 23時38分25秒 | 大震災の中で
天皇夫妻の被災地慰問は、福島市と相馬市でした。

そりゃ第一原発現場作業員のところには慰問には行かないわなあ。
ってか、そんな無鉄砲は言い出したりもしないのだろう。

結局ほどよいところで調和するのだろうね。

やはり天皇は「日本社会」程度の辺境を守る祭祀の規模のものにすぎなかったのか。

残念。

少なくても現在進行形の「フクシマ」という聖痕は、今のところ簡単に慰撫され、忘却され、回収され得る傷ではない。

それを喜んでいいのかどうか分からないが。

天皇は日本社会の問題を封じ込めるという意味で「瓶のフタ」だ、なんて比喩を用いる人もいますね。
たしかに不満の調整弁として「機能」している面がある。

でも、その水準を動的に定位しつづける嗅覚というか、触角というか、それはある種「至芸」でもある。
その「文化」レベルでの高いパフォーマンスぶりが忘却の空白装置としてあまりにもうまく作用しつづけ、その周辺に渦巻く「政治」とか「権力」の身振りが、上手に脱色されていくという弊害も持つ。

弊害と言うより、そういう「空白化装置」であるからこそ、表舞台の「政治力学」から退場して1000年ちかく経っても無くならない(というより日本の政治ならぬ政治、権力ならぬ権力が作動しつづける不可欠の前提として機能しつづけている)。

私が勝手にそんなことを言ってもたいした意味はないが、明治期は後半から特に使い方を間違えたのか、とさえ思う。

自慢じゃないが、子どもの頃、私は
「天皇なんて仕事は大変だから一刻も早く退位し、普通の人として「解放」してあげればいいのに」
と本気で思っていた。

今は、天皇システムすげえ、おそるべし天皇制、と宗旨替え。

ってか、このすごさを分かりすぎるとやばいと思うが、気づかないのももっとやばい、ぐらいのことは分かってきた。
大人になるのが遅すぎる、だろうか。

天皇はやっぱり原発の「親戚」みたいなところが、ある。

「人為」の果ての空白に立つのだから、「責任」なんて取るはずもない。だからこそ生き延びる。そう。

問題はだからおそらく「責任」を取らないことではない。「責任」を取らないからこそ機能し続けるのだもの。
とすれば、「責任」を取らないから問題だ、と天皇に匕首を突きつけたつもりでも、そのやり方では戦いきれないのではないか、と思うよ。

それが正しいとか間違っているとか、政治的に利用されているとか、いや日本人だからこそ、とか、そういうことは正直この私のこの感触の問題からずれていく。

そうじゃなくて、問題があるとすれば、根本的に常に生き延びる側に立つ手品が胡散臭いのだね。
結果として被爆したり戦争に行ったり津波を受けたりせずに、天皇カンパニーは延命しつづけている。

常に生き延びるのはもはや「賭け」ではなく、「胴元」のテラ銭狙いかインチキ野郎に決まっている。

その「弱さ」=「無力さ」を装った「強さ」・「しなやかさ」は、本当に滅びたことがない究極の擬制的共同体の機能のみが続いていく不気味さをはらんでいる。

本当には「聖痕」の側には立たず、常に生き延びる側にいながら、しかも祭祀の力によってその近傍に立ち、幽霊たちの声を聴く力を持ちながら、それらを鎮魂せしめていく。

「エセ文学かっ?!」

そうか。
この辺り、三島由紀夫晩年の「素っ頓狂」な言動を想起させずにはいられない。

あの頃、「文化防衛論」(今時の人は全く知らないんだろうなあ。オレも中身は分からないが。だって「文化」「防衛」ですよ。意味分からん)なんぞという「荒唐無稽」にも思える論を展開したあげく、市ヶ谷の自衛隊で決起を求めて果たせず自決に至る流れなんて、未だに意味不明だが、それでもなにやらこの辺りのことをやり出すと、よほど注意深く思考をクリアに保たないと、頭に霞がかかってくるのを感じる。

「人為」のリミットにおける裂け目の傍らに立ち(そこは正直凄いと今も思う)、祭祀によってその「空白」の力を現世に召喚し、日本という限定された場所において、「場所の持つ宗教性」に訴え続ける。

身を寄り添わせることだけが異様に上手で、現実に力を持つ言葉を全く持たないのは恐ろしいね。

んー、平成天皇は「象徴天皇」というシステムをある種完成の域にまで持って行きつつあるかも。

単純な為政者のガス抜きに利用されることに上手に乗っている、っていう底の話ではないな、どう考えてもこりゃ。
宗教装置とか文化装置と、知・政治・権力の関係を、頭の温度を下げてさらに瞳を凝らしていかねば。

大震災や原発は、もちろんある種「人為」のリミットではあるけれど、引き金を引くのが「自然」であるだけまだ「かわいいもの」なのかもしれない、とさえ見えてくる。

さて、だが、このとき「自然」とはいったい何のことか。「自然/人為」の二分法では捉えきれない「自然」を再び想定してしまう危険はないのか。

逆説的かもしれないけれど、天皇性=天皇制は、そういう「自然」周辺の言説についてまでグルグルしてみないと捉えにくいかもしれない。

私は「フクシマ」において一瞬天皇夫妻と、あるいは「日本」とすれ違った、ということか。

この問題もさらに要検討です。